All Chapters of これ以上は私でも我慢できません!: Chapter 101 - Chapter 110

138 Chapters

第101話

小燕邸をあとにした玲奈は病院へ戻り、ふたたび勤務にもどった。午後の仕事のあと、彼女は昂輝と夕食の約束をしていた。大学院進学や博士課程のことを考えている今、彼から経験談を聞いておきたかったのだ。昂輝は上機嫌で自分の好物をいくつか注文した。テーブルを挟んで向かい合うふたりは、話に花を咲かせた。大学時代のこと、学業のこと、大学院進学の大変さ、初めて手術台に立ったときの緊張――話題は尽きなかった。昂輝は話もうまく、これまでのキャリアの興味深い出来事を次々と語った。もちろん進学に関するアドバイスもしたが、彼女が緊張しないよう、話題が試験に偏りすぎないよう配慮もしていた。和やかで、穏やかな時間だった。玲奈にとって、こんなにも自然に笑えたのは久しぶりだった。昂輝の語る大学院や博士課程の厳しさに、思わず身を構える一方で、どこか羨ましくも感じる。もし、あのとき結婚ではなく進学を選んでいたなら――今ごろは、昂輝と同じ舞台に立っていたかもしれない。だが、それも叶わなかった夢にすぎない。一度は逃してしまったチャンス。だからこそ今度は、このチャンスを無駄にしたくなかった。食事が終盤に差しかかった頃、昂輝は小さなバッグをテーブルに置いた。「ここに何冊か本を入れてある。重要なところにはマーカーを引いてある。君の力なら、三ヶ月後にはきっと合格を手にすることができるはずだ」玲奈はそのバッグを受け取り、気持ちを込めて言った。「ありがとうございます、先輩」昂輝は笑みを浮かべながら、彼女がいつか医学の世界で大きな存在になることを願っていると告げた。ちょうどその頃――店の入り口には、智也と沙羅が連れ立ってやって来た。智也の姿を見つけた店員が、すぐに駆け寄って声をかける。「新垣様、いつものお席でよろしいですか?」「うん」と智也はそっけなく答えた。「では、こちらへどうぞ」と案内され、ふたりは玲奈たちの席の後方にあるテーブルへと通された。二組の席は、ちょうどテーブル二つ分ほど離れており、互いの会話が聞こえるような距離ではなかった。玲奈は、智也たちに背を向けて座っていた。智也が席に着いたとき、ふと視線をやった先に思いもよらず玲奈の姿を見つけた。しかし、その胸中に特別な感情が湧くことはなかった。
Read more

第102話

なぜだか分からない。智也は苛立ちを覚えていた。その変化に気づいた沙羅が、小さな声で問いかける。「智也、どうしたの?」智也は無理に笑みを作り、答えた。「なんでもないよ。お腹すいてただろ?食べよう」沙羅はそれ以上何も聞かず、素直にうなずいた。「うん」しばらくして、玲奈と昂輝は食事を終え、ふたり並んで席を立った。まるで玲奈に智也を見せたくないかのように、昂輝は彼女を別の出口から連れて出て行った。智也はそれを目にしながら、ただ見送るだけだった。何も感じなかった。——玲奈がどうしようと、彼女の自由だ。愛莉さえ元気でいてくれれば、それでいい。自分には関係のないことだ。翌朝、玲奈は早くから小燕邸にやって来た。智也との約束というのも理由であったが、それだけではなかった。彼女は自分が母親である以上、娘に尽くすのは当然のことだと思い始めていた。たとえ娘が自分を嫌っていたとしても、愛莉は彼女の子どもであり責任を果たすべきだと。この数日で、彼女の心には少しずつ変化が生まれていた。娘に優しくすることが義務であるまえに、自然とそうすることができた。そんな心の変化があったからか、朝食の支度にももう抵抗はなかった。今日は焼き鮭と味噌汁。味噌汁はすでに湯気を立て、焼き鮭もこんがりと焼き上がっていた。手を洗っているとき、背中に何か冷たいものを感じると、ファスナーの閉まる音がした。彼女が着ていたのは後ろにファスナーのついたワンピース。焼き鮭を皿に盛ろうと前かがみになった拍子に、ファスナーがするすると開いてしまい、背中が半分ほど露出していたのだ。そのころ、智也はランニングから戻ってきたところだった。キッチンの明かりがついているのを見て、ふと昨夜の玲奈と昂輝の食事を思い出し、彼女が今日も愛莉の朝食を作りに来たのか確認したくなった。彼はこっそりとキッチンの入り口から顔をのぞかせた。そこには、背中を向けて手を洗う玲奈の姿。その背中のファスナーが半分ほど開いており、細く白い肌をのぞかせていた。彼女は彼の視線にも気づかず、黙々と手を洗っていた。その華奢な背中に、智也はなぜか目を離せなかった。気づけば、足が勝手にキッチンへと向かっていた。彼女の背後で立ち止まり、そっと手を伸ばして
Read more

