All Chapters of 私が去った後のクズ男の末路: Chapter 391 - Chapter 400

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第391話

輝が英国へ発ってから、もう一ヶ月が経っていた。年の瀬が迫っても、帰国の知らせはない。瑠璃は迷いながらも、何度か電話をかけてみた。だが繋がらず、代わりに会合の席で秘書の白川と顔を合わせた。「帰ってくるのは……年明け半ば頃ですね」あと半月——細かく詮索するのも気が引けて、瑠璃は軽く世間話をしてその場を離れた。会所の廊下は明るく、煌びやかな光に包まれていた。背後で、白川がふっとため息を洩らしたのに、瑠璃は気づかなかった。……個室に戻ると、場の空気はちょうど良く温まっており、岸本が二人の投資家を上手くもてなしてくれていた。酒はすべて岸本が引き受けている。「いやぁ、今日は飲みすぎた。でも価値はあったさ。女は守られるべき生き物だ。この借りは周防輝に返してもらう。今度から接待じゃ、あいつが俺の分も飲め」「私のこと、彼には関係ないわ」「惚けるなって。西原社長が吹聴してるぞ。お前らの仲、もう業界じゃ知らない奴はいない。うまくいったら招待状でも寄こせよ。俺がでっかい祝儀を持って行ってやる」——いい夫とは言えなかったが、岸本は確かに友人としては頼もしい。しかし、まだ先の見えない話を公にする気はなかった。朱音に促して岸本を立たせる。家には子どもが二人もいるのだから、あまり遅くならないほうがいい。岸本は苦笑しながら、「お前は何でも完璧だが、少し口が固すぎるな」と言った。瑠璃が何か言おうとしたそのとき、胸の奥から突然こみ上げる吐き気に襲われた。胸元を押さえ、洗面所へ駆け込むと、激しい嘔吐が続く。ようやく収まった頃には、全身から力が抜け、流し台に手をつきながら鏡の中の自分をぼんやりと見つめていた。出産の経験があるからこそ、これが何を意味するのかは、よく分かっている。——妊娠している。鏡の中に、もうひとつの人影が映り込んだ。岸本だった。彼もまた、呆然としたまま彼女を見つめる。「妊娠、してるのか?」瑠璃は否定しなかった。あの夜——ホテルでの輝とのこと。避妊はせず、薬も飲まなかった。後悔しているか、と問われれば……そうでもない。この一ヶ月、心は揺れ続けた。結局、自分は彼と一緒になるつもりでいる。ならば、子どもがいるのはむしろ喜ばしい。お互いもう若くはないのだから。そう思うと、瑠璃
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第392話

二人の視線がぶつかる。ひとりは部屋の中、もうひとりは外に立っていた。空気はどこか張り詰め、微妙な緊張を帯びている。白川が場を和ませようと口を開いた。「赤坂社長、どうぞお掛けになってお話しください」瑠璃は小さく礼を述べ、部屋に入りソファに腰を下ろした。輝もようやく我に返り、彼女の正面に座る。その視線の先で、白川がコーヒーを二つ用意している。「コーヒーは結構です。ぬるめの水をお願いします」瑠璃がそう告げると、白川は頷き、新しいカップを取りに行った。広いオフィスに、残されたのは二人だけ。瑠璃は長い指先でカップの取っ手を弄びながら、穏やかな声で切り出す。「前にホテルのスイートで……『よく考えてくれ。これからの俺たちのこと、そして……未来のことを』って言われたよね。このひと月あまり、ずっと考えてきた。そろそろ答えを伝えようと思う。輝、私たちは……」言葉を終える前に、休憩室の扉が開いた。そこに立っていたのは絵里香だった。柔らかな羊毛のワンピースに、膝丈から覗く薄いストッキング。足元は女性用の室内スリッパ。まるでこの部屋の女主人のような佇まいだった。鈍くても、瑠璃には十分すぎるほど理解できた。胸の奥にあった「輝、私と一緒にいてください」の言葉は、ついに口にする機会を失われた。そのとき、オフィスの入口から白川の声が響く。「社長、スタイリストの方がいらっしゃいました。高宮さんの晩餐会用のヘアメイクだそうです。お通ししてよろしいですか?」部屋は静まり返り、針が落ちても聞こえそうだった。瑠璃の顔から、すっと血の気が引いていく。輝はしばし彼女を見つめ、やがて白川に向かって言った。「外で五分ほど待ってもらって。赤坂社長と少し話す」そして絵里香に向き直り、柔らかく微笑む。「先に中で待っていて」絵里香は頷き、瑠璃に向かって小さく笑みを返した。その瞬間、瑠璃はもう全てを悟った。輝が結婚するのは事実。しかし花嫁は自分ではなく、高宮絵里香だ。理由を問うことも、詰め寄ることもなかった。祝福の言葉すら口にしない。彼女は立ち上がり、一言の説明も求めず、まっすぐに部屋を後にした。来たときと同じように、静かに。まるで一度も心を動かされたことがないかのように。まるで輝という人間を知らなかったかのように。
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第393話

