夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する! のすべてのチャプター: チャプター 661 - チャプター 670

996 チャプター

第661話

雅臣の瞳がわずかに揺れた。そして、ようやく思い出したように低く言う。「......俺は言ったはずだ。あの件は、俺の仕業じゃない」星は、薄く笑った。その笑みには、冷えた皮肉が混じっていた。「じゃあどうして、あの時すぐに言わなかったの?スタジオを譲れと迫って、私が頷くまで何も説明しなかった。――それで潔白だと言えるの?」雅臣は言葉を失った。彼が星に支払った補償金は、決して少なくなかった。だが、それがどれほどの額であっても――奏があの件で巻き込まれなければ、星がスタジオを手放すことなどあり得なかった。だから今、星が仁志との会話を聞いて、「また何か裏で手を回している」と思っても、無理はなかった。その沈黙を破ったのは、仁志だった。彼は眉をわずかに上げ、長い睫を伏せる。「......僕にも、どこで神谷さんを怒らせたのか分かりません。神谷さんは僕のことを星野さんに取り入るための小賢しい男だと言い、女の金を騙し取るろくでなしだと罵ってきました」彼は静かに息をつき、穏やかに続けた。「星野さん、このところ僕のせいで、ご迷惑をおかけしたと思います。神谷さんがこれほど僕を嫌うのなら......僕は、もうあなたのそばにいないほうがいいのかもしれません」そして、わざとらしくもなく、ほんのわずかに苦しげな声で言葉を添える。「コンクールも近いですし、余計な騒動を起こすのは、望ましくないでしょう」雅臣の瞳が、すっと細められた。その視線は、まるで刃のように鋭く冷たい。「......挑発のつもりか?お前のやり口は稚拙だな」彼には分かった。仁志は、まるで暗にほのめかすように話していた――雅臣が星のコンサートを妨害すると。雅臣が気づくなら、星も当然気づく。案の定、星の表情は氷のように冷たくなった。「私は仁志の言葉、間違っているとは思わないわ」その声には微かな怒りが潜んでいた。「あなたは前に、私の大切な人を傷つけた。なら、二度目もないとは言い切れないでしょう?」彼女の瞳が冷たく光る。「でも今回は、あなたの思い通りにはならない。もし仁志に手を出すなら――私も同じように、小林さんの音楽会を潰すだけよ」雅臣の顔に、怒りの色が走った。それでも星の声は、
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第662話

星は、雅臣の言葉を背に受けながらも、一度も振り返らず、そのまま冷ややかに歩き去った。その表情に、怒りも悲しみもない。まるですべてが終わったあとに残る静かな空虚――彼の視界から完全に離れてようやく、星は小さく息をつき、隣を歩く仁志に向かって言った。「......ごめんなさい、仁志。あなたまで巻き込んでしまって」仁志は首を横に振り、穏やかに笑った。「仕事をしていれば、これくらいのことはありますよ。中村さんも言ってました。彼女がマネージャーをしていた頃なんて、もっと酷い目に遭ったことが何度もあるって。それに比べれば、こんなの取るに足りません」星は、そんな彼の姿に思わず視線を留めた。「......あなたって、本当に前向きなのね」仁志は肩をすくめ、冗談めかして笑う。「お金を稼ぐって、そんなに楽じゃないですから。それに、星野さんが僕に払ってくれてる報酬はかなりの額です。せっかく雇ってもらってるんですから、少しは値打ちを感じてもらわないと」その明るい笑顔に、星の口元もかすかに緩んだ。「......もし、彼がまたあなたにちょっかいを出してきたら、必ず私に言って。私はもう、あなたが理不尽に傷つけられるのを見たくない」仁志は穏やかにうなずいた。「分かりました。星野さんの言葉、信じます」二人が馬場に着くと、遠くから大きな拍手と歓声が響いてきた。「すごい!こんな見事な騎射、久しぶりに見た!」「なんて美しい人だ......芸能人か?」「馬鹿なこと言うな。あの人は芸能界の人じゃない。雲井家の長女だぞ。お前、下手に近づいたら命取りだ」星が目を向けると、陽光の下で馬を駆る明日香の姿があった。流れるような動きで弓を引き絞り、放たれた矢が――「シュッ」音を立てて、見事に的の中心へ突き刺さる。観衆のどよめきが沸き上がった。五つの的の中心、すべてが正確に射抜かれている。明日香は乗馬服に身を包み、長い髪をひとつにまとめて馬上に立つ。まばゆい陽光が彼女を包み込み、まるで戦場から現れた女神のような気高さをまとっていた。その場にいた誰もが、思わず息をのんだ。男性だけでなく、女性でさえもその姿に魅了されていた。翔太は小さな手をぱちぱちと叩き、目を輝かせて
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第663話