第103話

跳ねた油は智也の手でとめられ、玲奈の身体も彼の腕の中へと引き寄せられた。知り合って長くなるがこんなふうに抱き合うのは初めてのことだった。その瞬間、智也はあることに気づいた。玲奈の体はやわらかく、良い香りがすることに。顎を彼女の肩に預けると、彼女の匂いを感じた。それは淡く、心地よい香りだった。自分が智也に抱きしめられていると気づいた玲奈は、思わず頭が真っ白になり、身体はこわばって一歩も動けなくなった。背中は熱気を帯びた体温を感じたしばらく、二人とも口を開かなかった。時間が止まってしまったかのようで――もし飛び跳ねる油や、コンロで勢いよく燃える火がなければ、本当に世界が静止したと思ってしまいそうだった。玲奈はこのまま時間が止まればどんなに素敵だろう、と考えていた。あくまで心の中だけのこと。彼女と智也の関係を「美しい」という言葉で語ることは、永遠にできないのだから。時間がどれくらい過ぎたのか分からない。ついに玲奈は耐えきれず、小さい声で名前を呼んだ。「......智也」我に返った智也は、彼女から身体を離すと、腰に回していた腕も離した。「次からは油が跳ねないように何かで押さえろ。危ないから気をつけろ」その声からは、喜びも怒りも感じ取れない。まるで昼食に何を食べたかを告げるように淡々としていて、感情はどこにもなかった。だが玲奈には分かった。智也がこうした気遣いの言葉を口にすることなど、滅多にない。まして、それが自分に向けられるなど。だからこそ、今の状況は夢のように思えた。けれど、背中に残る焼けるような熱が、これが現実だと感じさせる。やっとの思いで、「......分かった」とボソッと返す。少しして、智也が去っていく足音を耳にすると、体中に張りつめていた緊張が一気に抜ける。さっきまで智也に触れられていたところは、まるで凍りついたように痺れていた。焼き鮭はまだ焼きあがっていない。魚焼きの網を調整する際に指先が網に触れてしまった。鋭い痛みが瞬時に全身を駆け抜け、思わず悲鳴を上げた。ちょうどキッチンを出たばかりの智也は、その声を耳にして足を止めた。本当は関わるつもりはなかった。だが、なぜか引き返してしまう。彼女の背後に立ち、「どうした」と声をかける
Read more

