All Chapters of これ以上は私でも我慢できません!: Chapter 151 - Chapter 160

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第151話

観察室へ入ると、玲奈は昂輝がベッドに仰向けに横たわっているのを見た。眠っているようだったが、眠りは浅いらしく、わずかな気配にすぐ目を開ける。玲奈の姿を認めた昂輝は、狼狽を覗かれたように一瞬うろたえた。身を起こそうとした彼を、玲奈は慌てて制した。「昂輝先輩、無理に動かないで」それでも昂輝は身を起こし、ベッドの背に凭れかかる。蒼白な唇で苦笑しながら言った。「......みっともないところを見せたな」玲奈の目に涙が滲み、視線を伏せる。「どうしてそんなことを言うの。だって私のせいで、あなたは......」昂輝は遮るように口を挟んだ。「智也に会っただろう?」玲奈は淡々と頷く。「ええ」昂輝の腕にはギプスが巻かれ、顔にもまだ薄く痣が残っていた。避けたいと思っても、結局は彼の惨めな姿を彼女に見られてしまった。「薫の母親のことだな?」昂輝は静かに笑みを浮かべ、声を落とした。玲奈は驚き、問い返す。「どうして知ってるの?高井君があなたに話したの?」昂輝は首を振り、淡々と説明する。「外来で診察した時に来ていたんだ。入院を勧めたが、聞き入れなかった。若手に何がわかるとまで言われたよ。でも、いずれ再発することはわかっていた」玲奈はようやく合点がいく。「そういうこと......」昂輝は彼女を見つめて尋ねる。「智也に、脅されたのか?」玲奈は心配をかけまいと首を振った。「いいえ」だが昂輝は静かに断じる。「君がわざわざ聞いている時点で、そうだということだ」玲奈は黙り込んだ。彼女の沈黙を見て、昂輝はすべてを悟る。しばしの間を置いて、彼はそっと問いかける。「玲奈......君は俺に、この手術をしてほしいのか?」玲奈は小さく首を振る。「わからない」医者にとって人を救うのは当然の務め。だが、薫が彼にした仕打ちを思えば、簡単に水に流せるものではなかった。それでも昂輝は淡い笑みを浮かべる。「君が望むなら、俺は決して背を向けない」玲奈は彼のギプスを見やり、静かに言った。「やりたいと思っても、今のあなたには無理よ。まずは身体を治してから」昂輝は「ああ」と短く応じ、それ以上は語らなかった。玲奈は彼がどうしてこんな怪我を負ったのか尋
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第152話

必要としない時は、好き勝手に貶め、根拠のない噂で潰し、ようやく積み上げた未来を簡単に壊してしまう。けれど今、頼らざるを得なくなれば、自分たちは頭を下げようとせず、代わりに玲奈を中間役に立てようとする。――滑稽な話だ。裕福な人間のプライドは、守るに値するものなのか。自分の非を認めることが、それほどまでに難しいのか。玲奈は冷ややかに笑い、受話器越しに言った。「智也。私はあんたの道具じゃない。都合よく呼びつけられたり、捨てられたりする存在でもない。昼食の誘いなら不要よ。食事代くらい、自分で稼げるから」そう告げると、相手の反応も待たずに電話を切った。切れる直前、わずかに沙羅の声が聞こえた気がした。午後になって、玲奈の携帯が再び鳴る。今度は小燕邸からだった。電話の主が愛莉であることはすぐに察した。出るべきか、一瞬ためらう。愛莉に傷つけられたのは一度や二度ではない。だが――彼女は娘。大人げなく子供に腹を立てても仕方がない。通話をつなぐと、玲奈は口を開かず、ただ相手の言葉を待った。受話器の向こうでも愛莉は黙り込んでいたが、やがて折れるように小さな声を出した。「......ママ」かすかな甘えが滲む呼びかけ。玲奈は淡々と答える。「ええ」愛莉は慎重に言葉を選ぶように続けた。「ママ、帰ってきてくれる?パパもサラちゃんも、この二日ずっと帰ってこないの」その言葉に玲奈は察する。智也と沙羅は、薫の母親の件で手一杯なのだろう。だが、だからといって簡単に頷く気にはなれなかった。「宮下さんが小燕邸にいるでしょう?」愛莉の声は急に曇る。「でも宮下さんは所詮お手伝いだもの。私にはパパがいて、ママもいる。パパとママに一緒にいてほしいの」――パパとママだけ?じゃあ、沙羅はどうなのか。玲奈にはわかっていた。愛莉が母を求めるのは、沙羅が来られないから、その代わりに過ぎない。「ママは残業があるから、今夜は――」言い終える前に、愛莉が泣き出した。「ママ......でもご飯も食べてないの。宮下さんのご飯、美味しくない。ママのご飯が食べたい」その一言に、玲奈の心は不意に掴まれる。胸が痛むのを抑えきれず、やわらかい声でなだめた。「泣かな
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第153話

