All Chapters of 夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!: Chapter 571 - Chapter 580

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第571話

彼女は――このことを、もとより雅臣に隠すつもりなどなかった。ただ、彼が一度も尋ねなかっただけだ。二人が結婚したとき、式は挙げなかった。婚姻届を出す前に、雅臣がただ一度だけ聞いた。「お前のご両親には、知らせておいた方がいいか?」そのとき、星は淡々と答えた。「母はもう亡くなってるし、父とは長いこと連絡を取っていない。知らせる必要はないわ」それきり、雅臣は彼女の家族について二度と尋ねなかった。運転席に座る彼の指がハンドルの上で微かに動く。その言葉を思い出したのだろう。唇がわずかに開きかけたが、結局、何も言わずに閉じられた。確かに、自分は一度も聞かなかった。必要がないと思っていた――彼女を選んだ理由は、家柄ではなく「人柄」だったから。もっとも、その裏には関心の欠如も確かにあった。「......お前の父親が金を求めているのなら、いくらでも払う」静かな声だった。どうやら雅臣は、星の父が翔太を連れ去ったのは、金銭が目的だと思い込んでいるらしい。長年姿を見せなかった人間が、突然現れて孫を連れて行く――それを目的がないと信じる方が無理だった。その言葉に、星は驚いたように彼を見た。「あなた、明日香を知ってるわよね?」「え?」雅臣が一瞬、反応に詰まる。なぜ今その名前が出るのか、すぐには理解できない。「明日香さんとは......まあ、ただの知り合いだ。何年か前、少し手助けしたことがあって、それ以来――」星は彼の説明を冷ややかに遮った。「ただの知り合いが、息子と清子を連れて、一緒に食事をするもの?」澄玲から電話を受けたあと、星はすぐに影斗に調べを頼んでいた。結果、雅臣が翔太と清子を連れ、明日香と会食していたことがわかった。――そういうこと。だから靖があの件を知っていたのだ。雅臣が口を開こうとした瞬間、星の声が先に響く。「てっきり、明日香があなたに伝えたのかと思ったわ。......やっぱり、あなたは何も分かってないのね」雅臣の唇にかすかな笑みが浮かぶ。「星、まさか嫉妬しているのか?」星は数秒黙り、それから皮肉な声で返した。「さすが清子と長く一緒にいるだけあるわね。思考まで同レベルになったの?」雅臣の瞳が、ほんのわずかに細められる。
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第572話

正道は鼻を鳴らした。「ここはS市だぞ。私が孫を連れ去るとでも思っているのか?それに、子どもひとり満足に見ていられない神谷家の責任を、私に押しつけられても困るな」その言葉に、明日香が小さく眉をひそめる。「お父さん、客人がいらっしゃったわ」彼女の声に促され、正道が振り返る。目に入ったのは、部屋の入り口に立つ星と雅臣の姿だった。正道の顔に、一瞬だけ柔らかな笑みが浮かぶ。「星か。よく来たな」けれど、その視線が雅臣に移った途端、表情は一変する。険しい色が浮かび、冷たく鼻を鳴らした。「おやおや、これは雅臣さんじゃないか。さぞお忙しいんだろう?――息子を見失うほどに」雅臣は、車の中ですでに綾子から事情を聞いていた。今日は翔太を連れて射撃練習に行っていたが、知り合いに声をかけられ、ほんの少し目を離した隙に姿が見えなくなったという。当初は施設内にいると思い探し回ったが、どこにもいなかった。慌てて周囲を探した末、ようやく彼女は雅臣に電話をかけてきた。そんな経緯を胸に抱えながらも、雅臣の表情は穏やかだった。「正道さんの言うとおりです。今後は気をつけます」素直な返答に、正道の眉間がわずかに緩む。そして、星に向かって手を差し出した。「星、こっちへ来なさい。父さんのそばに座れ」だが、星は動かない。静かに立ったまま、まっすぐ彼を見据えて言った。「正道さん。――翔太をここへ連れてきた理由を、聞かせてもらえる?」「正道さん」という呼び方に、場の空気が一気に凍りついた。正道の顔が瞬く間に曇り、重苦しい沈黙が落ちる。靖も明日香も、思わず視線を交わした。最初に声を上げたのは靖だった。「星、お前はいったいどういう口の利き方をしてるんだ?相手はお前の父親だぞ!」星は彼の方を見やり、淡々と返す。「私はもう雲井家の人間ではない――そう言ったのは、あなたたちでしょう?自分たちの言葉を、もう忘れたの?」靖の顔に薄氷のような怒りが走る。「それは父さんが一時の感情で言っただけだ。真に受ける方がどうかしてる。星、父親はいつだって父親だ。親を恨むのは、子としてあるまじきことだぞ。今ここで謝りさえすれば、雲井家の娘として迎え入れてやる。――それで
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第573話