第104話

そのとき、智也がまたキッチンへ入ってきた。コンロの前でぼんやり立っている玲奈を見ると、彼は彼女の腕を引きよせ、「会社で急ぎの用がある。愛莉が起きたら、学校まで送ってくれ」と告げる。玲奈は振り返らず、ただ小さくうなずいた。「......うん」智也は横顔を確認した。表情を変えないので、何を考えているのか読み取れない。問いただすことはせず、そのまま沙羅と連れ立って出て行った。翌日の午後、玲奈は振替休日だった。昂輝から借りた本を手に図書館へ向かおうとしたとき、ポケットの中で携帯が鳴る。画面を見ると、拓海の名前が表示されていた。あの夜を思い出し、玲奈は電話に出る。交差点に立ち、胸に本を抱えたまま低い声で尋ねた。「どうしたの?」電話口の向こうは珍しく静かで、彼はいつものように言った。「ベイビー、俺のこと恋しくなってない?」玲奈は眉をひそめた。「拓海、用があるなら用件だけ言って」拓海は悪人ではないが、何かと彼女をからかう。その軽いノリに、玲奈はうまく対応できない。「ええ、ベイビーが恋しいと思ってないなんて、俺、胸が痛いよ」わざとため息をつき、悲しげな声を作る。玲奈は何も返さず、沈黙を選んだ。それを察した拓海は口調を改める。「分かったよ、からかうのはやめる。今夜、俺と一緒にパーティーに出てくれ」以前約束していたことを思い出し、玲奈は頷く。「......うん」「服はこっちから送る。夕方六時に迎えに行くから。ヘアメイクは、あとで担当者から連絡させる」拓海の段取りは隙がなく、玲奈は考える必要もなかった。「分かったわ」玲奈は携帯を握りしめたまま答える。「じゃあ切るよ、ベイビー。俺のこと、ちゃんと考えておいてくれよ」通話が切れると、玲奈はタクシーを拾って実家へ戻った。ほどなくして、連絡が入る。メイクと着付けで三時間近くかかり、座りっぱなしで腰が痛む。「春日部さん、できました」スタイリストの声に、玲奈はようやく目を開けた。鏡の中の自分は、澄んだ瞳に白い歯、緩やかな弧を描く眉、長く上向いた睫毛。頬の紅は淡く、それがかえって肌を白く際立たせる。アイメイクは繊細で、瞳がいっそう明るく、深みを帯びて見えた。見つめているうちに、玲奈はふと目を潤ませる
Read more

第105話

六時きっかりに、拓海は現れた。スタイリストに付き添われ、玲奈は実家を後にする。まだ時間が早く、兄たちは帰宅していなかったため、使用人だけが出発を見送った。家族を心配させまいと、玲奈は使用人に伝言をあずけた。「兄さんたちが帰ってきて私のことを聞いたら、図書館で勉強してるって伝えて。院試の準備中だって」使用人たちは笑みを浮かべながら、了承した。外へ出ると、すぐに拓海の車が目に入った。ランボルギーニで、ひときわ存在感を放っていた。秋の夕暮れ、橙色の夕陽が街を染める中、拓海は車体に斜めにもたれて腕を軽く組んでいた。風になびく前あきのトレンチコートは、どこか絵になる姿だった。音に気づき顔を上げた拓海の視線の先には、夕陽を背にした玲奈の姿があった。燃えるような赤のロングドレスが雪のような肌を引き立て、繊細なメイクはまるでレッドカーペットを歩く女優のように彼女を輝かせている。ただそこに立っているだけで、視線を奪われるほどの存在感だった。いつも軽薄な笑みを浮かべる拓海も、このときばかりは素直に驚きを表情に出し、じっと彼女を見つめる。その眼差しに余計な含みはなく、ただ純粋に見とれていた。玲奈は居心地悪そうに小声で尋ねる。「......やっぱり似合ってない?」拓海は歩み寄り、腕を差し出した。「いや、とても似合ってる。ドレスもきれいだし、スタイルもいい、メイクも......」言葉がカタコトになり、拓海自身も苦笑いした。玲奈は返事をせず、そっとその腕に手を添えた。拓海はその横顔を盗み見し、真剣な声で言う。「本当はさ......人が一番きれいだ」言葉の意味を悟った玲奈は頬を染め、「......ありがとう」と小さく答えた。風になびくトレンチコートの下、ラフな装いの拓海はどこか清廉で知的な雰囲気を漂わせる。指先は長く、容姿も端正だった。玲奈の体は女性らしい曲線を描き、深いVネックのドレスはその魅力を惜しみなく際立たせる。拓海がふと視線を落とすと、目のやり場に困った。彼はそっとトレンチコートを脱ぎ、玲奈の肩にかけた。「これ、少し肌寒いから」玲奈は眉を寄せ、小さくつぶやく。「寒くないけど......」秋とはいえ、久我山の夜はまだそれほど冷え込まない。拓海は、「乗って」と
Read more

