慕美は唇を噛んだ。「わたし、仕事があるから」拒絶ではない。ただ――行くとだけ。澪安はその微妙な温度をすぐに聞き分けた。彼は薄く笑った。それ以上、追及はしない。店内のテーブルには四人。語らいながら座っていると、外のガラス越しに雨音が降りてきた。雨粒がゆっくり窓を伝い落ち、まるで恋人の涙のようだった。願乃はまだ年相応の遊び心を残していて、慕美の手を引き、窓辺へ連れていく。外の小さな池では数匹の錦鯉が楽しげに泳いでいた。願乃が囁く。「ね、これすごく高い種類なんだって。一匹二百万円くらいらしいよ。ここのオーナー、思い切りいいよね」「二百万円……」慕美はガラスに頰を寄せ、小さくため息を落とす。その横顔は驚くほど愛らしかった。三十を越えた年齢とは思えない。願乃より六つも七つも年上のはずなのに――華奢な体、黒く大きな瞳、肩に触れる黒髪。どこか幼く見える儚さがあった。離れた席では、彰人が手つかずのデザートを前に座っていた。彼は澪安へ苦笑まじりに視線を向ける。「お兄さんが女の子のために仕事放り出して、こんなに付きっきりなの、初めて見たよ」澪安は隠すこともせず、淡々と言った。「喧嘩中だ。今、追ってる最中」彰人の目がわずかに丸くなる。そして数秒後、静かに笑った。「なら、頑張らないとな」彼は五年以上、ビジネスの世界で澪安を見てきた。遊び人だった時期も知っている。追うなんてことはなかった。むしろ、相手が列を成し、澪安の機嫌を伺うのが常だった。一度別れを告げられたら最後、戻ろうなんて考えるほうが愚か。芸能人ですらそのルールに飲まれた。二流女優が駆け引きしようとして、翌日には元カノの欄に移動した。そのあと誰も澪安に駆け引きを試さなくなった。なぜなら、彼は体だけ求めて、心は決して渡さない男だったから。だが今回だけは違う。あまりにも違う。それはただ遊ばれる女ではなく、大事に抱きしめ、手のひらに乗せ、機嫌を伺い、それでも――振り向いてもらえない相手。彰人はふと気づく。――あぁ。きっと昔の「手の届かなかった女」なんだろう。……慕美はまだ鯉を見つめていた。空気が静かに落ち着く。ふと振り向くと、澪安がすぐそばにしゃがんでいた。
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