思いもよらず、星は依然として頑なだった。「星、誠一の件は――」靖が言いかけたその瞬間、正道が軽く咳払いをして制した。「靖、過去のことはもういい。蒸し返しても仕方がない」穏やかで落ち着いた声音。まるで慈父そのものの口調で、正道は柔らかく微笑む。「おまえは母親によく似ている。気が強くて、負けず嫌いでな」「さあ、立ち話もなんだ。座って話そうじゃないか」星は黙って頷くと、翔太の隣に腰を下ろした。「翔太、怖くなかった?」翔太はもう怯えた様子もなく、ほっとしたように笑った。「ううん、もう大丈夫。最初はまた悪い人に連れて行かれたかと思ったけど......」彼は少し言い淀み、明日香の方を見た。「でも、明日香おばさんが帰ってきて、ちゃんと説明してくれたんだ」その瞳は星をまっすぐに見つめ、澄んだ光を帯びている。「ママ、本当にこの人たち、僕の親戚なの?」星は答えに詰まった。――「違う」と言いたかった。けれど血のつながりだけは、否定しても消せるものではない。自分は雲井家を拒むことができる。けれど、翔太がどう生きたいか決める選択肢を、奪うことはできない。何も言えず、ただ静かに沈黙を選ぶ。そのとき、ずっと黙っていた明日香が口を開いた。「雅臣さん、先日はお会いしたときに、この件をお話しできず失礼いたしました」雅臣はちらりと星を見た。――彼女が黙っていた理由が、ようやく理解できた。「構いません」短い返答。声に波はなかった。先日の会食のあと、翔太が明日香からもらった見舞いの品を開けたとき、中身の価値は二億円をゆうに超えていた。明日香にとってはさほどの額でも、普通ならあまりに高価すぎる贈り物。雅臣はそのとき、かつて自分が助けた礼だと思っていたが――今は違うとわかる。あの場で彼女が翔太に会いたかったのは、別の理由からだ。正道が湯飲みを取り上げ、穏やかに言った。「星。父さんもね、知らせずに翔太を連れて来たのは良くなかったと反省している。だが――神谷家の人間があんなにも簡単に子どもをさらわれるとは、どういうことだ?それはつまり、子どもへの注意が足りないということだ」言葉を区切り、視線が鋭さを帯びる。「ならば、いっそ翔太をうちで預かろう
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第574話

