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私が去った後のクズ男の末路 のすべてのチャプター: チャプター 821 - チャプター 830

1090 チャプター

第821話

一年、また一年が過ぎた。澪安は数えきれないほど探し回ったが、慕美の消息はどこにもなかった。――もしかしたら、海外へ行ったのかもしれない。そう思ったのは、宴司が「遠い国の旅先で、彼女らしき女性を見た」と言ったからだ。その年は、二人が別れて三年目の秋だった。やがて澪安は、その都市へ向かった。けれど――探そうとはしなかった。あまりにも大きな街だった。彼女はただの旅人として、人波に紛れて歩いているのかもしれない。そんな広い世界で、どう探せというのか。澪安は中央公園のベンチに座り、ひとり長い時間を過ごした。そのとき、小さな男の子がふらふらと歩いてきて、きらきらした風船を握りしめていた。頬は雪のように白く、笑うと愛らしい小さな前歯が覗く。「おじさん!」男の子は誇らしげに名乗った。「ぼく、思慕!」――思慕?その名前に、澪安は一瞬呼吸を忘れた。あの名前と、同じ文字がひとつだけ重なっている。秋の柔らかな光の下、澪安は思わず身をかがめ、その子を抱き上げた。幼い体は温かく、そしてどこか懐かしかった。そこへ、流暢な英語を話す家政婦がやってきた。「思慕はもう二歳半になります。立都市から来た方で、お母さまは留学しながら、ひとりでお育てになっています」――ひとりで。澪安は、その女性はきっとシングルマザーなのだと思った。改めて思慕を見ると、驚くほど整っていて――そして、奇妙なほど見覚えがあった。教会の鐘が鳴り始め、家政婦は思慕を名残惜しそうに抱き寄せた。「これから夕食の支度がありますので……奥様は授業が終わったあと、思慕と一緒に食事をされるんです。もしよかったら、ご一緒にどうですか?うちの奥様、とてもお若くて綺麗な方です。周防さんと、とてもお似合いになると思いますよ」異国の町。だが澪安に、浮ついた恋の余裕はない。それに、彼の心にはずっと慕美がいた。そんな想いを抱えたまま、ほかの女と関係を持てるはずがない。その三年間、彼の隣に女はいなかった。一夜限りの関係すらない。ずっと待っていた。待っても待っても、慕美は帰ってこなかった。連絡ひとつ寄越すこともないまま――それから先、彼はめったに彼女を探さなくなった。思い返すことさえ、少なくなっていった。―
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第822話

澪安は思慕の保護者に会うつもりでいた。そのときだった。扉の向こうから、柔らかく澄んだ声が響いた。「思慕、またお友達を困らせたの?」――その声を聞いた瞬間。澪安の時間が、止まった。あの声。忘れたはずなのに、忘れられるはずがない声。――九条慕美?澪安はゆっくりと立ち上がった。その瞬間――結代の存在すら意識の外へ消えた。胸の奥まで焼きつくような視線で、彼は入口の方を見つめる。まるで、扉の向こうに穴を空けようとしているかのように。やがて、ヒールの澄んだ音が近づいてきた。そして――現れた。ずっと忘れたはずの人。もう戻らないと、そう諦めた人。――九条慕美。彼女は昔とは少し違っていた。かつては華奢で、触れれば折れてしまいそうな細さだったのに、今はどこか柔らかく、落ち着いた丸みを帯びている。それでも全体はすらりとしていて、線の美しさは変わらない。長かった黒髪は、今は茶色がかった色に染められ、ゆるやかなウェーブがかかっていた。ふとした仕草や横顔に、少女にはなかった艶と余裕が宿っている。モノトーンの上品なワンピース。肩から下がる細いチェーンバッグ。成熟と静かな自信を纏ったその姿はたしかに慕美だった。けれど、昔の「慕美」そのままではない。少女から、ひとりの女性へ。澪安は、まるで時間が止まったかのように彼女だけを見つめていた。全身の筋肉が強張り、呼吸さえ忘れている。結代がそっと袖を引き、小さく「叔父さん」と呼んでも、その声は届かない。彼の世界には、今慕美しかいなかった。五年ぶりの再会。その現実が、胸の奥深くでゆっくりと燃え広がっていく。一方の慕美も、息を呑んで立ち尽くしていた。まさかこんな場所で再び彼と対面するなんて、夢にも思っていなかったのだ。漂う沈黙に耐えられなくなった園長が、ぎこちなく笑みを浮かべる。「あら、お知り合いですか?でしたら話が早いですね。今後どう仲良く過ごすか、お話し合いいかがでしょう?」慕美は目を伏せ、静かに言った。「知りません」すると、思慕が慕美の手をぎゅっと握り、まっすぐな瞳で言った。「でも、思慕は知ってるよ。去年、海外で会ったの。叔父さんだった」慕美の喉が、かすかに震えた。言葉にならない息だけが胸の
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第823話

