All Chapters of 碓氷先生、奥様はもう戻らないと: Chapter 1031 - Chapter 1040

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第1031話

夜、二人は屋台が並ぶ街へとくり出した。ちょうど音楽フェスが開催されていることもあって、とても賑わっていた。音々は冷たいビールが飲みたかったが、輝はそれを許さなかった。「生理中は冷たいものはダメだ。ましてや酒なんて、もってのほかだろ?あなたときたら、両方ともやろうとしてるのか?」輝は眉をひそめて音々をたしなめた。「昨日の生理痛、そんなに早く忘れたのか?」音々は釈明した。「でも、私は今まで、何も気にせず食べてきたのよ」「なら、今から気にしろ」輝は音々の手を引いて、近くの屋台へと連れて行った。「他のものを食べよう」音々は仕方なく思ったが、輝が自分のことを思ってくれていることも分かっていたので、それ以上は何も言わなかった。二人は色んな屋台で食べ物を買い、音々はたくさん食べていた。輝は、祖父の影響で、昔から食事や睡眠には気を遣っていた。だけど、音々は違った。どんな劣悪な環境も経験してきた彼女は、胃腸が丈夫で、どんなものでも気にせず受け入れられた。それに比べて、輝が何年も前に北城に来たばかりの頃、慣れない食事で、急性胃腸炎になってしまったこともあって、その時は結局綾に病院に連れて行ってもらったのだ。あれから、彼は食事に特に気を付けるようになった。だから、音々がイカ焼きを彼の口元に差し出した時、輝は背筋が凍った。「あなたが食べなよ。私はいいや」「もったいないな」音々は無理強いしなかった。「本当においしいのよ。グルメブロガーのおすすめで、すごく本格的な味なの!」そう言いながら、彼女はまた一口食べた。真っ赤な唇にイカ焼きのタレがついて、街灯の下で艶やかに光っていた。それを見た輝の目線が一瞬深まり、喉仏動いた。「まあ、一口くらいなら......」音々はそれを聞いて、もう一度イカ焼きを差し出した。「ほら、一口食べてみて。きっと気に入るよ......」だが突然、彼女は後頭部を押され、反応する間もなく彼のハンサムな顔が近づいてきては、唇を奪われた。驚いた音々は目を見開き、心臓が激しく鼓動し始めた。周囲を行き交う人々の中、二人は街灯の下で人目をはばからずにキスをしていた。スタイル抜群の二人は、とても目立っていた。通行人は皆、振り返ると微笑みながら二人を見ていた。I市の夏はロマンチックで、こんな甘い光景は珍しくない。
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第1032話

実は、この質問を口にした時、音々は少し不安だった。輝が最初に自分のアプローチを断ったのも、自分の身の上の事情が原因だったからだ。だから、質問を口にした後、音々は少し後悔し始めた。衝動的に行動してしまったことを後悔した。彼と正式に付き合う前に、これらのリスクについて話しておくべきだった。もし、ここまできて、輝が後を引いたら......「怖くない」だが輝のその一言に音々はハッとして、彼を見つめた。聞き間違えではないかと、確かめるように聞き返した。「今の、どういう意味?」「あなたを選んだからには将来一緒に人生を歩む覚悟があるってことだ。音々、私は以前、葛藤し、抵抗もした。でも、だからこそ、今、あなたと一緒にいるのは、熟慮した上での決断なんだ」彼は音々を見つめ、深い色をした瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。音々の鼻の奥がツンときた。たった2日間で、自分がこんなにも感情的になってしまうなんて、音々はとても不思議に思えた。そして彼女は微笑んで、目に浮かぶ涙を見られたくなくって、輝の視線を避けるように、目を逸らした。そんな時、輝は音々の手を握り、指を絡ませた。音々が振り返ると、輝の熱く真剣な眼差しと不意に見つめ合った。「音々、私はあなたの身の上の事情で引いたりしないから、心配するな。危険がどうこうよりも、あなたが何も言わずに一人で抱え込んでしまうことの方が私は怖いんだ。だから頼ってほしいんだ。少し伝統的な考えかもしれないが、私は二人が一緒になったからには、どんな困難だって一緒に乗り越えて行かなければいけないものだと思ってるんだ。私の気持ち、分かってくれるか?」それを聞いて、音々の心には温かいものが流れ込んだ。輝の期待のこもった視線を受け、音々は力強く頷いた。「わかるよ。私のために考えてくれてる気持ちは。でも私、組織を抜けて何年も経つし、ずっと静かに暮らしてきたから、敵に復讐されることも今まで一度もなかったの」「あなたがそう言ってくれるなら、私は信じるよ。だけど、たとえ何かあっても、私は決して逃げたりしないってことを分かっていてほしい」そう言って輝は音々の手を引いて歩き出した。「あそこで何かイベントをやってるみたいだ。行ってみよう」音々は微笑んで、「うん」と答えた。......付き合い始めたばかりの恋
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第1033話

