All Chapters of これ以上は私でも我慢できません!: Chapter 171 - Chapter 180

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第171話

その瞬間――玲奈の脳裏に、ひとりで娘を育ててきた日々が蘇った。熱を出しやすい幼子を抱えて、必死に病院へ駆け込んだ夜。智也には何度連絡しても繋がらず、濡れそぼつ雨の中、ひとりで愛莉を胸に抱えて走った。病院までの道を、いったい何往復しただろう。びしょ濡れになりながらも、ただ「隣に彼がいて、大丈夫だ、俺がいると声をかけてくれたら」――その願いを胸に、必死で踏ん張ってきた。けれど、彼はいつも忙しく、手の届かないところにいた。だから玲奈は、やがて自分ひとりで全てを解決する術を覚えていったのだ。なのに、ほんのさっき、智也は玲奈の首に挟まれていた傘を取り上げて、自ら「俺が持つ」と口にした。数え切れないほど夢見た光景が、ようやく現実となった。けれど玲奈の胸に去来したのは、喜びではなく、込み上げる悔しさと哀しみだった。――もっと早く、こうしてくれていたなら。こんなにも心が荒み、死んだように冷め切ることはなかったのに。雨の中を歩く間、智也の傘はずっと玲奈のほうへ傾けられていた。けれどそれは、彼女のためではない。抱かれた愛莉のためだ。それでもいい。少なくとも、愛莉に対しては優しいのだから。正門に着くと、玲奈は愛莉を後部座席に乗せた。身をかがめる彼女の背に、智也は傘を差し続けていた。ドアを閉め、運転席に腰を下ろす。玲奈がドアを引き寄せたとき、智也はいまだ傘をさしたまま車の脇に立っていた。思わず顔を上げ、かすれた声で告げる。「......ありがとう」智也は眉を寄せ、何も言わない。だが、彼女の服がまだ濡れているのに気づくと、黙って上着を脱ぎ、玲奈の膝に置いた。「風邪をひくな」玲奈は一瞬呆気に取られ、思わず上着を返そうとした。だが、智也はもう傘をさして自分の車へと歩き去っていた。玲奈は深追いせず、上着を助手席に放り投げた。車を発進させながら、後部座席の愛莉に問いかける。「帰りに何が食べたい?」「幼稚園の門のとこにあるスープ餃子!あと、温かいヨーグルトも!」「わかったわ」玲奈が微笑んで応えると、智也は別の車の中からその様子を見届け、ようやく視線を外した。午後五時半。玲奈は仕事を切り上げ、六時ちょうどに幼稚園に到着した。雨は一日中降り続き、園門の前には先生に
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第172話

