共有

第328話

作者: 風羽
その岸本という男を、舞は快く思っていなかった。

妻を亡くしてまだ半年足らずで再婚を決め、しかも十歳を超える息子がいる。

再婚夫婦など、腹の底では別々の思惑を抱えているものだ。

瑠璃が自分のキャリアを手放すべきではない——舞はそう感じていた。

しばし考え、私的な立場から口を開く。

「瑠璃……茉莉のためにも、もう一度よく考えて。確かに栄光グループでの今の立場では、これ以上の昇進は望めないかもしれない。

でも、二年後にはあなたに持株の1%を譲ることもできるわ。岸本の何兆円という資産には及ばないけれど……手の中にあるものこそ、本物だと私は思う」

その言葉に、瑠璃は胸を打たれた。

今の自分の立場では到底得られない条件——それが舞からの純粋な情であることはわかっている。

「ありがとうございます……葉山社長が私を大事にしてくださっているのはよくわかっています。でも……ごめんなさい」

涙を含んだ声でそう告げ、深く一礼する。

数年前、輝ともみ合いになった自分を、舞が病院へ連れて行ってくれた日のことを思い出す。

あの日の恩は、ずっと忘れていなかった。

舞も、彼女の決意を悟っていた。

岸本は富豪であるだけでなく、男としての魅力もある。嫁げば決して恥ではなく、むしろ華やかな道だろう。

それに、今回の退職は、疑念を避けるためでもある。

これ以上、引き止めはしなかった。

去り際、瑠璃の目は赤く潤み、その胸に静かな寂しさが満ちていった。

この場所には、彼女の青春のすべてが息づいていた。

扉を開けた途端、二メートルほど先に輝が立っていた。

全身から冷気を放ち、鋭く睨みつけてくる。

長い沈黙——

瑠璃の口元がわずかに震えた。

先に口を開いたのは輝だった。

「相手は岸本か。やっと腑に落ちたよ。あいつは何千億の資産を自分で築いた、本物だ。確かに俺みたいな二代目よりは上かもな。

でも岸本の金が、お前のものになるか?俺ならできる。持ってる株を全部茉莉にやる。給料だって全部お前に預ける……俺は、お前を娶れる!」

「娶れる?」

瑠璃は感情を押し殺して見上げる。

「ほら……やっぱり恩着せがましい言い方になる。輝、あなたが娶りたいなら、私が嫁がなきゃならないの?ずっと知りたがってたでしょう、私がなぜ周防家に行かなかったのか」

輝は目を細め、その瞳を見据える。
この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード
ロックされたチャプター

最新チャプター

  • 私が去った後のクズ男の末路   第331話

    黒いワンボックスが静かに遠ざかっていく。……夜は墨を流したように濃く、レンジローバーの脇に黒衣の男が佇んでいた。富と権勢は生まれながらのもの。若き日の彼にとって、女とは退屈を紛らわせる道具でしかなかった。だが今——すべてが逆転している。輝は指先の煙草を投げ捨て、小牛革の靴でぐっと踏み潰す。そして女を見やったその瞳には、沈んだ色が混じっていた。一生「大切にする」という感覚など知らずに生きてきた男。だが茉莉が生まれてから、彼は家庭を渇望するようになった。誰かに頭を下げたことなど一度もない。暴れるだけの人生だった。だが今は、かつてないほど冷静に理解している——これが最後の、そして唯一の機会だと。彼女に心を翻してほしい。輝は横に身をずらし、車から一つの封筒を取り出した。瑠璃へ差し出す。「これは俺がサインした株式譲渡だ。栄光グループの10%——数千億円の価値がある。こっちは俺個人の資産だ。現金二千六百億円と十数件の不動産、全部お前にやる」……これが彼のすべて。それでも足りないのなら、残るはこの胸の真心だけ。彼は茉莉を愛し、瑠璃を愛している。だからこそ、すべてを投げ出してでも求める。もし彼女が岸本と関係を持っていたとしても——それでも構わない。自分が惨めな役回りになるとしても、ただ彼女が戻ってくるなら、妻になってくれるなら——声が震えた。「瑠璃……俺たち、もう十二年の付き合いだ。岸本と過ごした数か月より、劣るのか?」瑠璃は淡く笑う。「自分でもわかってるでしょう、十二年よ。あの頃、どれだけあなたに嫁ぎたかったか……でもあなたの頭の中には権力と、京介に勝つことしかなかった。落ちぶれて、ようやく私を思い出して、やっと愛する気になった……でも——それが、私の望むもの?」輝は突然問いかけた。「まだ俺を愛してるか?岸本を愛してるのか?」瑠璃は答えられなかった。輝はまっすぐに彼女を射抜き、怒りを滲ませる。「もしお前が心から愛せる男を見つけたなら——たとえそいつがただの平社員でも、俺は受け入れる!だが岸本は何者だ?見かけは紳士でも、裏じゃ女を物としてしか見ない。そんな火の中に飛び込むのか?」瑠璃は冷ややかに笑う。「私が欲しいのは名声と地位よ」「それなら、俺