それに、心の準備だけじゃ足りない。もっと確実な方法が必要だ。そして、あっという間に休みは終わりを迎えた。なにせ輝には仕事があったから、2週間の休暇はもう彼にとって限界なのだ。音々はそれを理解し、6月初めに二人は一緒に北城へ帰るチケットを取った。......その日、北城国際空港。午後3時、輝と音々は空港から出てきた。綾は運転手を迎えに送っていた。輝は運転手に雲水舎へ直行するよう言った。雲水舎へ帰るという言葉を聞いて、音々は少し驚いた。「いつも梨野川の別荘に滞在してるんじゃないの?」「それは前までだ」輝は運転席をチラッと見て、音々の耳元で小声で言った。「綾の家に人が多すぎるんだ。いろいろ気を使わないといけなくなるだろ」それを聞いて音々は唖然とした。彼女はすぐに彼の意味を理解し、輝の脇腹を肘で小突いた。少し力を込めたが、急所は避けた。輝は歯を食いしばって言った。「おい、これでもあなたの彼氏じゃないのか?痛みつけて、ダメになったらどうするんだ!」「別に構わないよ」音々は眉を上げ、わざと彼を挑発した。「男なんて他にいくらでも代わりはいるもの」輝はこういうのが一番聞き捨てならなかった。「わざと言ってるのか?昨夜は満足させられなかったか?私より他にあなたを満足させられるやつなんているのかよ?」音々は顔を覆い、片手でこっそり運転席との仕切りのボタンを押した。すると、仕切りがゆっくりと上がった。彼女はため息をつき、小声で注意した。「......場所をわきまえて話して」「嫌だ!」輝は腹を立て、音々を腕の中に引き寄せ、長いキスをした。そして最後に、いたずらっぽく音々の下唇を噛んだ。音々は痛みで息を呑み、彼の胸を叩いた。「輝!本当に犬みたい!」たったの2週間で、何度唇を噛まれたことか。最初は彼もキスに慣れていなかったからだろうと思って我慢していたけれど、今思えば、彼は慣れてからもわざと噛みついてくるのだ。口喧嘩で負けると、いつもこうやって仕返しをしようとするのだ。「ふん、犬ぽくって何が悪い!」輝は威張って宣言した。「次に他の男の話をしたら、また噛みつくからな!」「子供っぽいんだから!」「子供っぽくてもあなたの彼氏だ」輝は彼女をぎゅっと抱きしめた。「私以外の男に目を向けるのは許せないから」
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第1034話