雅臣は、株式譲渡書の最後の一行まで静かに目を通した。やがて、書類を閉じると同時に、その声が低く、しかしはっきりと響いた。「正道さん。申し訳ありませんが――翔太の親権をお渡しするつもりはありません」その拒絶は、あまりにも潔く、ためらいすらなかった。正道も靖も、一瞬言葉を失う。明日香でさえ、わずかに目を見開いた。雲井家の株を五パーセント――それは莫大な価値を持つ「誠意」だ。多くの人間が、この話を前にすれば膝を折るだろう。だが雅臣は、淡々と続けた。「翔太は、俺の息子です。どんな条件を出されても――誰にも、渡すことはできません」静けさが落ちた。正道が茶碗を持ち上げ、ゆっくりと茶をすすりながら口を開いた。「雅臣さん。うちで育てることになっても、君が父親であることに変わりはない。親子の縁を奪おうなどとは思っていないよ。我々はただ、翔太によりよい環境を与えたいだけだ」それでも、雅臣の態度は一寸も揺らがなかった。条件の話すらしない。完全な拒絶――正道の目に、初めてほんのわずかな驚きの色が浮かぶ。――これほどの誘いを断る者がいるとは。雲井家の血縁に連なることは、すなわち社会の頂点に立つことを意味する。たとえ神谷家といえど、雲井家の後ろ盾を得れば、短期間で財閥の階層を一段飛びに越えることができる。それを、彼は蹴ったのだ。正道は考えを変え、視線を星に向けた。「星。おまえが子どもの母親だ。――おまえの考えを聞こう」星は書類を閉じ、黙って翔太の方を見た。「翔太、あなたはどう思うの?」彼女の瞳には、少しの逡巡もなかった。雲井家の持つ力を理解していないわけではない。自分が若い頃に見た狭い世界と、雲井家の広大な人脈・資源との差は痛いほど分かっている。たとえ彼らの家に温かさがなくても――翔太の未来を考えるなら、神谷家よりもはるかに恵まれた環境だろう。だが、それを決めるのは自分ではない。翔太は小さく唇を動かした。「ぼく......」何かを言いかけたその瞬間、正道が笑い声をあげて遮った。「翔太は雲井家の初孫だ。私がこうして話を持ちかけるのも、すべては彼の将来を思ってのことなんだよ。もうすぐ靖の婚約も決まる。篠宮凛と翔の結婚も近い。
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第575話

二人が部屋を出た後、客間には靖、明日香、雅臣、そして翔太の四人だけが残った。靖がふいに口を開いた。「雅臣。おまえがうちの妹に頼んで、澄玲を特別ゲストとして招かせたのは......小林清子のためか?」雅臣は軽くうなずいた。「そうだ」靖の表情が険しくなる。「以前は、おまえが俺たちと星の関係を知らなかったから目をつぶってやった。だが今は違う。関係を知っていながら、そんな頼みを持ちかけるのは筋が通らない。一人の愛人のために、実の妹の顔に泥を塗るような真似――俺たちにできると思うか?」その言葉に、明日香が驚いたように雅臣へ視線を向ける。「雅臣さん......まさか、澄玲が特別ゲストを引き受けた相手って、星のことだったんですか?」雅臣は否定もせず、穏やかに言った。「申し訳ありません。当時はあなたたちの関係を知らず、面識もないと思っていました。それで話題に出さなかったんです」明日香は少し考え、納得したようにうなずく。「なるほど......そういうことだったのですね。でも――」彼女は言葉を切り、落ち着いた声で続けた。「兄さんの言う通りです。この件であなたを手助けするということは、つまり星の立場を傷つけることになります。だから......申し訳ないけれど、今回はお断りします。他に私の力が必要なことがあれば、そのときは手を貸します」彼女自身も、雅臣と清子が星と争うような状況になっているとは思いもしなかった。いくら恩があっても、妹を公然と敵に回すようなことをするつもりはなかった。雅臣はしばらく沈黙してから、静かに言った。「俺と清子は、世間が言うような関係ではないです。確かにかつて付き合っていましたが、星と結婚した日からは、一度も彼女とよりを戻そうとは思っていません。彼女は不治の病を患っていて......俺には、どうしても償いきれない負い目があります。だからこそ、せめて最後の願いを叶えてやろうと思っただけなんです」その声音は静かで、表情もまた穏やかだった。「断言できます。結婚してから、浮気など一度もありません。俺と清子の関係は、清廉そのものです」その説明を聞き、靖の顔色はようやく少し和らぐ。「どうあれ、お前たちが離婚した原因は清子にある。も
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第576話