夜の街に、ネオンが瞬き始めた。瑠璃は京湖公園のベンチに腰を下ろし、心ここにあらずのまま、水面に映る点々とした光を見つめていた。頭の中では、ついさっきまで抱いていた愚かな夢想が、なおも反響している。——『よく考えてくれ。これからの俺たちのこと、そして……未来のことを』って言われたよね。このひと月あまり、ずっと考えてきた。そろそろ答えを伝えようと思う。輝、私たちは……瑠璃はふっと笑った。そう、愚かしい夢想だった。自分でも呆れるほどに。輝が、若くて美しい女性を差し置いて、もう一度自分を選ぶ理由などあるだろうか。あの夜のことなど、彼にとっては束の間の戯れだったに違いない。輝の言葉も、本気か嘘かなど分からない——どうせ、ベッドの上での口約束だ。瑠璃、あんたは……本気にしてしまったんだね。うつむいて、まだ平らな腹部にそっと手を当てる。心の中で、天と地の間で揺れ動くような葛藤が渦巻く。ひと月あまりの小さな命なら、きっと痛みはないはず。だが——これは自分の身体の一部であり、小さな生命なのだ。湖畔に座り、小さな腹を撫でながら、進むべき道が見えずにいた…………そのとき、背の高い影が隣に現れた。大きな手が、そっと頭上を覆うようにかざされる。続けて、その人物は隣に腰を下ろし、淡々と口を開いた。「朱音から聞いた。元気がないってな。家に行ってみたら、お母さんが接待中だって。妊娠してるのに酒を飲んで接待なんて、どうするつもりだ?」振り向くと、岸本がいた。真冬の冷え込みの中、黒いウールのコートを着込み、手には茶色の封筒を持って、表情はどこか硬い。瑠璃の声はかすれていた。「どうやって、私を見つけたの?」岸本は答えず、代わりに先ほどの話を引き取った。「輝に会ったんだろう?」「どこまで知ってるの?」岸本は包み隠さず告げた。「今夜、瑠輝グループが婚約を発表した。来年の春か夏に結婚するらしい」瑠璃は顔を上げ、空の星を見やりながら呟く。「それは、おめでたいことね。ねぇ、岸本さん。今夜は星がよく見えるわ。立都市でこんなに星が見えるなんて、運がいいと思わない?」彼女の瞳の奥に、うっすらと涙が光っているのを、岸本は見逃さなかった。この場所に来るまで、彼女がどれだけ迷い、どれだけ孤独を抱えていたのか
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第394話

