All Chapters of 今さら私を愛しているなんてもう遅い: Chapter 671 - Chapter 680

消毒液の刺激的な匂いが空気に漂っている。未央はゆっくりと目を開け、かすんでいた視界が次第に鮮明になってきた。最初に目に入ったのは父親である宗一郎の心配している顔だった。そんな彼女を見て、心が痛んでいるようだ。「私……どうしたの？」彼女の声は弱々しく、喉はひどく渇いている。「さっき搭乗口で突然倒れたんだ。本当に肝を冷やしたよ」宗一郎の声がかすれていて、大きく厚い手のひらでそっと彼女の額を撫でた。「医者の話では、情緒が高ぶりすぎていて、それに連日の疲れから低血糖を起こしたんだそうだ。大したことない、少し休めば良くなるって」気を失ったのか？未央はようやくさっきの突然の目まいを思い出した。彼女は体を支えて起き上がり、振り返ると、息子の理玖がベッドの横に立ち、大きな目をウサギのように赤くして、彼女の手をしっかり握りながら、しくしく泣いていた。「ママ、ごめんね……僕がパパに電話したから、ママ怒っちゃったの？」彼は母親の気絶を全て自分のせいだと思っていて、その整った小さな顔には申し訳なさが満ちていた。息子が自分自身を責める様子を見て、未央の心は針で刺されたように、ちくりと痛んだ。彼女は彼を抱き寄せ、そっと背中をトントンと叩いた。「理玖のせいじゃないよ、ママ自身の体調が悪かったの」子供とは関係のないことだ。本当に彼女を崩壊させたのは、あの男と彼の周りの決して終わらない争いだった。ちょうどその時、彼女がベッドサイドテーブルに置き忘れた携帯が震え、画面が光った。瑠莉からのメッセージだった。その内容は彼女の元々脆い心を、さらに強く締め付けてしまった。「未央！さっき綿井綾の車が西嶋グループの地下駐車場に入るのを見たわ！こんな時まで彼らはまだ関係を持ってるの！」綿井綾……未央はこの名前を見て、ただただ吐き気を覚えてきた。彼女は腕の中でまだすすり泣く息子を見つめ、また幼くて彼女の世話を必要とする娘の愛理のことを考えると、強い恐怖感が一瞬にして彼女の心臓を掴んだ。ダメだ。もうこのままではいられない。虹陽に留まり、博人ともつれ合っている限り、このメンタル上の苦しみは決して静まらないのだ。彼女自身だけでなく、子供たちを傷つけることになるだろう。彼女は逃げなければならない。子供たちに平穏な成長環境を与えるために

虹陽の夜は、深く静まり返った水溜りのように重苦しいものだ。博人は一人で、白鳥家の旧宅の冷たいリビングのソファに座り、切れたばかりの携帯を握りしめていた。屋敷の中の明かりは消され、携帯の画面だけの微かな光が、彼の血の気の引いた顔をぼんやり照らし出している。空気の中には、まだかすかに未央の匂いが残っている。だが、それによってより強く思い知らされるのは、この家が、もはや空っぽだということだった。彼はよろめきながら二階へ上がり、主寝室のドアを押し開けた。ベッドの彼女がいつも寝ていた側はがらんとしており、枕には彼女の長い髪の跡がかすかに残っていた。クローゼットを開けると、彼女の服はすでにきれいになくなってしまっていた。一つ一つの細かいところが、容赦なく彼にこう告げた。彼女は本当に子供たちを連れて、完全に彼の元から去ってしまったのだ。博人は酒棚へ歩み寄り、最もアルコールの強いウイスキーのボトルを手に取ると、開けてから直接がぶがぶとそれを飲んだ。辛い酒が喉と胃を焼くように熱くしてきた。だが、彼は痛みさえ感じていないようだった。自虐的なこの方法で、すでに後悔と恋しさに食い荒らされ、傷だらけの心を麻痺させたかっただけなのだ。翌日、博人は虹陽グループに戻ると、自分を完全なる「仕事の機械」へと変えた。ハードな仕事で時間を埋め尽くした。オフィスの雰囲気は恐ろしいほど重苦しく、社員たちは皆びくびくしていた。昼食の時、彼は習慣的に携帯を手に取り、未央に連絡を取ろうとした。見慣れたその番号の上で指先が長く止まった後、彼ははっと彼女がもういないことを思いだした。胸のあたりが、えぐり取られたかのように空っぽになり、冷たい風がひゅうひゅうと吹き込んでくるようだった。夕暮れ時、オフィスのドアが勢いよく開かれた。敦が激怒した顔で入ってくると、ゴシップ新聞を博人のデスクにたたきつけた。見出しには【西嶋社長の婚姻に異変が、愛妻が子を連れて立花市へ】と大きく書かれ、未央と悠生が空港で一緒に写った写真が一緒にあげていた。そのアングルで、二人は親密そうに見えるのだ。「ほら見ろよ、お前のそのみっともない姿を！」敦は彼を指さし、歯がゆさにまかせて罵った。「そんなみっともない姿で、自分を痛めつける以外に、いったい何ができるんだ？未央さんがお前のことを

