All Chapters of 碓氷先生、奥様はもう戻らないと: Chapter 731 - Chapter 740

目が合った瞬間、お互いに驚いた様子だった。哲也は綾をじっと見つめていた。しばらくして、彼は立ち上がり、綾を見て尋ねた。「あなたが、このギャラリーのオーナーなのか？」綾は近づいてきて、生意気そうな彼を見ながら少し黙り込んだ後、口を開いた。「あなたまだ未成年でしょ。もし教室に通いたいなら、保護者の同伴が必要よ」「お母さんは僕のことになんて構ってくれないさ」哲也は綾を見つめ、8歳とは思えない大人びた口調で言った。「自分のことは自分で決められるから。毎週日曜日の午後は自由時間なんだ」この子はまだ幼いのに、落ち着き払っている。かなり大人びているのだ。しかし、彼は真奈美の息子であり、誠也の義理の子だ。綾は、彼を生徒として受け入れたくなかった。「申し訳ないが、規定により、保護者の同意なしに未成年の方を募集することはできないの」綾は事務的な口調で言った。「お母さんのせいで、僕を受け入れたくないのか？」綾は一瞬言葉を失った。「そうだね。だから、無理強いしないで、私も商売人だが、どんな商売でも引き受けるわけではないから」「でも、入り口の広告には、才能のある生徒はギャラリーを代表して国際コンクールに出場できると書いてあった」哲也は綾を見て、眉を上げた。「僕は、このギャラリーを代表して出場できると自負している」綾は言葉を失った。まだ小さいのに、その生意気な口の利き方。綾は眉間を押さえながら言った。「あなたは新井家の跡取りでしょ？出場しようと思えばどんなコンクールにでも出場できるはずよ。このギャラリーは、もっと支援が必要な子供たちのために設けられたの。だから、もう早く帰って」それを言われ、哲也はきょとんとした。彼は綾を見つめ、目に一瞬の寂しさがよぎった。新井家の後継者だからといって、普通の子供たちと同じように公平に競争する機会さえ与えてもらえないのだろうか？彼はこの立場が気に入らなかった。全く気に入らなかった。哲也はがっくりと肩を落とし、その落胆した姿に、他の子供たちを迎えにきている保護者たちが少し胸を痛めた。ある保護者が綾に歩み寄り、こう言った。「先生、この子は本当にここで習いたいみたいですよ。受け入れてあげたらどうですか？」「そうですよ、先生。この子はしっかり自分の意見を持っていますし、本当に

哲也は8歳の子どもだ。こんな状況になっていると、綾も見過ごすわけにはいかなかった。それに、哲也は暗闇に酷く怯えているようだった。さらに、哲也の話から、真奈美が普段から厳しく躾けていることが分かった。綾は誠也のことを思い出した。確か誠也も幼少期は、佳乃のせいで辛い人生を送ってきたのだと丈が言っていた。綾は震える哲也を抱きしめ、背中を優しく叩きながら言った。「大丈夫よ、エレベーターが故障しただけ。すぐに係員が来るから......」綾の優しい声は、暗い密室の中でより一層響いた。「大丈夫、私が一緒にいるから、もう怖くないよ......」綾になだめられ、哲也の泣き声は徐々に小さくなっていった。しかし、それでも綾を力いっぱい抱きしめ、体は震え続けていた。綾は優しく歌を歌いながら、哲也を落ち着かせようとした。女の人の優しい歌声に、哲也の張り詰めた体は徐々にリラックスしていった。10分ほど経った頃、外から物音が聞こえてきた。「二宮社長！」綾は声を張り上げた。「中にいます！」「二宮社長、落ち着いてお待ちください。係員が向かっていますので、もう少しお待ちください」「私は大丈夫ですが、この子は閉所恐怖症みたいなので、早くしてください！」「かしこまりました！」30分後、エレベーターは復旧した。扉が開くと同時に、大地が入ろうとしたが、長身の男が先に飛び込んできた。男は綾の前にしゃがみ込み、肩を掴んで心配そうに言った。「綾、大丈夫か？」綾は驚いた。どうして誠也がここに？「どうした？なんで黙ってるんだ？」誠也は反応のない綾を見下ろしながら言った。「どこか怪我をしたのか？」「私は大丈夫」はっと我に返り綾は冷淡に言った。「でも、彼は大丈夫じゃないみたい」誠也はそこで初めて哲也に気づいた。哲也は綾にしがみつき、顔を彼女の胸に埋めていた。誠也は顔を曇らせ、「哲也くん、離れろ」と言った。だが、哲也は反応しなかった。「いい加減にしろ、離れ......」誠也は哲也の腕を掴み、引き離した。その勢いに哲也の体は、自然と誠也の方へ倒れてきた。その様子を見て、綾の顔色が変わった。「気を失ってる！」誠也は眉間に皺を寄せ、哲也を抱きかかえてエレベーターの外へ歩き出した。綾も後を追った。