岸本は瑠璃を送って行った。道中、二人とも一言も口をきかなかった。マンションの前に車を停め、岸本はハンドルから手を離して横を向く。瑠璃の目尻は赤く腫れていた。河辺で長く泣いていたせいだ——それも、自分のために。岸本の声は驚くほど柔らかい。「どんなに気分が沈んでても、帰ったら少しは食べろ。子どもにも栄養がいる」そう言って、彼は軽く彼女の下腹を指先でなぞった。まるで、その子が自分の実の子であるかのように。瑠璃は小さく「うん」と答え、何か言いかけては口を閉ざす。岸本の声はさらに低くなった。「結婚のことは、もう決めた。後戻りはなしだ。瑠璃……これは互いのための取り決めかもしれないが、お前を粗末にはしない。俺が……いなくなったら——」「後戻りなんてしない!」瑠璃は慌てて言葉を遮った。「明日、すぐ役所で婚姻届を出そう。岸本さん、この新年は一緒に迎えましょう」同情でも友情でも、岸本の胸は熱くなった。彼はシートの背からコートを取って彼女に渡す。「外は冷える。これを羽織って行け。家に着いたら連絡する」瑠璃は頷き、車を降りて夜の中へと消えた。岸本は、その姿が完全に見えなくなるまで座席から目を離さなかった。……帰宅すると、茉莉はもう眠っていた。瑠璃の母は、何か言いたげに瑠璃を見つめる。テレビのニュースで、輝の婚約を知ったのだ。瑠璃の母にはわかっていた——娘は身ごもっている。それもおそらく、輝の子を。けれど、その輝は別の女性と結婚しようとしている。どうすればいいのか、見当もつかない。瑠璃は湯気の立つ夜食をゆっくりと口に運びながら、静かに告げた。「お母さん、私、結婚するわ。岸本さんと」瑠璃の母は目を見開く。また岸本とかかわることになるとは——彼女が言葉を探す前に、瑠璃ははっきりと言った。「岸本さんは私を大事にしてくれる。お母さんや茉莉にも、そしてお腹の子にも手を差し伸べてくれる。私にとっても、彼にとっても最良の選択よ……愛なんて、現実の前では取るに足らないわ」瑠璃の母はようやく気持ちを落ち着け、詳しいことを聞こうと思ったが、娘の表情がどこか重く沈んでいるのを感じ取り、結局はこう相槌を打つだけだった。「あんたが幸せにしてもらえるなら、それが一番。昔から自分で決める子だったし、母さんは口
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第395話

朝早、岸本は瑠璃を迎えに来た。車には、彼の二人の子ども——長男の琢真と、幼い娘の岸本美羽(きしもとみう)も乗っている。琢真は落ち着き払った少年で、美羽は白く柔らかな肌の愛らしい子。顔立ちは六、七割方、生母の笙子に似ていた。岸本は二人を瑠璃の実家に預け、瑠璃の母に見てもらうことにした。これも、子どもたちと瑠璃・茉莉が少しずつ打ち解けられるようにとの配慮だった。その後、岸本と瑠璃は連れ立って階下へ降り、車に乗り込む。形式だけの結婚とはいえ、今日は婚姻届を提出する日。瑠璃は薄化粧を施し、やつれた顔色をわずかに隠していた。「婚姻届の写真、役所でベールも貸してくれるらしいな。黒のタイトルと、意外と合いそうだ」岸本が横目で笑うと、瑠璃も小さく笑みを返した。「そうなの。なら、それでいいわ」彼はそっと彼女の髪を撫で、優しい声を落とす。「少しでも笑っていてほしい。俺はまだ元気だ。逝く前に、お前と子どもたちの将来は全部整えておく」昨夜も、誰かが「将来を整える」と言っていた。けれど——岸本の言葉は、胸を締めつけるほど切なかった。瑠璃は涙を堪えて笑った。「時間がどれほど短くても、この日々を大事に過ごしましょう」岸本は何か言いかけたが、込み上げる熱を悟られまいと、ただ口元を緩めた。三十分後、二人は区役所に着いた。岸本の立場上、小さな応接室で手続きを進める。黒のタートルニットを纏った瑠璃は、白いベールを渡され、岸本の隣で控えめに微笑む。写真を撮る直前、岸本がふと動きを止めた。「忘れ物だ」瑠璃が顔を上げると、彼は懐から一対のプラチナリングを取り出した。女物の内側には、小さく【MYLOVE】と刻まれている——その意味は、いずれ彼女が気づけばいい。「岸本夫人、この指に嵌めてもいいか?」彼の指が彼女の左手薬指に触れ、瑠璃は唇を噛んで震えながらも、素直に差し出した。婚前契約もなく、そこにあるのは真心だけ。瑠璃もまた、岸本の薬指に指輪を嵌めた。互いに寄り添い、カメラの前で結婚写真を撮る。婚姻届には、それぞれの名——【岸本雅彦】【赤坂瑠璃】——が並び、夫婦となった。書類を見つめる瑠璃の唇に、彼の温かな口づけが落ちる。「これで、実感は湧いたか?」瑠璃は彼の頬に手を添え、小さく呟く。「あり
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第396話