先生や友達に玲奈のことを話すとき、陽葵の背筋はぴんと伸び、顎を高々と上げて、目の中は誇らしさでいっぱいだった。その姿に、玲奈は思わず口元をほころばせた。けれどふと隣に目をやると――愛莉は陽葵の後ろに隠れるように立ち、リュックの紐を握りしめ、うなだれて肩を震わせていた。泣いているのだと、一目でわかった。玲奈の胸はぎゅっと縮み、すぐに娘を呼びたくなった。だが、唇まで上った言葉は喉奥で固まり、どうしても出てこなかった。その間に陽葵は校門から駆け出し、玲奈の手を自然に取った。我に返った玲奈は、背後から取り出した小さな包みを差し出した。「ほら、欲しがっていたピンクの小さなヒョウのぬいぐるみ。おばさんが買ってきたわ」受け取った陽葵は飛び跳ねて喜び、声を弾ませた。「ありがとう、おばちゃん!おばちゃん大好き!」感謝を繰り返したあと、陽葵は玲奈にしゃがむようせがみ、頬ずりをし、何度も抱きついてきた。校門の内側でそれを見ていた愛莉は、リュックの紐を強く握りしめ、目を見開いて陽葵を睨みつけた。――あれは自分のママなのに。なぜ陽葵が抱きしめているのか。なぜ自分のママが、陽葵を迎えに来るのか。胸の奥が押し潰されるように苦しい。悔しくて、悲しくて......けれどママは自分を見てくれない。玲奈は陽葵の頭を撫で、髪を整えてやると優しく言った。「陽葵、先生にさよならを言って」「先生、さようなら!」陽葵は元気よく手を振った。そうして玲奈と陽葵は、大小二つの傘を並べ、雨の中を並んで歩き出した。校門の前に残された愛莉は、鉄の門をつかんで叫ぶ。「ママ!」だが、雨音と陽葵のはしゃぐ声にかき消され、玲奈の耳には届かなかった。そのときようやく宮下が駆けつけ、出て行こうとした玲奈と鉢合わせる。「奥様」変わらぬ恭しい呼びかけに、玲奈は立ち止まる。陽葵はおしゃべりを止め、顔を上げて玲奈を見た。玲奈は落ち着いた声で指示を出す。「宮下さん、悪いけど愛莉をお願い。帰ったら早めに洗面させて、ちゃんと休ませて。スマホは長く遊ばせないで」細やかな言いつけに、宮下は何度も口を開きかけたが、結局言葉を呑み込んだ。玲奈もそれ以上、耳を貸す気はなかった。「さあ、陽葵。帰りましょう」「
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第173話

その夜――春日部宅にて。玲奈が陽葵を連れて帰宅すると、陽葵は真っ先に台所へ駆け込み、朝作った卵クレープを温め直した。お盆に載せて運び出し、玲奈のそばでじっと味見の反応を待つ。実際のところ味はさほど良くはなかった。それでも玲奈は最後まで食べきり、「とても美味しいわ」と繰り返し褒め、やんわりと改善点も伝えた。陽葵は素直に受け止め、「次はもっと上手に作る」と笑顔で応えた。夕食を終えた家族は、しばし団らんの時を過ごした。――その後。洗面を終えた玲奈がスマホを手に取ると、着信履歴が十数件も残っていた。すべて、智也からだった。どうすべきか迷っていると、再び着信。直感で悟る――これはきっと、ただ事ではない。ためらわず応答した途端、荒々しい怒声が飛び込んできた。「玲奈、いったい何をしていた!なぜ俺の電話に出ない!」いきなりの怒号に、玲奈も苛立ちを隠さず声を荒らげた。「智也、わたしが何をしていようと、あなたに関係ある?」「愛莉が病気だ。すぐに戻って来い!」智也は言い争いを避け、要件を端的に告げた。――その一言に、玲奈の心臓は大きく跳ねた。瞬時にベッドから飛び起き、寝間着のまま部屋を飛び出す。「どうしたの?昼間は元気だったじゃない!」階段を駆け下りながら問いかける。智也の声は落ち着きを取り戻していた。「宮下の話だと、夕飯を終えたあと腹痛を訴え、ほどなくして食べたものをすべて吐いたらしい」玲奈は血の気が引く思いで急ぎ足を速めた。すでに夜は更けていた。家族を煩わせることなく、自分で車を走らせ小燕邸へ向かう。屋敷に着くと、宮下がぐったりした愛莉を抱き、居間を行き来していた。扉を開けた瞬間、安堵と涙が入り混じった声が響く。「奥様......ようやくお戻りに......」雨はまだ降り続いていた。玲奈は傘もささずに駆け込んだため、寝間着は半ば濡れていた。靴を脱ぐ間もなく宮下のもとに駆け寄り、愛莉を抱き取る。娘は浅い眠りの中で目を開き、かすかな声を漏らした。「......ママ」玲奈はその額に頬を寄せる。熱はない。発熱が原因ではなさそうだ。「愛莉、どこが痛むの?ママに教えて」小児外科医としての顔に切り替え、丁寧に問いかける。力の抜けた体を抱
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第174話

