All Chapters of 私が去った後のクズ男の末路: Chapter 321 - Chapter 330

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第321話

栄光グループの中堅・上層部は、周防社長が大病を患い記憶を失ったことを皆知っていた。古参株主の中には、内心でこう毒づく者もいる。——京介は、もう役に立たん。だが当の本人は、春風のような笑みを浮かべた。「ずいぶん驚いた顔をしているな……ああ、葉山社長から聞いてないのか?俺はすでに、彼女の専属アシスタントに任命された。どこの部署にも属さず、直接葉山社長に報告する」そして中川へ視線を向ける。「佳楠、椅子を持ってきてくれ」佳楠は一瞬きょとんとしたが、すぐに目頭が熱くなった。——周防社長が自分を名前で呼んだ。それは、記憶が戻った証だ。心腹の部下として、彼の本当の状態を口に出すことはしない。椅子を運び、舞の隣へ置いた。高層や株主たちは一斉にざわめく。「葉山社長、そこは公私をお分けにならないと……」「今は栄光の正念場です。不穏な噂が立てば、株価にも響きます」「周防社長が記憶喪失なのは、誰でも知っています」「記憶を失った人間に、どうやって経営が務まるんですか」……京介は何も言わず、ただ舞を見つめた。彼女は一瞥をくれ、手にしていた書類を置くと、冷ややかに言い放った。「私には、アシスタント一人を決める権限もないの?アシスタント一人で株価が揺らぐなら、あなたたち全員が無能ということよ」室内が水を打ったように静まり返る。そんな中、石川が茶化すように口を開いた。「周防社長は本当に人材ですね。どこへ行っても大活躍じゃないですか。石川としても嬉しい限りで……いや、正しくは『周防アシスタント』でしたね」それをきっかけに、一同が手を叩き始める。「周防アシスタント、ようこそ!」京介は相変わらず春風の笑みを浮かべた。「これから、どうぞよろしく」佳楠は、心の中で名前リストに一つ印をつけた。会議後、人々が散っていく。黙って成り行きを見ていた輝が、ゆっくりと京介に近づき、世間話のように言う。「今朝な、母さんがクルミ汁を作って、お前の頭の回転が良くなるようにって持たせようとしたんだ。でも……いらないみたいだな。もう十分働いてるじゃないか」——ヒモ生活ってのは癖になるもんなんだな。京介は相変わらず上品ぶった口調で返す。「兄貴が頼りになるなら、俺が人に陰口叩かれながらヒモなんてやって、わ
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第322話

しばらくして、京介が姿を現した。オフィスの扉口に立ち、舞が自分のかつての執務机で仕事をしている様子を眺める。胸の奥に、懐かしさと同時に切なさが込み上げる。——たった一人で、総資産二兆円規模のグループと三人の子どもを抱えているのだ。想像するだけで、その重さがわかる。本気を出せば——つまり、記憶を取り戻したことを明かせば、状況は一変する。だが、以前に栄光が発表した広報文を考えれば、ここで正体を明かすのは軽率だ。株主の不安を煽り、舞の立場まで揺らぎかねない。ましてや、あのAIロボットの入札案件は、京介にとって絶対に落とせない仕事だ。翔和産業の岸本雅彦(かたぎりまさひこ)——あの男とは、一度腹を割って会ってみたい。「こっちに来ないの?」舞が目を向け、淡く笑う。「ソファに座って。あなたにいくつか仕事の話をしておきたいの」京介は立ち上がり、陽光差し込む大きな窓辺へ。六月の強い日差しが顔に陰影を与え、その姿は目に心地よいほど映える。——悪くない眺めだ、と舞は思う。「これからの——」「俺たち、いつ復縁する?」……開口一番、しっかりと栄華を守る男の一手。舞はあきれたように眉を寄せる。「仕事の話をするって言ってるの」彼が黙るのを待って、舞は淡々と続けた。「私はこれまで専属のアシスタントを置いたことがなかったけど、あなたのために仕事を組んでおいたわ。会社には基本的に打刻だけして、あとは自由。私が夜会や商談に出る時は、佳楠と一緒に同行して」京介は頷いて言った。「葉山社長のために、酒は全部引き受けるよ」舞は思わず吹き出した。「そんなに飲む場面はないわ。挨拶がてら、少しずつ人を紹介していくつもり。いつまでも私のアシスタントのままじゃ困るでしょ」返事をせず、ただ彼女を見つめ続ける京介。そこへ財務部の部長が業務報告に入ってきた。舞は佳楠に指示を飛ばした。「後方部に頼んで、私のオフィスにデスクを一つ用意してもらって、周防アシスタントの席にして」「葉山社長って、ほんとに甘やかしますね」軽口を返す佳楠に、舞は柔らかく笑みを見せ、そのまま財務部長と業務の話に戻った。京介はソファに腰かけたまま、雑誌をめくっている。時おり、舞のことをじっと見つめ、しばらく視線を外そうとし
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第323話

