夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する! のすべてのチャプター: チャプター 1811 - チャプター 1820

2151 チャプター

第1811話

雅臣の声は、かすかに掠れていた。「星……ありがとう。でも……たぶん、もう葛西先生の手を借りる必要はなさそうだ」その一言で、星はすぐに察した。「……分かった」電話を切ったあと、星と仁志は翔太を迎えに行った。翔太は、ひどく元気がなかった。星と綾子の仲がどれほど悪かったとしても、綾子は翔太にとって祖母だ。しかも、彼女は本心から翔太を可愛がっていた。そんな祖母の容体が危ういとなれば、翔太が落ち込むのも無理はない。幸い、仁志は子どもの扱いに慣れていた。ほどなくして翔太の気をうまく別のことへ向け、沈んだ気持ちも少しずつ和らいでいった。その日、星はテーブルのそばに座り、翔太と仁志が囲碁を打つのを眺めていた。すると、手元の携帯が突然鳴った。画面に表示された名前は、またしても雅臣だった。星は時間を確認する。夜の八時。その瞬間、胸が小さく跳ねた。嫌な予感がした。彼女はベランダへ出て、電話に出る。「雅臣、何かあったの?」受話器の向こうから聞こえてきたのは、しゃがれ、震えた雅臣の声だった。「……ああ。母さんが、最後に翔太に一目会いたいって」星の胸が重く沈む。最後に一目――それはつまり、綾子がもう長くないかもしれないということだった。電話を切ると、星は翔太のそばへ行き、声をかけた。「翔太、支度して。今から病院に行こう」仁志も何かを察したのだろう。立ち上がって星に言った。「俺が送る」星は断らなかった。三十分後、星は翔太を連れて病院に到着した。雅臣の表情はひどく暗く、眉間には深い疲れが刻まれていた。「星、わざわざ来てもらって悪かった」星は静かに首を振る。それから三十分ほどして、病室の中から雨音の張り裂けるような泣き声が響いた。星は振り返り、その病室を見つめる。そして、そっとため息をついた。たしかに、彼女と綾子の間には深い確執があった。けれど今、綾子が命の終わりを迎えようとしているのなら、これまでの恩怨もまた、彼女と一緒に消えていくような気がした。その時、一着の上着が星の肩にそっと掛けられる。耳元で、仁志の声が響いた。「夜は冷える。風邪を引くな」星は思わず、仁志の手を握った。さっきまで落ち着かなかった心が、不思議なくらいすっと静まっていく。その
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第1812話

仁志の背中が視界から消える、そのほんの直前だった。星は何者かに殴られ、そのまま意識を失った。航平は、熱を帯びた目で星を見つめる。「星、仁志をお前のそばから引き離すのは本当に大変だった。でも、どうにかやってのけたよ。綾子ひとりの命を犠牲にした甲斐はあった」星の瞳が、はっと縮む。「……何?」航平は微笑んだ。「星、綾子はずっとお前に嫌がらせばかりしてきただろ。私は前からあの女が気に入らなかった。ただ、雅臣の顔を立てて、ずっと我慢していただけだ。でも、あいつはお前をいじめた。だから、私は絶対に許さない。もう、あいつが消える頃合いだったんだよ」その言葉を聞いても、星の胸には欠片の感動も湧かなかった。むしろ、ぞっとする寒気が背筋を這い上がる。航平はそんな彼女を見つめ、やさしい声で言った。「星、安心しろ。私がいる限り、誰にもお前を傷つけさせない」星は冷たく問う。「翔太は?」航平は微笑んだまま答えた。「翔太は、もう仁志に助け出された。今のところ無事だよ」星はさらに問い詰める。「じゃあ、あの火事も?私をさらうために、あなたがわざと火をつけたの?」だが航平は言った。「星、ちゃんと手は打ってあった。たとえ仁志が助けなくても、私が必ず翔太を助け出していた」星は、一瞬でその本心を見抜いた。皮肉を込めて言い放つ。「仁志がいなかったら、翔太まで一緒にさらって、私を脅すつもりだったんでしょう?」その瞬間、航平の顔色がさっと沈んだ。――図星だった。もともと彼は、星と翔太をまとめてさらうつもりでいた。だが雨音があまりにも役立たずで、翔太ひとりまともに見張っていられなかった。正直、航平にも分からなかった。なぜ仁志が、あれほど早く翔太を見つけ出せたのか。自分は翔太の居場所を知っていた。それなのに、結局一歩遅れた。航平が先に翔太をさらわず、あえて火の海に置いたままにしたのは、仁志に何かを悟られるのを恐れたからだった。航平の目がかすかに揺れる。「星、分かるだろ。芝居を本物らしく見せなきゃ、仁志に全部偽物だって見抜かれる可能性があった……私だって、仕方なかったんだ」実際、彼にはそうするしかなかった。仁志は頭が切れすぎる。しかも、どこか常軌を逸している。だから航平には、少
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第1813話

