ホーム / 恋愛 / 私が去った後のクズ男の末路 / チャプター 781 - チャプター 790

私が去った後のクズ男の末路 のすべてのチャプター: チャプター 781 - チャプター 790

804 チャプター

第781話

澪安は、胸を引き裂くような泣き声を聞いた。思わず扉を開ける。次の瞬間、彼は言葉を失った。慕美の足もとには血が広がり、ズボンの片脚が真紅に染まっていた。その血がどこから流れているのか――鈍感な彼でも、すぐに理解できた。「慕美」澪安は震える声で名前を呼び、彼女に歩み寄る。抱き上げようとしたが、慕美はかすかに手を伸ばして彼を押しのけた。冷たい床に身体を丸め、両腕で自分を抱きしめる――まるで、失われた幼い命を、最後まで守ろうとするかのように。澪安の喉仏が、ごくりと上下する。それでも彼は、彼女の身体を気遣いながら、強引に抱き上げた。慕美は腕の中で必死に抵抗する。だが、女の力では男に敵わない。彼の胸に閉じ込められ、まるであの夜、雪の中で逃れられなかった時のように――慕美は、嗚咽混じりに泣き叫びながら、澪安の首筋に噛みついた。その痛みに似た哀しみの声が、静かな部屋に響く。澪安は、ただ黙って彼女を抱き締めていた。――この瞬間、彼は後悔した。あの夜、怒りに任せて扉を叩きつけ、彼女を置き去りにしたこと。もしあの時、傍にいてやれたなら……彼女はこんなにも孤独に怯えることはなかった。病にも、絶望にも、そして――あの子の喪失にも。生まれようとした命は、あまりにも小さく、二人の手のひらにも、まだその存在の重みさえ感じられなかった。やがて医師が来て、慕美に鎮静剤を打った。そのまま急ぎ救急室へ運ばれ、検査の結果、子宮内に残留があるため掻爬手術が必要だと告げられる。澪安は、かすれた声で問う。「痛い、ですか?」産科医は、皮肉めいた笑みを浮かべて言った。「もちろん痛いですよ。でも、麻酔はしますから」澪安は何も言えず、喉の奥で息を飲んだ。しばらくして慕美は手術室へ運ばれ、澪安は廊下に取り残された。わずか三十分ほどの手術。だが、彼にとっては永遠にも感じられる時間だ。手術室の前の窓辺に立ち、外を見やる。新芽をつけた一本の枝が、夜明け前の光を受けてわずかに揺れていた。――新しい命の始まり。もし、あの子が生まれていたら。きっと母親のように、可愛くて、綺麗な子だったのだろうか。もし、生まれていたなら……慕美の心も少しは癒えただろうか。そんなことばかりが、頭の中をぐるぐる
続きを読む

第782話

午後、専用機が立都市へ向けて飛び立った。夕方には、慕美を乗せた特別介護車が、私立病院へと滑り込む。澪安は、彼女の入院手続きを済ませると、そのまま栄光グループ本社へ向かい、危機対応の陣頭指揮を執った。……夜九時。慕美がようやく目を覚ました。見慣れぬ天井。部屋は以前の病室よりもずっと広く、設備も最新式だ。窓の外に見える看板の文字を見て、ここが立都市だと気づく。――彼に、連れ戻されたのだ。病室には誰もいない。ただ、壁の隅に監視カメラが光っている。ここが「特別病棟」であることを、彼女はすぐに理解した。身体の痛み。心の疲労。慕美はゆっくりと身を丸め、ベッドの隅でじっと夜の闇を見つめていた。やがて、扉が開く。医師と看護師――白衣の精鋭たちが列をなし、彼女のもとへ入ってくる。血圧、体温、心拍……すべての数値を確認し、栄養管理表を作り、専用メニューの食事を整える。看護師は優しく、医師は誠実で、すべてが完璧だ。慕美は知っている。これらすべてが、澪安の「力」によって与えられたものだと。彼女は従順だ。抵抗も拒絶もない。まるで壊れた人形のように、言われたままに薬を飲み、食事を取った。見た目には、少しずつ回復しているように見えた。けれど、心の中は空洞のまま。――本当は、何も食べられない。けれど、食べなければならないと思い込み、無理に口へ運ぶ。誰もいない時、彼女はこっそり窓辺に座り、南の空を見つめた。そこには、彼女のすべてがあった。悲しみも、痛みも、失ったものも――すべて、あの街に置いてきた。見つめるうちに、視界が滲む。そして、そっと自分の腹に手を置く。――そこに、もういない小さな命を、確かめるように。夜更け、世界が眠りにつく頃、病室の一隅で、慕美だけが静かに泣いていた。……同じ夜、澪安は会議室で深夜の会議を続けていた。重役たちを前に、鋭い声で指示を飛ばす。彼の顔には疲労の色が濃く滲み、秘書が差し出した食事にも手をつけない。智朗が資料を抱えて入ってくる。澪安は一枚一枚目を通し、指示を出し、また新たな会議を招集する。会社は緊迫していた。栄光グループの危機――誰も気を抜くことは許されなかった。三日三晩、澪安はほとんど会社に泊
続きを読む

