All Chapters of これ以上は私でも我慢できません!: Chapter 111 - Chapter 120

138 Chapters

第111話

人ごみの後ろに立ち、玲奈は舞台袖にいる智也の姿を間から見た。何をしているのかは分からない。だが、こうして沙羅のそばに立ち続けるだけで、彼女を心の中心に置いているのが伝わってくる。ピアノ演奏が盛り上がるとともに、周囲のざわめきは賞賛に変わった。「さすが新垣社長、見る目がある。あの女性、美人なうえにピアノまで上手い。俺が女でも惚れるな」「演奏が素晴らしいだけじゃなく、スタイルも抜群......神様はこの人のどこに欠点を与えたんだろうね?」玲奈はそんな声を聞きながら、心の中で冷ややかに笑う。みんなが褒め称える沙羅――しかし、彼女は自分と智也の結婚生活を壊した張本人だ。美しい容姿の下には優しい心などない。拓海も、その言葉に不快感を覚えていた。本来智也の妻は玲奈なのに、ここにいる誰もそれを知らず、沙羅だけを「特別な存在」と認識している。玲奈はこれ以上この場にいたくなくなり、背を向けて歩き出そうとする。だが、拓海が一歩先に進み出て、その行く手を阻んだ。顔を上げ、玲奈は眉をひそめて問いかける。「......あなたも、私のことを笑いに来たの?」拓海は笑みを浮かべたまま答えず、彼女の細い腕をつかみ、満面の笑みとともに言った。「こんな素敵な音楽を聴いて、踊らないなんて損だろ?」そのまま片腕で玲奈の腰を抱き寄せ、彼女をエスコーとした。「肩に手を」玲奈はなぜか逆らえず、言われた通り手を彼の肩に置いた。拓海のリードに合わせ、音楽の中で二人は踊り始める。春日部家は決して小さな家ではなく、玲奈も兄とともに社交の場に出る機会はあった。十代の頃から社交ダンスを習っていたが、大勢の前で踊るのは初めてだし、ましてや相手が拓海のような大物だ。拓海に導かれるように、ほかの男性たちもパートナーを誘い、ダンスの輪が広がっていく。そんな中、またもや後方からひそひそ声が聞こえてくる。「ありゃ拓海だな、また女を替えたか」「ああ、拓海は女好きで有名だからな。パーティーに連れてくる女は毎回違う。今まで連れてきた女、数えきれないだろ」「でも、今回の子はなかなか綺麗だ」「いつも綺麗じゃないか。綺麗じゃなきゃ拓海の目に留まらない」「まあ確かに。でも二人、意外とお似合いだな」「拓海の手は、あのドレスの中に入れた
Read more

第112話

沙羅は智也の視線を追い、その先に玲奈と拓海の姿を見つけた。その瞬間、笑顔を浮かべていた沙羅の口角がわずかに下がった。周囲には大勢の人がいて、あからさまな反応はできない。何事もないかのように智也の腕を軽く揺らし、「智也、何を考えていたの?」と問いかける。智也はようやく我に返り、沙羅に振り返り尋ねた。「......弾き終わったのか?」「ええ」「じゃあ、帰ろう」そう言って足を踏み出そうとしたが、沙羅が慌てて腕をつかむ。「智也、まだ撮影があるわ」智也は数秒沈黙してから頷いた。「ああ」会もここまでくれば、進行はほぼ終盤に差しかかっていた。一方、玲奈と拓海は料理の並ぶテーブルで軽食をつまみ、ワインを飲んでいた。時折、拓海の商売仲間がグラスを手に挨拶に訪れる。智也のほうも同じように、人々が入れ替わり立ち替わり声をかけていた。やがて会も終わりに近づき、主催者から最後の記念撮影が告げられる。被写体になるのは、もちろん顔の利く有力者たち。智也も拓海もその中に名を連ねていた。撮影時の立ち位置は、拓海と玲奈が中央――いわゆるCポジションに配置された。地位や肩書きではなく、今夜の拓海の大きな出費が理由だった。そしてその隣が、智也と沙羅。本来は拓海がその場所に立つはずだったが、彼はそこを玲奈に譲る。結果、玲奈の隣には智也が並ぶことになった。今夜初めて、二人の距離がこんなにも近くなった。手と手が触れそうなほどの距離――智也の鼻に、玲奈の淡いボディソープの香りがふわりと届いた。やわらかいその香りに、彼は思わず惹きつけられる。しかし撮影はすぐに終わり、会場の人は次々と退出していく。玲奈も帰るつもりでいたが、拓海が行く手を阻む。「ベイビー、送っていくよ」笑みを浮かべ、本心か冗談か判別のつかない声のトーンだった。その時、不意に智也が歩み寄ってくる。「宮下から電話だ。愛莉が少し風邪気味で、お前に会いたいって騒いでる」その言葉に、玲奈は表情を変えた。「......分かった、すぐ帰る」そう答えてから、拓海の方を見た。「須賀さん、娘の様子を見に行かないと。今日はここで失礼するわ」そう言い終えると、スカートの裾を持ち上げて足早に会場を出た。拓海も慌てて追い、「ベイビー
Read more