そうなれば、次に狙われるのは、おそらく翔太だった。翔太に何かあれば、星は必ず戻ってくる。航平は言った。「できることなら、私だってあいつらを傷つけたくはなかった。星、私を責めないでくれ。悪いのは、仁志だ。あいつが厄介すぎるんだ。あいつは毎日お前にぴったり張りついて、片時も離れようとしない。翔太を利用する以外に、あいつをお前のそばから引き離す方法なんて思いつかなかった。でも、よかった。今回は、ようやく成功した」星は拳を強く握りしめた。このままでは、また航平を平手打ちしてしまいそうだった。指先に触れる冷たい感触が、少しずつ彼女を落ち着かせていく。心も、わずかに静まった。彼女の指輪には位置情報チップが埋め込まれている。仁志なら、必ずしも自分を見失うとは限らない。その時、航平がふいに口元を吊り上げた。そして手を上げ、中指にはめた指輪を見せる。「星、このペアリング、私が自分でデザインしたんだ。気に入ってくれるか?」星は反射的に自分の手を見た。そして、指にはめられている見覚えのない指輪を見た瞬間、心が一気に冷え切った。仁志とおそろいだった指輪が、ない。航平は笑いながら言った。「正直、仁志を騙すのは簡単じゃない。お前の指にあの指輪がなかったら、仁志はお前が死んだなんて、そう簡単には信じなかったはずだ。今の仁志は精神的にかなり不安定だ。お前が死んだと知ったら、正気を保てないかもしれない」星は航平を見つめ、一語一語区切るように言った。「……卑劣な男ね」航平は一歩、前へ出る。「卑劣さで言えば、仁志だって大差ないだろ。あいつはお前を遊び道具みたいに扱ってきた。今さら埋め合わせをしたところで、昔の罪が消えるとでも思ってるのか?」星は冷ややかに言った。「いつ私を解放するつもり?」航平は答える。「星、今外の連中はみんな、お前が死んだと思ってる。だったら私たち、もうあんな揉め事だらけの場所から離れて、平凡で普通の暮らしを送れるだろ?」星は言った。「つまり、逃がす気はないのね。一生私を閉じ込めるつもり?」航平は、熱を帯びた目で彼女を見つめた。「星、騒ぎが収まったら、私がお前を連れてZ国を出る」星は黙り込んだ。頭の中では、必死に打開策を巡らせている。長く行方不明になるわけ
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第1814話