絵里香がドアを押し開けると、目に飛び込んできたのは散乱した書類と、粉々になった携帯電話の残骸だった。輝は荒い息を吐き、全身が張り詰めた弦のように緊張している。絵里香は一瞬ためらいながらも、そっと彼の肩に手を置こうとした。慰めたかった——だが、その手は容赦なく振り払われた。呆然と立ち尽くす絵里香に、輝は何の言葉もかけず、そのまま部屋を出ていく。「輝、どこへ行くの?」絵里香が呼びかけても、彼は一切耳を貸さず、エレベーターに乗り込むと、彼女の目の前で閉じるボタンを押した。「輝!」扉を叩こうとした絵里香を、白川が制した。「高宮さん……今は、社長に少し時間をあげたほうがいい」絵里香は悔しさを飲み込み、顎を上げて呟く。「いいわ。どうせ未来の周防夫人は私なんだから」だが、胸の奥では嫉妬が燃えていた。——あの女、赤坂瑠璃に。二度目の結婚だというのに、あれほど世間を騒がせるとは思わなかった。しかも岸本雅彦は、まるで女を初めて見たかのように財産も名誉も差し出し、瑠璃は一夜にして上流社交界の寵児となったのだ。……一階、駐車場。輝は車に乗り込み、エンジンをかけようとして、ふと手を止めた。彼女はもう結婚した。自分はどんな顔で、どんな立場で彼女を問い詰めるつもりなのか。彼女には夫がいて、自分には婚約者がいる。年が明ければ結婚するかもしれないのに。ハンドルに額を預けたまま、胸の奥で言葉にできない痛みが膨らんでいく。長い逡巡の末、輝は瑠璃のマンションの前へ向かった。年の瀬、厳しい寒さが骨身に沁みる夕暮れ。瑠璃は母と三人の子どもを連れ、冬物の買い物から戻ったところだった。送り迎えは岸本家の運転手——黒塗りの長い高級車。母が三人の子を先に降ろす。最後に降りた瑠璃は、淡い色の毛皮に小ぶりのエメラルドのアクセサリー、そして薬指には輝くシンプルなマリッジリング——その眩しさが、輝の視界を刺した。再会した彼女は、もう他人の妻だった。最初に輝を見つけたのは茉莉だった。茉莉が嬉しそうに声を上げると、そのまま駆け寄ってきた。そのときになって、瑠璃は初めて輝に気づいた。彼は暮色の中に立ち、黒いコートが薄闇に溶け込み、その表情ははっきりとは見えない。茉莉は駆け寄ると、勢いよく父親の胸に飛び込んだ。
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第397話

深夜、輝は会員制クラブで泥のように酔っていた。この夜だけでワインの売上は二千万円——支配人は数字にほくそ笑みながらも、肝心の客が不機嫌で、今にも店を壊しかねない気配に冷や汗をかいていた。そこで、最も気が利く若い子を呼ぶ——輝の昔馴染み、晴香だった。華奢な身体つきの彼女は、そっと輝の隣に腰を下ろす。彼はソファの背に仰け反り、頬にうっすら紅を差し、喉仏が規則的に上下している。男らしい色気が滲んでいた。晴香はその姿に思わず鼓動を早めるが、余計な感情は抑え、甘やかな声を落とした。「ご一緒にいただきます。何かお悩みなら、お話しください。少しは気が楽になるかも」輝は黒い瞳をわずかに開け、彼女を見た。——覚えている。この目元は、京介の妻に少し似ていた。そのせいで、かつて瑠璃と大きく揉め、彼女は長く許してくれなかった。もし、あの時彼女があそこまで意地を張らなかったら——二人はもう、幸福な夫婦になっていたのだろうか。輝は身を乗り出し、グラスの赤ワインを水のように飲み干す。晴香は一瞬驚きながらも、慌てて酒を注ぎ足し、必死に宥めるが、酔いの勢いは止まらない。明け方近く、輝は完全に意識を失った。支配人は絵里香に連絡し、迎えを頼む。午前二時、絵里香が到着する頃には、街のネオンも色褪せ、歓楽街は静まり返っていた。長い廊下を歩く足音が響く。個室の中、輝は若い女性に介抱されながら眠っていた。その光景に、絵里香の胸に苛立ちが走る。「この女……!」乾いた音とともに、晴香の頬に鋭い痛みが走る。支配人も苦笑するしかなかった。客は神様、このお嬢様を怒らせるわけにはいかない。そこで愛想笑いを浮かべながら言った。「本当に、お酒のお相手をしただけで……うちは潔白な商売ですから」だが絵里香の視線は、輝だけに向けられていた。「どうしてこんなになるまで……私が連れて帰るわ」支配人は空気を読んで、屈強なスタッフ二人を呼び、輝を車に運び込ませた。残された晴香は、熱を帯びた頬を押さえ、ぽろぽろと涙をこぼす。こんなこと、ここでは珍しくもない。それでも胸の奥は痛む。自分に力さえあれば、好き好んでここで笑顔を売り、酒を注ぐことなどしなかっただろう。支配人が外から入ってきて、氷袋を差し出しながら言った。「しばら
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第398話