第783話

澪安は、じっと彼女を見つめていた。実のところ、彼はもう限界だった。三日間で、眠ったのは十時間にも満たない。それでも仕事を片づけたあと、真っ先にここへ来た。その時、携帯が鳴った。智朗からだ。澪安は冷たい声で一言だけ告げた。「明朝八時まで、俺に電話するな」通話を切ると、携帯をソファに放り投げ、無言のまま、窓際へ歩いていった。胸の奥に渦巻く苛立ち。それは、どんな難題よりも手に負えないものだった。恋愛というものは理屈ではない。感情の機微――喜びや怒りや哀しみに支配され、論理では解けない迷路のようなものだ。彼は暗い夜を見つめながら、あの夜のことを何度も思い返していた。――自分は、間違っていない。そう思っていた。ただ、すべてが噛み合わなかっただけ。ほんの少しの行き違いが、決定的な溝を作った。年月を経て、澪安は何度も後悔した。もっと受け止めていれば、もっと寛容でいられたなら――けれど、いつも軽率な言葉と態度で、彼女を突き放してきた。澪安は、生まれながらの「御曹司」だ。幼いころから、誰もが彼を持ち上げてきた。欲しいものはすべて手に入り、誰かに拒まれることなどなかった。そんな彼が初めて心を向けたのが慕美だった。どんなに忙しくても、どんなに不安定でも、彼女を立都市に連れ帰り、共に暮らす道を選んだ。それなのに――彼女は、感謝するどころか、ただ別れを望んでいた。離れたい。終わらせたい。彼を恨んでいた。その言葉が、澪安の「御曹司」の自尊心を刺激した。思わず口から出た。「いいだろう。お前の望みどおり、別れよう」言い終わった瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。だが、意地がそれを飲み込ませなかった。彼は黙って彼女を見つめ、何か言い返してほしかった。せめて一言でも、引き止めてほしかった。けれど、慕美は何も言わなかった。彼女の心はもう空っぽだった。自分自身すら支えられない人間が、どうして他人を引き留められよう。静かに座っていた彼女は、やがてゆっくりと布団に潜り込んだ。泣いているのか、わからない。澪安はしばらくその場に立ち尽くし、やがてそっと近づくと、布団ごと彼女を抱き締めた。言葉はなかった。ただ、その温もりを確かめるように、静かに、強
続きを読む