駆け寄ってきた娘を見下ろした玲奈の胸に、一瞬ぬくもりが広がった。けれど両手に買い物袋を抱えていたため、ただ優しく声をかけるだけだった。「はいはい。ママ、すぐご飯作るからね」何度も傷つけられてきた娘――それでも母と子の絆だけは、どうしても断ち切れない。愛莉は立ち上がると、気を利かせたように玲奈の手から袋を取ろうとした。「ママ、愛莉も手伝う。持ってあげる」袋は重かった。玲奈は気の毒に思い、首を振った。「遊んでなさい。ママがやるから」だが愛莉は頑なに袋を掴んで離さない。「先生が言ってたよ。お家に帰ったら、お手伝いをするんだって。愛莉、ママにばっかり大変な思いさせたくない」その言葉に、玲奈は思わず眉をひそめた。もし昔なら、娘の成長を嬉しく思い、頬を撫でて「いい子ね」と褒めていただろう。だが今は――どこか現実感がなく、まるで作り物の場面を見ているようだった。数秒の間ののち、結局袋は愛莉の手に渡り、残りは宮下さんが受け取った。玲奈が台所で粉をこね始めると、愛莉はその場を離れず、餡を作る横でにんにくの皮を剥いていた。――学校で「親を大切に」と教えられ、それを真面目に聞き入れたのだろう。もしそうなら、それはそれでありがたいことかもしれない。大きくなれば、きっと気づく。沙羅は決して理想どおりの人間ではないと。そう思うと、玲奈の心も少し晴れ、包む小籠包の手元に自然と笑みが浮かんだ。愛莉は母の口元の笑みに気づき、今なら話せると感じたのだろう。ためらいながらも、言葉を切り出した。「ママ......お願いがあるの」玲奈の手が止まり、顔を向けると笑みは跡形もなく消えていた。「何をお願いするの?」母の不機嫌を悟りながらも、愛莉は勇気を振り絞った。「薫おじさんのお母さんが病気なんだって。パパが言ってたんだけど、この手術をできるのは昂輝おじさんしかいないんだって。だから薫おじさんは、このことでここ二日ずっと病院に付きっきりで、眠れてもいないの。ママと昂輝おじさんは仲がいいんだから、ママがお願いすれば、きっと断らないよ」その言葉に、玲奈の手は凍りつく。天井を仰いだ瞬間、ふっと笑いがこぼれ、頬を伝って涙が落ちた。――そういうことだったのか。なぜ愛莉が
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第154話