夜が更け、輝はマンションのソファで眠っていた。シャツのボタンは数個外れ、胸元が無防備に覗いている。浴室からは石鹸と香水の甘い香り。髪を整え、薄手の浴衣をまとった絵里香が、しなやかな足取りで近づいた。——今夜こそ、既成事実を作って「本物の妻」になる。ソファの前に膝をつき、細い指で彼の頬をなぞる。「忘れられないんでしょう、あの人を。私はこんなにも犠牲にしたのよ。あの事故を仕組んで、不妊になってまで……京介、あなたを絶対に離さない。愛してるの。あなたの人になりたい。抱きしめられて、夫婦として過ごしたいの」……迷いも恥じらいもない瞳が、彼を見つめる。だが——酔った男は、大抵役に立たない。輝も例外ではなかった。しばらくして、頬を紅潮させた絵里香は、望みを果たせぬまま、彼と寄り添う形だけの姿を作り、スマホで写真を撮った。紅潮した顔で目を閉じる男と、満ち足りた笑みを浮かべる女——まるで事後のように見える一枚。それが狙いだった。絵里香はすぐにツイッターにログインし、その写真を【小さな幸せ】の一文と共に投稿した。ほどなくして、そのツイートは深夜のトレンド入りを果たした。真夜中、誰もトレンドから外すことなく、輝のベッド写真は一晩中表示され続けた。……翌朝、輝は目を覚ますと、スマホに63件の不在着信が入っていた。その大半は白川からだった。抱き枕に頭を預けたまま折り返し電話をかけ、酒の残るかすれ声で尋ねる。「そんなに大事なことか?プロジェクトに問題でも起きたのか?」白川はしばらく黙り、低く告げた。「昨夜、高宮さんがツイートを……社長、ご自身でご確認ください」電話を切り、輝がツイッターを開くと、そこにはベッド写真があった。顔色は一気に険しくなる。英国での件があったからこそ絵里香を妻にするつもりではあったが、だからといって好き勝手していいわけではない。ましてや、こんな私的な写真は瑠璃には見せたくなかった。彼女はきっと傷つく——そう思うと胸がざわつく。輝は上体を起こし、自分のズボンに視線を落とした。男がその夜どうだったかは自分が一番よく分かっている。彼は絵里香に触れてはいない。それなのに、彼女はあえて誤解を招くようなことをしたのだ。輝は白川を呼び、広報部に連絡させた。トレン
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第399話