第113話

会場を出た玲奈は、会場前で車を待っていた。先に出た人が多かったせいか、なかなか車がつかまらない。数分待っても一台も来ず、焦っていた。何度もスマホを開いてはみるが、誰に電話をすればいいのか分からない。そんなとき、背後から智也の声が聞こえてきた。「春日部玲奈」フルネームに呼び捨て、そして淡々とした口調だった。振り返ると、沙羅が智也の腕を組み二人並んで立っていた。まるで絵に描いたかのようにお似合いの姿。沙羅は玲奈を見て、何か探るような視線を向けているが、智也は言った。「ちょうど帰るところだ。一緒に行こう」玲奈はもう一度、がらんとした通りに目をやる。愛莉のことが気がかりで、迷わず頷いた。「......ええ」すぐに智也の運転手が車を横につけた。三人で乗るとなれば、玲奈が後部座席に座るのはおかしい。少し考え、彼女は車の反対側へ回って助手席のドアを開けた。智也は後部座席のドアを開けていたが、玲奈が助手席に腰を下ろしたのを見て、わずかに表情が変わった。すぐ表情は戻り、沙羅に微笑んだ。「乗って」沙羅のドレスは裾が長く、乗り込むときに外へ出てしまう。智也はすぐにかがみ、裾をすべて車内に入れた。そして彼女の隣に腰を下ろした。助手席の玲奈は、車の窓の外に目を向け、後部座席の二人を見ようとしない。だが、すぐ後ろから甘えた声が聞こえてくる。「智也、ちょっと頭が痛いの」バックミラー越しに、智也が沙羅に顔を寄せるのが見えた。彼女の額に手を当て、自分の額にも触れてから言う。「熱はないな。今夜は少し疲れたんだろう。マッサージしてやる」沙羅は笑顔で頷く。「ありがとう、智也」智也は口角を上げた。彼女を背中向けで座らせると、頭のマッサージを始めた。助手席から見ていた玲奈は、もはや驚きもしなかった。智也は自分にしてくれたことのないことを、沙羅には迷わずしてやる――その光景に慣れたつもりでも、胸の奥はやはり痛んだ。目頭が熱くなり、弱さを悟られまいとスマホを手に取る。ちょうどそのとき、新着メッセージが届く。拓海からだった。【ベイビー、あのブレスレットはもう送った。受け取りたくないなら、捨ててもいい】玲奈の気持ちが一気に重くなる。これは賭けだ――20億の品を
Read more

