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第571話

Author: かおる
彼女は――このことを、もとより雅臣に隠すつもりなどなかった。

ただ、彼が一度も尋ねなかっただけだ。

二人が結婚したとき、式は挙げなかった。

婚姻届を出す前に、雅臣がただ一度だけ聞いた。

「お前のご両親には、知らせておいた方がいいか?」

そのとき、星は淡々と答えた。

「母はもう亡くなってるし、父とは長いこと連絡を取っていない。

知らせる必要はないわ」

それきり、雅臣は彼女の家族について二度と尋ねなかった。

運転席に座る彼の指がハンドルの上で微かに動く。

その言葉を思い出したのだろう。

唇がわずかに開きかけたが、結局、何も言わずに閉じられた。

確かに、自分は一度も聞かなかった。

必要がないと思っていた――彼女を選んだ理由は、家柄ではなく「人柄」だったから。

もっとも、その裏には関心の欠如も確かにあった。

「......お前の父親が金を求めているのなら、いくらでも払う」

静かな声だった。

どうやら雅臣は、星の父が翔太を連れ去ったのは、金銭が目的だと思い込んでいるらしい。

長年姿を見せなかった人間が、突然現れて孫を連れて行く――

それを目的がないと信じる方が無理だった。

その言葉に、星は驚いたように彼を見た。

「あなた、明日香を知ってるわよね?」

「え?」

雅臣が一瞬、反応に詰まる。

なぜ今その名前が出るのか、すぐには理解できない。

「明日香さんとは......まあ、ただの知り合いだ。

何年か前、少し手助けしたことがあって、それ以来――」

星は彼の説明を冷ややかに遮った。

「ただの知り合いが、息子と清子を連れて、一緒に食事をするもの?」

澄玲から電話を受けたあと、星はすぐに影斗に調べを頼んでいた。

結果、雅臣が翔太と清子を連れ、明日香と会食していたことがわかった。

――そういうこと。

だから靖があの件を知っていたのだ。

雅臣が口を開こうとした瞬間、星の声が先に響く。

「てっきり、明日香があなたに伝えたのかと思ったわ。

......やっぱり、あなたは何も分かってないのね」

雅臣の唇にかすかな笑みが浮かぶ。

「星、まさか嫉妬しているのか?」

星は数秒黙り、それから皮肉な声で返した。

「さすが清子と長く一緒にいるだけあるわね。

思考まで同レベルになったの?」

雅臣の瞳が、ほんのわずかに細められる。

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