第106話

「この人、誰?見たことないわね」「見たことないのも当然よ。拓海がパーティーに連れてくる女、毎回違うじゃない」「それもそうね。拓海って、同じ相手を続けて連れてきたことなんて一度もないし」「でもさ、今まであの人が女のためにわざわざ車のドアを開けたことある?」「言われてみれば......ないわね。今夜が初めてじゃない?あの女、一体何者なの?富豪名簿にそんな名前あった?」ひそひそ話は大きな声で交わされ、玲奈の耳にもほとんど入ってきた。だが、そうした声に彼女は一切気を留めない。車を降りた玲奈に、拓海は身をかがめて言った。「人が多ければ噂も多い。気にするな。最初から最後まで、俺の心にいる女はベイビー、君だけだ」その言葉が本心かどうかは分からない。玲奈は依然と気に留めず、彼と腕を組み人々の視線を浴びながらオークション会場の中へと進んだ。まだ開会前だが、ステージにはすでに宝飾品などの出品物が並べられている。客席には次々と人が入り、後方では記者がカメラを構えていた。拓海は玲奈を連れ、最前列の席へ向かう。千人は収容できるという広い会場の中で、最上級の席はわずか四席だけ。そのうち二席に彼らが腰を下ろした。会場内は外ほど話し声はなく、落ち着いた空気が漂っていた。しばらくすると、外からざわついた声が聞こえてきた。「新垣智也だ、智也と彼の初恋相手だ!」玲奈の耳にはその一言が聞こえた。やがて、智也と沙羅が入り口に姿を現す。智也は黒のオーダーメイドスーツに身を包み、引き締まった体と端正な顔立ちが一層際立っている。隣の沙羅は白のロングドレスに銀のクリスタルヒール、長い巻き髪を背におろし、知的で柔らかな魅力を漂わせていた。二人が立っているだけで、視線が一気に集まる。記者たちも慌ててカメラを向け、シャッターを切り続けた。人々の注目を浴びながら、沙羅は智也の腕に手を添えて残りの二席へと進み、腰を下ろした。そのとき、彼らは一瞬、玲奈と拓海を見た。しかし、互いに挨拶を交わすことはなく、まるで他人かのように振る舞った。玲奈と智也の結婚は外部には隠されており、知っているのは親族や友人程度だった。――いや、そもそも「夫婦」と呼べる関係ではないのかもしれない。先ほどまで落ち着いていた会場は、智也と沙
Read more

第107話

拓海の言葉に、玲奈は首を横に振った。「......ないわ」その態度はどこかよそよそしく、機嫌の悪さが隠しきれていない。拓海は理由を察していた。智也と沙羅がすぐそばにいるからだ。彼は身を寄せ、声をひそめて囁く。「ベイビー、上と下、どっちが好き?」玲奈は思わず背筋を伸ばし、真っ赤になって拓海を見た。「あんた......」拓海は姿勢を戻し、笑みを浮かべる。「ほら、また変なふうに考えてる」真面目な口調でそう言われ、玲奈はやっとほっとした。ところが次の瞬間、拓海がぐっと顔を寄せ、唇が頬をかすめるほどの距離で囁く。「で、ベイビーは上と下、どっちが好きなんだ?」「拓海、あんた......」玲奈は怒って指を拓海の顔に向かって指した。拓海は笑い、彼女の指を掴んでそのまま自分の胸元に押し当てた。そして真っ直ぐに見つめ、柔らかな声で言う。「男を見るときは、目だけじゃダメだ。心と身体で感じないと。いい男かどうかは、外見じゃなくて――ベッドの上でこそ分かるものだろ?ベイビー」言い終えると、拓海はさらに距離を詰め、玲奈の表情を一瞬も見逃すまいとする。玲奈の頬は耳の後ろ、首筋まで真っ赤になり、視線を合わせることもできずに必死に平静を装って舞台上の司会者を見つめた。だが司会者の言葉など、ひと言も頭に入ってこない。一方の智也は足を組み、余裕の表情で司会者の説明に耳を傾けている。ときおり顔を横に向けて沙羅と囁き合い、その親密な様子に周囲からため息が漏れた。だがその会話の合間、ふと視線の端に玲奈と拓海の姿が映る。二人は距離が近く、拓海は気にせず彼女に寄りかかっていた。玲奈の手は彼の胸元に押し当てられたままで、顔は真っ赤だった。誰が見てもまるで恋人同士だ。智也もそう思った。なぜか胸の奥に不快感がある。しかし司会者が次の品を紹介したとき、気にならなくなった。インペリアルグリーンの翡翠のブレスレットだった。「智也、見て。あのブレスレット、きれいじゃない?」沙羅の声に、智也は我に返った。ステージの上でライトを浴び、深い緑色で光を放つ翡翠を見つめると、胸の奥がざわざわした。この緑は、何かを思い出させようとしているのか――「智也?」返事がないので、沙羅は智也の肘をつつく。
Read more