愛莉の顔色は青ざめ、まだ本調子には程遠かった。玲奈は、しばらく救急外来に留まらせ、容体が落ち着いてから帰宅させようと決める。処方されたのは消化を助ける薬と乳酸菌。宮下が持ってきたお湯で、それを飲ませた。薬を口にしたあと、愛莉はかえって眠れず、ベッドの背に寄りかかり、弱々しい声を洩らす。「ママ......お腹、すいた」胃の中のものを吐き出したのだから、当然だ。玲奈は胸が締めつけられる思いで額に触れ、穏やかに問う。「何が食べたい?ママが買ってきてあげる」「おかゆが欲しい」「わかったわ」玲奈は微笑んだ。宮下に愛莉を託し、玲奈は傘を手に病院を出た。娘のことばかりで必死に走り回り、外に出てようやく気づく。寝間着姿のまま、髪は乱れ、見るも無惨な格好だった。数百メートル歩いたところで、雨脚がさらに強まった。傘を差しても、靴も裾もびしょ濡れになっていく。それでも娘の「おかゆが食べたい」という一言が頭から離れず、玲奈は雨に打たれながら二十四時間営業のお粥店に駆け込んだ。傘を店頭に置き、扉を開いた瞬間――思いがけない人物と鉢合わせた。「奥様?」菅原勝が、濡れた寝間着姿の玲奈を見て、眉をひそめた。玲奈は短く「ええ」と返事をし、そのとき初めて智也のことを思い出した。――愛莉が病気なのに、彼はどうして帰って来ないのか。父親なら、いくら仕事が忙しくても、娘を病院に連れてきて然るべきではないのか。緊急時には考える余裕もなかったが、勝の顔を見た途端、その疑問が胸を突き上げた。思わず問いかける。「智也は......まだ仕事中なの?」「えっ?」勝は一瞬きょとんとした。玲奈は小さく眉を寄せる。「愛莉が病気だと伝えたのに会議があるって......まだ終わってないの?」時計はすでに夜十時を回っている。彼が残業することは珍しくないが、ここまで長引くことは滅多になかった。勝は深く考えもせず、口を滑らせる。「会議なんてありませんでしたよ。午後三時には会社を出てます」玲奈は一瞬固まり、すぐ問い返す。「何ですって?」「わ、私は......」言った瞬間に失言を悟ったのか、勝の視線は泳いだ。玲奈はそこで全てを悟ったように淡々と頷く。「そう、わかったわ。仕事
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第175話

買ってきたおかゆを手に病院へ戻ると、愛莉は宮下のスマホで動画を見ていた。何か面白いものを見たのか、顔いっぱいに笑みを浮かべている。「愛莉様、奥様がお戻りです」宮下の声に、愛莉は慌てて画面を消し、ベッドから身を起こして呼んだ。「ママ!」玲奈の寝間着は、もうどこを見ても濡れていた。それでもおかゆを大事そうに抱え込み、冷めやしないか、こぼれはしないかと気を配っていた。差し出しながら言う。「宮下さん、これを愛莉に食べさせてあげて」全身びしょ濡れの玲奈を見て、宮下の胸にじんと痛みが走る。声を出すと、かすれた。「奥様......まずお着替えをなさってください」玲奈は「ええ」とだけ応じ、それ以上の言葉はなかった。愛莉も母の濡れた姿に気づいていた。本当は心配でたまらなかった。けれど昼間、幼稚園で自分を迎えに来てくれなかったことを思い出すと、素直に声をかける気持ちは失せてしまった。着替えを取りに車へ戻った玲奈は、シートに腰を下ろした途端、全身の力が抜け、動けなくなった。目を閉じ、勝の言葉を思い返す。――そして、娘を病院へ連れて来なかった智也のことも。そのとき悟った。彼はきっと、久我山にはいない。では、どこに?答えは簡単だった。沙羅のいる場所――そこに彼はいるのだろう。だが憶測だけでは足りない。証拠が必要だ。玲奈はスマホを取り出し、「ララ」の動画アカウントを検索する。案の定、新しい投稿があった。そこに映っていたのは――花束と果物を抱え、病室の扉を押して入ってくる智也の後ろ姿。顔こそ映っていなかったが、服を見ただけで彼だとわかった。キャプションにはこうあった。【いつでも必要なとき、どこにいても駆けつけてくれるあなた。本当に幸せ。ありがとう】スマホを伏せた玲奈は、思わず両手で顔を覆った。胸を締めつけるのは、智也が沙羅を訪ねたことそのものではない。愛莉が病に伏しているこのときでさえ、彼が沙羅のそばにいるという事実だった。その思いに押し潰されそうになり、息が詰まりそうになる。だが、嘆いても意味はない。玲奈は服を着替え、気持ちを整えた。そのとき、スマホに着信。ラインではなく、ビデオ通話。発信者は智也だった。一瞬迷ったが、玲奈は
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第176話