第114話

「来たの?」と言いかけたその瞬間、愛莉は言葉をのんだ。玄関に立つ、真紅のロングドレスを纏った艶やかな女性を見つめ、思わず呆然とする。「......あなた、誰?」目の前の女性はどこか見覚えがある。だが、信じられない――記憶の中で母は、こんなにも美しい姿を見せたことは一度もなかった。この女性が母親であるはずがない、と。二人はしばし、互いに視線を交わしたまま時が止まったように動けなかった。やがて、愛莉の手からおもちゃがテーブルの上に落ちる。その音をきっかけに、玲奈はようやく口を開いた。「......愛莉」かすれた声は、泣き出しそうなほど震えている。その瞬間、愛莉はようやく信じられた。玄関に立つ美しい女性は、紛れもなく自分の母親だ。「......ママ?」信じられないというように、小さく呟く。「ええ」玲奈はこたえた。愛莉は嬉しさを抑えきれず、駆け寄って母の脚に抱きつくと、顔を上げて尋ねた。「ママ、パパと一緒にパーティーに行ってたの?」玲奈は思わずその小さな体を抱きしめそうになったが、途中で手を引っ込めた。そして苦く、切ない気持ちを胸に抱えながら答える。「......違うわ」「じゃあ、どうしてそんな格好してるの?」愛莉の首を傾げる声に、玲奈は口を開きかけた。だが、説明しても意味はない――そう思い直し、軽く首を振って言う。「ちょっとね」愛莉は不思議そうにしながらも、それ以上は追及しなかった。ただ、内心では誇らしい気持ちでいっぱいだった。――自分のママは、こんなにも綺麗なんだ。ララちゃんにだって負けない。しばらくして心を落ち着かせた玲奈は、愛莉の冷えた手を包み込んで尋ねた。「少しは良くなった?」「えっ?」きょとんとする娘に、玲奈は優しく髪を撫でながら言う。「体調が悪いなら、早く休まなきゃ。こんなところで待ってちゃだめよ」愛莉は口をつぐんだ。――本当はララちゃんを待っていた、なんて言えるはずがない。返事がない娘を見て、玲奈は問いかける。「ママと一緒に寝室へ行こうか?」そのとき、玄関から智也の低い声が響いた。「愛莉、ママの言うことを聞きなさい」圧のある声に、愛莉はすっかり大人しくなり、小さく「......うん」と答える。
Read more

第115話

玲奈は視線をおろして娘を見つめた。愛莉の瞳にはどこか複雑で揺れる思いが滲んでいたが、玲奈はそれに触れずただ優しくこたえた。「ええ、具合が悪いんでしょう?ママがそばにいるからね」愛莉は小さな顔をしかめる。「ママ......パパが私のこと、具合が悪いって言ったの?」玲奈はクローゼットから娘のパジャマを取り出しながら、こたえた。「ええ」父の口から自分の体調のことを知らされたとわかると、愛莉はそれ以上何も言えなくなった。少し考え込んだあと、ふと思い出したように言う。「じゃあママ、ちょっと待ってて。下に行って、牛乳を飲んでくる」愛莉は寝る前に温かい牛乳を飲む習慣がある。ただ、それはいつも玲奈が持ってきてくれるもので、玲奈がいない間は宮下が部屋まで運んでくれていた。――だから、わざわざ自分で下に行く必要などない。その目的が何であるか、玲奈にはうすうす見当がついていた。愛莉が出て行くと、玲奈は娘のパジャマを抱えたまま、ソファでしばらくじっと座っていた。まだ着替えていないドレス姿は動きにくく、今度は自分のパジャマを探そうとクローゼットを開いた。探しに探して、やっと見つけたのは、愛莉が幼かった頃から着ている古びたパジャマだった。もとは淡い黄色だった生地は、長年の使用でくすんだ生成り色に褪せている。――もしこれが沙羅なら、とっくにこんなパジャマは処分されているだろう。けれど、自分は春日部玲奈。私のパジャマを気にかける者は誰もいない。着替えを終えると、ドレスを丁寧に畳み袋にしまった。これは拓海が贈ってくれたもので、近いうちに返そうと心に決めていた。そうこうしても愛莉は戻ってこない。玲奈は先に素早く入浴を済ませることにした。十分もかからず浴室を出ても、やはり娘の姿はなかった。胸騒ぎを覚えながら階段へ向かう。そして、リビングへ降りるときに見えたのは――愛莉が沙羅の膝に座っている光景だった。小さな体をすり寄せ、腕に絡みついて甘える娘の声が響く。「ララちゃん、怒らないでよ。ママが急に帰ってくるなんて、私も知らなかったの。次はまた一緒に寝よう?ね、いいでしょ?」沙羅は、わざとらしく怒ったふりをして顔を背け、無言を貫く。愛莉は困ったように身を起こし、その頬に顔を寄せる。「ラ
Read more

