All Chapters of 夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!: Chapter 481 - Chapter 490

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第481話

「靖、お前は今でも、母親が三人兄弟を置いて去ったことを恨んでいるのか?」その言葉に、靖の足がぴたりと止まった。彼は正道に背を向けたまま、表情を見せない。「母さんには母さんの考えがあったはず......それに、母さんはもうこの世にはいない」正道は深く重いため息をついた。「まさか、あの時彼女が影子を身ごもっているとは思わなかった。知っていれば、どんなことをしても引き止めただろう。だが......今さら言っても仕方がない。正直に言うと、あの時、怒りに任せて影子を追い出したのは、ずっと後悔している。たかが男ひとりのことだったのに……好きならそのままにしておけばよかった。どうせ明日香は誠一に興味を持っていなかったのだから。そういえば......」何かを思い出したように、正道は続けた。「誠一は葛西先生の孫だろう?今回の長寿祝いで顔を合わせるはずだ。当時の件については、彼に影子への責任を取らせねばならん」靖は堪えきれず、父を振り返った。「だが、影子にはもう結婚して子どもも......」「離婚したのだろう?」正道は眉を上げた。「まさかお前、明日香を誠一に嫁がせたいと思ってるのか?」靖は黙り込んだ。葛西家の家柄は雲井家と釣り合う。だが、誠一自身は決して一流とはいえず、明日香の相手としては不足だった。明日香は名門の令嬢の中でも群を抜く存在。平凡な男など、どうして釣り合うだろう。その点、影子なら余りある。いや、むしろ影子でも、誠一には十分すぎる。二度目の結婚で子どもを抱えている今となってはなおさらだ。靖はそれ以上口を開かなかった。結婚は感情の問題だ。無理に押しつけても仕方がない。未来のことなど誰にも分からないのだから。その頃。星は影斗から電話を受けていた。「星ちゃん、携帯、修理させたんだ。だが......中にあの夜の録音は見つからなかった」「......え?」星は思わず声を詰まらせた。「星ちゃん、本当に録音したのか?」「間違いなく撮ったわよ」星は即答した。「突き落とされたのは突然だったけど、湖に落ちる瞬間、保存ボタンを押したわ」「分かった。別の人間にも確認させる」「お願い」電話を切ると、彩香が星の表情に気づ
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第482話

翌日。星、怜、奏らは、早々に演奏会場へと足を運んでいた。会場に入ると、彩香はきらびやかな空間を見渡し、思わず感嘆の声を漏らした。「長年マネージャーをやってきて、もう場数は踏んだつもりだったけど......やっぱり庶民の想像力じゃ限界あるのね。ここ、豪華すぎでしょ?」星もまた、周囲を見回した。雲井家にいた頃もあったが、当時は学生で、こうしたプライベートクラブのような場所に足を踏み入れたことはほとんどない。まして、これほど贅を尽くした会場を目にするのは初めてだった。会場はさほど大きくはなく、およそ千人ほど収容できる程度。大規模なコンサートやライブには向かないが、このような慰問演奏にはちょうど良い広さだった。やがて、影斗も姿を現した。彩香が目を丸くした。「榊さんまで、こんなに早く?」影斗は笑みを浮かべて答える。「少し早めに来て、何か手伝えることがないかと思ってね」その視線が、星の手にあるヴァイオリンに移った。「今回は夏の夜の星じゃないのか?」星はうなずいた。「夏の夜の星は今メンテナンスに出してあって......今日は普段使っているこのヴァイオリンで演奏するの」母が遺した大切な楽器を、彼女は滅多に持ち出すことはない。今回も本来なら夏の夜の星を使うつもりだったが、数日前に弦の音程に不具合が出てしまい、調整に出していたのだ。夏の夜の星の音色は独特で、他のヴァイオリンとは一線を画す。耳の良い者なら、一度聴けばすぐに分かるほどだった。影斗はうなずき、続けて言った。「星ちゃん......友人から連絡があった。携帯に残っていたはずの録音、トップクラスのハッカーによって破壊されたらしい。ただ、別のハッカー仲間に頼んで修復作業を進めている。少し時間がかかるが......」そこで言葉を切り、申し訳なさそうに視線を落とす。「すまない」星は首を振った。責める気持ちはなかった。「誰に頼んでいても消されたでしょうね。誰かが必死になって、この録音を世に出させまいとしているんだから」彼女は冷静に理解していた。影斗のもとですら削除された録音だ。自分の手に残せるはずがない。もちろん、影斗に対するわずかな疑念が脳裏をかすめたこともある。けれど――人為的に近づかれた
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第483話