「輝、本気なの?」輝は音々のすらりと美しい首筋にキスをしながら言った。「本気だよ」音々は黙り込んだ。確か輝との関係は落ち着いたけど、でもちゃんと付き合い始めてまだ2週間ちょっと。今、子供を考えるのは......少し早い気がするのだ。だけど、男の人って夢中になると、つい舞い上がって愛し合う時に大胆なことを言っちゃうものだし......そう思いながらも音々は彼の思いに水を差したくなかったので、優しく言った。「子供はもう少し後で考えよう。今は、お願いだから、起き上がって」輝は顔を上げて言った。「つまり、承諾してくれたってこと?それじゃ、約束だからな、後から覆すなよ!」音々は苦笑しながら言った。「約束は守るけど、子供を作るのは大変なことだし、ちゃんと計画を立てないと」「妊活か?」輝は笑った。「心配するな。私はタバコも吸わないし、酒もほとんど飲まない。健康そのものだし、遺伝病の心配もない。音々、私の遺伝子には何の問題もないから大丈夫だ」輝の言葉を聞いて、音々は子供を作るというのが、実はそんなに単純なことではないんだと、改めて気づいた。輝の方は問題ないとして、問題は自分の方......音々は孤児だった。輝と出会うまでは、結婚したいと思ったこともなければ、子供を欲しいと思ったこともなかった。しかし今、輝の「娘が欲しい」という言葉がきっかけで、思わず自分と輝の間にはどんな子が生まれるんだろうと考えるようになった。だけど、自分は孤児。もしかしたら、自分も知らない遺伝的な問題があるかもしれない。「音々?」音々は我に返り、輝と視線を合わせた。「何を考えているんだ?」輝は音々の唇にキスをした。「そんなに真剣な顔をして」「ええと、もし子供を作るなら、ちゃんと健康診断を受けた方がいいんじゃないかと思って」輝は眉をひそめた。「どうして?」「私は孤児だから」輝は一瞬驚いたが、すぐに言った。「孤児でも、私は気にしない」「気にしないのは分かってる。でも、孤児だから、もしかしたら何か遺伝的な問題があるかもしれないと思って。だったらやっぱりちゃんと検査を受けた方がいいのかもしれない。子供のためにも」なるほど、そういうことか。「確かにそうだ」輝は音々の鼻先に触れた。「さすがあなただね。よく気がつく。じゃあ、子作りはも
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第1035話

スマホのロックを解除すると、いくつかの不在着信に気づいた。すべて雄太からのものだった。輝は部屋を出てドアを閉め、階段を下りながら雄太に電話をかけた。雄太はすぐに電話に出た。開口一番、詰問するように言った。「この2週間、どこに行っていたんだ?」輝はソファに座り込み、足を組んで背もたれに深く沈み込みながら、気だるげに答えた。「休暇で旅行に行ってたんだ」「北城で仕事をすると言っていたではないか?」雄太は少し間を置いてから、再び尋ねた。「もしかして、詩乃と一緒に旅行にでも行ったのか?」「おじいさん、彼女とは数回会った程度だよ。一緒に旅行に行くほどの間柄じゃない」「では、誰と行ったんだ?」輝は心の中で考えを巡らせてみたが、今すべてを打ち明けるにはまだ時期尚早だと感じた。そう思いつつ彼は答えた。「一人で行ってきたんだ」「一人でI市に2週間も旅行に行っていたと?」雄太は鼻を鳴らした。「俺をおちょくってるのか?正直に言え、輝。隠れて誰かと付き合っているんじゃないのか?」それを言われ、輝は何も言えなかった。雄太は輝を育てただけに、この子が恋をしていると確信していた。「なんだ、付き合っているなら付き合っているとはっきり言え。なぜ俺に隠すんだ?」雄太の声には焦りが混じっていた。「今まであんなにたくさんの女性を紹介したのに、誰も気に入らなかった。詩乃のように優秀で釣り合いの取れた女性でさえ気に入らなかったのは、既に相手がいたからか?」輝は答えた。「......そういうわけでもないんだ。彼女と知り合ってからはしばらく経つけど、今まではそういう気持ちはなかった。私は以前、かなりひどい男だったから、自分の気持ちに気づかなかったんだ。だから、お互いに時間を無駄にしてしまった。でも、やっと自分の気持ちに気づいて、彼女ときちんと付き合おうと決めたんだ」「そんなことを言うということは、その子を大切に思っているということだな」雄太は小さくため息をついた。「お前に相手を紹介したのは、もうすぐ30歳になるのに焦っていないように見えたからだ。だが、自分で良い相手を見つけたのなら、もうお見合いを強いるのはよそう」「おじいさん、私は彼女が好きなんだ」輝は力強く言った。「一生、彼女を愛していきたいと思っている。だから、応援してほしいんだ」「何を言って
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第1036話