双方の保護者が揃ったことで、結代と思慕の喧嘩は、結局有耶無耶のまま幕を閉じた。……願乃が立都市に戻ったのは、その件を処理するためだった。しかし電話をかけると、澪安は冷たい声で告げた。「スイーツ屋に来い。相手の保護者と話をしている」願乃は思わず眉をひそめる。――兄が、交渉?ましてやスイーツ屋で?普段なら、間違いなくこうなっていたはずだ。結代を即座に私立の名門に転園。相手の保護者とは話すどころか、近づきもしない。車を走らせながら、願乃は電話越しに彰人へ報告した。彰人は雲城市で会議を終えたばかりで、状況を聞くとくつくつ笑った。「お兄さん、相手の母親に惚れたんじゃない?ほら、数えてみなよ。もう五年だろ?そろそろ春が来てもおかしくない」願乃は反射的に否定する。「ないない!あの人が?あの死ぬほどツンデレの兄が?私はずっと、兄は慕美を一生待つんだと思ってた」そう言うのは、理由があった。この五年。澪安の生活は、あまりに静かすぎた。あれほど夜遊びが常だった男が、突然別人のようになった。家と会社、そして、妹たちの子どもの面倒を見る日々。赤坂茉莉の娘。澄佳の子供。願乃の娘。そして、美羽の子までも。――恋や遊びより、家族の生活に身を置くなんて。そんな男が急に恋なんて?ましてや……相手に家庭があるのなら?……スイーツ屋の前に車を止め、中を覗いた瞬間。願乃は息を呑んだ。テーブルを挟んで、大人二人、子ども二人。子どもたちはかき氷を抱え、幸せそうにスプーンを動かし、大人たちは視線を交わしながら、どちらも険しい顔。澪安の表情は、まるで十数年喪に服した男のようだ。冷え切って、固く、張りつめている。だが――その相手が誰なのか、見た瞬間、願乃の胸に雷が落ちた。慕美。澪安が五年間抱き続けた痛みの中心。そして、五年消えたまま戻らなかった人。慕美が帰ってきた。願乃は車の中に座り、二重のガラス越しに静かにその光景を見つめていた。いつの間にか、彼女の目には涙が滲んでいた。兄の幸せが嬉しいし、両親の喜ぶ顔が浮かぶ。この数年、慕美が「元気でいる」ということ以外、何も情報がなかった。まさか、また会えるなんて。まさか、慕美の子どもまで見ることにな
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第824話