愛莉は視線を落とし、小さな声で「わかった」と呟いた。肩を落としたまま台所を離れ、リビングのソファに腰を下ろす。この数日、沙羅は顔を見せていない。そのことで愛莉は内心不満を抱いていた。もし父と沙羅の困りごとを自分が解決できたら、きっとふたりとも時間を作って、また自分のそばにいてくれるはず――そう思っていたのだ。だが母は首を縦に振らなかった。――ママ、変わってしまった。そんな思いが芽生え、ソファに小さく縮こまる。胸の奥まで沈んでいくように気持ちが塞いでいった。台所からそれを眺めていた玲奈は、胸の奥に苦い笑みを浮かべる。自分の頼みを断られるや、娘は仮面すら被ろうとせず、あっさり背を向けていったのだ。「......やっぱり、そういうこと」小さく吐き出すと、玲奈は最後のひとつを包み終え、手を洗った。――娘が本当に自分を必要としていないのなら、ここにいる意味などあるのだろうか。そう思いながら、エプロンを外して宮下に告げる。「小籠包はほとんど包み終わったわ。蒸して、食べさせてあげて。私は用があるから、もう帰る」「奥さま、また泊まられないのですか?」宮下は眉をひそめ、問い返す。玲奈は淡々と答えた。「ええ」愛莉もそれを耳にしたが、母を引き止めることはなかった。荷物を整え、出口へと歩いていく。だがちょうどその時、玄関の扉が開き、智也と沙羅が並んで入ってきた。玲奈は一瞥しただけで、すぐに通り過ぎようとした。だがすれ違いざま、智也の手が伸び、彼女の腕を掴んだ。「話がある」玲奈は横を向き、冷たい声で返す。「昂輝のことを言うつもりなら無駄よ。彼のことは私にはわからない。彼の意思を決める権利もなければ、代わりに答える資格もない」そう言って彼の指を力づくで振り解いた。その時、沙羅が彼女の前に立ち塞がる。「玲奈さん......昂輝さんにとって、あなたは一番大切な人。あなたの言葉なら、きっと聞き入れてくれるはず。薫はこの数日、病院で眠ることもなく看病していて......もう何度も泣き崩れているの。どうか、智也の顔を立てると思って......力を貸していただけない?」智也の強硬さとは違い、沙羅は身を低くして懇願した。だが玲奈は彼女に目もくれず、ただ吐
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第155話

智也はシャツの袖で沙羅の掌についた血と泥を拭い、さらに傷口にふっと息を吹きかけた。沙羅は眉をひそめ、涙をこらえた潤んだ瞳で見上げる。その儚げな姿に、智也の胸は強く締めつけられた。「まだ痛むか?」心配そうに、声を落として尋ねる。沙羅は唇を噛み、首を振る。「智也、大丈夫。こんなの、たいしたことないわ」智也はそっと彼女を支え起こす。「中に戻ろう。薬で消毒した方がいい」その言葉に、とうとう沙羅の涙がこぼれ落ちた。「ごめんなさい。薫を助けてあげられなかった。私、役に立たなくて」智也は指先で彼女の涙を拭い、柔らかく言う。「君のせいじゃない。もう十分頑張ってる」それでも沙羅は自分を責めた。「私は医者なのに......昂輝と同じ学校を出たのに、あの手術はできない。私にもっと腕があれば、誰かに頼む必要もなかったのに。智也、私、無力すぎるわ」智也は彼女の頭を撫で、穏やかに宥めた。「もう十分だ。これ以上自分を責めるな。薫だって、そんな君を見れば心を痛める」沙羅は涙に濡れた目を伏せ、小さく「うん」と答える。智也に支えられて歩き出す二人を、玲奈は黙って見つめていた。言葉もなく、ただじっと。大広間へ向かう前、智也がふと振り返った。その眼差しには、明らかな怒気が滲んでいた。――玲奈は彼の怒りを正面から受け止めた。冷ややかに視線を返し、胸の奥で苦笑する。まるで彼の目が告げているようだった。「お前がやりすぎた」と。だが――本当にそうだろうか?自分の行く手を遮り、退こうとしなかったのは沙羅の方だ。なのに責められるのは、いつだって自分。「可笑しな話ね」視線を逸らし、踵を返そうとしたその時。「歩けるか?」智也が沙羅に問う。彼女はまだぼんやりとしていて答えられない。次の瞬間、智也は腰をかがめ、彼女を横抱きにした。その拍子に傷ついた手に触れられ、沙羅は小さく呻く。「智也......痛い」「じゃあ、もっと優しく」智也は囁き、顔を寄せる。その角度から見れば、玲奈の立つ位置からは、彼が彼女の額に口づけを落としたようにしか見えなかった。「......ふっ」玲奈は鼻で笑い、踵を返す。智也が沙羅を抱えたまま屋内へ入ると、
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第156話