「翔太くん、あとでおばさんが、あなたの好きなスイーツを作ってあげるわ。いいでしょう?」清子がそう声をかけると、翔太は素直に彼女へ挨拶した。「清子おばさん」そして、隣に立つ星を見上げて、小さな声で言う。「清子おばさん、ぼく、あとでママと帰るんだ」その言葉に、小林清子はようやく星に気づいたように、わずかに眉をひそめた。「星野さんもいらしてたのね?翔太くん、あなたたち、どうしてここに?」翔太が答える。「おじいちゃんに会いに来たんだ」「おじいちゃん?」清子の目がわずかに揺れる。星を見つめ、驚いたように声を落とした。「......星野さんのお父さま、ということ?」星は無表情のまま、何も返さなかった。雅臣もまた、余計な言葉を足すつもりはないようだった。「清子、悪いけど、こっちはまだ用事がある。また今度、時間のあるときに」清子が何か言いかけたが、雅臣はすでに歩き出し、車へと向かっていた。翔太もそれに倣い、「さようなら」と挨拶して車に乗り込んだ。星は、一度も清子の方を見なかった。清子はその場に立ち尽くし、遠ざかっていく車の背をじっと見送る。その目の奥に、冷たい光が宿った。彼女はスマホを取り出し、ある番号を押した。ほどなくして、電話がつながった。受話口から、澄んだ低い男の声が流れてくる。「清子、最近はずいぶん積極的じゃないか。ここ数年分を合わせたより、今月のほうがよほど電話回数多いぞ」清子は前置きもせず、すぐに本題に入った。「さっき星を見かけたの。翔太くんの話だと、彼らは翔太くんのおじいちゃんを訪ねてきたらしいの。仁志――あの別荘に誰が住んでいるのか、調べてもらえる?」星の母である夜は、もうこの世にいない。その娘が脅威になることなど、これまで考えたこともなかった。だが――今になって、星の父親が現れたというのか。清子は目の前の壮麗な別荘を見上げ、まぶたをぴくりと震わせた。この邸は、自分の家よりもさらに立地がよく、明らかに一流の金持ちが所有している。こんな場所を容易く買える人間が、凡庸なわけがない。清子はずっと、星を「普通の家庭の娘」だと侮っていた。だが、星が夜の娘だと知って以来、心の奥に拭えない不安が芽生えていた。電話の向こ
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第577話

「もし星が雲井正道の娘だとしたら......私たちが星を相手にするのは、もっと難しくなるじゃない!」清子の声は鋭く、これまで装ってきた「穏やかで上品な女」の仮面が剥がれ落ちた。かつては仁志を避けていた彼女が、いまはその手を借りてでも星を消し去りたいと願っている。清子の顔は、歪み、醜悪なほどにねじれていた。――どうして?夜が母親で、正道が父親。そのうえ靖や明日香のような兄弟姉妹までいる。夫は雅臣、幼なじみは奏。さらに影斗が惜しみなく助け、葛西先生のような後ろ盾までいる。どうしてあの女だけ、こんなにも恵まれているのか。清子の胸は嫉妬で煮えたぎり、もはや別人のような顔つきになっていた。星の手札は、あまりにも強すぎる。どれほど自分に「星なんて大したことない」と言い聞かせても、今目の前にある差を見せつけられれば、もう自分を欺けない。星の周囲には、権力と名声を持つ人間ばかりがいる。それに比べて自分は――そばにいるのは、頭の悪い勇と、もはや味方ではなくなった雅臣。そして、いつ自分の嘘に気づくかわからない仁志。清子のカードは、最悪だった。こんな状態で、どうして星に勝てるというの?その時、電話の向こうで仁志の声が静かに響いた。「そうとも限らない。もし雲井家が星の正体を公にしたいなら、すでに何らかの噂が出ているはずだ。だが実際には、業界の誰も知らない。――それが何を意味するか、わかるか?」清子の頭は混乱しきっていて、思考がまとまらない。「......どういう意味?」仁志は小さく笑った。「つまり、それだけ徹底して隠しているということだ。雲井家にとって、星など脅威ではない。むしろ存在を隠すことで、彼女を無かったことにしている。だが――もし彼女の正体がバレたら、雲井家との間に避けようのない亀裂が走る。そのときは、互いに潰し合うことになるだろう。昔のように、星が無名で誰からも踏みにじられる存在なら別だ。けれど今は違う」仁志の声には、底に冷たい愉悦が滲んでいた。「彼女の周囲にいる人間は、どれも一筋縄ではいかない。雲井家と星――どちらもそう簡単に抑えられない相手だ。だったら、二人が潰し合うのを見てから、一気に叩き潰す方がずっと面白いだろう?」その言
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第578話