  • 私が去った後のクズ男の末路   第330話

    男はソファに端然と腰掛け、漆黒の瞳をじっとこちらに向けていた。やがて、驚くほど柔らかな声で問う。「……どうしてわかった?」舞は彼を真っ直ぐに見つめ、唇をわずかに震わせた。「だって——記憶を失くした京介なら、結紮なんてしないもの。出産の苦しみを、本当にはわからないはずだから」澪安と澄佳を産んだあの日、難産で大量出血し、京介は上原夫人に跪いて必死に助けを請うた。その後、高速道路での事故——さらに病に倒れた彼を、舞は朝霞川から連れ帰った。数えきれないほどの時を共に越えてきた。今こうして向き合うのは、まるで別の世界に生まれ変わったかのようだ。舞はそれ以上は語らず、過去にも触れず、紙をそっと机に置くと、目の前の男を抱きしめた。右腕に沿って優しく撫でる。彼はもう、かつての京介ではない——欠けた部分を抱えながらも、かえって「良き父」「良き夫」に近づいたような姿だった。この夜こそが、本当の再会の夜——「……舞、泣くな」乱暴な右手が不器用に涙を拭う。言葉を飲み込んだまま、もし声を出せば、この夜の魔法が解けてしまうような気がした。あまりにも美しい夜——美しすぎて、京介は自分にはふさわしくないとさえ思い、だからこそ余計に抱きしめた。だが手術を受けた今、彼にできるのは熱を胸に閉じ込め、全身でその存在を感じることだけだった。……その時、隣のベビーベッドから「わああ」と泣き声が上がった。願乃がおむつを濡らしたのだ。八か月の小さな体は、すでに自尊心を芽生えさせ、真っ赤な顔で泣きじゃくる。パパがやってくると、恥ずかしさに余計に顔を伏せた。京介は根気よくあやし、抱きかかえて浴室へ。手際よくお尻を洗い、新しいパジャマに着替えさせる。戻ると、舞がすでにミルクを用意していた。ベビーベッドの中、ふっくらした小さな手で哺乳瓶を抱え、夢中で飲む願乃。ごくごくと飲み進め、やがて小さく首を傾けたまま眠りに落ちた。京介はそっと哺乳瓶を取り上げ、小さな体を抱き上げる。冷んやりした寝室の空気の中、ミルクの香りをまとった温もりが胸にすっぽりと収まる——それは紛れもない、幸せの匂いだった。舞は入浴を終え、柔らかな寝間着に身を包む。一夜かけて語り尽くせぬほどの私語があり、酸いも甘いも胸に満ちていく。