慕美がふと横を向くと――澪安が、じっと彼女を見ていた。その表情は何かを噛みしめるようで、読み取れない。沈黙が長く伸び、空気が微妙に揺れた。そんな中、思慕がフォークを置き、ふにゃりとお腹を撫でながら言った。「ママ、もうお腹いっぱい。おうち帰って宿題したい」慕美は優しく息子の頭を撫で、席を立つ。「じゃあ、帰ろうか。今日はこれで」だが、澪安が彼女を帰すはずもなかった。彼は無言で思慕を抱き上げ、低く、冷たい声で言った。「俺が送る」慕美が拒もうとした瞬間には、もう彼は外へ向かって歩き出していた。外には黒いカリナンが停まっており、傍らには智朗が立っていた。どうやら急いで車を回したらしい。慕美を見るなり、智朗は驚きで目を見開いた。「……く、九条様」慕美は穏やかに微笑む。「慕美でいいのよ。もう、昔の立場じゃないから」智朗は姿勢を正し、小さく会釈した。そして思慕を見つめ、驚きを隠しきれない。――顔が、似すぎている。DNA検査など必要ない。彼はそっと思慕のほっぺをつまむ。「可愛いな」慕美が促す。「思慕、挨拶して。『智朗おじさん』って」思慕は猫のようにちょこんと呟く。「……智朗、おじさん」直後、澪安の視線が鋭く飛び、智朗は慌てて距離を取った。彼は後部座席のドアを開き、説明する。「チャイルドシートは設置済みです。安全性の高いメーカーのものを」澪安は小さく頷き、丁寧な手つきで思慕を座らせ、ベルトを締めた。その仕草は長年子どもを世話してきた人間の手つき。夜の気配がゆっくりと沈む中、徐朗は横目でそっと慕美を見た。彼女のことを喜ぶべきなのか、それとも別の感情なのか――自分でも判別できない複雑な思いが胸の底でさざ波のように揺れていた。慕美はそんな視線に気づいたのか、穏やかに微笑む。その笑みは、かつての彼女が持っていた儚さとは違い、どこか芯のある強さが滲んでいた。智朗はふと気づく。――彼女はもう、昔の慕美ではない。そう思った瞬間、胸の内に淡い期待が灯った。もしかしたら。今度こそ、澪安様と最後まで歩けるのかもしれない――と。……慕美が車に乗ったのは、逃げられないと悟ったからだ。思慕という存在が現れた以上、澪安は引き下がらない。逃げるこ
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第825話

慕美は否定しようとした。けれど次の瞬間、澪安が彼女の手を強く掴んだ。――まるで、もし嘘を吐いたら、そのまま折り砕くと言わんばかりに。その圧に、慕美は息を飲み、結局、曖昧な答えを選んだ。「思慕は、私の息子よ」澪安は大きく息を吐き、背もたれに凭れた。ポケットからタバコの箱を取り出し、一本取り出しかけて……だが結局、それを戻した。フロントガラス越しの夜景を見つめたまま、声を落とす。「それで――その格安の旦那とは?二人目は作らなかったのか?」慕美は引き攣った笑みを浮かべた。「仕事が忙しくて、そこまで余裕がなかったの」そう言うと少し息を整え、わざと名前をはっきりと告げた。「夫の名前は庄司允久(しょうじ まさひさ)で、オーストラリア育ち。海外で新エネルギーのビジネスをしている。最近ずっと向こうにいるけれど、もうすぐ……私たちと合流する予定」「そうか」澪安は短く、乾いた笑いを零した。「おめでとう」その声は、祝福ではなく刃だった。言い終えると、彼はエンジンをかけようとした。けれど、慕美の声音が彼を止めた。「澪安」澪安はふと視線を落とし、自分の手の甲に触れている慕美の細い指先を見つめた。その目は深く沈み、どこか底が見えない。けれど、彼女には気づけない。触れただけなのに、彼の体はわずかに強張っていることに――五年ものあいだ、誰とも触れなかった体が、彼女という存在だけで反応してしまうことに。けれど慕美は、その震えの意味を知らない。今の彼女の頭にあるのは思慕のことだけだ。思慕は澪安の子ども――その事実が彼女の胸を締めつけている。もし彼が本気で取り戻すと言い出したら。もし裁判になったなら。自分は、勝てる保証がどこにもない。五年ぶりの再会。それなのに、胸の奥にあるのは恋でも憧れでもなく、ただ静かな恐れだった。感情のためではない。愛のためでもない。ただ、思慕の母として。それだけの理由で、彼女は今、この沈黙に膝を折っていた。その胸中を、澪安は見抜いていた。低く押し殺した声が落ちる。「怖いのか?俺が、お前の新しい人生を壊すのが?」そして、問う。「慕美。お前……その男を愛してるのか?」慕美は言葉を失った。ハンドルを握る澪安の指先が、かす
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第826話