彼女たちはこの宴会を非常に重視し、美容室に通い、ヘアメイクを整え、礼服を試着して――丸一日を忙しく過ごしていた。雨音は抑えきれぬ興奮を隠せない。「聞いた?今日は澄玲さんだけじゃなく、あの令嬢の雲井明日香さんまで来るんだって!澄玲さんと明日香さん、私の二大女神なの。絶対にサインをもらわなきゃ!」普段なら、綾子は娘のはしゃぎぶりをたしなめていただろう。だがこの日ばかりは、何も言わなかった。今回の宴に招かれる家柄は、神谷家より上か、少なくとも同等。格下はあり得ない。雨音がそこで人脈を築けたら、それは大きな収穫となるからだ。綾子は鏡の前に立ち、自分の姿を念入りに確認しながら娘に言いつける。「雲井家の三人の御曹司のことも、気に留めなさい。雲井三兄弟は家柄も実力も申し分なく、素行にも問題がない。もし葛西家に嫁げるなら、それはあなたの前世からの福運よ。三兄弟に気に入られなければ、葛西家の若旦那を狙うのもいい。葛西誠一も弟の葛西輝も、まだ恋人はいないそうよ。好機を逃さないこと」母の言葉に、雨音の高揚した気持ちはすっと萎んだ。彼女は男には興味がない。ただ、明日香や澄玲といった「トップの令嬢」のような女性たちにこそ心惹かれていた。彼女たちこそ、本当の人生の勝者なのだから。けれど、綾子に逆らうわけにもいかない。雨音は目を瞬かせ、策を思いついた。「雲井家の当主の正道さんも宴に来るでしょ?お母さんがその方と少し言葉を交わせれば、私が雲井家の人たちと知り合うきっかけになると思うの。でも......お母さん、性格は控えめにね。あまり強く出すと、男の人は引いてしまうものよ。優しい女性が好まれるんだから」綾子は無意識に鏡を見つめた。映るのは、年齢こそ若くないが、なおも艶やかさを失わない女。中年女性によくある体型の崩れもなく、プロポーションは見事なまま。ただ、長年の気丈さゆえに、表情には隙のない厳しさが漂い、親しみにくい印象を与えてしまう。この年齢になり、二度の失敗した結婚を経た綾子に、もはや男への関心はなかった。けれど――神谷家を、そして雨音をさらに上の地位へ押し上げるためなら、努力を惜しまぬ覚悟だった。ふと、何かを思い出したように口を開く。「もし雅臣が結婚
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第484話