第116話

玲奈の手を握りしめ、愛莉は一緒に寝室へ戻った。「ママ、もう牛乳は飲み終わったよ。歯を磨いて寝よう?」玲奈はそっと手を離し、「ええ」とだけ答えた。母が自分の手を離した瞬間、愛莉は俯いて手のひらを見つめ、胸の奥に渋い痛みが広がる。何の感情なのか、自分でもわからなかった。玲奈は浴室に入り、シャワーの蛇口をひねった。温かいお湯が流れ出ても、愛莉を呼ぶことはなかった。呼ぶ気力も、もうなかったのだ。だが意外にも、愛莉は大人しくパジャマを持って浴室へ入ってきた。ほどなくして、玲奈は娘の入浴を済ませてやり、抱き上げてベッドに寝かせる。「さあ、もう寝なさい」言葉を残すと、玲奈はそのまま部屋を出ていこうとした。慌てて愛莉が呼び止める。「ママ、一緒に寝てくれるの?」沙羅に添い寝してもらうのには慣れていたが、今夜だけでも母が一緒にいてくれたら嬉しかった。しかし玲奈の返事は冷ややかだった。「いいえ。今夜はソファで寝るわ」布団には沙羅の香りが染みついている。その匂いを玲奈はどうしても受け入れられなかった。それは愛莉の体にも、智也の体にも移っている。かつては自分のものだった夫も、娘も、今はもう自分のものではない。みんながそれほど彼女を好むのなら、自分が気を病むこともないのだろう。愛莉はようやく沙羅と仲直りできて気分がよくなり、母と同じベッドで眠ることを許そうと思っていた。けれど、その母に拒まれてしまうとは思いもしなかった。驚いたまま見つめる愛莉の前で、玲奈は迷うことなくソファに横たわり、娘が寝たかどうか確かめることもなく部屋の灯りを消した。薄暗い中でも、ベッドサイドのランプがぼんやりと室内を照らしている。愛莉はふてくされたように布団へ潜り込むしかなかった。だが子どもの怒りなど長続きはしない。ましてや玲奈は彼女にとって重きを置く存在ではない。明日になればまた沙羅おばさんが優しくしてくれる――そう思えば気持ちは自然と落ち着いた。やがて愛莉はすぐに眠りに落ちた。だが、玲奈はいつまで経っても眠れなかった。娘の態度を思い返すと胸が締めつけられ、悲しみだけが募っていく。堪えきれず、ソファから体を起こした。無性に酒が飲みたくなった。智也がいくら自分を冷たく突き放そうとも、
Read more

第117話

ワインを一口飲むと、玲奈の目から涙がこぼれ落ちた。鼓動が早い胸を押さえ、不安と混乱でいっぱいになる。そのとき、電話の着信音が鳴った。画面を見ると、表示されたのは兄の秋良の名前だった。まだ時間は早い。時刻は夜の十一時を少し過ぎたころだ。兄に気づかれまいと、玲奈は慌てて涙を拭い、気持ちを整えてから電話に出た。「兄さん」できるだけ平静を装ったつもりだったが、声にはかすかに不自然さが滲んでしまう。秋良はそれを指摘することなく、静かに言った。「もうこんな時間なのに、どうしてまだ帰ってこない?陽葵がずっと君を呼んでいるぞ」その言葉に、玲奈の胸がまた痛んだ。自分の娘よりも、姪の方がよほど自分を気にかけてくれている――そう思わされる瞬間だった。少し間を置き、玲奈は答えた。「......兄さん、愛莉が体調を崩してしまって。今夜はそばにいてあげるわ。明日の夜には帰る」秋良は不安げに何度も何か言いかけては飲み込む。けれど結局、言えたのはただ一言だった。「玄関に、君宛ての荷物が届いている」そこでようやく玲奈は、拓海から聞かされていたブレスレットの件を思い出した。「受け取っておいてもらえる?お願い」「わかった」二人のあいだに沈黙が流れた。玲奈が切り出そうとしたそのとき、兄の方が先に口を開いた。「玲奈......正直に教えてくれ。智也に何か無理を強いられているんじゃないか?」「いいえ」玲奈は即座に否定した。智也と交わした取引は、彼女にとって重荷になるようなものではなかった。なにより愛莉は自分の娘。母として世話をするのは当然のことだ。それ以上話すことはなく、電話を切った。玲奈はワイングラスを丁寧に洗い、元の位置に戻す。しばらく夜風に当たって気持ちを落ち着け、二階へ戻ろうとした。だが、そのとき――目に飛び込んできたのは智也の姿だった。パジャマ姿で少し離れた場所に立ち、洗いざらしの髪から滴る水滴が頬を伝っている。思わず息を呑み、玲奈は一瞬たじろいだが、すぐに気持ちを立て直した。「......まだ起きてたの?」かすれた声は、とても冷たい。智也は視線を外さず、答える。「ああ」その瞳の奥を読み取ろうとせず、玲奈は言い放つ。「私は上に戻るわ」彼を
Read more