雅人には、もし星が本当にこの火事で命を落としていたら――その先に何が待っているのか、想像することすらできなかった。高熱の影響で、星の指輪に埋め込まれていた位置情報チップも損傷したらしい。今のところ技術的に確認できるのは、最後に信号が途切れた地点だけ。動的な位置追跡機能は、現在修復中だった。そして何より恐ろしいのは、その最後の位置情報の真下に、焼死体が一体あったことだった。この一帯は火の回りが激しく、周囲は何もかも焼け落ち、原形を留めていない。その焼死体もまた、体つきや顔立ちを判別できるような状態ではなかった。雅人は、本来ならすぐにでもその遺体を運び出し、鑑定に回したかった。だが、今の仁志の様子を見ていると、その言葉を口にすることすらできなかった。その時、部下が雅人のもとへ報告に来た。「星野さんの動的な位置情報、復旧しました」その言葉を聞いた瞬間、仁志の顔色がようやく少し和らいだ。黒い瞳にも、わずかに理性の光が戻る。雅人は言った。「ノートパソコンを持ってこい」ほどなくして、部下がノートパソコンを運んできた。だが画面に表示された位置情報は、依然としてこの近辺を示していた。それを見た雅人の胸は、ずしりと沈む。外では小雨が降っていた。空気は冷たく、吹き抜ける風にまでひやりとした寒さが混じっている。位置情報を追って、仁志は一か所の灰の山のそばへたどり着いた。そこは、さっき見つかった場所よりもさらに惨たらしい有様だった。遺体はもはや焼け崩れ、形を留めていない。謙信は、その傍らに携帯電話らしい焦げた黒い物体があるのを見つけた。それを拾い上げ、近くの部下に手渡して低く命じる。「調べろ。中のデータが復元できるか確認しろ」部下はそれを受け取り、足早に立ち去った。その時、謙信は、仁志の視線が焼死体の中指に落ちていることに気づいた。そこには、熱で変形した金属の塊が絡みついていた。仁志はしゃがみ込み、指輪のように見えるその金属から、焼け溶けたチップを取り出す。謙信はノートパソコンに映る位置情報を見た。その瞬間、顔から血の気が引いた。表情には隠しきれない動揺と不安。だが、それ以上に濃かったのは、底知れない恐怖だった。仁志の瞳は、焦点を失いかけていた。頭の中では無数
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第1815話

謙信は、自分の失言に気づき、慌てて言い直した。「……申し訳ありません。僕の言い方が悪かったです。あの遺体が別人である可能性も、十分にあります」仁志は、かすかに目を閉じた。端正な顔立ちは、たちまち疲労と憔悴に覆われていく。その声には、どうしようもない無力感がにじんでいた。混乱していた思考も、少しだけ輪郭を取り戻したようだった。「検査に回せ」その一言に、謙信はようやく小さく息をついた。だが、今の仁志の様子は、それでもなお彼を不安にさせた。仁志は本来、冷静で、どんな最悪の局面でも動じず全体を指揮できる男だ。その彼が、今はここまで危うい。それが何より恐ろしかった。このまま残るべきか迷っていたその時、仁志が再び口を開いた。少しかすれた声だった。「お前はついて行け。検査が終わるまで、一瞬たりともその場を離れるな。外で見張っている連中にも気を抜かせるな。誰かに細工される可能性がある」その指示は、ひどく明晰で筋が通っていた。それを聞いて、謙信は少しだけ安堵する。「かしこまりました。すぐに手配します」仁志は目を開いた。漆黒の瞳が、まっすぐ謙信を射抜く。「結果が出たら、すぐ知らせろ」「……承知しました」謙信は、重い気持ちを押し込めながら答えた。……数時間後、検査結果が出た。その間ずっと、謙信は一歩も離れず見届けていた。「謙信さん……」医師は沈痛な面持ちで彼を見た。「結果が出ました」謙信は短く問う。「結論は?」医師は視線を落とした。「……星野さんです」謙信は、しばらく言葉を失った。だが、どうしても諦めきれず、もう一度確認する。「本当に間違いないんですか?」医師は答えた。「遺体は焼損が非常に激しく、骨のDNAも高度に損傷していました。採取も鑑定も極めて困難でしたが、現時点で抽出できたサンプルから判断する限り、星野さん本人で間違いありません。ご納得いただけないのであれば、別の医師に再鑑定を依頼していただいても構いません」この医師は溝口家が育てた人間であり、忠誠心に疑いの余地はない。嘘をつく可能性など、まずありえなかった。本当のところ、あの焼死体が見つかった時から、謙信にはすでに嫌な予感があった。ただ、彼も仁志と同じく、それを信じたくなかっ
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第1816話