輝が警察署に着いた時、詩乃はちょうど供述調書を取り終えたところで、俯き加減に座っていた。「詩乃さん」声を聞き、詩乃は顔を上げ、輝の姿を見つけると、すぐに立ち上がった。「岡崎さん、来てくれたのね!」「落ち着いて。弁護士を連れてきた」輝がそう言うと、書類鞄を持った清彦が慌てて入ってきた。彼は輝の電話を受け、すぐに駆けつけたのだ。詩乃は道路を横断していた老婦人を轢いてしまった。というか、正確には轢いてはいない。詩乃は急ブレーキをかけたのだが、老婦人は驚き、よろめいてボンネットに倒れ込み、そのまま地面に転倒し、気を失ってしまったのだ。ドライブレコーダーと監視カメラには、その一部始終が鮮明に記録されていた。しかし、老婦人は高齢で、今も病院で手術を受けている。知らせを聞いて駆けつけた老婦人の親族が、激しく騒ぎ立てていた。この場合、法律に従えば、詩乃は刑事責任を負う必要はない。しかし、人道的な見地から、ある程度の賠償金は支払わなければならないだろう。詩乃は金に困ってはいない。しかし、老婦人の家族はゴネて、彼女が乗っていた高級車やブランド物の服を見て、法外な金額を要求してきたのだ。「彼らは私の写真や動画も撮っていたわ」詩乃は輝を見つめ、目に涙を浮かべていた。詩乃は本当に怖かった。裕福な家庭で育った彼女にとって、こんな経験は初めてだった。しかも、北城は詩乃にとって全く知らない土地だった。兄の浩平は数日前、Z市に映画の撮影に行ってしまった。今、北城で頼れるのは輝しかいなかった。輝は清彦にこの件を全て任せると、詩乃を連れて警察署を後にした。二人は彼女の車のそばまで歩いていき立ち止まった。詩乃は事故直後で、動揺していたため、とても運転できる状態ではなかった。輝は彼女に尋ねた。「どこに泊まっているんだ?代行を呼んで、届けてもらおうか?」詩乃は彼を見て、「ホテルに泊まっているの」と答えた。「どのホテルだ?」「ケイティホテル​」「わかった。代行を呼んでやる」輝はスマホでアプリを開いた......この時、もう既に夜の9時を過ぎていた。輝は音々のことが気になっていた。彼女はまだ眠っているだろうか?彼は警察署に着いて、すぐに事が解決できないと分かると、音々にラインを送った。用事で外に出ていること、起きたら電
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第1037話

やっとの思いで勇気を出して、積極的にアプローチしようと決めたのに、なぜこんなことになってしまったの?やっと理想の男性に出会えたと思ったのに、結局このまま逃してしまうのだろうか?そう思いを巡らせて、詩乃はバッグを強く握りしめた。「岡崎さん、私の家族が私たちの関係を結婚前提のお付き合いだと誤解してるの」詩乃は輝を見つめた。「私もお互いに好意があるものだと思ってたけど......勘違いだったみたいだね」「申し訳ない。私の配慮が足りなかった」輝は真剣な口調で言った。「既に祖父には話してある。あなたの家族にも、もし必要であれば、私が直接説明と謝罪に伺うつもりだ」詩乃は首を横に振り、唇を引きつらせながら笑った。「大丈夫。家族には自分で説明するよ。あなたは悪くない。私たちはただお見合いで何度かお会いしただけで、私が勝手に期待してしまったから」それを聞いて輝は鼻をこすった。どう言い訳しても、今回の件は自分に落ち度があるのだ。自分は音々への想いを振り払おうと、無理に詩乃と会っていたんだ。詩乃とは食事を数回共にしただけだが、結婚を前提とした交際だというのは互いが了承していたことだった。なのに、急に彼女ができたとなれば、相手からすれば、自分は約束を破ったことになるだろう。「とにかく、今回の件は私に非ある。改めて謝らせてもらうよ」詩乃は輝を見ながら、まだ諦めきれないでいた。輝が自分を諦めてまで選んだ女性は、どんな人なんだろう?その時、詩乃はあの夜、バーで出会った女性のことを思い出した。瑠依は帰る道中、ずっとあの女性の事を褒めていたっけ。格闘技もできて、雰囲気も凛としていて、まさにアクション女優にぴったりだって言ってたよな。詩乃は深く息を吸い込んで、彼に尋ねた。「岡崎さん、あなたの相手はあの夜、バーで会った女性なの?」「そうだ」輝は、ここまで話したのだから、音々との関係を隠す必要はないと思った。「彼女は中島音々。もう一年以上前から知り合いで、個人的な理由で、ずっと彼女への想いを抑えていたんだ。最近になって、やっと自分の気持ちに気づくようになったんだ」確かに、詩乃は音々に初めて会った時、その美しさに心を奪われた。音々はアジア系の顔立ちでありながら、清楚さと凛とする意志の強さを感じさせいた。まるで古き良き時代から抜け出したよ
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第1038話