冬の陽射しの下、瑠璃はふと正門の外に視線を向けた。そこには、輝が立っていた。昨夜と同じ服装のまま、疲れ切った顔でこちらを見ている。その姿を目にしても、瑠璃の胸に湧いたのは同情ではなく、皮肉な感情だった——ツイッターに載ったあの艶めいた写真が脳裏をよぎる。事ここに至って、いまさら愛情ぶって何になるものか。彼女は静かに微笑んだ。その笑みには諦念と、新たな始まりへの覚悟が宿っていた。ちょうどその時、傍らの岸本が彼女の手を軽く握り、何か意見を尋ねた。瑠璃は夫の目を見上げ、自らの指を彼の指に絡める。冬の陽光の中で、二人の指に輝く結婚指輪が眩しく光り——それは輝の目を鋭く刺した。彼はどうやってその場を離れたのか覚えていない。ただ、魂を失ったように歩き去ったことだけが記憶に残っている。そして理解した——自分がいかに卑劣だったか。英国で絵里香と結婚を決めたのも、「瑠璃は再婚しないだろう」と高を括っていたからだ。佳人に負い目はなく、茉莉には会いに行ける。彼女の母としての瑠璃とは、仕事の口実で関わり続け、ビジネスで埋め合わせもできる——そう考えていた。だが瑠璃は、自分の想像以上に気丈だった。岸本と電撃的に結婚し、最後の情を断ち切り、自分を完全に「通りすがりの男」にしたのだ。……黒いレンジローバーは、当てもなく大通りを流れていた。宿酔いの頭は重く、気分は晴れない。やがて輝は路肩に車を停め、窓を下げ、シートに凭れかかって煙草をくゆらせた。金の腕時計を巻いた腕が、吸っては下ろし、また吸っては下ろす。そんな時、通りの向こうにクラブのホステス・晴香の姿を見つけた。「周防さん!」猫のように駆け寄ってくる彼女の顔には、くっきりと五本の指跡が残っている——考えるまでもなく、加害者は絵里香だ。輝はしばらく彼女を見つめ、身を傾け、グローブボックスから財布を取り出すと、十万円ほどの札束を差し出した。「薬でも買って、冷やしておけ」声は酒焼けのように掠れていた。晴香は首を振り、小声で尋ねる。「また来てくださいますか?」彼女の顔には年若い素顔の無垢さが残っている。だが輝は、もうここには来ないと心に決めていた。荒唐な夜は終わり、酒は醒めた。彼は静かに首を振り、車を走らせた。……
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第400話

翌日の午後、朱音が新婚祝いの品をいくつも届けてきた。瑠璃は暇を見つけ、居間でひとつひとつ包みを開けては帳簿に記し、後日お返しする際に備えていた。墨色のベルベットの箱を開けると、中には陽緑の翡翠のセットが収められていた。——目が覚めるような美しさ。価値は計り知れない。送り主の名は記されていなかった。それでも、誰からかは察しがつく。手が止まり、思わず呆然と見つめる瑠璃。そこへ岸本が入ってきて、妻の表情と手元の品を一瞥した瞬間、すべてを理解したようだった。何事もないように微笑み、静かに言った。「取っておけ。将来、うちの娘の嫁入り道具にすればいい。子どもだけ産んで金を出さないなんて筋が通らないだろう?」瑠璃は顔を上げ、夫を見た。彼が本心から翡翠を欲しがっているのではないと分かっている。岸本はただ、自分を気まずくさせまいとしているのだ——いつか茉莉がその人と会うこともあるだろうから。瑠璃は小さく「……ええ」と頷き、翡翠をしまった。岸本は彼女の隣に腰を下ろし、長い腕でそっと抱き寄せる。指先で彼女の結婚指輪を弄びながら提案した。「もうすぐ新年だ。家に籠もってばかりじゃいけない。皆で出かけよう。子どもたちともっと仲良くなってもらいたいし、母さんも一緒に。買い物して、あとは和楽苑で夕食だ。秘書に個室を押さえさせよう」「いいわ。着替えてくるから、子どもたちを呼んできて」岸本は彼女の腰のあたりを軽く叩き、穏やかに言った。「わかった。じゃあ下で岸本夫人を待ってる」——この夫婦のやりとりは、実に自然だった。岸本が部屋を出た後、瑠璃は鏡の前で淡い化粧を施しながら心の中で思った。もし彼が病気ではなく、無事でいてくれたら——それが一番の幸せなのに。若い頃に求めた刺激や華やかさなど、今はもうどうでもいい。欲しいのは、ただ心安らぐ日々。……十五分後、支度を終えて階下へ降りる。黒いシルクのロングドレスに、深い茶色の毛皮を羽織り、同系色のストッキングを履いた脚が艶やかに覗く。高価な宝飾は身につけず、耳には小さな金のイヤリングだけ。ゆるく巻いた長い髪と相まって、落ち着いた中にも豊かな色香が漂っていた。岸本は思わず見とれたが、同時に寒くないかと気遣う。瑠璃は先に答えた。「車は地下駐車場からだし、レス
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