その瞬間――玲奈の脳裏に、ひとりで娘を育ててきた日々が蘇った。熱を出しやすい幼子を抱えて、必死に病院へ駆け込んだ夜。智也には何度連絡しても繋がらず、濡れそぼつ雨の中、ひとりで愛莉を胸に抱えて走った。病院までの道を、いったい何往復しただろう。びしょ濡れになりながらも、ただ「隣に彼がいて、大丈夫だ、俺がいると声をかけてくれたら」――その願いを胸に、必死で踏ん張ってきた。けれど、彼はいつも忙しく、手の届かないところにいた。だから玲奈は、やがて自分ひとりで全てを解決する術を覚えていったのだ。なのに、ほんのさっき、智也は玲奈の首に挟まれていた傘を取り上げて、自ら「俺が持つ」と口にした。数え切れないほど夢見た光景が、ようやく現実となった。けれど玲奈の胸に去来したのは、喜びではなく、込み上げる悔しさと哀しみだった。――もっと早く、こうしてくれていたなら。こんなにも心が荒み、死んだように冷め切ることはなかったのに。雨の中を歩く間、智也の傘はずっと玲奈のほうへ傾けられていた。けれどそれは、彼女のためではない。抱かれた愛莉のためだ。それでもいい。少なくとも、愛莉に対しては優しいのだから。正門に着くと、玲奈は愛莉を後部座席に乗せた。身をかがめる彼女の背に、智也は傘を差し続けていた。ドアを閉め、運転席に腰を下ろす。玲奈がドアを引き寄せたとき、智也はいまだ傘をさしたまま車の脇に立っていた。思わず顔を上げ、かすれた声で告げる。「......ありがとう」智也は眉を寄せ、何も言わない。だが、彼女の服がまだ濡れているのに気づくと、黙って上着を脱ぎ、玲奈の膝に置いた。「風邪をひくな」玲奈は一瞬呆気に取られ、思わず上着を返そうとした。だが、智也はもう傘をさして自分の車へと歩き去っていた。玲奈は深追いせず、上着を助手席に放り投げた。車を発進させながら、後部座席の愛莉に問いかける。「帰りに何が食べたい?」「幼稚園の門のとこにあるスープ餃子!あと、温かいヨーグルトも!」「わかったわ」玲奈が微笑んで応えると、智也は別の車の中からその様子を見届け、ようやく視線を外した。午後五時半。玲奈は仕事を切り上げ、六時ちょうどに幼稚園に到着した。雨は一日中降り続き、園門の前には先生に
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