病室で一時間ほど様子を見て異常がなかったので、玲奈は愛莉を連れて小燕邸へ戻った。帰宅すると、娘を洗面させ、清潔なパジャマに着替えさせる。娘が眠りについたあと、ようやく自分も入浴し、肌の手入れを済ませた。愛莉のことが心配で、この夜は彼女の部屋のソファに横になった。雨に濡れたせいか、眠りは浅く、玲奈は夢ばかり見た。智也に尽くしてきた日々のこと、家族と決裂したこと、娘に「ママは悪い人だ」と責められる夢。そして、夢うつつの中で智也の姿を見た気がした。彼は身を屈め、何かを口ずさんでいるようだったが、言葉は届かない。聞き取れないが、彼は身を屈めたまま腕を差し伸べる。一方の腕を玲奈の背に、もう一方を脚の下に回し――彼女を抱き上げた。そこから先が夢なのか現実なのか、玲奈には分からなかった。その夜はひどく深く眠り、翌朝目を覚ますと、全身が鉛のように重く、力が入らなかった。意識がはっきりしたとき、そこが愛莉の部屋ではなく、智也と自分の寝室であることに気づく。さらに衝撃だったのは、智也が静かに隣に横たわっていたことだ。しかも、自分の手も足もまるでタコの脚のように彼に絡みつき、抱きしめるようにして眠っていた。呆然とした玲奈は、昨夜の夢を思い出す。――まさか、智也が抱き上げたのは夢ではなかったのか。どちらにせよ、こうして彼にしがみついている現実は否定できない。慌てて手足をそっと引こうとした瞬間、智也のまぶたが開いた。その目と視線がぶつかった瞬間、玲奈は硬直し、動きも止まる。智也は横を向き、じっと彼女を見つめ、しばらくしてから静かに言った。「......起きたか?」玲奈はすぐに手足を引き抜き、できるだけ距離を取るように身を退けてから、短く答える。「ええ」彼女の仕草に気づきながらも、智也はただ口を開いた。「昨夜、熱を出していた」昨日、雨に打たれたことを思い出し、玲奈はようやく合点がいった。「ああ......」体がだるくて起き上がる気力はない。ただ、彼から少しでも離れたい一心だった。智也もその虚弱さを悟ったのか、無意識に手を伸ばす。玲奈はびくりと身を震わせた。彼女が身を引いたことで、智也の胸に妙なざらつきが広がる。かつては、こうしてそばにいれば、彼女は嬉しそうに胸へと
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第177話