エンジンがかかると、雅臣がハンドルを握りながら星に尋ねた。「家に戻るか?それとも、スタジオへ?」星は短く答えた。「スタジオ」雅臣は小さく「わかった」と言い、ハンドルを切った。バックミラー越しに星の横顔を見て、ふと声を落とした。「......機嫌が悪いみたいだな」星の返事は冷たく、皮肉が滲んでいた。「あなたには関係ないわ。気にすべきなのは、私の気分じゃなくて――清子の病気でしょう?もし音楽会の前に発作でも起こしたら、あなたがあれほど尽くしたことが全部無駄になるわよ」雅臣は、言葉に潜む棘を感じ取ったが、表情を変えず前を見つめたまま言った。「昨日、また清子を精密検査させた」星は首を向ける。「結果は?悪化?それとも、回復?」「......葛西先生の薬が、よく効いている」星は薄く笑った。「つまり、良くなったってことね」「清子は毎週、定期検査を受けている。当初、俺も彼女の病気を信じていなかった。だから専門の医師やチームに依頼して検査させたが、どの結果も同じだった」星は静かに息を吐き、淡々と口を開いた。「じゃあつまり、葛西先生が私を助けようとして、あなたをだましたって言いたいの?」「......そういう意味じゃない」星は冷ややかに笑ったきり、もう口を閉ざした。――自分で目を背けている人は、他人がどんなに真実を見せようとしても意味がない。たとえ清子の本当の病状を突きつけたところで、雅臣はきっと反射的に彼女をかばうだろう。車内には、重い沈黙が落ちた。後部座席の翔太が、母と父を交互に見つめる。何か言いたげに唇を開いたが、結局、声にはならなかった。しばらくして、雅臣の低く沈んだ声が響いた。「......本物の病気だろうと偽物だろうと、音楽会が終われば、俺が彼女に負っているものは、すべて清算する」星は表情を変えず、何も言わなかった。車は静かに星の新しいスタジオへ向かって走る。途中、雅臣は何度か言葉を探すように口を開きかけたが、そのたびに飲み込み、また黙り込んだ。やがて、翔太が小さな声で言った。「ママ......ぼく、ママのところに、しばらく泊まっちゃだめ?」星が横を向く。「どうして急にそんなことを?」「パパ、いつも家にいない
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第579話