第108話

当然、智也と沙羅も、玲奈と拓海のじゃれ合いを目にしていた。拓海は、二人の視線がこちらに向いたのを感じ取ると、玲奈の耳元に顔を寄せ、小声で囁いた。「今、あの二人が君を見てた」誰のことか、玲奈にはすぐ分かった。身体が一瞬で強張り、札の取り合いもやめて背筋を伸ばした。その瞬間、舞台上では司会者が落札のカウントダウンに入っていた。だが同時に、玲奈は視線の端に沙羅が智也に何かを囁くのを捉える。距離はそう遠くなかったが、会場は完全に静かなわけではなく、言葉までは聞き取れない。そして槌が最後に振り下ろされようとしたその時、智也が札を掲げた。「3億」途端に、会場全体がざわめき立つ。「うわ、1億単位で上乗せ?これ、天井知らずにするつもりか」「この翡翠、いくら高くても1億ぐらいだろ。こんな釣り上げ方、完全に無駄金じゃないか」「分かってないな。これは美人を喜ばせるためだよ。金なんて惜しくないってやつだ」「そうそう。智也や拓海が、この程度の金を気にすると思う?」「やばいな......これ、まるで億万長者の殴り合い。こっちは巻き込まれたくない」司会は智也がせり上げたことに目を輝かせ、再びカウントをやり直す。残り時間がなくなる前に、拓海が札を高々と掲げた。「4億」智也は退かない。「5億」拓海:「6億」智也:「7億」二人が競り合い始めた。金額はますます吊り上がり、玲奈の胸には不安が募っていく。彼女は拓海の腕を掴み、懇願した。「拓海、もうやめて」拓海は彼女を見て、軽く肩を叩くと微笑んだ。「君が欲しいなら、それだけの価値がある」そう言って、再び札を掲げる。その瞬間、千人規模の会場は異様な静けさに包まれた。針が落ちる音すら聞こえそうなほどで、玲奈は自分の鼓動がはっきり耳に届くのを感じる。――本気でこの翡翠を落札するつもりなのだろうか。智也と張り合うためなのか、それとも本当に自分のためなのか。理由はどうであれ、こんな金の使い方には価値がない。結局、2千万クラスの価値しかないブレスレットは、最終的に20億まで吊り上がった。智也はまだせり上げを続け、額は20億1千万に達する。拓海はそこで札を下ろした。玲奈は安堵の息を吐く。だがその直後、拓海は立ち上がった
Read more