清花や涼真の好物と聞けば、玲奈は手間を惜しまず腕を振るってきた。だが今夜、彼らの姿を見ても、かつてのような笑顔はひとつも浮かばなかった。自分を訪ねて来たのではないとわかっている。玲奈は二人を避けるようにすり抜け、屋敷を出ようとした。けれど清花が急に腕を掴み、呼び止めた。「お義姉さん、話したいことがあるの」玲奈は一瞬だけ動きを止め、赤くなった目で彼女を見つめる。「あなたまで、私に頼みに来たの?」新垣家の人間すべてが敵ではない。少なくともおじいさんと清花は違った。おじいさんは常に変わらぬ優しさで接してくれた。それに、清花もまた冷淡ではあったが、彼女を露骨に攻撃したことはなかった。清花はその傷ついた瞳をまともに受け止め、胸を締めつけられる。それでも、逡巡の末に言葉を絞り出した。「お義姉さん......薫さんのお母さんはまだ若いの。私も昂輝さんに会って頼んでみた。でも彼は、あなたが首を縦に振るなら手術を引き受けるって......だから」最後まで聞く前に、玲奈は清花の手を振り払った。「私に言っても無駄。高井君に言えばいいでしょ」そう言い捨てて、迷わず歩き出す。涼真は道を塞ぐこともせず、苛立ちを隠さぬ声で清花にぶつけた。「言っただろ?頼んだって無駄なんだ。あいつはただの害虫だ。なんで頭を下げる必要があるんだよ」玲奈はその言葉を耳にしたが、もう気にも留めず、車に乗り込んで屋敷を後にした。彼女の車が走り去ったあと、清花は涼真を鋭く睨みつける。「だから言ったじゃない!余計なこと言わないでって。あの人は私たちのお義姉さんよ。どうして少しの敬意も示せないの?」涼真は鼻で笑い、吐き捨てる。「お義姉さんだって?俺が認めているのは沙羅だけだ」清花は彼の腕を叩きつけるように言った。「愛莉の母親である限り、あの人は立派な私たちのお義姉さんよ。沙羅はただの兄さんの女にすぎない。これ以上そんなことを言ったら、許さないから」涼真は白々しい目を向ける。「ふん、そんなに庇って......彼女が感謝でもしてくれるのか?」清花は大きく息をつき、諦めたように視線を逸らす。「でも......薫さんがやったことは酷すぎる。昂輝さんのように真っ直ぐな人間が、あん
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第157話

うつむいた玲奈の胸の奥には、色んな思いが渦巻いていた。押し寄せる感情は、苦しさと理不尽さで胸を締めつける。気づけば鼻先がつんと熱くなり、涙がこぼれそうになった。それでも必死にこらえ、唇を強く噛みしめ、泣き声を押し殺した。彼女も昂輝も共に医学を学んできた身、救いを求める人を助けるのは医者の責務だとわかっている。玲奈は知っていた。――たとえ誰かに頼まれなくとも、先輩である彼は必ず薫の母の手術を引き受けただろうと。けれど、皆がこうして彼女にすがってきたからこそ、なおさら応じたくはなかった。なぜ、彼らの言葉に従わなければならないのか。なぜ、他人の思惑のままに、ひとりの人生を踏みにじられねばならないのか。真に傷ついたのは昂輝であるはずなのに、どうして薫は謝罪ひとつしない。無関係の人間を盾にして、彼女を追い詰めるなど......あまりに理不尽だった。たとえ今、新垣家でただひとり自分に優しくしてくれる祖父が目の前に立っていようと、玲奈の心は揺らがなかった。「おじいさんのお気持ちはわかります。けれど昂輝先輩は彼らに苦しめられた人です。許すかどうか、手術をするかどうか、それを決めるのは彼自身であって、私が口を出すことではありません。彼を追い詰める真似は、私にはできません」おじいさんはその言葉を聞き、静かに問いかけた。「もしも私が間に入って、双方を和解させるとしたらどうだ」玲奈は一瞬息を呑み、顔を上げて長いこと彼を見つめた。やがて小さく首を振り、静かに言った。「壊されたのは私ではありません。私が口を出す資格はありません」おじいさんは諦めたように深く息を吐いた。「そうか。なら、もう君を責めることはしない。だが玲奈さん、時間があるときは愛莉を連れてもっと顔を見せにきておくれ。私ももう年だ、そう何度も会えるわけじゃない。もし本当におじいさんを想ってくれるなら、たまに帰ってきてくれ」玲奈は涙をこらえ、「はい」とだけ応えた。その後、祖父は彼女の近況を尋ねた。仕事は順調か、愛莉は勉強を頑張っているか、そして――智也との関係に進展はあったのか、と。玲奈はどの問いにも「はい」「大丈夫です」と答えただけだった。やがて彼は立ち上がり、自ら帰ると言った。玲奈は引き止めず、病
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第158話