博人は国際テレビ会議を終えたばかりで、目は血走っていたが、少しも疲労の顔を見せなかった。彼は机に山積みにされた書類には手を付けず、代わりにパスワード付きのファイルを開いた。そこには立花の「心の声」クリニックに関する全ての動向がリアルタイムで更新されていた。会社のこのフロアで彼のオフィスだけが明かりがまだついており、窓の外の都市のネオンが煌めいていたが、逆に室内の孤独感が際立っていた。壁の掛け時計がカチカチと音を立て、彼一人の苦しい時間を刻んでいる。高橋がドアをノックして入って来ると、厳しい表情で報告した。「西嶋社長、監視していたところ、三条の残った勢力がネット上で活動をし始めました。彼らは大量のサクラを雇って、目標は……おそらく奥様の立花市のクリニックに向けているようです」彼はいくつかの悪意のあるアカウントの書き込みをスクリーンに映像で映し出した。内容は極めて悪質で、未央の専門性を疑うだけでなく、彼女のプライベートの生活が乱れているという偽造の噂を流し、画像加工を施した写真まで添えられていた。博人はその見るに耐えない内容を目にすると、顔色が一瞬で暗くなってきた。彼は激しく机を叩き、目の中の怒りが危うく噴火する火山のように燃え上がってきた。怒りを抑え、冷たく氷のような声で高橋に命じた。「今すぐ最高レベルのネットワーク危機対策を取ろう。高橋の全てのメディアとサイバーセキュリティチームを使って、誰も見えないファイアウォールを作るんだ」そして、最も重要な一言を付け加えた。「彼女に対する全てのネガティブな情報を削除して、不審な攻撃を全部遮断しろ。しかし、絶対に彼女に俺がやったことを知られてはならないんだ」高橋は呆然とし、理由を問い出した。博人はスクリーンに映る未央の写真を見つめ、声を詰まらせて言った。「彼女に知られる必要はない。彼女が欲しいのは、自由で清らかな空だ。俺は以前、いつも彼女を檻の中に閉じ込めようとしたんだ。今は……ただ密かに彼女のために全ての危険な狼を追い払う者でありたいんだ」高橋は命令を受けて去った。虹陽と立花の間で、硝煙のないネット戦争が密かに始まった。西嶋グループのチームは効率的かつ正確に一つ一つのネガティブな情報を削除し、サクラのIPを逆に見つけ、さらにはいくつかのデマを流したVIPアカウントのスキャ