「もし翔太が、また神谷家の手でいなくなるようなことがあれば――私は裁判を起こして、親権を取り戻すわ」そう言い切ると、星は雅臣の返事を待つこともなく、背を向けて去っていった。星は本当に忙しかった。音楽会の準備に追われる一方で、さまざまな演奏会やコンクールにも出場していた。その日、星はあるコンクールの会場で、清子の姿を見つけた。音楽業界で箔のつく大会といえば数えるほどしかない。そこで彼女と顔を合わせても、もはや驚きはしなかった。周囲の人々もすぐにざわめきはじめる。「えっ、あれって小林清子じゃない?彼女も出るの?」「聞いた話だと、ワーナー先生の推薦があるから、予選を受けなくていいらしい」「ワーナー先生の弟子ってこと?じゃあ、もう勝ち目ないじゃん......」「まったく、どうして毎年こういう化け物級の天才が出てくるのよ!」清子はそのワーナー先生の隣に立ち、大会責任者と話し込んでいた。星は一瞥しただけで、視線をそらす。この大会では、著名な音楽家から推薦を受けた者は、予選を免除されることがある。さらに運が良ければ、直接本戦に進める場合もあった。一見、不公平に思えるが、実際には師の側にとって大きな賭けだ。推薦した弟子があっさり敗退でもしたら、疑いの目はその師に向けられ、評判にも傷がつく。だからこそ、本当に信頼できる弟子でなければ、どんなに有名な師でも軽々しく推薦はしない。予選が始まろうというこの時間に清子がようやく姿を見せたということは、どうやら締め切りに間に合わなかったらしい。だがワーナー先生の推薦さえあれば、彼女はそのまま本戦に進める。今回の大会は三年に一度の大舞台で、業界でもっとも権威あるもののひとつだ。名師の推薦といえども、せいぜい予選免除まで。決勝に直行できるほど甘くはない。なぜなら、決勝の上位入賞者は、海外の演奏家たちと国際親善コンサートで共演することになる。この国際大会は毎回、世界中の注目を集め、名を広める絶好の機会でもあるのだ。近年、Z国の音楽界は人材が乏しく、団体戦では奏が平均点を引き上げなければ、最下位に沈むところだった。川澄奏が名を上げたのも、この大会がきっかけだった。だが今年、奏はもう出場しない。音楽会が終われば、父との約束どおり
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第580話

「車、故障したのか?」運転席の窓から身を乗り出し、雅臣が声をかけた。星は視線も上げず、手を動かしたまま答える。「......ええ、ちょっとね」風と雨が入り乱れ、びしょ濡れの星は見るからに惨めなほどだった。「俺の車に乗れ。送っていく」「いいわ、友達を呼ぶから」「ここから市街地まで、車で一時間以上かかる。この雨じゃ、向こうに着くには二時間以上だろう」雅臣は空を見上げ、低く唸るように言った。「今日は日が落ちるのも早い。ここは郊外だ、ひとりでいるのは危ない」星は彼と関わりたくなくて、冷ややかに返す。「大丈夫。気をつけるから」それでも雅臣は言葉を引かず、突然ドアを開けて車を降りた。黒い傘を差し、星の方へと歩み寄る。星は思わず身構えたが、雅臣は何も言わず、ボンネットの前に立ってエンジンを覗き込み、雨の中、黙々と手を動かし始めた。二人の肩を覆う傘は、上半身を守るのがやっとだった。雅臣は片手で傘を持ち、片手でエンジンを確かめている。その不器用な様子に、星はわずかに眉を寄せ、ため息をつくようにして言った。「......貸して。私が持つわ」「......ああ」雅臣は短く応じ、傘を渡した。雨が傘を叩き、滴が細かく跳ねる。しずくが、男の端正な横顔を伝って落ちていった。ひととおり確認を終えると、雅臣はボンネットの奥を指さした。「完全にエンジンがやられてる。今俺たちにできることはない。整備に出さないと」星は眉をひそめた。「俺が送っていく。気温も下がってきた、ここでひとりで待ってたら風邪をひくぞ」一拍置いてから、雅臣は穏やかに続ける。「このところ、コンクールや音楽会の準備で忙しいだろう。体調を崩したら元も子もない」星は少し考え、うなずいた。「......じゃあ、お願い。市内まで送って。あとは友達に迎えに来てもらうわ」雅臣は彼女を見つめ、ふと低く言った。「星......俺たちには翔太がいる。これからも完全に縁を断つなんて、無理だろう。おまえはいつも、俺が償うべきだと言う。なら――これをその償いの一つだと思えばいい」星は無表情のまま言葉を返す。「神谷さんは優秀なビジネスマンね。あなたの償いも、すべて値札つき
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