車のドアを押し開けながら、慕美は淡々と言った。「それに、この家も賃貸よ。そっちのほうが、あなたのプライドには都合いいんでしょ?」澪安はまだ言葉の棘を味わっているようで、すぐには返してこなかった。その間に慕美は後部座席へ手を伸ばし、眠る思慕を抱き上げようとした。「俺がやる」低い声音とともに、腕がすっと目の前に伸びる。車の扉が開き、冷たい夜風が流れ込む。その風を遮るように澪安は体を傾け、さらにコートを脱いで思慕にふわりとかけた。その手つきはやけに慣れていて――もし彼がずっと独身じゃなかったら、慕美はきっと「この人、子ども何人いるの?」と思っていただろう。澪安は視線を前に向けたまま、淡々とこぼす。「独身だ。昔から妹の子どもの面倒をよく見てた」慕美はその背中を追いながら歩く。暖色の電灯が二人の影を長く伸ばし、互いに重なり合って揺れていた。その距離はどこか曖昧で、温かった。「わざわざ独身ってアピールしなくてもいいのよ」ぽつりと落とした言葉に、澪安はふいに立ち止まる。振り返った黒い眼差しが、真っ直ぐ刺さる。「言っちゃいけない理由があるのか?結婚したほうが偉いのか?」その言い方があまりに真顔で、慕美は呆れるしかなかった。思慕を抱き直そうと腕を伸ばすが、澪安は微動だにしない。結果、彼の腕と自分の腕が絡む形になり、外から見れば――まるで仲睦まじい夫婦が、夜遅くに子どもを迎えに行った帰り道。ただ違うのは、それが再会した元恋人であるという事実だった。しばらくして、澪安が顎で前を指す。「開けろ」「え?……あ、もう家……」慕美が呟く間に、鍵がカチャリと回る。――明かりの灯る室内。広くもなく、狭くもなく。二LDKの、生活の匂いがする部屋。澪安は靴を脱ぎながら、一瞬、視線を巡らせた。その目は評価しているわけでも、理解しているわけでもない。ただ、慣れない現実を測っている人間の目だった。慕美はそれを読み取り、小さく息を吐く。「もう少し余裕ができたら、広い部屋に引っ越すつもりよ」澪安は返さない。ただ、迷うことなく寝室に向かって歩く。そこは柔らかい色合いの空間だった。重厚なアメリカンスタイルのチェストの上には、咲きたての百合が花瓶に活けられている。――慕美が好き
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第827話

沈黙が、刃物のように空気を切り裂いた。澪安が低く鼻で笑う。「どうした。答える勇気もないのか?」その声音は静かで、なのに挑発的だった。慕美はゆっくり息を吐き、苦味を含んだ声で返す。「澪安……私たち、こういう言い方しかできないの?」包丁の音が止まる。澪安が手元の食材を置き、こちらへ歩いてくる。慕美は数歩退こうとした――けれど遅かった。背中が硬いガラスに触れ、逃げ道は断たれる。目の前には、五年ぶりに再会した男。表情はひどく不機嫌で、それでも彼がまだ理性を保っているのは奇跡だった。――彼女が「夫がいる」と言ったからだ。視線が絡む。澪安はじっと、変わったところも変わらないところも含めて、慕美という存在すべてを見つめる。正直、彼にはどうでもいい。清純だろうと、大人びていようと――どちらも慕美であり、自分の感情はそれだけで決まる。好きか、好きじゃないか。それだけで充分だ。五年経っても、身体も心も嘘をつかない。呼吸が荒い。互いの吐息が唇に触れそうな距離で混ざる。けれど面には出さない。大人は欲望すら、平然と隠せる。――ただ、かすかな呼吸だけが真実を暴いていた。澪安は低く囁く。「じゃあ……どう話せばいいんだ?お前とあの旦那は、どんな話し方をしていた?教えろよ。俺も、同じようにしてやる」言葉の端に覗く棘。慕美は視線を逸らし、短く言う。「帰って」てっきり抵抗し、居座ると思った。なのに澪安は彼女を数秒だけじっと見つめ――突然、距離を離した。何事もなかったように料理へ戻る。火の音、包丁の音、水の音。さっきまでの緊張が嘘みたいに、台所だけ日常が戻っていた。慕美はガラス戸に背中を預け、力が抜ける。胸の奥が妙に痛い。彼の背中は高く、端正で、昔と変わらず孤高。ただそこに、知らない温度――生活の匂いが混ざっていた。……料理する人間の背中だ。澪安は長く待たせることなく、手際よく子ども用の食事を仕上げた。栄養も見た目もきちんと考えられていて、皿に丁寧に盛りつけられる。その様子は、もう何度も作り慣れている人間の動きだった。皿をテーブルに置くと、澪安は何でもない声で言った。「これは思慕のだ。大人が食べるもんじゃない。触るな」慕美は
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第828話