翌朝、未央は窓際に立ち、ビルの下を行き交う車と人々を見下ろしていた。彼女の顔からは昨日の暗さがすでに見えず、全てを把握しているような冷静さと確固たる意志が宿っていた。受身ばかり取るのは無意味だと彼女は悟っていた。暗がりに潜む敵を引きずり出すには、自ら進んで動くしかないのだ。まず悠生に電話をかけ、落ち着いた口調で計画を伝えた。「悠生さん、手を貸してほしいんです。今日の午前十時に、藤崎グループの名義で大塚夫人とその友人を、あなたの会社のビルにあるカフェに招待してくれませんか」続けて、未央は立花で最も影響力のあるテレビ局の看板記者に電話をした。「石村（いしむら）さん、職業倫理と名家のプライバシーに絡むビッグニュースがあるんですが、ご興味はありませんか？十時半、藤崎グループの会社ビルのカフェで」外部の手配を終えると、アシスタントの加野をオフィスに呼んできた。彼女は曇った表情を作り、ため息をつくと、精巧に包装されたプレゼントと自分で書いた謝罪文を加野に手渡した。「加野さん、今回の件はクリニックへの影響が大きすぎるの。私が自分で謝りに行くのはちょっとあれなんだけど、代わりに大塚夫人に謝ってくれないかな？何があっても、彼女の許しをもらうの」未央の声は疲れと無力感に満ちていた。藤崎グループ本社のビルにあるカフェにて。加野はプレゼントを手に隅に身を潜め、こっそりと小型のレコーダーを取り出すと、綾に電話をかけ、状況を報告して新たな指示を受けた。「なんとか大塚夫人を刺激して、白鳥未央にとって不利な発言を引き出し、録音しなさい！」加野が完璧だと思い込んだその時、石村記者とそのチームはすでにカフェの別の隅でカメラを設置し、彼女のこそこそとした動きをすべて捉えていた。虹陽での博人のオフィスにて。高橋がリアルタイムの監視の報告書を博人の机に置いた。「社長、奥様の計画が始まりましたよ」博人はスクリーンをじっと見つめ、胸の中には不安が渦巻いていた。しかし、彼は介入したい衝動を抑え込んだ。彼女を信じるべきなのだ。カフェでは、悠生が大塚夫人とその友人を引き留めることに成功した。加野はすぐに近づき、卑屈な態度まで取り許しを請う謝罪の芝居を始めた。大塚夫人の友人は傍らで火に油を注いだ言葉をかけ、二人は息ぴったりと言葉で大塚夫人を罠に

夕暮れ時、立花の川沿いマンションにて。宗一郎はキッチンで忙しく動き回り、娘の事業上の「勝利」を祝うために豪華な夕食の準備をしていた。しかし彼の笑顔には、かすかな心配な色が潜んでいた。夕日のわずかな光がフランス窓から差し込み、リビングを暖かいオレンジ色に染めていた。未央は仕事から帰り、何もなかったような笑顔を見せていた。クリニックが今日もらったいい評価を父親と共有し、すべてが順調であるかのような空気を懸命に演出しようとしていた。食卓で、理玖が無邪気に口を開いた。「ママ、今日学校で友達が、ネットにママの悪口を書く悪い人がいっぱいいるって言ってたよ」未央の笑顔が一瞬固まったが、すぐに優しく息子をなだめた。「あれは全部嘘よ。ママはもう悪い人を追い払ったんだから」それを聞いて、宗一郎の心の中に潜む不安はさらに大きくなってしまった。彼はネット上の複雑な事情を理解していないが、娘が直面している戦場が、彼女の言った以上に危険だと分かってきた。娘の瞳の奥に隠された、拭いきれない疲労の色を見て、胸が痛んだ。夜更け、静寂の中で、宗一郎は娘の部屋の明かりがまだついているのに気づいた。こっそりと近づき、ドアの隙間から未央が眉をひそめ、パソコンの画面に表示されたデータと報告書を見つめながら、何かを考えている姿を目にした。その瞬間、彼女は何の恐れもないスーパーウーマンではなく、ただ全てのプレッシャーを一人で背負う宗一郎の娘にすぎなかった。彼は声を立てずに引き返し、リビングに座ってひとつの決断を下した。翌朝、未央が出勤したのを見計らって、彼はこっそり悠生に電話をした。自宅近くの喫茶店で会おうと伝え、特に「未央には内緒だ」と付け加えた。その喫茶店は静かな雰囲気が漂っていた。宗一郎は遠回しなことはせず、単刀直入に尋ねた。「悠生君、正直に言ってくれ。未央が最近処理してるトラブルは、とても手ごわいものなのか？」悠生は目の前のお年寄りの心配そうな眼差しを見て、包み隠さず、ネット上の騒動と、背後に綾が暗躍している可能性があるという推測を、すべて正直に宗一郎に伝えた。だが彼は最後にこう強調した。「おじさん、ご安心ください。未央さんはとても強く、非常にうまく対処したんですよ」宗一郎はそれを聞いて再びため息をつき、思わず博人の話を持ち出した。