舞はふっと微笑み、手にしたシャンパンを掲げた。「岸本社長」そして横を向き、京介に紹介する。「翔和産業の岸本社長は、立都市でも屈指の実力者よ」「葉山社長、買いかぶりですな」岸本は豪快に笑い、ちらりと京介を眺める。容姿は昔と変わらぬ端正さだが、気迫は薄れた。——牙を抜かれた虎など、恐れるに足らず。舞がこの男を権力の檜舞台に連れてきたのは、無謀としか思えなかった。内心で侮りながら、わざと京介の挨拶を無視し、皮肉を口にする。「周防アシスタントは今日就任されたばかりとか。今夜は正式な晩餐会ですから、男性にも服装規定がある。せめてスカーフぐらいは必須ですよ。その格好では、少々ラフすぎますな」舞が口を開く前に——「岸本社長の仰る通りです。私の配慮不足、お恥ずかしい」京介は春風のような笑みで応じた。その殊勝さに、岸本はわずかに得意げになる。——これがあの周防京介か?いつこんなに腰を低くした?だが、次の瞬間。京介はワイングラスを軽く揺らし、唇に笑みを浮かべたまま続けた。「新たに伴侶を亡くされた岸本社長ですから、私などよりも華やかに装って当然でしょう。まるで雄孔雀が、雌の気を引くために尻の羽根を広げるように……さて今夜は、目ぼしい相手は見つかりましたか?」その毒舌ぶり、健在。舞は別に気にも留めず、さっきまでの胸の痛みがふっと笑いに変わった。——何とか、こらえることができた。佳楠は声を押し殺しきれず、つい岸本に会釈した。「岸本社長、失礼しました」内心煮えくり返るも、岸本は笑みを崩さず返す。「記憶を失っても、舌は衰えていないようだ。では入札会で腕を拝見しよう。互いに実力勝負といきましょう」舞はシャンパンを軽く掲げ、上品に応じた。岸本が去ると、笑みを消し、何やら考え込む舞。佳楠が耳打ちする。「最近、岸本社長は栄光の幹部たちと頻繁に接触していて、特に開発部の技術者数名と水面下で会っているようです。手を打ちますか?」「まだ動かない」舞の涼やかな切れ長の目に、鋭い光が宿る。やがて、舞は横顔を向けて京介を見た。「岸本社長は今、波に乗っているの。気にしないで」ややして、京介が口を開く。「葉山社長、俺のこと……心配してくれてる?」会社に入れてからというもの、舞は
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第324話