昂輝は静かに言った。「玲奈、俺は医者だ。すべきことをしただけだ。だから自分を責める必要なんてないし、屈辱を受けたなんて思わなくていい。本当に、俺は何ともないんだ」そう口にしてはいたが――本当に「何ともない」かどうかは、彼自身にしかわからなかった。智也や薫たちとは違い、昂輝はごく普通の家庭に生まれ、家族の期待を一身に背負ってここまで歩いてきた。ようやく掴み取った未来を、他人の一言であっけなく断たれたあの日。「何ともない」はずなどなかった。玲奈はさらに言葉を継ごうとした。師兄に、この出来事を自身の未来を取り戻すための交渉材料にしてほしい――そう願って。だが口を開くより早く、昂輝が先に笑って言った。「玲奈、明日は豚汁にしよう。魚のスープばかりじゃ、俺まで魚になってしまいそうだ」そう言って、ふざけて魚の泳ぐ真似までしてみせる。玲奈は思わず吹き出し、小さく笑った。その笑顔を見て、昂輝はようやく安心したように言う。「そう、それでいいんだ。どんな時でも笑っていれば、きっと乗り越えられる」玲奈は「うん」と応え、しばらく一緒に過ごしたあとで病室を出た。廊下に出ると、壁際に智也が立っていた。玲奈は思わず心臓が跳ね、胸に手を当てて深呼吸する。そのまま通り過ぎようとしたが、智也が口を開いた。「お前たちの会話、聞いていた」玲奈は一瞬考え、そして答えた。「ちょうどよかった。私もあなたに話したいことがあるの」「ああ」数分後、二人は階段の踊り場にいた。玲奈は遠回しな言い方をせず、率直に切り出した。「昂輝先輩は手術を引き受けたわ。彼は医者だから、病人を見捨てるようなことはしない。でも――あなたたちが奪った彼の名誉は、必ず返してほしい」智也は静かに応じた。「真相が明らかになったら、必ず彼の名誉は回復させる」玲奈は不満を押し殺せず、声を荒げた。「名誉を返すだけで済むの?私が望むのは――高井君が昂輝先輩に謝ることよ!」怒りで歪んだ彼女の顔を見つめながらも、智也の声音は揺れなかった。「俺だってお前と同じだ。他人を無理やり動かすことなんてできない」その答えに、玲奈は皮肉を込めて吐き捨てた。「じゃあどうするの?圧力をかければいいじゃない。あなたが
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第159話