輝はクスっと笑って言った。「ここは長いこと誰も住んでいないから、冷蔵庫に食べ物なんてないよ」音々が振り返ると、輝が両手に大きな買い物袋を2つ提げているのが見えた。「お腹ペコペコ!何買ってきてくれたの?すぐに食べられるものある?今ならなんでも平らげられそう!」輝は袋をキッチンカウンターに置き、ロールケーキの箱を取り出した。「これをとりあえず食べて。今、作ってあげるから」「ありがとう、もう本当お腹がすいて死にそう」音々はロールケーキを受け取ると、箱を開けて一つ手に取り、半分を一口で食べた。その食べっぷりは豪快ながらも品がよく、見ているだけで食欲をそそられるのだ。すると、輝が近づいていき、「一口ちょうだい」と言った。音々は残りの半分を彼の口に差し出した。輝も腹を空かせていたので、ロールケーキを半分食べると、ほっと一息ついた。音々は彼が手際よく食材を扱っているのを見ながら、「あなたもまだ夕飯食べてないの?」と尋ねた。「ああ、用事を済ませてすぐに戻ってきた」「そう」音々は輝が何の用事をしていたのか、それ以上聞かなかった。恋人同士とはいえ、生活環境も職業も全く違うから、それぞれに自分の世界があるはずだ。それに音々は恋人関係ならそれくらいの信頼感はあるものだし、いちいち行動を報告したり、説明したりする必要はないと思っていた。しかし、彼女が何も聞かないので、輝は逆に面白くなかった。彼は野菜を洗いながら振り返って、「どこに行ってたか聞かないの?」と言った。音々は3つ目のロールケーキを飲み込み、満腹感に満たされて満足そうに笑った。「別に。ちゃんと帰ってきてくれたし、食べ物も買ってきてくれたからそれでいい」輝は言葉に詰まった。そんな音々は単に朗らかなのか、それとも、付き合って間もない自分のことなど、どうでもいいと思っているのか輝には読み取れなかった。そう思うと彼は複雑な気持ちになった。彼女に聞かれたら、正直に話すと気にされるかもしれないと悩むし、でも、聞かれなければ、それはそれでモヤモヤするのだ。音々は少しお腹が満たされ、体力が回復してきた。ロールケーキを置いて手を叩きながら、「何か手伝うことある?」と尋ねた。「いや、うどんを茹でるだけだからすぐできる。リビングで待ってて」「これでも数々の修羅場を駆け
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第1039話