「琴も書も、私はあなたほどじゃないわ」優芽利がそう笑いながら言い、ふと視線を流した先に、星と仁志の姿を見つけた。彼女の唇に、さらに深い笑みが浮かぶ。騎乗したまま軽やかに近づき、弓を軽く掲げながら声をかけた。「星野さん、溝口さん。――あなたたちも、試してみない?」星は穏やかに微笑んだ。「ごめんなさい、私は騎射は得意じゃないの」「いいじゃない、遊びよ」優芽利は人懐こい笑みを見せる。「競技ってわけでもないし、気楽に楽しみましょう?」そのとき、翔太が星に気づき、ぱっと駆け寄ってきた。「ママ!ぼくも馬に乗っていい?」その言葉に、星は少し驚いた。以前なら、翔太は自分の意見を訊くような子ではなかった。いつも勝手に行動して、彼女を困らせたものだ。「......いいわよ。性格の穏やかな馬を選んでもらって、少しだけ練習してみましょう」翔太の顔が一瞬で明るくなった。その喜びように、星の胸の奥がわずかに温かくなる。そこへ航平が、小柄な栗毛の馬を引いてやってきた。その後ろには二人の騎乗インストラクターがついている。「翔太くんに合いそうな、穏やかな馬を選んでみた。気に入るかな?」いつもながら、航平は気が利く。翔太は嬉しそうに馬のそばへ駆け寄り、興味津々に眺めた。「航平おじさん、ありがとう!この子、大好き!」「この二人は翔太くんの先生だ。まず基礎から少し学んでみようか」航平の提案に、翔太は元気よくうなずいた。「うん!」翔太は先生たちと一緒に、馬場の端で楽しげに練習を始めた。そこへ、雅臣が歩み寄ってきた。冷静そのものの表情で、何を考えているのか分からない。航平が穏やかに声をかけた。「星野さんも、一頭選んでみないか?」この場に雅臣がいるため、彼はいつもより丁寧に呼びかける。星は一瞬迷ったが、せっかく来たのだからと頷いた。「......ええ、せっかくだから」それから隣の仁志に目を向ける。「仁志、あなたは?」「僕はやめておきます」「そう。じゃあ、ここで待ってて」星がそう言って馬を選びに行くと、すかさず清子が雅臣の腕に寄り添い、「雅臣、私たちも行きましょう?」と声をかけた。雅臣は淡々と頷く。「......ああ」や
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第664話