第784話

どれほどの時が経っただろう。別荘の外で、控えていた使用人がそっと声をかけた。「澪安様、もうお部屋にお入りになりますか?」澪安は、はっとして現実に戻る。しばらく無言のまま彼女を見つめ、それから低い声で言った。「うどんを、一杯だけ作ってくれ」彼が車を降りると、使用人は丁寧にコートを受け取り、玄関まで共に歩いた。ハンガーに掛けようとした時、背後からまた声が飛ぶ。「もうひとつ、鶏のスープも作ってくれ。上等な肉は残っているか?」使用人は一瞬考え、ほっとしたように微笑む。「ちょうどございます!本宅の方から『澪安様が戻らないならこちらへ』と、午後に新しい食材をたくさん送ってきたところです。『しっかり滋養をつけてほしい』と」「薄味にしてくれ。俺のじゃない」「え?」使用人は思わず外を見た。車には誰もいない。しかし澪安様が何も言わない以上、余計な詮索はできない。彼女は頭を下げ、静かに厨房へ向かった。澪安はリビングへ進み、ソファに深く腰を下ろした。頭を少しもたげると、シャンデリアの光が頬を照らし、その輪郭が柔らかく浮かび上がった。だが、その彫刻のような横顔は、どこか疲れていた。彼は考えていた。――慕美のこと。そして、彼女のこれからのことを。金を渡して自由にさせるべきか。それとも、彼がすべての生活を支え、守り続けるべきか。考えれば考えるほど、答えは出ない。金を渡して去らせれば、もう二度と会えないかもしれない。だが、側に置けば、また同じ傷を繰り返すだけかもしれない。堂々巡りの思考の中、使用人が盆を持ってやってきた。「澪安様、できました」「もう出来たのか?」彼が顔を向けると、テーブルの上には湯気の立つ素うどん。使用人は微笑みながら言う。「烏骨鶏のスープは、いま圧力鍋にかけました。もう少しで――」「圧力鍋は使うな」澪安の声が鋭く響く。「あれで煮たスープは、美味くない」使用人は一瞬、ぽかんとした。けれど、その言葉に含まれた「誰かのため」という響きに気づき、心の中でそっと頷いた。――この人、本気であの女性を想っている。「早く行け」低く促され、使用人は慌てて厨房へ戻った。静まり返ったリビングで、澪安はゆっくりと食卓へ向かい、椅子に腰を下ろし
続きを読む

第785話

夜は、ますます深く沈んでいった。離れかけていた二つの心が、ようやくそっと寄り添う。澪安は、胸が締めつけられるような痛みに耐えながら、彼女の髪に顔を寄せて、囁くように言った。「もう泣くな、な?泣かないで、慕美。俺たちは、まだ若い。これからだって、きっと子どもを授かれる」その言葉は、思いつきではなかった。不意にこみ上げた衝動――いや、決意。彼の中で「子どもを持つ」という言葉は、「結婚する」という誓いと同じ意味だった。もう彼女に、曖昧な立場で子どもを背負わせたくない。誰からも祝福される家庭を作りたい。彼は、そう強く思った。――ならば、もう離すまい。この人を一生守り抜こう。胸の中の身体がぴたりと固まった。慕美は息を呑んでいた。澪安の「約束」は、彼女が最も聞くはずのなかった言葉だった。付き合っていた頃から、ずっとわかっていた。彼は結婚しない人間だ。恋はするが責任までは背負わない。それが彼だと慕美は知っていた。だからこそ、いま耳にしたその言葉に喜びではなく――戸惑いしか感じなかった。返す言葉もなく、彼女はただ黙っていた。澪安は、何も弁解せず、ただ、彼女をぎゅっと抱き締めた。まるで壊れ物を抱くように、大切で、怖くて、離したくなくて。しばらくして、彼は静かに言った。「鶏のスープを持ってきた。少しでも飲もう」慕美は、震える声で答えた。「いらない。お腹、空いてない」「でも……俺が腹減った」澪安の声はかすれていた。「一緒に食べよう。な?」「あなた、他の人と一緒だった」その言葉に、澪安は彼女の髪に顔を埋め、低く答えた。「あれは友人の娘だ。失恋して自暴自棄になってた。頼まれて、少し付き合っただけだ」それ以上、慕美は何も聞かなかった。彼女の心の中は混乱していた。好きという気持ちは、まだ確かに残っている。けれど――痛みも、怒りも失ったものもすべて現実だ。子どもを失い、喧嘩を重ね、何かが決定的に壊れた。「もう、元には戻れない」その思いが、静かに胸の奥で疼いていた。澪安は、それを理解していた。それでも、ただ黙って、彼女を腕の中に閉じ込めた。やがて彼は保温ポットからスープを出し、小さな碗に分けた。一人分ずつ。「少しだけでいい
続きを読む