玄関前に停まっていたのは、高級仕様のビジネスカーだった。ドアを開けると、雅臣、清子、そして翔太がすでに乗り込んでいた。翔太は綾子と雨音の姿を見て、声をかける。「おばあちゃん、おばさん」綾子は淡々と「ええ」と返しただけで、その視線は清子に注がれていた。この日の清子は、品よく仕立てられたドレスをまとい、華奢で儚げな雰囲気を一層際立たせていた。綾子の眉間にしわが寄る。「葛西先生の長寿祝いに、どうして彼女を連れて行くの?」雅臣の声は冷ややかだった。「届いた招待状に、清子の同行も求められていたんだ」綾子は意外そうに目を見開く。「彼女に?葛西家と何の縁があるのかしら」清子が控えめに口を開いた。「おそらく、私がワーナー先生の弟子になったからだと思います。なので、お招きいただけたのかと」その言葉に、綾子の表情はわずかに和らいだ。彼女も、一度は清子を神谷家に迎えることも悪くないと考えたことがある。だがそれは、雅臣が星との復縁を望んでいた時期の話だった。最近、雅臣が星について語ることはほとんどなくなり、ついに未練を断ち切ったのかと綾子は思っていた。そうなると、彼女の心は再び揺らぎ始める。――雅臣ほどの男なら、名家の令嬢を娶るべきだ。わざわざ清子を選ぶ理由がどこにある?清子は確かに星よりも優秀かもしれない。だが名家の娘には、家柄も実力も兼ね備えた女性がまだいくらでもいる。子持ちの男性でも構わないという女性だって、きっといるはずだ。今回の宴は、そうした令嬢たちと知り合える絶好の機会。明日香や澄玲などは望むべくもないが、葛西家にも独身の娘は少なくない。もし縁がなければ、その時は改めて清子を考えればいい。何より今の清子は、ワーナー先生の門下で、しかも最後の弟子。家柄こそ貧しいが、女性としての資質は申し分ない。「ワーナー先生も来るの?」と綾子。清子は微笑み、うなずいた。「はい。ワーナー先生もご出席なさいます」ようやく綾子の視線が逸れる。今度は、黙り込んでいた翔太に向けられた。「翔太、勉強はどう?遅れていることはないでしょうね」翔太は小さく首を振る。綾子は孫の沈んだ様子に気づき、問いかける。「どうしたの?元気がないわね」この宴会
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第485話

綾子の言葉が終わる前に、雅臣の冷たい声が鋭く割り込んだ。「母さん、何馬鹿なことを言ってるんだ!」綾子は不快げに顔を曇らせる。「私が間違っている?二人が離婚してから、あの女が一度でも翔太を見に来たかしら?」雅臣の端正な顔にも、同じように冷たい色が宿る。「どうあれ、星が翔太の母親であることは、永遠に変わらない」なおも言葉を重ねようとする綾子を、雨音がうまく遮った。「お母さん、もうやめよう。葛西先生のお祝いの席が大事よ」この一言で、綾子は鼻を鳴らし、それ以上は口をつぐんだ。一方その頃。一台の控えめな高級車が、街道を滑るように進んでいた。車内にいたのは、雲井家の三人。靖が口を開く。「会社に急ぎの用件が入った。翔と忠は来られず、屋敷で影子を迎える準備をしている」正道は頷き、明日香に視線を向けた。その眼差しには、心配が滲んでいる。「明日香、体調はどうだ?」明日香の繊細な目元には、確かに疲れの影が差していた。彼女はかすかに首を振る。「大丈夫よ」正道は言った。「コンクールがあるなら、そちらを優先しなさい。葛西先生の祝いには、私と兄が出れば十分だ」明日香は微笑んだ。「今回S市に来たのは、影子を迎えるためよ。昔の誤解を解いておかないと、彼女の心にわだかまりが残ってしまうでしょう。それに......ワーナー先生も出席されると聞いた。ヴァイオリンの大家だから、一度お会いしたいの」正道はうなずき、その表情に安堵が広がる。今回の旅では、葛西先生の長寿祝いを終えたあとで、星に会う予定もあった。彼女の立場はいまだ微妙で、今は公にするわけにはいかない。そう考えながら、正道はふと問いかける。「明日香......お前は誠一という男を、どう思っている?」明日香は、父の考えを既に靖から聞かされていた。彼女はにこやかに答える。「私は彼を兄のようにしか見ていないわ。それ以上の感情はないわ」正道は満足げにうなずいた。「よく分かっているな。影子はこの十年、外で多くの苦労を背負ってきた。お前のように生まれながらに何不自由なく育ったわけじゃない。お前は影子より一つ年上だ。姉として、これからは影子に譲ってやることも忘れるな」言葉を切り、正道
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第486話