だが、澪安はスマホを放り投げたり、怒鳴ったりしなかった。ただ、ふっと座席にもたれかかった。その小さな動作の意味を知っているのは、本人だけだ。――息を吐いた。深く、胸の奥に溜め続けた重たい何かを、やっと下ろすように。慕美は離婚していた。嬉しいはずなのに、胸の奥では別の感情が沈んでいた。――間に合った。そう思う一方で、どうしても引っかかる。彼女は一度、誰かの妻になった。一年か二年、彼女の時間も生活も、別の男に属していた。その男には名前があり、記録があり、過去として残っている。庄司允久。――なぜ、まだ繋がっている?――まだ想っているのか?三十五歳の澪安はまるで初恋に落ちた少女のように、どうでもいい嫉妬と言葉にならない不安に振り回されていた。煙が指先まで燃え尽き、熱が皮膚を刺した瞬間、思考が途切れる。澪安は車のドアを開け、運転席へ移った。そのままエンジンをかけ、周防本邸へ向けて走り出した。普段なら滅多に帰らない場所。しかし、今夜だけは違う。両親はきっと、彼が帰ってくると確信している。……夜の周防本邸は、まるで昼間のように明るかった。もう全員が集まっているらしい。京介夫婦だけでなく、輝の家族、岸本琢真夫婦、美羽夫婦、澄佳と翔雅、願乃と彰人まで、顔ぶれはほとんど揃っていた。まるで正月の集まりだった。笑い声も話し声も庭先までこぼれている。玄関前に黒のロールスが停まると、待っていた使用人がすぐに駆け寄る。「皆さま、お揃いでございます。澪安様がお戻りになるのを待っておりまして……お食事もまだ始めておりません。澪安様はどうせ召し上がれないだろうと――」言い終えた使用人は満面の笑みだった。澪安は無言で一瞬まばたきをした。――何だ、それ。食べられないから待ってるって、どういう理屈だ。夜の空気を切りながら、澪安は車を降りた。視線を横に向けると、駐車スペースにはびっしりと高級車が並んでいる。どれも磨かれたばかりのように光っていた。彼は軽く鼻で笑った。「俺を見世物にする気か」独り言のように呟き、邸内へ入る。案の定、視線が一斉に向いた。大人も子どもも、親戚一同、誰もが楽しそうで、期待と興味と少しの悪意を混ぜた眼差し。澪安はそのすべてを無視し、ソ
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第829話