一方で、綾は病院から梨野川の別荘に直帰した。家に着くと、庭には大輝の車が停まっていた。綾は家の中に入った。そこに、雲が出迎えた。「石川社長は2階で光希ちゃんを寝かしつけていますよ」綾は一瞬動きを止め、「いつ来たの？」と尋ねた。「お昼頃です」「午後はずっとここに？」「ええ」雲は顔をほころばせて言った。「一生懸命、父親として練習をしていましたよ。光希ちゃんの本当の父親ではないことは皆知っていますが、石川社長は本当に光希ちゃんを可愛がっているのが分かります」綾は唇を噛みしめ、「双子たちは？」と尋ねた。「裏庭で遊んでいます。望月さんが付き添っていますよ」少し前、初の父親・望月大輔（もちずき だいすけ）が病気になり、綾は彼女に少し長めの休暇を与え、実家に帰らせていたのだ。先週、大輔が容態がだいぶ良くなったので、初は安心して北城に戻ってきた。綾はまず裏庭へ行き、双子の子供たちに会いに行った。子供たちを抱きしめ、キスをして、綾はようやく満足した。そして、彼女は2階に上がった。以前は空いていた子供部屋を、今は一時的に光希と彩が使っていた。そこは主寝室の隣の部屋だ。光希は生後1ヶ月なので、まだ人見知りをしない年頃なのだ。彼女はいつもおとなしい子で、お腹いっぱいになったら寝て、目が覚めたらご飯を食べる。育てるのはとても楽だった。大輝はこの突然現れた娘をとても可愛がっていた。光希が再び眠りに落ちると、大輝はスマホで何枚か彼女の写真を撮った。綾がドアを開けて入ってきた時、ちょうど大輝がスマホを掲げているところだった。それはなんとも温かい光景だった。物音に気づき、大輝は振り返った。綾は静かにドアを閉め、ベビーベッドのそばまで歩いて行き、眠っている光希を優しい眼差しで見つめた。「どれくらい寝ていますか？」「5分も経っていないですね」大輝は撮ったばかりの写真を綾に見せた。「見て、この顔立ちの整ったこと、きっと将来、男にもてるでしょうね。しっかり見張っておかないといけませんね！」綾は軽く微笑み、大輝の方を向いて言った。「石川社長、話があるので、外に出ましょう」大輝は一瞬動きを止めた。彼女が何を言おうとしているのか、だいたい察しがついた。彼はスマホをしまい、気楽な様子で言った。