たとえ嘘でもいいから、仁志に希望を持たせてやりたかった。だが、仁志には何も聞こえていないかのようだった。表情は相変わらず虚ろなまま。謙信は、心の底から恐ろしくなった。「仁志さん……何かおっしゃってください……」仁志のまつげが、かすかに震えた。謙信が息をのむ。だが、安堵する間もなかった。次の瞬間、仁志の顔色が変わり、突然、鮮血を吐いた。「仁志さん!」謙信の顔色も一気に変わる。仁志の身体は大きく揺れ、そのまま意識を失って倒れ込んだ。謙信は慌てて地面から立ち上がり、彼を支えながら叫ぶ。「医者を呼べ!早く、医者だ!」……航平の目は、星を見つめる熱で満ちていた。この日を、彼はずっと待ち続けてきた。胸を引き裂かれる思いで、星が仁志と一緒にいるのを見てきた。仁志が上機嫌で結婚式の準備を進める姿も、ずっと見てきた。だが、これから先――仁志が天国から地獄へ突き落とされ、星の死によって気が狂い、もう二度と彼女を探す余裕すらなくなるのだと思えば。それだけで、十分に価値があると思えた。仁志はあまりにも聡い。もしあの男が正気を保ったままでいれば、前回のように本当に星を見つけ出してしまうかもしれない。あの男を完全に振り切るには、狂わせるしかない。そうして初めて、自分は心置きなく星を手に入れられる。航平の声は震えていた。興奮のあまり、身体まで小刻みに揺れている。「星……ようやく、お前は完全に私のものになる」だが、航平が思いもしなかったことが起きた。これほどまでに高ぶり、今すぐにでも星を手に入れたいと願っているのに――彼の身体は、まるで反応しなかったのだ。今日はどうしたというのだろう。まだ星に触れていないからか。本当に彼女を抱けば、反応するのだろうか。だが、もしそうならなかったら。星は、自分をどう見るだろう。その瞬間、航平の全身に冷や汗が噴き出した。彼はすでに人を使い、薬まで用意させていた。星を一度で妊娠させ、自分の子どもを産ませるために。そうなれば、星は二度と自分から離れられなくなる。航平の顔色は、みるみるうちに不安定に揺れた。星は本来、航平が近づいてきた瞬間を狙い、不意を打って致命傷を与えるつもりでいた。だが予想に反して、航平は突然
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第1817話

明日香は言った。「それは当然です。何があっても、星は私の妹で、雲井家の人間ですもの。あれは全部、あの子が受け取るべきものです」航平は心の中で冷笑した。怜央の株式さえ手に入れば、明日香が星の持ち株まで欲しがらないのは当然だった。怜央の株式を得るということは、そのまま司馬家を掌握するのと同じだからだ。明日香の切り札は多くない。仮に星の持ち株を奪ったところで、その前に靖という壁を越えなければならない。それなら、まず怜央の株式を奪うほうが早い。明日香はさらに続けた。「航平、私が得た情報では、星が相続を放棄した場合、怜央の株式は五年間凍結されるそう。だから、放棄同意書より、譲渡同意書に署名させたほうがいいでしょう」航平は冷ややかに言った。「怜央の株式は、今まさに手続きの途中だ。星もまだ完全には引き継いでいない。株の取引は、野菜を売り買いするみたいに簡単にはいかない」明日香はふっと笑う。「その点はご心配なく。私には私のやり方があるの。航平は、私の言う通りにしてくれればそれでいいんだよ」航平は「分かった」とだけ返し、電話を切った。彼は時間を確認し、葬儀会場へ向かうことにした。これほどの騒ぎが起きた以上、顔を出さないわけにはいかない。仁志の状態を確認するまでは、ひとつたりとも綻びを残せなかった。そう考え、彼は車を走らせた。……葬儀会場では、焼け焦げた遺体が次々と運び出されていた。現場の惨状は、見るに堪えないものだった。航平は、全身煤だらけになった雅臣が、誰かと電話で何かを確認しているのを見つけた。雅臣が電話を切るのを待ってから、何も知らないふりをして近づく。「雅臣、葬儀で火事が起きたって聞いた。いったい何があったんだ?」雅臣は彼を一瞥し、淡々と答えた。「詳しい状況はまだ調査中だ。だが、現時点で放火であることは確認されている」航平の胸がどくりと跳ねた。もうそこまで断定されたのか。だが、表情には少しも出さずに問い返す。「翔太と雨音は無事なんだろう?」雅臣は言った。「ああ、二人は無事だ。ただ、星が……」その目が重く沈み、薄い唇もきつく結ばれた。航平はすぐに身を乗り出す。「星がどうした?」雅臣は低く言った。「星は……焼死した可能性が高い」その言葉に、航平は
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第1818話