第786話

夜がほのかに白み始めたころ。澪安は目を覚ました。最近、仕事が立て込んでいて眠りも浅い。まぶたを開けると、慕美が腕の中で静かに眠っていた。思わずその身体を抱き寄せ、頬を彼女の頬にそっと寄せる。胸の奥が、言葉にならないほど満たされる。まだ痛みは残っている。けれど、不思議と未来に光が差しているように思えた。ふたりがそのまま寄り添っていると、病室の扉がそっと開いた。入ってきたのは舞だった。外では京介が立っている。――男の京介が入るのははばかられたのだろう。傍らでは智朗が気まずそうに大きな目をしばたたかせており、その様子に京介は苦笑する。病室の中。舞はベッドに並ぶ若い二人を見つめた。すぐに気づく。あの男は自分の息子、澪安。もう一人は慕美。幼いころ「お母さんと呼びたい」と懐いてきた少女だ。何年も会っていなかったが顔立ちはあの頃のまま。あのとき慕人が亡くなり、慕美は叔母に引き取られた。叔母にとても大事にされていたはずなのに、なぜ澪安と一緒にいるのか。しかも、心を病み、子どもまで流してしまったと聞く。胸の奥が痛み、舞は思わず二人を叩き起こしたい衝動に駆られたが――ぐっとこらえ、静かにその場を離れた。廊下に出て、夫の京介に向かって言う。「結婚の準備をしましょう」「こんなに早く?」京介は目を丸くする。舞はため息まじりに言った。「早いどころか、もう遅いわ。子どもまで……できていたんだから」「まあ、そうだな」京介も頷く。子どもができた以上、結婚しないという選択肢はない。二人は病室の外に腰を下ろして待った。智朗は帰るに帰れず、壁にもたれながら何度もあくびをする。ついに京介が面倒くさそうに一瞥をくれて言った。「お前はもう帰れ。あとで澪安と話す。いると話しづらい」「は、はい!」救われたように智朗は小走りで去っていった。残されたのは夫婦ふたり。京介は舞の肩を抱き、冗談めかして言う。「澪安、なかなか手が早いな。昔の俺にそっくりだ」舞は苦笑もできなかった。胸の奥がずっと痛んでいた。ひとつの命が失われたという事実。しかも、その相手は自分が幼いころから見守ってきた少女。「あなたは気楽でいいわね」声が震える。彼女は母として、女として知って
続きを読む

第787話

舞は慕美を抱きしめたまま、胸が張り裂けそうだった。彼女たちは血のつながりこそないが、心はまるで親子のように深く結ばれていた。……舞に引き取られてから、慕美はもう「母のいない子」ではなくなった。孤独でも、頼る人のいない子でもない。彼女はみるみる元気を取り戻した。頬に肉が戻り、目の光も生き生きとしてきた。笑顔が増えるたびに、澪安は母に感謝した。慕美があの日の暗闇から、ようやく抜け出してくれたのだと。だが、退院の日が近づいても、澪安は彼女を周防本邸に住まわせようとはしなかった。「ふたりで暮らしたい」と言い張り、自分の別荘へ連れて行くことにしたのだ。ちょうど舞は願乃の結婚準備で忙しく、深くは止めなかった。三月の終わり。慕美は退院し、澪安の別荘に移り住んだ。二人の関係は、以前のような緊張やすれ違いは薄れ、少しずつ修復されていた。慕美ももう、泣きながら部屋に閉じこもることはなかった。家では料理を習っていたが、味も形もまだ不格好。それでも、澪安が帰宅するたびに、彼が見るのは彼女の明るい笑顔だった。――それだけで十分だ。そう思う。彼女はようやく前へ進めたのだ。夜、彼らは同じベッドで眠る。慕美は流産のあとで、しばらくは身体を大事にしなければならなかった。若い澪安には、それは酷なことだった。抑えきれない夜もあった。それでも、彼は彼女を抱きしめ、唇を重ねるだけで済ませる。そして最後は冷たいシャワーで頭を冷やすのだった。二日後は、願乃と彰人の結婚式。その前夜、友人の宴司から電話が入った。「彰人のやつに最後の独身夜をくれてやろうぜ。送別会だ」澪安はソファに腰をかけ、スマホを耳に当てたまま、庭に目をやる。ガラス越しに見える慕美は、薄い翠のワンピース姿。長い黒髪を背に流し、花に水をやっている。陽の光を浴びて輝く白い肌――彼女は、まるで春そのもののように美しかった。澪安の口元に自然と笑みが浮かぶ。「お前、彰人とそんなに親しかったか?どうせメディアグループの仕事を取りにいく魂胆だろ」電話の向こうで宴司が笑う。今、舞は完全に手を引き、メディアグループの運営は彰人がほぼ仕切っている。株の半分は願乃が持っている。つまり彰人は、才腕ある「妻の部下」だ。電話の
続きを読む