星はすぐに気づいた。――仁志のシャツの裾に、うっすらと飲み物の染みがついている。その向かいには、顔を引きつらせた三人の青年。身なりからして、どこかの資産家の息子たちだ。状況を見ただけで、何があったのかは察せられた。少し前、仁志は間違いなく絡まれていた――それでも星は驚かなかった。この手の高級クラブでは、金と地位がすべてだ。服装や物腰ひとつで「どの層の人間か」が一目でわかる。仁志の服は彩香が選んでくれたもの。決して悪くはないが、特注ブランドのような高級感はない。ここに集う連中は、靴一足で数百万、スーツ一着で軽く一千万円を超える。その中に普通の服装の男がいれば――それだけで、好奇と嘲笑の的になる。しかも仁志は目を引くほど整った顔立ちをしている。さっきも、星が馬を選んでいる間、何人もの令嬢たちが彼のもとに寄っていっては、「連絡先を教えてください」と微笑んでいた。......そんな光景を見れば、男の嫉妬を買うのも無理はない。だが今、その傲慢な若者たちは、優芽利の前で完全に萎縮していた。彼女の立場を知っているのだ。互いに目配せを交わすと、三人は揃って素直に頭を下げた。「申し訳ありませんでした」「本当にすみません」「失礼しました」優芽利はその様子を確認し、穏やかに仁志を振り返る。「溝口さん、これで気は済みました?」その声にはやわらかな響きがあったが、内に秘めた強さが感じられる。彼がまだ許せないと言えば、彼女は容赦なくこの場を収めるつもりだった。仁志は短く頷いた。「はい。もう結構です」「そう」優芽利は一転して冷ややかに三人を見据える。「溝口さんは寛大ね。でも――彼が許しても、私が許したわけじゃないわ」その一言に、三人の背筋がぴんと伸びる。「今日限りで、あなたたちの会員権は取り消し。このクラブに二度と足を踏み入れないこと」「は、はい!分かりました、司馬さん......」三人は慌てて頭を下げ、足早にその場を離れた。優芽利はようやく表情を緩め、仁志に笑いかける。「ねえ、私たち連絡先を交換しない?何か困ったことがあったら、いつでも連絡して」彼女はスマホを差し出した。だが仁志は受け取らず、穏やかに首を横に振る。「
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第665話

仁志が立ち去ったあと、優芽利は軽やかな足取りで星のもとへ歩み寄り、にこやかに挨拶を交わした。だが、その柔らかい笑みの裏に、どこか探るような光が潜んでいた。「星野さん、あなたのそばにいるあの溝口さん――実は、ちょっと気になっているの。もしよければ......彼を、私に譲ってもらえないかしら?」星は微かに笑みを返したが、声は冷静だった。「もし彼が司馬さんのところへ行きたいのなら、私は止めないわ。彼自身の選択よ。引き留めるつもりはないわ」優芽利は仁志の背中を目で追い、唇に意味深な笑みを浮かべた。「でも――あの様子を見る限り、どうやら彼は、あなたのそばを離れたくないようね」「それは私が決めることじゃないわ」星の声は淡々としている。優芽利はゆるく首を傾げ、穏やかに微笑んだ。「三倍の給料を提示しても動かないなんて......よほどあなたのもとが居心地いいのね。――星野さん、あなた、意外と人を惹きつける力があるのね」星は淡々と答えた。「お金がすべてではないわ。彼にとっては、お金より大事なものがあるのかもしれない」「ふふ、そうね」優芽利は軽く頷き、「ますます彼に興味が湧いたわ」と小さく呟いた。それきり星は黙り、愛想程度に頷いただけだった。もともと仁志とも、そして優芽利とも浅い付き合いだ。これ以上、何かを話しても意味はない。だが、優芽利の方は社交的で、沈黙を嫌う性格だった。彼女の方から話を続ける。「ねえ、星野さん。正道さんと明日香が、あなたを迎えにS市まで来たのを知ってる?そろそろ雲井家に戻るつもりはないの?」星は一瞬だけ彼女を見つめ、「......今のところ、そのつもりはないわ」と静かに答えた。「私はここでの仕事や人間関係があるし、簡単に離れる気はないの」「そう?」優芽利は少し笑いながら首を傾げる。「でも、雲井家に戻れば何もかも手に入るのに。衣食の心配もなく、欲しいだけの支援も受けられる。......明日香を見れば分かるでしょう?」彼女は視線を遠くの馬場に向けた。陽光の中、明日香が馬を駆け、弓を放っている。その凛々しい姿を見つめながら、優芽利は続けた。「小さい頃から一流の教育を受けて、大人になってからは家族の後ろ盾で、何でも
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第666話