第109話

拓海が舞台へと歩み出すのを見て、玲奈の胸がざわついた。周囲を気にしている余裕はなく、思わず声を上げた。「拓海、何してるの!降りてきて!」その声は智也と沙羅にも届いた。だが拓海は振り返ることなく、そのまま壇上へ上がり、競売人からマイクを受け取った。彼は右手を上げ、小指と薬指を折り、親指を立て、人差し指と中指をそろえた独特の仕草をしてみせ、客席に向かって眉を上げる。「22億。ほかに競る人は?」その手振りに、場内がざわつく。拓海はまるで挑発するように、どんな金額を智也が提示しても追随する意思を示した。玲奈の心はきゅっと締めつけられる。智也は穏やかな相手ではない。ましてや、これは沙羅が欲しがっている品だ。拓海の行動は、彼に真っ向から喧嘩を売るようなものだった。そんなことをしても結果は共倒れになるだけ――意味のないことだと分かっていても、彼を止められない。客席では、智也が応じるのかどうか、ざわめきが広がる。「智也なら財力もあるし、応じるに決まってる」「いや、これは自滅行為だ。引くかもしれないぞ」沙羅は静かに座っていたが、その手のひらは汗でぐっしょり濡れていた。もし智也がこれ以上競らなければ、それは玲奈に負けたことを意味する。男同士の競り合いは、同時に玲奈と沙羅の見えない戦いでもあった。やがて、司会がカウントを始め、最後の槌が落ちる――智也はそれ以上札を上げなかった。勝敗は決定し、場内にどよめきが広がる。引いたのは賢明な判断だという声がある一方で、あの智也がこれでいいのかと首をかしげる者もいた。智也はそんな声には耳も貸さず、淡々と拓海の姿を見つめる。沙羅は、負けたことに引っかかりを覚えながらも、声を荒げることはしなかった。負けるなら、せめて体裁よく――彼女はそう考えていた。玲奈は、勝ったはずなのに、不安と恐れが胸を締めつける。背筋には冷たいものが走っていた。拓海が舞台を降り、席に戻ってくる。玲奈がぼんやりしているのを見て、彼は口元に笑みを浮かべて身を寄せた。「......不機嫌?」玲奈は答えず、逆に尋ねる。「もう帰る?」拓海は彼女のこめかみにかかる髪を指に絡め、くるくると弄びながら口角をあげた。「どうした?そんなに早く、ホテルに行きたいのか?」
Read more

第110話

「何を取られるのが怖いというんだ、どう見ても俺たちに紹介したくないだけじゃないか」「そうそう。須賀さんって昔からそうだよな」声をかけてきたのは、拓海と取引のある顔なじみばかりだ。冗談交じりのやり取りも、許される関係だった。しかし拓海は、彼らの冗談を受け流さず、玲奈を背後から自分の隣へ引き寄せ、堂々と紹介した。「この人はな......特別だ。俺の大切な人だ」その言葉に、周囲の男たちは「はいはい」と言わんばかりに笑みを浮かべる。拓海が女性を連れているときは、誰に対しても「大切な人」と呼ぶのは有名な話だ。彼らは何度も同じ台詞を聞いており、驚きもしない。玲奈も拓海のことはある程度分かっているため、真に受けることはなかった。だが拓海は周囲の考えを感じ取り、さらに言葉を重ねる。「本当に、俺の大切な人なんだ」「そうそう、大切な人ね」「で、その人は何をしてる方なんだ?」いつもなら余裕を崩さない拓海も、この時ばかりは本気の一言を笑い飛ばされ、少し胸に引っかかるものがあった。もっとも、彼らがそう受け取るのも無理はない、と冷静に考え直す。拓海はテーブルからワインを二つ取り、一つを自分に、一つを玲奈に渡した。軽く一口含んで口を開いた。「俺の大切な人は......命を救う仕事をしてる」「医者か、それはすごい」口々にそう言いながらも、その声音には薄っぺらさが滲む。商売人である彼らにとって、医者という職業は尊敬の対象というより、金銭面で比べようのない存在だった。拓海は気にせず、隣で黙っている玲奈の方を見る。「みんなの言葉は上っ面だ。でも俺は、本気で彼女をすごいと思ってる」その言葉は誠実で、表情も真剣だった。玲奈は眉をひそめ、どこか不安げに彼を見返した。次の瞬間、周囲の男たちは何がおかしいのか笑い声をあげた。拓海が本気に見えたのか、演技にしては真に迫っていると思ったのか――理由は分からない。だが拓海の口元に笑みはなく、視線はまっすぐ玲奈に注がれたままだ。その眼差しは、「嘘じゃない」と言っているようだった。頑ななまでに視線を逸らさないその様子は、まるで答えを待っているかのようだった。玲奈の心はざわつき、落ち着かない。咄嗟に拓海の腕を押し、「......もう帰る?」と口にした
Read more
PREV
1
...
91011121314
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status