そんな日々は、娘が10歳になるあの夏まで続いた。あの日、芽沙は工場での夜勤中、真夜中に自宅が火事になった。義理の両親たちは皆逃げ出したというのに、10歳の娘のことを誰も思い出さなかったのだ。知らせを受けて帰宅した芽沙を待っていたのは、黒焦げになった娘の遺体だけだった。彼女は泣き叫び、気を失ってしまった。病院で目を覚ますと、義理の両親たちは既に芽沙の娘の葬儀を済ませていた。芽沙の母親は、悲しみを堪えながら彼女に、まずは体を治して、それからまた子供を望めばいいと言った。そうすれば、義理の両親たちもきっと態度を改めてくれるはずだからと彼女の母親は説得していた。そう言われた芽沙は人生で初めて母親に怒鳴った。そして、母親はブツブツ文句を言いながら帰って行った。芽沙は病院から義理の両親たちの家に戻り、説明を求めた。しかし、彼らは彼女を疫病神呼ばわりし、追い払った。周囲の人々もただ見ているだけで、誰も芽沙の味方をする者はいなかった。芽沙は村や町で訴えたが、無駄だった。それどころか、騒ぎを起こしたことで警察に捕まり、拘留されてしまった。その地域では、そうやって家族の歯向かうこと自体が許されなかったのだ。彼女は以前は我慢していた。しかし、娘の死で完全に愛想が尽きたのだ。もう我慢して、型式に嵌められるのはごめんだと芽沙は思った。実家の親族も最初は芽沙を説得し、我慢するように言った。これ以上騒ぎを起こせば、家族も恥さらしになると言って。しかし、芽沙は妥協しなかった。それで、実家の親族からも非難されるようになった。それでも芽沙は頑なに態度を変えなかったために、ついには勘当されてしまった。さらにそれからの1ヶ月後、芽沙は子宮がんを患っていることが分かった。その時、彼女は自分の人生はまるで出口のない奈落だと思った。そして、かつて娘がZ市に行きたいと言っていたことを思い出した。あの時娘は教科書に載っている雪山がどれほど美しいのか、見てみたいと言っていた。そこで、芽沙は娘の遺骨と、少ない貯金を持ってZ市へ向かった。Z市が、惨めな人生の終着点になると思っていた。しかし、そこで若い女性アーティストと出会ったのだ。二人は旅の途中で互いに助け合い、その女性アーティストは芽沙に絵や歌、踊りを教えた。Z市では、互いの過去を詮索されることはなかった。まるで、過去のいざこざから抜け
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第1040話

一方で、北城だ。午前9時、輝と音々はアトリエに到着した。輝には修復しなければならない骨董品があった。史也が人に頼んで送ってきたもので、かなり急ぎの仕事だった。そのため、輝は数日間、忙しくなる予定だった。音々は特にすることもなかったので、綾が開いている絵画教室を見に行くことにした。偶然にも、綾も今日は絵画教室にいた。音々を見て、綾は驚きながらも、温かく自分の個人オフェスへと案内した。「何か飲む?」「何でもいいですよ」音々は部屋を見渡した。壁には絵画教室の生徒たちが描いた絵とともに、綾が描いた絵も飾られていた。音々は絵のことはよく分からなかったが、飾られている絵はどれもレベルが高いと感じた。綾は秘書にハーブティーとケーキをいくつか、運ばせた。そして、「音々、こっちに座って」と彼女に声をかけた。「ええ」音々はソファまで歩いて行き、腰を下ろすと、綾はハーブティーを彼女の前に置いた。「飲んでみて。このハーブティーは仁さんが自分で調合したもので、美容にいいのよ」音々はカップを手に取り、香りを嗅いだ。「いい香りですね」そして一口飲んで、頷いた。「美味しいですね」綾は微笑みながら言った。「たくさんストックがあるから、帰る時に少し持って帰って」「大丈夫です」音々はカップを置いて、笑った。「私、そんなに美容にこだわって生活してないんですよ。一人だとだいたい出前を頼んじゃいますから」「でも今は輝がいるじゃない?」綾はからかった。「輝は、小さい頃から彼のおじいさんに躾けられてきたから、若いのに生活にこだわりがあるのよ。持って帰って、飲みたい時に淹れてもらえばいいじゃない」その言葉を聞いて、音々はここ2週間の輝の生活習慣を思い出した。確かに、自分と比べると、輝はかなり几帳面だった。たまにその毒舌ぷりと几帳面な生活習慣が、なんだかちぐはぐに思えた時もあった。今、綾の言われてようやく、それは彼の祖父の影響だと分かった。「ケーキも食べて」綾はケーキを彼女の前に出した。音々は甘いものがそれほど好きではなかったが、綾の厚意を蔑ろにするのも悪いと思い、スプーンで少し食べた。綾は尋ねた。「輝は階下にいるの?」「ええ、数日かかる仕事があるみたいです」音々はフォークを置いて、小さくため息をついた。「私は今、
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