優芽利は一瞬言葉を失った。星の静かな反論に、何も言い返せなくなったのだ。星はそれ以上、話を続けるつもりもなく、そのまま翔太のもとへ歩いていった。やがて彼女も馬にまたがり、馬場をゆるやかに一周する。彼女の姿は目立たない。明日香や優芽利のように、弓を引き、風を切って駆ける姿ではない。ただ、静かに、慎ましく。それでも姿勢は端正で、落ち着いた品がそこにあった。――派手さはなくとも、その穏やかな存在感が、どこか印象に残る。一方、清子はというと、馬に乗ることさえままならない様子で、潤んだ瞳を雅臣に向けていた。「雅臣......教えてもらえない?」その声には、かすかな甘えがにじむ。彼女の目論見は明白だった。もし一緒に馬に乗れたら、それだけで周囲の視線を集められる。雅臣の表情は冷ややかで、視線を一度だけ清子に向けた。清子はなおも笑顔を作り、「身体の調子ももう随分良くなったの。軽い運動くらい、平気よ?」と、柔らかく言葉を重ねる。その時、航平がちらりと星の方を見ていた。彼の目は、無意識のうちに、馬上でゆるやかに微笑む星を追っている。その様子を見ていた清子の胸に、淡い不快感がよぎった。航平は顔を戻し、「雅臣、せっかくだ。清子にも教えてやったらどうだ?軽く体を動かすのは、回復にも良いことだ」その言葉に、清子は一瞬目を見張る。――航平が、自分の味方をした?いつも星の側に立つ男が?けれど、雅臣の眉間は微かに寄る。短い沈黙の後、彼は呼びかけた。「翔太」翔太はちょうどインストラクターに補助されながら、小さな体で馬に跨がっていた。頬を上気させ、子どもらしい笑顔が戻っている。「パパ、どうしたの?」「清子も初めてなんだ。翔太、一緒に乗って教えてあげてくれ」翔太は一瞬きょとんとしたが、「うん、分かった!」と元気に頷いた。「清子おばさん、行こう!」清子の顔に一瞬、わずかな翳りが走る。彼女は雅臣に向かって、「雅臣......あなたが少しだけ教えてくれたら」と訴えたが、彼の声は冷たかった。「俺はインストラクターじゃない。教えるのは専門の人間に任せる」彼の中にはすでに警戒があった。――星との復縁を前に、余計な誤解を招くような行動は避けたい。清子は唇
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第667話

「――あなたと比べて、どうなの?」優芽利が軽く問う。明日香は微笑んだ。「実際にやってみなきゃ分からないわ」その一言に、優芽利は思わず星の方を見やった。明日香は決して謙遜で他人を持ち上げるような人間ではない。そんな彼女が「分からない」と言う――それだけで、星の実力が自分とそう変わらないことを意味していた。「でも、星野さんのお母様は有名なヴァイオリニストですもの。彼女に才能があるのは当然よ」母親を出された瞬間、明日香の表情から笑みがふっと消えた。――父と三人の兄は、母の死の真相を彼女に隠していた。けれど数年前、叔父が一通の手紙を届けてきた。それは、母が死の間際に娘に宛てて残したものだった。思い出すだけで、喉が詰まり、胸が締めつけられる。会ったことのない母。それでも、彼女は娘のために――命を賭して未来を残した。絶対に、母を失望させない。明日香はそっとまぶたを閉じ、奥底に沈めた誓いを再び噛みしめた。――そのころ。清子は、信じられない光景を目にしていた。仁志が、星のそばに控え、水を差し出し、タオルを渡し、声をかける。まるで長年仕えてきた執事のような細やかさで。清子は思わず目をこすった。......あれが、本当にあの仁志?あの、気分屋で、ちょっとしたことで怒鳴り散らす男?その違和感はあまりにも大きく、彼女は呆然と立ち尽くすしかなかった。だが、その異変に気づく者はいない。なぜなら――雅臣も航平も、すでにその光景に目を奪われていたからだ。雅臣の唇は固く結ばれ、その周囲に冷たい気配が漂う。一方の航平も、拳を握りしめたまま、目の奥に陰りを宿していた。――あの男を、消すのは簡単だ。ただし、痕跡を残すわけにはいかない。ちらりと雅臣を横目で見やりながら、航平の口元に、わずかに不穏な笑みが浮かんだ。さっきまで晴れていた空が、いつの間にかどんよりと暗く沈み、ぽつり、ぽつりと雨粒が落ちてきた。数分も経たぬうちに、空は大粒の雨を叩きつける。「うわ、雨だ!」「早く中へ!」人々は慌てて室内の休憩スペースへと駆け込んでいく。星はすでに中で休んでいた。今日集まった顔ぶれの中で、まともに言葉を交わせるのは翔太と航平くらい。彼女は軽く翔太に声をか
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第668話