第118話

玲奈は、どちらかといえばおじいさんの誕生日会を準備する方が好きだった。理由は二つ。ひとつは、彼が本当に彼女を可愛がってくれていたこと。もうひとつは、新垣家の人々の好みや食の好みやアレルギーをすべて覚えていたからだ。しばらくの沈黙ののち、玲奈は小さく答えた。「わかったわ」智也が何の意図で念を押したのか、もはや気にすることはなかった。おじいさんの誕生日会は言われなくても準備するつもりだ。ただし、もう以前のように全てを自分ひとりで仕切るつもりはなかった。それを察したのか、智也はさらに言葉を重ねた。「じいちゃんは君の料理を食べたいと言っていた」今年、智也の父の実の誕生日会はすでに台無しになっていた。智也は、自分の祖父の会までも失敗させるわけにはいかないと思っていた。たとえ玲奈が何らかの理由で準備を一部しなくても、じいちゃんの要望を伝えれば彼女は逆らわないだろう――そう考えていた。玲奈は少し考えてから答えた。「......ひと品だけ、私が作るわ」これまではすべてを任されていた。だが今年は、一皿だけ。それでも智也は静かに頷いた。「ああ」玲奈は意外に思った。もっと強く要求してくると思っていたからだ。だが感謝の念は湧かなかった。ただ一言告げる。「もう休んだら?」けれど智也はさらに問いかけた。「それで、じいちゃんへの贈り物は考えてあるのか?」例年なら、玲奈が早めに用意し、どんな品を選ぶか相談を持ちかけていた。だが今年は、そのことをすっかり忘れていた。間をおいて、玲奈は言った。「......今年は、それぞれで用意しましょう」「でも――」智也はまだ話そうとしていたが、玲奈はもう耳を貸さなかった。そのまま背を向け、振り返らずに階段を上がっていった。智也は去っていく姿を見つめ、胸に複雑な思いを抱いた。思い返せば、以前は誰の誕生日でも、彼女は必ず電話をかけてきて「何を贈ろうか」と相談してきた。けれどその相談も、いくつか候補を示した上で、結局は自分の裁量で決めていた。今年は違う。何も用意していない上に、「それぞれ用意する」と冷たく言い切った。その瞬間、智也は珍しく戸惑った。ビジネスでは誰もがおそれる存在である彼も、家庭の細かな事においては
Read more