夜十時。黒塗りの車が、香川通り八番地で静かに停まった。運転手が下りて後部ドアを開け、反対側からは佳楠も降り立つ。舞は車を出て森川の店へ向かおうとしたが、視界の端に見慣れた人影が映った。——さきほどの宴で顔を合わせた、あの岸本社長だ。彼の車は道向かいに停まり、助手席には整った顔立ちの女。親しげではあるが、恋人同士ほど密着しているわけではない。何やら深刻な話をしている様子だ。舞の視線が、その女の顔を捉えた。——あの女は……ガラス戸が引かれ、森川の娘・森川清香(もりかわさやか)が出迎えた。「葉山社長、父がお待ちしております」この時間ならとっくに店は閉まっているはずだ。だが今夜は六着、総額四千万円超えの注文。森川にとっても大仕事であり、残業など造作もない。一行が中へ入ると、上等な玉露の香りが八十平米の店内に満ちる。「いい香り」舞が微笑む。やがて奥から、首に柔らかな巻尺をかけた森川が現れた。「周防社長は昔からのお得意様ですな」舞はただ静かに笑い、説明はしなかった。軽い世間話の後、京介は奥の採寸室へ。舞は中川に視線を向けた。「佳楠、あなたも採寸してもらって。森川さんのビーズ刺繍ドレスはとても仕立てがいいわ。二着作っておきなさい。普段の付き合いにも役立つから」中川は、立場にそぐわないと遠慮がちに言った。舞は彼女の腕を軽く叩き、笑みを浮かべる。「そぐうもそぐわないもないわ。手元の仕事が片付いたら、あなたを昇進させるつもりよ」中川は目を輝かせた。「ありがとうございます、葉山社長」「さあ、行って」寸法は清香が二人のために測った。森川も商売人であり、客との縁を大切にするため、そのまま舞と茶を飲みながら語らうことにした。森川は日頃から経済ニュースを欠かさず見ており、真剣な口調で切り出した。「葉山社長の会社が、家事全般をこなすAIロボットの開発を進めていると聞きましてね。ふと思ったんですよ。もし将来、このロボットが感情の寄り添いまでできるようになったら……例えば、亡くなった妻をもう一度そばに感じられたら、と」そう言って、ふっとため息をついた。「二十年になりますが……本当に、会いたいんです」森川の瞳が潤み、そっと目元をぬぐった。「お見苦しいところを……笑わ
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第325話

初夏の夜、車のドアを開けた途端、フェンネルのほのかな香りが漂った。社長専用エレベーターが静かに上昇し、直通で二十八階の製品開発部へ——チンという軽い音とともに扉が開いた。ヒールが夜の静けさを切り裂くように、硬質な床に小気味よく響く。背筋を真っすぐに伸ばし、疲れなど微塵も見せないその姿の後ろから、男の深い視線がついてくる。舞は専用カードをかざし、開発部の倉庫のロックを解除した。中は闇に沈んでいる。照明を点けると、一瞬目を刺す白さに思わず瞼を閉じ、深く息をつく。やがて歩み寄った先には、黒い幕に覆われた大きな物体。彼女は一度だけ京介を横目で見てから、その幕を払った。そこに現れたのは——京介と等身大で、髪の一本、体毛の一本に至るまで精巧に再現されたロボット。白く細い指先で、その人工の頬をそっとなぞり、彼女はかすれた声を落とした。「これは……あなたが記憶を失う前、私の三十五歳の誕生日に贈るつもりだったもの。でも、私が三十二のときに見つけてしまったの。もし、あなたがもういなかったら——これが、私に残された唯一の形見になると思った」……スイッチを入れると、ロボットが顔を傾け、涙を拭う仕草を見せた。低くかすれた声で——「舞……泣かないでくれ」その直後、京介の生前に録音された音声が流れた。「舞、これはお前の三十五歳の誕生日に贈るプレゼントだ。このメッセージが再生されているということは……俺はもうこの世にいないんだろう。そしてお前はまだ、新しい誰かに出会っていない。あの周防京介というろくでなしを、今も想ってくれているんだね。舞、俺はお前に忘れてほしいと思っている……」……舞の瞳には涙が滲んでいた。「さっき、森川さんの話を聞いて、胸に響いたわ……京介、生きていてくれて本当に良かった」彼女は生身の京介を抱き締めた。もう冷たい機械に、ぬくもりを求める必要はない。京介もまた強く抱き返し、その胸の奥に熱が広がっていく。長い沈黙のあと、舞は低く呟いた。「森川さんの言う通り……あなたは最初からわかっていたのね。AIロボットは、家事や介護だけじゃない。一部の人には感情が必要なの。この製品のテーマは『さよなら、愛しい人』にしましょう。ロボットの概念を、覆すのよ」京介はその横顔を
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第326話