もしかすると、星のように無邪気で気楽な人生を好む人間もいるだろう。だが、自分は星とは違う。明日香は――野心を抱き、理想を追い求める女だった。凡庸に生きて終わるつもりなど毛頭なかった。だからこそ、正道の課す要求は、すべて完璧にこなすと心に決めていた。今の世の中は一見、男女平等のように見える。だが実際には、あまりにも多くの不平等が存在している。もし自分が雲井グループに入り、各界の権力者たちと渡り合えば、女という理由だけで軽んじられるだろう。だが――社交界の夫人や名門令嬢とつながりを持つなら、話は別だ。聞くところによれば、かつて父が失踪し、雲井グループが無人の船となっていた頃、母は社交界の夫人たちを通じて局面を切り開き、会社を安定させたという。上流社会においては、女性の力も決して侮れないのだ。父が彼女に商学を学ばせず、雲井グループへの出入りも禁じた本当の狙いは――名門令嬢たちの世界で人脈を築かせることにあった。この時代――人脈こそが、能力以上の価値を持つ。今回S市に来た目的は表向きには影子を迎えること、そしてワーナー先生に会うことだった。だが実際には、この宴を利用してさらなる人脈を広げようと考えていた。彼女はすでに「トップの令嬢」と呼ばれ、華やかな名声を得ている。だが友人は多いに越したことはない。この宴で顔を合わせる志村家、溝口家、葛西家、川澄家――いずれも、縁を結んでおくべき相手だった。星のことは......血を分けた妹とはいえ、どうしても距離を感じる存在だった。初めて会ったときから、同じ道を歩む人間ではないと直感していた。彼女は一度も、星をライバルと考えたことはない。たとえ彼女が株の一部を手に入れたとしても、明日香は気に留めなかった。――出発点が、高さを決めるのだ。星がどれほど努力を重ねても、自分の立つ場所には決して届かない。これまで自分が築いた交友関係は、星には想像もできない世界のもの。星が自分の地位を脅かすことなど、あり得ない。だからこそ、弟たちにいつも言っている。「星に敵意を持つ必要なんてない」と。それは口先の取り繕いではなく、本心からの言葉だった。もし星が幼いころから雲井家で育っていれば、多少の危機感はあったかもしれない。だが――外で育った彼
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第487話

誠一は、ふっと煙を吐き出し、気怠げに言った。「孫にすれば俺たちと家族同然になって、葛西家の誰かと縁組させることはできなくなる。弟子なら、家族にも他人にもなれる余地が残る。。どうせ口実に過ぎないんだ。弟子だろうが孫だろうが、大した違いはない。ただ――その女が本当にじいちゃんの言うように良い人間なのか、それとも最初からじいちゃんの正体を知った上で、わざと近づいたのか......そこが問題だな」輝が尋ねる。「お前はどっちだと思う?」「俺は後者だと思うね」その答えに、輝はじっと弟を見つめた。「ほう、お前がそんなに勘が鋭いとはな。らしくないな」誠一の声は低く沈む。「俺が少しでも成長しなきゃ、明日香の隣に立って、友人でいる資格すらないだろう」輝は冷ややかに言った。「まだ明日香のことを引きずってるのか?あの子がお前を好きな素振りなんて、これっぽっちも見せてないぞ」誠一は肩をすくめる。「好かれなくてもいいさ。どうせ俺じゃ釣り合わない。でも......遠くから、彼女の幸せな姿を見られるだけで十分だ」輝は呆れたように吐き捨てた。「お前、本当に自己犠牲的だな。今どきそんな無私な男なんて滅多にいないぞ。......ただし」言葉を切り、話題を変える。「明日香とは無理だと分かってるなら、どうしてあの田舎から来た妹の方と、真剣に向き合わない?名前は......そうだ、雲井影子だったな。確かに私生児ではあるが、家柄としては葛西家と釣り合うし、お前に対しても一途じゃないか。この時代、そこまで一心に想ってくれる女を見つけるのは、本当に難しいぞ」影子の名が出た瞬間、誠一の表情が沈んだ。気分が一気に曇り、口調も荒くなる。「お前の恋人だってそうだろう。お前が事故で目を失ったとき、必死で支え続けて、一番辛い時期を共に乗り越えてくれた。長い年月をそばで支えて、叔父夫婦だって葛西家の嫁にふさわしいと認めていた。なのにお前は、お前を捨てた初恋の方を今も忘れられない。少しでも良心がある人間なら、そんな真似できるはずがないだろ」輝の眉がぴくりと動く。「俺は忘れられないんじゃない。ただ......当時の裏切りを償わせたいだけだ」誠一は眉を跳ね上げ、皮肉げに笑った。
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第488話