そのとき――仁志は自分の上着を脱ぎ、翔太の頭にそっとかぶせていた。翔太は少しだけ雨に濡れていたが、その身体は仁志の腕に守られ、ほとんど濡れていなかった。対照的に、仁志は全身ずぶ濡れになっていた。星は駆け寄り、翔太の肩を抱く。「翔太、大丈夫なの?」「うん、平気だよ。仁志おじさんが上着を貸してくれたから。僕は全然大丈夫」その素直な言葉に、星の胸が少し熱くなる。彼女は仁志を見つめ、静かに言った。「......ありがとう、仁志」仁志は袖口で軽く顔の水を拭い、何でもないことのように笑った。「僕は星野さんのアシスタントです。子どもを見守るのも、仕事のうちですよ」星はハッとして目を瞬いた。そういえば、彼が姿を消したのは、彼女が休憩所に戻ってまもなくのことだった。てっきり何かのスポーツに興味を持って、見学に行ったのだと思っていた――まさか翔太を探していたとは。彼女は安堵の息をつくと、翔太に向き直った。「翔太、どうしてまた一人でどこか行くの?どれだけ心配させたか分かってるの?」叱責の声に、翔太は肩をすくめ、視線を落とした。その様子に、清子がいつものように、仲裁者の顔で口を開く。「星野さん、翔太くんはまだ子どもなのよ。そんなにきつく言わなくても――」だがその言葉は、星の冷ややかな声に遮られた。「――私が自分の子を叱るのに、あなたの許可がいるの?」一瞬で空気が張り詰める。「あなたが口を出す権利なんてないわ」清子は目を瞬かせた。だが次の瞬間、胸の奥に歓喜が走る。「......これでいい。みんなの前で、あの女が私をいじめてるように見せればいいのよ」涙がにじみ、彼女はか細い声で訴えた。「星野さん、私はただ......翔太くんは本当にいい子だから。急にいなくなったのにも、何か理由があると思ったの。頭ごなしに叱るより、ちゃんと話してあげれば分かる子よ......」星の目に冷たい光が宿る。「話せば分かる?じゃあ、なぜ何度言っても一人で出ていくの?」その声は穏やかだが、言葉は容赦がなかった。「小林さん、他人の子の教育にそんなに口を出したいなら――自分で産めばいいんじゃない?」「......!」清子の顔から血の気が引く。
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第669話