熱で頭がぼんやりしていたせいで、智也の手が伸びてきても、玲奈の反応は遅れた。身を守ろうとしたときには、すでに彼の手は衣服の中に入り込んでいた。彼女が抱きかかえたのは自分の衣服だけでなく、智也の手そのものでもあった。力を込めて振り払おうとした拍子に、彼の手はさらに深く押し込まれ、ちょうど胸の膨らみに触れてしまった。熱を帯びた掌が、冷えた肌を灼くように焦がす。呆然とした玲奈は、我に返るとすぐに振り解こうとした。だが、それより早く智也の低い声が落ちる。「......玲奈、恥ずかしくないのか?」顔を仰いだ玲奈の頬は赤く染まり、霞むような瞳はまだ熱に潤んでいる。智也は視線を落とし、その瞳の奥の濃い黒に引きずり込まれるように見入った。その瞬間、脳裏にさまざまな光景がよみがえる。彼女が自分の下で必死に応える姿、腰にしがみつき「智也くん」と名を呼ぶ声――ベッドの上でしか決して口にしなかった呼び名。思い出に囚われ、彼は手を引くことすら忘れていた。玲奈の顔は真っ赤に染まっていた。彼女は言葉と態度で彼を拒む。「まだ放さないの?恥ってものはないの?」鋭く睨みつけ、彼の手を押し退け、さらに布団をぎゅっとかぶって身を隠した。ようやく我に返った智也は、慌てて手を引き抜き、短く告げる。「......愛莉を起こしてくる」吐き捨てるように言うと、視線も合わせず足早に部屋を出て行った。ただ、耳の先が血の気に染まったように真っ赤に色づいていた。本当は、汗が引いたかどうか確かめようとしただけだった。それが思いがけず胸に触れてしまい――動揺しているのは自分のほうだった。これまで幾度も「義務」として身体を重ねてきたはずなのに、偶然触れただけで心が乱れるとは。智也が去ったあとも、玲奈はしばらく呆然としたまま動けなかった。触れられた場所は、まだ火照りが残っている。彼がどういうつもりで手を伸ばしたのかは分からない。けれど一つだけ確かなのは――彼は決して、自分の身体を求めてはいないということ。彼の心にあるのは、愛ではない。そう思うと、胸の奥が冷たくなる。それでも仕事がある以上、起き上がらなければならなかった。ふらつきながら洗面を済ませ、着替えて階下へ。リビングの大きな窓辺で、智也が電話
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第178話

智也は眉間に皺を寄せた。「じゃあ、原因は?何がきっかけなんだ」玲奈は答える。「辛いもの、お菓子、冷たい物の食べすぎや飲みすぎ、それに不規則な生活――どれも原因になるわ」智也は目を伏せ、低く呟いた。「......分かった」その様子を見て、玲奈の胸にふと引っかかる思いがよぎる。「智也、ちょうどいいからこのこと、ちゃんと話しておきたいの」彼は横目で見て、淡々と「ああ」と返す。玲奈の表情を引き締めた。「誰が愛莉の世話をしている時でも同じよ。まだ五歳なんだから、食べちゃいけないものは食べさせない。夜更かしも駄目。早寝早起きして、外でしっかり体を動かさせること」沙羅の演奏会のことが頭をよぎり、怒りが込み上げる。彼女の演奏会はいつも夜遅くに開かれる。付き合わされる愛莉は、そのたびに寝不足になる。たかが五歳の子どもが、そんな生活に耐えられるはずがない。玲奈の言葉を聞き終えた智也は、しばし沈黙ののち口を開いた。「そう言うなら――お前が仕事を辞めて、家で愛莉を見ればいい」玲奈は目を見開き、信じられないという顔で彼を見つめた。「何ですって?」「俺の世話が行き届いていないって言うんだろう。だったら自分でやれ」その言葉に、玲奈は思わず笑いが漏れた。「......結局、そこまでしてあの女を庇うのね」彼女の言うあの女が誰か、言うまでもない。沙羅のことだ。愛莉が彼女に連れられて夜更かしや過食をしていたことは、玲奈も知っている。実際、昂輝と一緒に目撃したことも一度や二度ではなかった。娘の腹にリンパ節ができたのは、すべて沙羅のせいではないにせよ、無関係とは言えない。けれど智也は一言も彼女の落ち度を口にしない。それは庇っているのと同じだ。「愛莉のことを思うなら、母親が家にいて面倒を見るのが当然じゃないのか?」玲奈の胸に怒りが込み上げる。顔を上げ、まっすぐに彼を射抜いた。「智也――何を言われようと、私は絶対に仕事を辞めない」仕事は、彼女の唯一の拠り所だった。その最後の道まで奪おうとするのか。「玲奈、愛莉は俺の子であると同時にお前の子でもある。お前が世話するのは当たり前だろう」「四年間、私はずっと世話してきた。もう十分よ。もうこれ以上
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第179話