昂輝が手術を終えてからは、玲奈のもとに煩わしい頼み事を持ち込む者はもう現れず、彼女の生活はようやく平穏を取り戻しつつあった。三日ほどが過ぎたある日、玲奈は珍しく早く仕事を終え、久しぶりに春日部家へ戻って家族に夕食を作ってあげようと張り切っていた。台所で半時間ばかり下ごしらえを終えた頃、玄関から陽葵が声を張り上げる。「おばちゃん、荷物届いてたよ。持ってきた!」玲奈がキッチンから顔を出すと、陽葵は箱を抱えてダイニングテーブルに置いたところだった。包装は洒落ていて、一目で拓海の差し金だとわかった。ここしばらくは昂輝のことで頭がいっぱいで、玲奈は彼の存在を忘れかけていた。――拓海のような男は気まぐれに口にしただけ。時間が経てば忘れるはず。そう自分に言い聞かせていたのに、すでに十日近くも経つというのに、彼はこうして贈り物を続けていた。玲奈はふと考える。彼が飄々と数億円を投じて宝飾品を競り落としたというが――本当にその額を支払ったのだろうか。あるいは世間への煙幕にすぎないのかもしれない。彼を知っているといっても、玲奈が知るのは表面的な姿だけだった。拓海のような男が、自分に興味を抱くなど夢にも思っていなかった。たとえ彼が「一晩抱きたい」と軽口を叩いたとしても、それを真に受けるつもりはなかった。――あんな上流社会の男が、結婚歴があり子どもまでいる自分を相手にするはずがない。そんなことを考えていると、陽葵が箱を覗き込みながら唇を尖らせた。「ねえおばちゃん、中には何が入ってるの?」玲奈は我に返り、微笑んで言った。「開けてみせてあげる」陽葵は椅子に座り、頬杖をつきながらおとなしく待っている。箱を開けると、中には透き通るような白玉のブレスレットが収められていた。今度は翡翠ではなく、上等な和田玉。光を受けて淡く緑を帯び、ひとつの曇りもない。「わぁ......おばちゃん、誰がくれたの?すごく綺麗!」陽葵は思わず声を上げた。玲奈ははっとした。宝石の知識は乏しいが、それでも目の前の品が桁違いに高価であることはすぐにわかる。棉もなく、透き通る地の奥には、霧のように淡い緑がふんわりと漂っていた――素人の目にも、この玉が尋常ならざる価値を持つことは明らかだった。前に競り落とされた翡
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第160話

「......須賀君からのものだと思う」玲奈が正直に答えると、秋良の顔が一変した。「玲奈、お前......これがどれほどの値打ちか、わかっているのか?」玲奈は首を横に振った。秋良は険しい声で続ける。「昨日、お前の義理の姉を連れてファッションショーに行ったんだ。終わった後にオークションがあってな――その時、このブレスレットを拓海が競り落としていた。いきなり40億と叫んで、他の人に有無言わせず落札し、そのまま持ち帰ったんだ」玲奈は息を呑み、心がざわついた。必死に気持ちを落ち着け、ブレスレットをしまうと兄に言った。「兄さん、私返してくるわ。直接会って、ちゃんと返すから」だが秋良が呼び止める。「待て、玲奈」彼は一歩近づき、妹を見下ろした。鋭かった眼差しは、やがて痛ましげな憂いに変わっていた。「智也も、拓海も......俺たちが近づくべき相手じゃない。思い出せ、あの時お前は命がけで智也に嫁ごうとした。だが結果はどうだった?俺はお前の恋愛を否定するつもりはない。強さに憧れる気持ちも理解できる。けれど差が大きすぎる相手はやめろ。拓海のような男は、感情が本物かどうかも怪しいし、あの世界でも悪名高い。どんな思惑で近づこうと、玲奈、お前の人生に入り込ませるな」そこで言葉を切り、秋良は低く続けた。「玲奈、俺はきっと自分勝手なんだろう。願わくば、お前には普通の家庭に嫁いでほしい。そうでなければ、俺が守りきれない。智也や拓海を相手にするなんて――俺には......」「兄さん、もういい」玲奈は潤んだ瞳で遮り、にっこりと微笑んだ。そこには感謝と理解が宿っていた。言葉はそれ以上いらなかった。彼女には十分伝わったのだ。考えた末、玲奈は拓海に会わないことにした。代わりに彼から届いた贈り物をすべて丁寧に梱包し直し、彼の邸宅へと車を走らせた。扉を開けたのは執事だった。若い女の姿を見た瞬間、その表情に気づいた。――またか、と。拓海の女癖は有名で、ここを訪れる女性は後を絶たない。執事は玲奈もその一人だと思い、取り合わずに背を向けた。玲奈はすぐに察し、声をかけた。「こちらを、あなたの主人へ渡していただけますか」執事は意外そうに振り返った。
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