「――小林さん、出口はそっちじゃないわよ。どうして馬場の方へ行こうとするの?」振り返った清子の視線の先には、星が立っていた。その口元には、笑みとも冷笑ともつかぬ薄い弧が浮かんでいる。「そっちは馬場よ。こんな雨の中もう人なんていないわ。......まさか、今から乗馬でもするつもり?」清子の呼吸が一瞬止まった。その様子を見て、優芽利は小さくため息をつく。視線にははっきりとした軽蔑が滲んでいた。彼女は幼い頃から、策略と競争の渦中にある司馬家で育った。だからこそ分かる――清子の芝居など、あまりに稚拙だ。明日香もまた、幼い頃から嫉妬や策謀を浴びて育ってきた女性だった。清子の浅い手管など、見るまでもない。ふたりは黙ってその場に立ち、ただ冷ややかに成り行きを見ていた。翔太は助け船を出したい気持ちで、ちらりと母を見た。けれど、星の表情は冷ややかで、雅臣も沈黙したまま。翔太は結局、何も言えずに口をつぐんだ。――その沈黙の中で、清子は感じていた。まるで自分が動物園の檻の中にいて、他人の視線に晒される見世物にされたようだった。やがて、重い沈黙を破ったのは雅臣だった。「清子、帰りたいなら先に戻っていい。服が濡れたままだと風邪を引く。車を手配させよう」清子は信じられないように目を見開いた。大粒の涙が頬を伝ってこぼれる。「雅臣......私......」その声は震え、あたかもひどく傷ついた女を演じていた。――だが、星はすぐさま静かな声で言った。「小林さん、行くんでしょう?どうしてまだ立ってるの?それとも......出口の場所が分からない?」そして彼女は、近くにいたスタッフに目をやった。「この方、出口の場所が分からないみたい。案内してあげてください」「かしこまりました」スタッフはすぐに歩み寄り、丁寧に微笑む。「お客様、更衣室でお着替えをなさいますか?」清子の拳がきつく握られた。爪が掌に食い込み、鈍い痛みさえ感じない。「......この屈辱、絶対に忘れない」伏せた睫の影から、憎悪の光が閃く。星を消してしまいたい――そんな怨念が、静かに胸の奥で膨らんでいった。清子が立ち去ると、翔太がようやく口を開いた。「ママ、僕...
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第670話

清子の瞳には、燃えるような憎悪が宿っていた。「仁志、あなたはもう星の信頼を得ているでしょう?だったら――早く、あの女を始末してしまいなさい。長引くと何が起こるかわからない、先に片をつけるに越したことはないわ!」その言葉に、仁志の眉がわずかにひそめられた。「清子、人の命はアリのように踏み潰せるものじゃない。もし彼女をそんなに簡単に殺せるなら、俺がわざわざ近づく手間なんてかけると思うか?」清子は焦りを隠せない声で食い下がる。「事故に見せかければいいのよ!」仁志は、静かに息を吐いた。その口調はどこまでも淡々としている。「......そうか、じゃあいいよ」「え?」清子の目がわずかに輝く。だが次の瞬間――「俺が人を用意してやる。どう実行するかは、お前の好きにすればいい」その冷たい言葉に、清子の顔色がみるみる変わった。「......私ひとりじゃ無理よ。あの女は狡猾で、すぐに気づかれてしまう。仁志、あなたが動けば確実だわ。それに、あなたは今あの女の傍にいる。やるなら、今しかないの」仁志はゆるく目を細めた。その視線は氷のように冷たい。――清子が何を考えているのか、彼に分からないはずもなかった。人を使って報復する。その魂胆は、あまりにも見え透いている。それでも、彼は笑った。「いいだろう。でもな、俺に頼む以上、俺のやり方に従ってもらう。文句があるなら、自分でやれ。人も手段も、全部手配してやる」そして、唇の端をゆっくりと吊り上げる。「ただし――どちらか一方だ。俺は、指図されるのが一番嫌いなんだ」その一言で、清子の怒りは見事に凍りついた。冷水を頭から浴びせられたように、心臓の鼓動が急に静まる。「......ごめんなさい。さっきは少し取り乱しただけなの。疑うつもりなんてなかったわ。ただ、あの女が――あまりに私を侮辱するから......」かすれた声でそう取り繕いながらも、清子の指先は震えていた。仁志を怒らせてはいけない。彼だけが、いま唯一彼女に手を貸す可能性のある人間なのだから。だが、ほんの数時間前の――星に水を差し出し、穏やかに微笑んでいた仁志の姿を思い出すと、胸の奥がざわついてならない。「......あの人、
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