第788話

宴司の胸の内には、わずかな思惑が渦巻いていた。だがそれを口にすることはなかった。――言葉にしてしまえば、軽くなる。この世界では、黙っているほうが利口だ。そんな折、彰人が姿を現した。明日の主役、つまり新郎である。ビジネスの世界でも彼は常に清廉で、スキャンダル一つない男だった。そして、こうした華やかな会所にはめったに顔を出さない。そのせいか、宴司は澪安を放り出し、今度は小蝿のように彰人の後をつけ回す。澪安と翔雅は視線を交わし、苦笑を浮かべた。――まったく、宴司はどこにでも顔を出す。だがそれも、生き延びるための術だった。本庄家はかつて一代で財を成したが、後継ぎに恵まれず、この時代に残っているのは宴司ひとり。彼が社交の才で一族を支え続けているのだ。誰にでも愛想よく、貸しも作るが、取り分はきっちり分ける。だからこそ、敵も味方も彼を侮れない。今回も同じ。宴司は彰人に取り入り、彰人はそれを承知で、半歩だけ譲った。ほんの一言の了承でも、宴司にとっては十分だ。すぐに満面の笑みを浮かべ、「彰人さん!」と呼ぶ声が響く。「おいおい、彰人はお前より年下だろう」澪安がソファにもたれ、薄く笑う。「兄貴分みたいなもんだろ。あの地位だ、敬意を込めて『彰人さん』だよ」宴司の厚かましい返しに、場の空気が和らいだ。澪安はマグカップを手に取りかけたが、「そういえば車で来たんだったな」と思い直し、テーブルに戻した。だがやがて、誰かが注いだ高級ワインの香りが漂い、彼もつい、小さくグラスを傾けた。煌びやかな個室。紅いワイン、笑う女、響く笑い声――それはかつての彼の日常だった。だが今は、どこか空虚に感じる。――早く帰って、慕美を抱きしめて眠りたい。その思いが胸をよぎり、澪安は席を立った。「ちょっとトイレ」洗面所で手を洗っていると、扉が開き、翔雅が入ってきた。壁に寄りかかり、じっとこちらを見つめる視線がいやに鋭い。「その目、やめろ。気味が悪い」「はは、人工呼吸の件でも思い出したか?」「くだらねぇ」手を拭き終えると、澪安は翔雅の方へ歩み寄った。翔雅が煙草を一本差し出した。二人の男は無言のまま、並んで煙をくゆらせた。しばらくして、澪安が横目でちらりと見ながら言
続きを読む