幾度も繰り返し、全身を燃やし尽くすような時間だった。夜は静かに沈み、舞は京介の腕の中に身を預け、まだ余韻の中にいた。京介は上体をわずかに起こし、何気なく枕元の引き出しを開けた。中には未開封のタバコが二箱あったはずだが、取り出した箱をまたそのまま戻す。腕の中の舞を見下ろすその眉目は、穏やかにほどけていた。辛辣な過去もあった。だが今こうして抱きしめているものこそ、最も確かな現実——舞に対する負い目は、一生をかけて償うつもりだ。愛し、喜ばせ、ともに子を育てるために。もちろん、入札案件に関しては記憶を取り戻したことをまだ公にはするつもりはない。狙うのは、何としても岸本への決定打だ。もはや勝ち負けにこだわる年齢ではない。すべては大局のため——そして、夫婦の間の駆け引きでもある。舞が知らないほうが、きっと気持ちは楽だろう。彼女の胸の奥には、まだ癒えぬ痛みと過去が残っていた。やがて腕の中の舞がわずかに身じろぎし、目を覚ます。それでもすぐに起き上がらず、静かに寄り添ったまま、しばらく間があってから京介が低く問う。「何を考えてた?」「入札のこと……それと……」……舞の脳裏に浮かんだのは岸本の車にいた女のことだった。胸の奥が少しざわついた。周防家にも、栄光グループにも関わる話だ。口にしかけたが、無垢な顔をした京介を見て、言うのをやめた。言ったところで、今の彼には決め手はない。京介の喉仏がひとつ上下する。「俺が助ける」舞は細い体を起こし、黒髪が白い肌に絡みつく。三人の子を産んでも衰えぬ容貌は、むしろ時を経てなおしなやかな気品を増していた。「あなたが?」京介の黒い瞳が深く射抜く。「信じられないか?」——信じる。だが、信じ切れない。昔の京介なら、岸本を三人まとめて叩きのめすことも造作なかった。だが記憶を失った今は、まるで翼を折られたよう。天賦の才も、老獪さの前ではときに刃を収めねばならない。京介は舞を引き寄せ、その唇に口づけた。「その時が来れば、わかる」舞の白い指先が、彼の顎をそっとなぞる。端正な顔立ちは、見飽きることがない。「急にどうしたの?」退院の日、すべてを知ったはずの彼と、長く膠着すると思っていた。だが京介は突然、性格をがらりと変え、まるで必死に追いかける子
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第327話

瑠璃は否定せず、短くうなずいた。「そうよ」そう言って歩み寄り、エレベーターのボタンを押す。だが次の瞬間、輝の腕に押しつけられ、背中がつるりとしたタイルに強くあたって鈍い痛みが走った。「……輝、何のつもり?」「何のつもりって?俺が怒っちゃいけないのか?どういう男を探してるんだ、瑠璃……俺が満たしてやってないってのか?茉莉のそばにもいるし、もう接待も行かず、毎日お前の周りをぐるぐる回ってる。それでも外に男を探すのか?」……瑠璃は顔を上げ、壁に押しつけられたまま、かすかに笑った。「理屈は通ってるように聞こえるわね。でも輝……私はあなたの妻じゃないの。自分の残りの人生を託す相手を探すの、普通のことじゃない?」輝は息を荒げた。「金に困ってんのか?男がいないと死ぬのか?」「私のことに口を出さないで。それと——茉莉に会いたいなら、事前に電話して」「その男に見られて機嫌損ねるのが嫌なのか?どう機嫌悪くなろうと、茉莉は俺の子だ」瑠璃はじっと輝を見つめ、その瞳の奥にわずかな涙を光らせた。エレベーターの扉が開くと、彼女はさっと中に滑り込み、そのまま閉じていく。輝は閉まった扉を見つめながらも、理性を保ち追いかけはしなかった。代わりにドアを蹴りつけ、吐き捨てるように低く吠える。「後悔すんなよ、瑠璃!」先週まであんなに首に腕を回して甘えてきたくせに——今さらどこの野郎だ?どんな大物が、あいつの目にかなった?胸に苦さを残したまま、輝は車へ戻った。その夜は一睡もせず、車中で煙草を吸い続けた。翌朝。瑠璃が茉莉を学校へ送ると、小さな彼女はすぐに輝の車を見つけて、ぱっと笑顔になり「パパ!」と駆け寄ってくる。輝はすぐにドアを開け、降りてきて抱き上げた。「うちの茉莉、抱っこだ。また背が伸びたな」……無精髭が頬をかすめ、茉莉はくすぐったそうに笑う。「パパ、煙草くさいよ」輝は娘のほっぺに軽く口づけし、「パパのこと、嫌いになった?……そうなの?」とからかうように言った。茉莉は父の首にぎゅっと腕を回し、「茉莉はパパがいちばん好き!」と言った。輝は何か言おうとしたが、喉が詰まり、そのまま娘をぎゅっと抱きしめた。少し離れたところで見ていた瑠璃の目尻が、そっと赤く染まっていく。……午前十
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第328話