  • 私が去った後のクズ男の末路   第329話

    輝の指が瑠璃の手首に食い込み、痛みが走った。「じゃあ茉莉を渡せ。あとは好きに、てめえのくだらねえ栄華を追いかけりゃいい」瑠璃は力いっぱい振りほどいた。その瞳を真っ直ぐに睨みつけながら、ぽろぽろとこぼれる涙——すべては、かつて彼を愛した証だった。……夜七時。岸本と瑠璃が腕を組み、パーティー会場に姿を現す。交際を公にした瞬間だった。その映像とともに、輝の名もSNSのトレンド上位に躍り出る。「財閥ハンター」——瑠璃につけられた新たな呼び名。メディアは彼女と輝の関係、愛憎、そして二人の間に生まれた娘の存在まで細かく掘り下げた。ただし、娘の写真はすべてネット上から徹底的にブロックされていた。……周防家。寛の妻が記事を見て、目を丸くした。「輝……これ、一体どういうこと?これデタラメよね?瑠璃が別の人と結婚なんて……あなたたち、うまくいってたんじゃないの?」輝が夜中に帰らないときは、必ず瑠璃のところにいる——そう信じていたのだ。家族全員の視線が輝に注がれる。輝は新聞を受け取り、しばし黙って目を通す。「本当だ……瑠璃は岸本と結婚する」彼女は一切の余地を残さず、去ると決めたら迷いはなかった。自分が吐いたあの酷い言葉が、長年、彼女の胸を押し潰していたのだろう。寛の妻は今度は舞を見て、縋るような目を向ける。舞は、今日周防家に来るつもりはなかった。京介が会社を休み、三人の子どもを本宅に連れてきたため、一度白金御邸に戻った後、こちらへ寄ったのだ。到着すると、家中がまるで喪中のように沈んでいた。「今日、瑠璃は辞表を出したわ」舞の言葉に、寛の妻は肩を落とす。「……じゃあ、本当なのね。一億以上もの年俸を捨ててまで……ああ、可哀そうな茉莉、これからは義理の父親ができるなんて」孫娘を手放したくない気持ちから、輝に親権争いを促そうとするが、舞がやんわりと制した。「伯母さん……輝が自分で決めることよ」寛の妻は言葉を飲み込み、ため息を落とした。……夜。枝々を押し下げるように闇が垂れこめ、新月が梢にかかる。舞は三人の子どもを寝かせたあと、主寝室へ戻った。京介はソファに腰かけ、AI関連のビジネス誌を手にしていた。「今日は会社に行かなかったの?」と舞が尋ねると、視線を上げずに答え

  • 私が去った後のクズ男の末路   第328話

    その岸本という男を、舞は快く思っていなかった。妻を亡くしてまだ半年足らずで再婚を決め、しかも十歳を超える息子がいる。再婚夫婦など、腹の底では別々の思惑を抱えているものだ。瑠璃が自分のキャリアを手放すべきではない——舞はそう感じていた。しばし考え、私的な立場から口を開く。「瑠璃……茉莉のためにも、もう一度よく考えて。確かに栄光グループでの今の立場では、これ以上の昇進は望めないかもしれない。でも、二年後にはあなたに持株の1%を譲ることもできるわ。岸本の何兆円という資産には及ばないけれど……手の中にあるものこそ、本物だと私は思う」その言葉に、瑠璃は胸を打たれた。今の自分の立場では到底得られない条件——それが舞からの純粋な情であることはわかっている。「ありがとうございます……葉山社長が私を大事にしてくださっているのはよくわかっています。でも……ごめんなさい」涙を含んだ声でそう告げ、深く一礼する。数年前、輝ともみ合いになった自分を、舞が病院へ連れて行ってくれた日のことを思い出す。あの日の恩は、ずっと忘れていなかった。舞も、彼女の決意を悟っていた。岸本は富豪であるだけでなく、男としての魅力もある。嫁げば決して恥ではなく、むしろ華やかな道だろう。それに、今回の退職は、疑念を避けるためでもある。これ以上、引き止めはしなかった。去り際、瑠璃の目は赤く潤み、その胸に静かな寂しさが満ちていった。この場所には、彼女の青春のすべてが息づいていた。扉を開けた途端、二メートルほど先に輝が立っていた。全身から冷気を放ち、鋭く睨みつけてくる。長い沈黙——瑠璃の口元がわずかに震えた。先に口を開いたのは輝だった。「相手は岸本か。やっと腑に落ちたよ。あいつは何千億の資産を自分で築いた、本物だ。確かに俺みたいな二代目よりは上かもな。でも岸本の金が、お前のものになるか?俺ならできる。持ってる株を全部茉莉にやる。給料だって全部お前に預ける……俺は、お前を娶れる!」「娶れる?」瑠璃は感情を押し殺して見上げる。「ほら……やっぱり恩着せがましい言い方になる。輝、あなたが娶りたいなら、私が嫁がなきゃならないの?ずっと知りたがってたでしょう、私がなぜ周防家に行かなかったのか」輝は目を細め、その瞳を見据える。