航平の目がかすかに揺れた。「仁志の弱点……?」「言うまでもないだろう。あいつの弱点は星だ」雅臣の声は水のように静かで、少しも急がなかった。「俺はその場を見ていない。だが、雅人の話では衝撃は相当なものだったらしい。もしあの場にいたのが俺でも、正気を保つのは難しかっただろう」その言葉を聞いた瞬間、航平の目の奥に、かすかな希望の光が灯った。「それなら……星が死んでいない可能性もあるのか?」雅臣は答える。「もちろん、今のところは推測にすぎない」彼は焼け跡の惨状を見渡し、小さく息をついた。「ただ、もし本当に仁志を狙って火を放ち、その結果これだけの人間が死んだのだとしたら……その人物は、相当な悪意を抱えている」航平は尋ねた。「放火犯について、何か手がかりは?」雅臣は首を横に振る。「この火事で、証拠になりそうなものはほとんど焼けてしまった」そう言ってから、彼は航平を見た。「航平。S市ではお前にもそれなりの人脈と力がある。よければ、こちらの調査にも力を貸してくれ」航平は、怒りと悲しみを押し殺すような顔を作った。「雅臣、安心しろ。もしそいつが星を傷つけた犯人なら、私は絶対に許さない」雅臣は静かに頷いた。「まだやることがある。悪いが、これで失礼する」航平は、魂が抜けたような顔を見せる。「分かった。雅臣はそっちに集中してくれ。星の件は、私も今すぐ人を動かす」二人はなお数言交わし、それから航平はその場を離れた。雅臣は、その背中をじっと見送る。その目はひどく深かった。彼はすぐに誠を呼び寄せ、低い声で命じた。「誠。航平を尾けろ」誠は短く返事をして、その場を離れた。帰りの車の中で、航平はバックミラー越しに、後ろをついてくる車を見た。その唇に、冷たい笑みが浮かぶ。彼と雅臣は、幼い頃から一緒に育った。雅臣が彼をよく知っているように、彼もまた雅臣をよく知っている。今では表面上こそ穏やかに見えているが、二人の関係はすでに昔のようではない。雅臣はずっと彼を警戒していた。ただ、あまりにも互いを知りすぎていた。だからこそ、雅臣がどれほど航平を警戒しても、自分の身近な人間――たとえば雨音のような存在までは防ぎきれない。航平は、後続の車をわざと撒こうとはしなかった。何も気づいてい
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第1819話