第789話

澪安は庭を歩いていた。夜の帳が下り、庭の木々には月光が薄い銀の衣をまとっている。冷たい光。けれど、別荘の窓からこぼれる灯は橙に近い。その対比が、どこか人の心のように見えた。玄関まで来ると、使用人が慌てて出迎えた。「澪安様、お車は……?」「外に置いてきた」短く答え、澪安はコートを脱ぐ。それ以上の詮索は許されない雰囲気だ。「お夜食をお作りしましょうか?」少し考えてから、澪安は言う。「味噌汁を二人分。それと、おにぎりを少し。二階のリビングへ運んでくれ」その言葉で、使用人はすべてを悟った。――澪安様は今夜、浮気などしていない。むしろ恋人を想って帰ってきたのだ。慕美。彼女はまるで薔薇の花のように美しい。幼いころは良家の娘として何不自由なく育ち、澪安とは旧知の仲。この冬の終わりには、ついに結婚すると聞いている。使用人は微笑んで厨房へ向かい、澪安は静かに階段を上がった。主寝室のドアを開け、薄暗いリビングを抜けて奥の部屋へ。月光が床を淡く照らし、ベッドの上で眠る慕美の姿を包んでいた。白い真珠のような肌。透きとおる肩。それを見ているだけで、胸の奥がじんと熱くなる。彼はベッドの縁に腰を下ろし、指先で彼女の頬に触れた。温かい。その温度が、静かに彼の心を溶かしていく。――これは恋とは違う。もっと穏やかで、確かなもの。慕美が目を覚ました。暗がりの中でも、彼女の視線はまっすぐに彼を見上げた。澪安の顔立ちはどの角度から見ても欠点がなく、まるで現実から切り離された彫刻のようだ。慕美はそっと手を伸ばし、その頬に触れる。かすかに笑みを含んだ声でささやいた。「こんなに早く帰ってきたの?」「時間も見てないのに、どうして早いって分かる?」慕美はふわりと笑みを浮かべ、頬を彼の腕に寄せた。そっと目を閉じて、囁くように言う。「だって、月がまだ木の枝に引っかかってるもの」澪安は思わず笑った。言葉の美しさに、胸の奥が少し温かくなる。――外の世界はもう、どうでもいい。彼はそう思った。今夜、あの車の中で見た若い女にも、心は動かなかった。だが次の瞬間、慕美の鼻先にふと香りが漂った。淡い花の匂い。若い女の香水だとすぐに分かった。胸の奥が
続きを読む

第790話

「その方を中に通して」慕美は静かに言った。使用人は少し顔を曇らせた。「お会いにならなくてもよろしいかと……外のことは、澪安様ご自身で処理されるべきです」慕美は淡く笑う。「でも、明らかに処理できていないみたいね」使用人は言葉を失い、頭を下げて玄関へ向かった。残された慕美は、テーブルの上のミルクを見つめる。――もう、喉を通らない。彼女は知っていた。澪安には、過去にいくつもの浮名があった。彼のような男が「永遠に一人を愛す」などと、本気で信じたことはない。だからこそ、結婚に対しても心の奥では半信半疑だ。――続く限り続けばいい。そう思っていた。けれど、まだ結婚もしていないのに、もう借りがやってくるとは。苦笑すら浮かばない。やがて、玄関からヒールの音が近づいてきた。軽やかだが、挑むような足取り。入ってきたのは、若い女だ。完璧に整えられた髪、薄く艶めく唇。そのどれもが、「準備してきた」証だ。対して慕美は、パジャマ姿。白地に子牛の模様が入ったフード付きの上下。華やかさのかけらもない。だが、若い女――柚梨は一瞬で息を呑んだ。飾り気のないその女性は、あまりにも整った顔立ちをしていた。派手さではなく、透明な美しさ。絶世の美女って、こういう人のことを言うのかもしれないと思い直す。――やっぱり、澪安様は素朴な人が好きなんだ。彼女は心の中でそうつぶやいた。慕美は彼女に席を勧めず、ただ尋ねた。「ご用件は?」柚梨は一歩前へ出て、微笑んだ。「私、藤咲柚梨と申します。澪安様はこの名前が好きだとおっしゃってました。澪安様の従妹の方にも、梨の字があるそうですね?」慕美は黙って彼女を見つめ、それから隣の使用人へ視線を移した。使用人は何も言わず、彼女のために卵をむいていた。殻を剥き、半分に切り、皿にそっと置く。慕美はその一切れを口に運び、穏やかに言った。「あなたが言っているのは岸本夕梨のことね。『風が通る路地に、どこにも夕梨が咲く』――そこから取った名よ。あなたの名前は、後から変えたんじゃない?澪安に近づくために」その瞬間、柚梨の顔が引きつった。恥と怒りが入り混じる。「私は、昨夜澪安様の車に忘れ物をして。バッグを取りに来ただけです!」慕
続きを読む
前へ
1
...
767778798081
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status