深夜。澪安はバルコニーの欄干に片肘をつき、薄暗い空を見上げながらワインを口に含んでいた。眠れない。まったく、欠片ほどの眠気もない。むしろ――今すぐ慕美の元へ戻り、五年分の衝動をそのままぶつけてしまいたい。そんな欲望が、喉元まで込み上げる。けれど結局、彼は踏み止まった。――五年。その時間がどれほどの距離になるのか、考えるまでもなかった。忘れたふりをしても、気にしていないわけではない。庭では、親族たちの高級車が次々と滑るように出ていく。そのテールランプの列を眺めながら、澪安は内心で毒づいた。――恩知らずの連中め。昔、誰の子どもを抱いて夜中まであやしてたと思ってる。いざ俺が火だるまになったら、ただポテチ片手に見物かよ。願乃と彰人だけは残り、今夜は本邸に泊まるらしい。明朝、彰人は雲城市へ戻る予定だ。やがて、彰人がワインボトルとグラスを一つ持ってやって来た。「お兄さん。少し付き合う」澪安は横目で見て、低く笑う。「明日、早いんじゃないのか」彰人は肩をすくめ、淡く微笑んだ。「ワイン一杯くらいなら、体は覚えているよ」グラスに注ぎ、同じように欄干に寄りかかる。そして、静かに切り出した。「庄司允久。俺の大学の同期だ。二年前、結婚したって噂だけ聞いた。式は国内じゃなく、海外のパーティー形式。その時、忙しくて行けなかった。まさか相手が慕美だとは思わなかった」澪安の視線が、わずかに鋭くなる。彰人は澪安が何を聞きたいのか察して、一気に言葉を並べた。「見た目は良いし、家柄も申し分ない。ただ、正直、二人が夫婦ってのは全然イメージ湧かなかったよ。一年も籍を入れていたなんて。調べたが――あいつ、その頃、前の恋人が遺した四歳の女の子を引き取りたかったのだ。その子の両親がいなくなったらしい。けど条件が足りなくて。で、ちょうど慕美も戸籍上の立場が必要だった。要するに――互いに必要だっただけ。恋愛らしい結婚じゃなかった。細かいところは、本人に聞くしかない。俺が掴んだのは、それだけだ」彰人はそこで言い切り、赤い液体を喉へ流し込んだ。飲み干し、グラスを置き、そのまま部屋へ戻ろうと歩き出す。数歩後、背中越しに、澪安の落ち着いた声が届いた。「ありがとう」彰人はふっと笑い、
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第830話

しばらくして、クローゼットには柔らかい息遣いと熱が満ちていた。願乃は夫の首に腕を回し、息を整えながら見上げる。鋭い顎のライン、低く落ちる喉仏、堅い肩幅――痕跡まで、全部好きだった。指先でそっと喉仏に触れると、その手はすぐ捕まれ、両手まとめて後ろに回される。次の瞬間、世界がひっくり返る。彰人はふだん穏やかで優しい。だが、こういう時の彼は、優しさよりも独占欲と本能が顔を出す。それでも一度たりとも彼女を傷つけたことはない。ただ、目線を外さず、まるで存在そのものを確かめるように――深く、奪う。堤防が崩れ、飲み込む余裕もなく、全身が波にさらわれる。――息も声も、どうしようもなく溢れて。火照りと甘い疲労だけが残った頃、部屋はようやく静けさを取り戻した。そのころ――周防本邸の別棟では、まるで反対の温度が渦巻いていた。澪安は、寝付けないまま天井を睨み、思慕の写真を何度もスワイプしながら――幸せで苦しい気持ちに押し潰されていた。その衝動に耐え切れず、とうとう電話をかけた。コール一声で、眠そうな声が返る。「澪安?」声は少し掠れていて、寝不足がそのまま滲んでいる。慕美も眠れていないようだ。彼はわざとらしく鼻で笑う。「俺だよ。悪かったな、旦那じゃなくて。落胆したか?」慕美は目を閉じたまま、淡々と数字を並べた。「……は?」澪安が眉を寄せる。慕美は面倒くさそうに息を吐き、ようやく言葉を足した。「立都市の男性科の専門医。あなたに必要な番号。更年期障害なら診てもらいなさい」ぷつん。通話終了。澪安は数秒、無表情のままスマホを眺め、顔面から怒りが込み上がり、血管が浮く。しばらく天井を見つめていたが、やがて澪安は布団を払って起き上がった。ジャージに着替え、ウォーターボトルを手にジムへ向かう。途中、願乃が彰人を駐車場まで送っているのが目に入った。寄り添って歩く姿が、朝の光の中で妙に目立つ。――目障りだ。心の声は顔に出さず、澪安は通りすがりに淡々と言った。「控えろ」願乃は振り返り、大きなあくびをひとつ。「兄さん、マカでも飲んどく?最近疲れてそうだし」その瞬間、澪安の眉がわずかに動いた。胸の奥を、妙なところで刺されたような感覚が走る。――マカ?
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