「彼らの手段がどれほどえげつないか、あなたには想像もつかないはずだよ。しかも、防ぎようがない。あれを持っている限り、面倒はいくらでも降ってくる」星は冷ややかに言った。「敵の手段そのものは怖くない。本当に怖いのは、身近な人間の裏切りよ。あの人たちは、M国では私に手を出せないと分かっていた。だから何としてでも、私をM国の外へおびき出そうとした。でも、たとえ別の国へ連れ出したとしても、私と仁志にまったく気づかれずに仕掛けるなんて、そう簡単なことじゃない」星の視線は、氷のように冷え切っていた。「でも、S市は違う。ここには雅臣の力だけじゃなく、あなたたち鈴木家の力もある。雅臣はあなたを警戒していた。それでも、まさか自分の母親にまで手をかけるほど、あなたが冷酷だなんて思いもしなかったでしょうね。自分の目的のために、あれだけ多くの人を死なせるなんて……航平、もう私は、あなたが誰なのか分からない。いえ、もしかしたら――自分の欲のために仁志を殺そうとした時点で、あなたはもう、私の知っている航平じゃなかったのかもしれない」その言葉のどこかが癪に障ったのか、航平は突然激しく取り乱した。「仁志、仁志って!お前の目には、仁志しか映っていないのか!?星、あいつは悪魔だ!お前のすべてを壊して、お前まで地獄へ引きずり込む!」完全に我を失いかけている航平を見て、星の瞳が無意識に細まる。どう見ても、自分を地獄へ引きずり込んでいるのは、目の前の航平のほうだった。星はわずかに目を伏せ、それ以上彼を刺激するのをやめた。淡々と言う。「譲渡書を持ってきて。サインする」航平は一瞬、呆然とした。信じられないという顔で問い返す。「星……今、何て言った?」星は言った。「あなたの言う通りよ。あれはもともと私のものじゃない。返すだけのこと」航平は、星を説得するのは簡単ではないと覚悟していた。だが、まさかここまであっさり承諾されるとは思っていなかった。なおも確認する。「星、本当に手放すんだな?」星は静かに頷いた。航平の目に、喜びの色が浮かぶ。彼は株式譲渡書を星の前に差し出した。星は書類の内容を隅々まで確認し、それから自分の名前を書き込む。航平は書類を丁寧にしまい込み、その表情をますます柔らかくした。「星
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第1820話

星はそれ以上こだわらず、静かに頷いた。航平には、まだ株式譲渡書の件を処理する用事があった。彼はしばらく星と話したあと、再び部屋を出て行った。その背中を見送りながら、星の瞳はひどく深く沈んでいた。本当なら、もっと時間を稼ぐこともできた。この場所の状況を完全に把握してから、航平と条件交渉をしてもよかった。彼女自身は待てる。けれど、仁志にはその余裕がない。死は、失踪よりもずっと残酷だ。今、外がどんな状況になっているのか、星には分からない。だが、航平が明日香たちと手を組んだ以上、その計画はきっと隙のないものになっている。仁志はまだ治療の途中だ。その病状を賭けの材料にすることだけは、どうしてもできなかった。だからこそ、彼女はあまりにもあっさりと株式譲渡書に署名した。目的はただひとつ――外の人間に、自分がまだ生きていると知らせること。それでもなお、星の胸には晴れない影が重く落ちていた。……翌日、航平はまた食事を持って星のもとを訪れた。星は注意深く彼を観察した。顔に浮かぶ微細な表情の変化まで、一つ残らず見逃さないように。だが、見れば見るほど、彼女の心は深く沈んでいった。航平の目元や口元には、かすかな喜色がにじんでいる。つまり、計画はかなり順調に進んでいるのだ。星は内心、焦りに焦っていた。だが、それを顔に出すわけにはいかない。彼女は航平と大声で言い争うこともなければ、無理に条件を持ちかけることもしなかった。綾子の命まで犠牲にした以上、航平はすでに後戻りのできない場所に立っている。今さら言葉だけで揺らぐような男ではない。それに、株式譲渡書には署名したとはいえ、すべてを他人任せにするわけにもいかなかった。食事を終えたあと、星は言った。「このあと時間ある?少しだけ外を歩かせてくれない?」ここまで素直に従う星に対し、航平の態度はかなり穏やかになっていた。「分かった。少ししたら、まずはこの辺を軽く案内する」彼は、星との未来を本気で思い描いていた。だからこそ、必要以上に彼女を追い詰めたくもなかった。唯一の誤算は、自分の体内にある毒がまだ抜けきっておらず、当面は星と男女の関係を持てないことだった。だが、彼はそこまで焦ってはいない。仁志という障害さえ消えれば、たと
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