輝はこれ以上弟と口論したくはなかった。「俺に説教してる暇があるなら、あの女がどんな人間なのか探ってみろよ。本当にじいちゃんに近づこうとしてるのかどうか、確かめるべきだ」誠一は肩をすくめ、それ以上は茶化さなかった。舞台裏。星のもとに、葛西先生から電話が入った。「星、今日は古い友人たちが大勢来てな、こちらは手が回らん。お前のところには顔を出せそうにない。事前に決めたプログラム通りに演奏を進めてくれ。終わったら改めて、お前をあの連中に紹介してやろう」受話器越しにも、賑やかなざわめきが聞こえてくる。「はい。葛西先生はご自分のことをなさってください。こちらは私がきちんと進めます」電話を切ると、星は時間を確認し、指示を出した。「先輩、まずはあなたの独奏で幕を開けて」奏は名の知れた演奏家だ。観客の老人たちが彼を知らなくても、彼をトップに据えることで、この慰問演奏への誠意を示すことができる。だが、奏は即答せず、何かを思い詰めたように遠くを見つめていた。このところ、彼の様子はどこかおかしい。練習中にさえミスを連発する――かつてはあり得なかったことだ。まだ、あの件を引きずっているのだろうか。星が考えていると、凛が戻ってきた。今回の演奏には、彼女も加わることになっていた。奏と凛はともにヴァイオリン奏者だ。さらに怜もヴァイオリンを弾く。同じ楽器が続けば、観客が飽きてしまう恐れがある。そこで星は凛のピアノ演奏を間に挟むことを提案し、葛西先生も賛同してくれた。慰問演奏とはいえ、星にとっては初めての正式な公開ステージ。この音楽会に、彼女は全力で臨んでいた。だが、凛の表情に陰りがあるのを見て、星は問いかけた。「凛、どうしたの?何かあった?」凛ははっとしてから、少し迷い、正直に口にした。「......さっき、元彼を見かけた気がするの」「元彼?」凛はうなずいた。「外にたくさん人が入ってきて、その中に......彼がいたの」彩香も驚いて首をかしげる。「見間違いじゃないの?今日の演奏は慰問が目的でしょ。来るのは年配のおじいさんおばあさんばかりじゃない」凛は小さく息を吸った。「私の元彼、葛西輝っていうの。もしかして、葛西先生と親戚なん
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第489話