第119話

玲奈が後部座席に腰を下ろしたのを見て、智也は眉をひそめた。自分を運転手扱いしているのか。だが時間が押しており、言い争っている余裕などなかった。黙って車を走らせ、新垣家の本邸へと向かう。玲奈は後部座席で贈り物の箱を抱き、横を向いて窓の外を流れる景色を見つめていた。智也にどんな贈り物を用意したのかと尋ねることも、愛莉がなぜ同乗していないのかと尋ねることもなかった。かつては家族のために心を砕き続けた。だがその努力に気づく者は誰もいなかった。だからこそ、今は自分の心だけを守ればいい――そう思っていた。道中、二人のあいだに会話はひとつもなかった。途中で智也のおじいさんから電話が入る。「玲奈さん、智也は迎えに行ったか?」「はい、おじいさん」「そうか。急がずに、ゆっくりおいで」玲奈は素直に答えた。「わかりました、おじいさん」電話を切り、時計を見るとちょうど七時。智也のおじいさんの生活リズムからすれば、あと一時間で就寝する時間だ。だが、玲奈を待っているので食事を始めようとはしない。その心遣いに胸が熱くなる一方で焦りも覚えた。到着してから料理を始めれば、食事はさらに遅れる。今夜は一品だけ作ると決めている。もし遅くなったら、お気に入りの麺にすればいい――そう心に決めた。贈り物は秋良に付き添ってもらい、時間をかけて選んだ柔らかな革のフラットシューズだった。高価ではないが、気持ちを込めた一品だった。屋敷に着いたのは七時半。智也と並んで玄関をくぐると、大広間から美由紀の甲高い声が響いてきた。「まったく、玲奈は調子に乗っているわ!今日が何の日か考えもしないで、食事の準備を放り出すだけじゃなく、みんなを待たせて平気で遅れてくるなんて。新垣家を何だと思ってるのよ!」言い終わったところに、玲奈と智也が大広間へ入っていく。そこには、義父の実と美由紀、そして智也の妹の新垣清花(にいがき きよか)の姿があった。弟の新垣涼真(にいがき りょうま)はまだ帰宅していない。遅れているのは自分だけではないのに、美由紀が指摘するのは玲奈ばかり。――これが「わざとではない」と言えるだろうか。玲奈は心で嘲笑った。美由紀は二人に気づくと玲奈を睨みつけ、今にも噛みつきそうな視線を向けた。
Read more

第120話

そう言い終えると、おじいさんは不満そうな顔を横へ向け、美由紀を鋭い声で叱りつけた。「涼真はどうした?なぜまだ帰らん!母親として、どういうつもりだ!」美由紀は嫁の立場だ。彼女だけでなく、誰もおじいさんに逆らうことはできない。一喝されると、美由紀は顔が立たず思わず俯いてしまった。「お父さん......すぐ涼真に電話します」そう言って、大広間を出ていく。その背中を見送りながら、おじいさんは吐き捨てるように言った。「自分のことすらできていないのに、よくもまあ他人のあら探しばかりするものだ」玲奈は黙って座っていたが、彼の気持ちが収まったのを見計らって立ち上がった。「おじいさん、お気に入りの麺をお作りしますね」毎年、誕生日会では彼女が全員分の料理を手がけてきた。けれど今年は作っていない。おじいさんはいつも彼女を気遣い、「若い娘が油や煙を浴びすぎると肌に悪いし、やつれてしまう」と言って、台所に立たないよう諭してきた。だが玲奈は、智也のためにその忠告を無視してきたのだった。今また彼女が台所へ向かおうとするのを見て、おじいさんはすぐに彼女をとめた。「たかが一杯の麺だ。食べなくても構わん。君は智也の妻なのだから、ここで座っていればよい。ほかの人に任せなさい」玲奈は感謝の思いを込めておじいさんを見つめ、にっこりと笑った。「お誕生日は一年に一度だけですし、私もなかなか戻れません。どうか孫の嫁の心ばかりと思って、作らせてください」そこまで言われると、彼も折れるしかなかった。「......わかった。ただし毎年一度だけだぞ」「承知しました、おじいさん」玲奈は笑顔で答え、台所へ向かおうとしたが、ふと思い出して持参した贈り物を手に取った。「おじいさん、柔らかい靴を買ってきました。お散歩や釣りのときにお使いください。気に入っていただければ嬉しいです」彼は箱を受け取り、目を細めて満面の笑みを浮かべた。「おお、さすが玲奈さんだ。これはいい。気に入った」玲奈がちらりと視線を横にやると、卓上には高価な贈り物が並んでいた。瑪瑙、真珠、如意宝珠、骨董の花瓶、名画......どれも目の玉が飛び出そうなほどの品ばかりだ。その中で、自分が用意した靴は最も安価で、比べ物にならないほど見劣りする。おじいさんが「気に入った」と言ってくれるのも、結局は自分を思いやって
Read more
PREV
1
...
91011121314
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status