  • 私が去った後のクズ男の末路   第327話

    瑠璃は否定せず、短くうなずいた。「そうよ」そう言って歩み寄り、エレベーターのボタンを押す。だが次の瞬間、輝の腕に押しつけられ、背中がつるりとしたタイルに強くあたって鈍い痛みが走った。「……輝、何のつもり?」「何のつもりって?俺が怒っちゃいけないのか?どういう男を探してるんだ、瑠璃……俺が満たしてやってないってのか?茉莉のそばにもいるし、もう接待も行かず、毎日お前の周りをぐるぐる回ってる。それでも外に男を探すのか?」……瑠璃は顔を上げ、壁に押しつけられたまま、かすかに笑った。「理屈は通ってるように聞こえるわね。でも輝……私はあなたの妻じゃないの。自分の残りの人生を託す相手を探すの、普通のことじゃない?」輝は息を荒げた。「金に困ってんのか?男がいないと死ぬのか?」「私のことに口を出さないで。それと——茉莉に会いたいなら、事前に電話して」「その男に見られて機嫌損ねるのが嫌なのか?どう機嫌悪くなろうと、茉莉は俺の子だ」瑠璃はじっと輝を見つめ、その瞳の奥にわずかな涙を光らせた。エレベーターの扉が開くと、彼女はさっと中に滑り込み、そのまま閉じていく。輝は閉まった扉を見つめながらも、理性を保ち追いかけはしなかった。代わりにドアを蹴りつけ、吐き捨てるように低く吠える。「後悔すんなよ、瑠璃!」先週まであんなに首に腕を回して甘えてきたくせに——今さらどこの野郎だ?どんな大物が、あいつの目にかなった?胸に苦さを残したまま、輝は車へ戻った。その夜は一睡もせず、車中で煙草を吸い続けた。翌朝。瑠璃が茉莉を学校へ送ると、小さな彼女はすぐに輝の車を見つけて、ぱっと笑顔になり「パパ!」と駆け寄ってくる。輝はすぐにドアを開け、降りてきて抱き上げた。「うちの茉莉、抱っこだ。また背が伸びたな」……無精髭が頬をかすめ、茉莉はくすぐったそうに笑う。「パパ、煙草くさいよ」輝は娘のほっぺに軽く口づけし、「パパのこと、嫌いになった?……そうなの?」とからかうように言った。茉莉は父の首にぎゅっと腕を回し、「茉莉はパパがいちばん好き!」と言った。輝は何か言おうとしたが、喉が詰まり、そのまま娘をぎゅっと抱きしめた。少し離れたところで見ていた瑠璃の目尻が、そっと赤く染まっていく。……午前十

  • 私が去った後のクズ男の末路   第326話

    幾度も繰り返し、全身を燃やし尽くすような時間だった。夜は静かに沈み、舞は京介の腕の中に身を預け、まだ余韻の中にいた。京介は上体をわずかに起こし、何気なく枕元の引き出しを開けた。中には未開封のタバコが二箱あったはずだが、取り出した箱をまたそのまま戻す。腕の中の舞を見下ろすその眉目は、穏やかにほどけていた。辛辣な過去もあった。だが今こうして抱きしめているものこそ、最も確かな現実——舞に対する負い目は、一生をかけて償うつもりだ。愛し、喜ばせ、ともに子を育てるために。もちろん、入札案件に関しては記憶を取り戻したことをまだ公にはするつもりはない。狙うのは、何としても岸本への決定打だ。もはや勝ち負けにこだわる年齢ではない。すべては大局のため——そして、夫婦の間の駆け引きでもある。舞が知らないほうが、きっと気持ちは楽だろう。彼女の胸の奥には、まだ癒えぬ痛みと過去が残っていた。やがて腕の中の舞がわずかに身じろぎし、目を覚ます。それでもすぐに起き上がらず、静かに寄り添ったまま、しばらく間があってから京介が低く問う。「何を考えてた?」「入札のこと……それと……」……舞の脳裏に浮かんだのは岸本の車にいた女のことだった。胸の奥が少しざわついた。周防家にも、栄光グループにも関わる話だ。口にしかけたが、無垢な顔をした京介を見て、言うのをやめた。言ったところで、今の彼には決め手はない。京介の喉仏がひとつ上下する。「俺が助ける」舞は細い体を起こし、黒髪が白い肌に絡みつく。三人の子を産んでも衰えぬ容貌は、むしろ時を経てなおしなやかな気品を増していた。「あなたが?」京介の黒い瞳が深く射抜く。「信じられないか?」——信じる。だが、信じ切れない。昔の京介なら、岸本を三人まとめて叩きのめすことも造作なかった。だが記憶を失った今は、まるで翼を折られたよう。天賦の才も、老獪さの前ではときに刃を収めねばならない。京介は舞を引き寄せ、その唇に口づけた。「その時が来れば、わかる」舞の白い指先が、彼の顎をそっとなぞる。端正な顔立ちは、見飽きることがない。「急にどうしたの?」退院の日、すべてを知ったはずの彼と、長く膠着すると思っていた。だが京介は突然、性格をがらりと変え、まるで必死に追いかける子

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status