その岸本という男を、舞は快く思っていなかった。妻を亡くしてまだ半年足らずで再婚を決め、しかも十歳を超える息子がいる。再婚夫婦など、腹の底では別々の思惑を抱えているものだ。瑠璃が自分のキャリアを手放すべきではない——舞はそう感じていた。しばし考え、私的な立場から口を開く。「瑠璃……茉莉のためにも、もう一度よく考えて。確かに栄光グループでの今の立場では、これ以上の昇進は望めないかもしれない。でも、二年後にはあなたに持株の1%を譲ることもできるわ。岸本の何兆円という資産には及ばないけれど……手の中にあるものこそ、本物だと私は思う」その言葉に、瑠璃は胸を打たれた。今の自分の立場では到底得られない条件——それが舞からの純粋な情であることはわかっている。「ありがとうございます……葉山社長が私を大事にしてくださっているのはよくわかっています。でも……ごめんなさい」涙を含んだ声でそう告げ、深く一礼する。数年前、輝ともみ合いになった自分を、舞が病院へ連れて行ってくれた日のことを思い出す。あの日の恩は、ずっと忘れていなかった。舞も、彼女の決意を悟っていた。岸本は富豪であるだけでなく、男としての魅力もある。嫁げば決して恥ではなく、むしろ華やかな道だろう。それに、今回の退職は、疑念を避けるためでもある。これ以上、引き止めはしなかった。去り際、瑠璃の目は赤く潤み、その胸に静かな寂しさが満ちていった。この場所には、彼女の青春のすべてが息づいていた。扉を開けた途端、二メートルほど先に輝が立っていた。全身から冷気を放ち、鋭く睨みつけてくる。長い沈黙——瑠璃の口元がわずかに震えた。先に口を開いたのは輝だった。「相手は岸本か。やっと腑に落ちたよ。あいつは何千億の資産を自分で築いた、本物だ。確かに俺みたいな二代目よりは上かもな。でも岸本の金が、お前のものになるか?俺ならできる。持ってる株を全部茉莉にやる。給料だって全部お前に預ける……俺は、お前を娶れる!」「娶れる?」瑠璃は感情を押し殺して見上げる。「ほら……やっぱり恩着せがましい言い方になる。輝、あなたが娶りたいなら、私が嫁がなきゃならないの?ずっと知りたがってたでしょう、私がなぜ周防家に行かなかったのか」輝は目を細め、その瞳を見据える。
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第329話