それは11時間にも及ぶフライトだった。現地時間の7時5分、プライベートジェットはようやくN国のX市空港に着陸した。5月のX市は空気が湿っぽく、空は灰色に曇り、霧雨が降っていた。綾と丈は空港から大学近くの星羅のアパートへと向かった。30分後、二人はアパートの入口に着いた。タクシーが停まった。アパートのエントランスから、男女が並んで出てきた。星羅だった。彼女は少年と何か話しながら歩いていて、二人の顔には微笑みが浮かんでいた。少年は傘を開き、星羅の方に傾けた。移民の男は背が高く、スラッとした体型で、色白の端正な顔立ちをしていた。星羅と並んで立つと、まるで恋人同士のようだった。二人は楽しそうに話していた。なんとも和やかな空気が流れているようだった。到着早々、こんな光景を目にして、綾は胸騒ぎが止まらなかった。彼女は助手席に座る丈の方を向いた。丈は星羅とその男を睨みつけていて、横顔は険しく、奥歯かみしめ顔を強張らせていた。綾には、彼が怒っているのが分かった。彼女が何か言おうとした時、丈は既にドアを開けて飛び出していった。「佐藤先生......」綾は驚き、慌ててタクシー代を払い、車を降りて丈を追いかけた。しかし、既に遅かった。星羅の悲鳴とともに、一緒にいた男が丈に殴り倒された。「丈！何するのよ？！」星羅は男の前に駆け寄り、両手を広げて彼をかばった。丈の怒りに満ちた拳は、星羅の目の前で止まった。星羅は目を真っ赤にして、丈を睨みつけた。「急にどうしたのよ！なんで人を殴るの！」「殴りたいから殴ったんだ！」丈は歯を食いしばりながら叫んだ。「星羅、君がここに来たのは、こいつのためだったのか！離婚協議書を置いて出て行った理由も、これか！なら、好きな人ができたって、はっきり言えばよかっただろう！別れてやるよ！」「何言ってるの？」星羅は信じられないという目で丈を見つめた。「私のこと、そんな風に思ってたの？」「思ってるんじゃなくて、君がそういう人間なんだ！」「佐藤先生！」綾が近づき、眉をひそめて言った。「きっと何か誤解してるんじゃないんですか？星羅はそんな人ではありませんよ......」「あなた達は親友だから、当然星羅の味方をするでしょうね」綾は言葉を失った。丈は星羅を見

「それに、病気なのに海外まで来て、こんな土地勘のない場所で誰が面倒を見てくれるのよ？私と一緒に帰ろう。もう離婚を止めたりしない。あなたが離婚したいならそれはそれで応援するから。実家にいたくないなら、私の家に来ればいい......」「綾、無駄よ」星羅は目を閉じ、涙が静かに頬を伝った。「北城にいる限り、母はずっと私を束縛する。私のことを心配してくれているのは分かっているけど、本当に息が詰まる思いがするの。ここにいる時だけ、心が休まるの。一人の時は、カメラを持って写真を撮りに出かけたりすることができるし......」静かな部屋の中、星羅の声は震えていた。「私はいい妻でも、いい母親でも、いい娘でもないことは分かっている。でも、こんな風になりたかったわけじゃない。記憶喪失の後、軽はずみに丈と一緒になった。4年以上も一緒にいれば、好きになるに決まっている。おなかを痛めて産んだ蒼空を愛していないわけがない。でも、どうして愛はいつも選択を迫られるの？母は『私のためだ』って言うけど、でも、今まで一度だって私に何がしたいのか聞いてくれたことがない。母に言われるがまま、私はいつもただ受け身になるしかなかった。少しでも反論しようものなら、母は私を『物分かりが悪い』『親のありがたみを知らない』って責めてきた。そしていつも、『私を産んだから海外で活躍するチャンスを諦めた』って言われた。いつも、『母親だから、あなたのためを思ってやっている』って......」綾はため息をついた。「おばさんのことが原因なら、佐藤先生と話し合ってみるべきよ」「話したの。最初の頃は、丈にも母の問題を話してた。彼も理解してくれて、母が屋台の食べ物を食べさせない時は、こっそり食べに連れてってくれてた。母が甘いものを禁止すると、彼は仕事帰りにこっそり買ってきてくれた......あの頃は、これでいいんだって思ってた。だから、いい妻、いい母親になろうと頑張ってた。でも、蒼空の卒乳を考えて、また写真を学びたいって言い出したら、些細なことで喧嘩するようになって......分かってる。丈は私がずっと家にいて欲しいんだって。仕事から帰ってきたら一番最初に私の顔を見たいし、あと娘も欲しがっていた。彼は私と子供たちを養えるから、苦労して欲しくないって言ってた......それは分かってる。たとえ私が何人