彩香は少し考えて言った。「もしかしたら、葛西輝は葛西先生の遠縁なのかもね。あるいは......祖父母に付き添って来ただけかもしれない」もちろん、本当に親戚という可能性もあった。だが、それは自分たちには大した関わりのないことだ。星は声を落として尋ねる。「凛、さっきのことで演奏に支障はない?」凛は慌てて首を振った。「大丈夫。星、安心して。もう誰にも左右されないから」名目上、星は彼女の雇い主だが、ふたりはいつも友人のように接していた。星は微笑んでうなずいた。宴会開始の一時間前。勇は両親と共に会場に到着していた。招待状を差し出す前、父はわずかに緊張を浮かべて警備員を見やった。天下に名を轟かす葛西家が、自分たちのような家に招待状を送ってきたのだ。信じられなかった。しかも招待状には、息子の勇の名まで記されていた。父は最初、誰かの悪戯だと思い、わざわざ確認の電話を入れた。だが返ってきた答えは――本物だ。葛西家が本当に彼らを招いていた。長年、ビジネスの世界を渡り歩いてきた父ですら、この時ばかりは心を乱されていた。なにしろ、この宴に集まるのは、どれもが最高峰の名門ばかり。山田家のような家など、取るに足らぬ存在にすぎない。警備員が招待状を確認し、にこやかに言った。「三名様、ご入場ください」父はようやく胸をなで下ろす。ホールに入ると、母も少し安堵したようだった。だが普段の優雅さはどこへやら、挙動には小心さが滲み出ていた。いつどんな大物に出会うか分からず、無礼を働かないかと神経を尖らせているのだ。母が小声で言う。「私たちと葛西家には何の縁もないのに......どうして招かれたのかしら?」勇は得意げに胸を張る。「聞いた話だと、雅臣と清子も招待されてるんだって。葛西家がS市に滞在している以上、神谷家に顔を立てるのは当然さ。雅臣が招かれるのは筋が通ってる。それに清子は――」勇の顔には誇らしげな色が浮かんでいた。「ワーナー先生の弟子だよ。今や身分は一変した。普通の令嬢なんかより、よほど高貴さ」ホールはすでに人で溢れ、見知らぬ顔ばかり。父は軽々しく声をかけることもできず、立ちすくんでいた。勇は辺りを見回し、雅臣と清子の姿を探し
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第490話

星は内心に疑念を抱きつつも、わざわざ勇のような男に口を費やす気にはなれなかった。彼女は冷ややかに一瞥をくれると、そのまま背を向けて歩き出した。ところが、勇はそれを動揺の証だと受け取り、進路を塞いだ。「星だろ?やっぱり忍び込んだんだな!」星の姿を目にした途端、勇は勝ち誇った闘鶏のように昂ぶり、父からの注意などすっかり頭から吹き飛んでいた。彼は声を張り上げた。「ここに責任者はいないのか?招待状も持たずに宴に紛れ込んだ女がいるぞ!こんな怪しい女は、さっさと追い出すべきだ!」ちょうどそのとき、雅臣と清子が姿を現した。翔太は星を見つけると、瞳を輝かせた。「ママ!」思わず駆け寄ろうとしたが、綾子に腕を掴まれた。「翔太。今日の宴がどれほど大切か、おばあちゃんが教えたわよね。お行儀は?」翔太は一瞬きょとんとしたが、すぐに項垂れ、大人しく綾子の傍らに立ち尽くした。清子も、ここで星に出くわすとは思ってもいなかった。だがすぐに何かに気づいたように、にこやかに口を開く。「雅臣、星野さんがいらしているわ。あなたを訪ねてきたのかしら、それともワーナー先生を。様子を見に行きましょう?」雅臣は淡々と「うん」と応じ、母に向き直った。「母さん、俺と清子で見てくる」翔太が不意に言った。「パパ、僕も行く」雅臣は翔太が長らく星と会っていないことを思い出し、軽く頷いた。「じゃあ一緒に」綾子の顔には明らかな不快が浮かんだ。言葉を発しかけたが、周囲の視線を意識して、ぐっと飲み込んだ。今日の宴は何よりも大切なのだ。星ひとりのために自分の印象を損なうわけにはいかない。星が会場を離れようとしたその背後から、やわらかい声がかかった。「星野さん、ワーナー先生はもうお弟子を取らないと仰っていたわ。あなたがこんなことをすれば、ワーナー先生を困らせるだけよ」振り返ると、清子が優雅な足取りで近づいてくる。手を繋いでいるのは翔太、その隣に雅臣。三人並んだ姿は、まるで本物の順風満帆な家族のようだった。星が返す前に、清子はさらに続けた。「ワーナー先生も年を召されて、もう昔のようなお体ではないの。これ以上、ワーナー先生に縋るのはやめてほしいわ」清子は、星がここに来たのは雅臣
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