輝の指が瑠璃の手首に食い込み、痛みが走った。「じゃあ茉莉を渡せ。あとは好きに、てめえのくだらねえ栄華を追いかけりゃいい」瑠璃は力いっぱい振りほどいた。その瞳を真っ直ぐに睨みつけながら、ぽろぽろとこぼれる涙——すべては、かつて彼を愛した証だった。……夜七時。岸本と瑠璃が腕を組み、パーティー会場に姿を現す。交際を公にした瞬間だった。その映像とともに、輝の名もSNSのトレンド上位に躍り出る。「財閥ハンター」——瑠璃につけられた新たな呼び名。メディアは彼女と輝の関係、愛憎、そして二人の間に生まれた娘の存在まで細かく掘り下げた。ただし、娘の写真はすべてネット上から徹底的にブロックされていた。……周防家。寛の妻が記事を見て、目を丸くした。「輝……これ、一体どういうこと?これデタラメよね?瑠璃が別の人と結婚なんて……あなたたち、うまくいってたんじゃないの?」輝が夜中に帰らないときは、必ず瑠璃のところにいる——そう信じていたのだ。家族全員の視線が輝に注がれる。輝は新聞を受け取り、しばし黙って目を通す。「本当だ……瑠璃は岸本と結婚する」彼女は一切の余地を残さず、去ると決めたら迷いはなかった。自分が吐いたあの酷い言葉が、長年、彼女の胸を押し潰していたのだろう。寛の妻は今度は舞を見て、縋るような目を向ける。舞は、今日周防家に来るつもりはなかった。京介が会社を休み、三人の子どもを本宅に連れてきたため、一度白金御邸に戻った後、こちらへ寄ったのだ。到着すると、家中がまるで喪中のように沈んでいた。「今日、瑠璃は辞表を出したわ」舞の言葉に、寛の妻は肩を落とす。「……じゃあ、本当なのね。一億以上もの年俸を捨ててまで……ああ、可哀そうな茉莉、これからは義理の父親ができるなんて」孫娘を手放したくない気持ちから、輝に親権争いを促そうとするが、舞がやんわりと制した。「伯母さん……輝が自分で決めることよ」寛の妻は言葉を飲み込み、ため息を落とした。……夜。枝々を押し下げるように闇が垂れこめ、新月が梢にかかる。舞は三人の子どもを寝かせたあと、主寝室へ戻った。京介はソファに腰かけ、AI関連のビジネス誌を手にしていた。「今日は会社に行かなかったの?」と舞が尋ねると、視線を上げずに答え
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第330話

男はソファに端然と腰掛け、漆黒の瞳をじっとこちらに向けていた。やがて、驚くほど柔らかな声で問う。「……どうしてわかった?」舞は彼を真っ直ぐに見つめ、唇をわずかに震わせた。「だって——記憶を失くした京介なら、結紮なんてしないもの。出産の苦しみを、本当にはわからないはずだから」澪安と澄佳を産んだあの日、難産で大量出血し、京介は上原夫人に跪いて必死に助けを請うた。その後、高速道路での事故——さらに病に倒れた彼を、舞は朝霞川から連れ帰った。数えきれないほどの時を共に越えてきた。今こうして向き合うのは、まるで別の世界に生まれ変わったかのようだ。舞はそれ以上は語らず、過去にも触れず、紙をそっと机に置くと、目の前の男を抱きしめた。右腕に沿って優しく撫でる。彼はもう、かつての京介ではない——欠けた部分を抱えながらも、かえって「良き父」「良き夫」に近づいたような姿だった。この夜こそが、本当の再会の夜——「……舞、泣くな」乱暴な右手が不器用に涙を拭う。言葉を飲み込んだまま、もし声を出せば、この夜の魔法が解けてしまうような気がした。あまりにも美しい夜——美しすぎて、京介は自分にはふさわしくないとさえ思い、だからこそ余計に抱きしめた。だが手術を受けた今、彼にできるのは熱を胸に閉じ込め、全身でその存在を感じることだけだった。……その時、隣のベビーベッドから「わああ」と泣き声が上がった。願乃がおむつを濡らしたのだ。八か月の小さな体は、すでに自尊心を芽生えさせ、真っ赤な顔で泣きじゃくる。パパがやってくると、恥ずかしさに余計に顔を伏せた。京介は根気よくあやし、抱きかかえて浴室へ。手際よくお尻を洗い、新しいパジャマに着替えさせる。戻ると、舞がすでにミルクを用意していた。ベビーベッドの中、ふっくらした小さな手で哺乳瓶を抱え、夢中で飲む願乃。ごくごくと飲み進め、やがて小さく首を傾けたまま眠りに落ちた。京介はそっと哺乳瓶を取り上げ、小さな体を抱き上げる。冷んやりした寝室の空気の中、ミルクの香りをまとった温もりが胸にすっぽりと収まる——それは紛れもない、幸せの匂いだった。舞は入浴を終え、柔らかな寝間着に身を包む。一夜かけて語り尽くせぬほどの私語があり、酸いも甘いも胸に満ちていく。
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