愛莉に突き飛ばされた瞬間、玲奈は呆然と立ち尽くした。熱でまだ体はだるく、虚弱な彼女はその一押しでよろけて横に倒れてしまう。「パパ、パパ......!」愛莉は泣き叫びながら智也を求めた。智也はすぐに駆け寄り、彼女を抱き上げる。「パパはここにいる。大丈夫だ、愛莉」必死にあやしながら、優しく声をかけ続けた。小さな手で彼の服をつかみ、涙に濡れた顔で嗚咽しながら訴える。「パパ、ララちゃんは?ララちゃんに会いたい......」智也は胸が締めつけられ、愛莉の頬に自分の頬を寄せた。「週末に連れて行ってあげるからな。ララちゃんに会えるぞ」「いや、今すぐ行きたい!ララちゃんのピアノが聴きたい、ララちゃんのお話が聞きたい......パパ、今すぐララちゃんに会いたいの!」泣きじゃくる声に、智也の心は砕ける思いだった。娘が望むことなら何でも叶えてやりたい、ただそれだけだった。「分かった。連絡して、来てもらおうな」「うん!」愛莉はぱっと泣き止み、目を輝かせた。そのやりとりを、玲奈はベッドの端に座ったまま聞いていた。瞳からは次々と涙がこぼれ落ちる。声をあげたくなるのを、必死に食いしばって堪えた。傍らにいた宮下が、そっと彼女の肩に手を置き、無言で励ます。智也と愛莉がさらに何を話したのか、玲奈の耳にはもう届かなかった。――自分は、この場にいてもただの余計者だ。笑い話にしかならない。そう思いながら、ふらつく足取りで寝室を後にした。階下に降りると、外の雨脚がさらに強まっていることに気づいた。窓越しにその光景を眺め、胸の奥まで湿っぽく沈んでいく。しばらくして智也も降りてきた。まだ玄関に立ち尽くしている玲奈を見つけ、声をかける。「愛莉には休みを取らせた。今日は幼稚園を休ませる」背を向けたまま、玲奈は淡々と返した。「......そう」そして続ける。「じゃあ、私は仕事に行くわ」ほぼ同時に、智也の言葉がかぶさった。「お前が家にいて、愛莉を見てやれ」玲奈は即座に首を振る。「簡単に休める仕事じゃないの。嫌なら他の人に見てもらえばいいわ」言外に含まれるのは――沙羅の名。彼女の意図を察した智也は、苛立ちを隠せず声を荒げる。「玲奈....
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第180話

散々迷った末に、玲奈は結局、車を小燕邸へ走らせた。無意味なことだと分かっていても――娘は自分が産んだ子なのだ。放っておくなんてできはしない。屋敷に着くと、宮下がリビングで片付けをしていた。「奥さま......?」玲奈の姿を目にして、思わず驚きの声を上げる。智也と愛莉にあれほど拒まれたのだから、もう戻ってこないと思っていたのだ。玲奈はその驚きを察したが、気づかないふりをして尋ねた。「智也と愛莉は?」「旦那さまが二階でお嬢さまと一緒に」「じゃあ、私は台所でお粥を作るわ」鍋に火をかけてからも、玲奈はずっと台所にいた。一日中体調が優れず、全身に力が入らない。服はじっとりと汗で濡れ、明らかに昼間も熱を出していた。食事の時間になると、智也と愛莉が下りてきた。玲奈は愛莉のためにお粥をよそったが、言葉は一つも発しなかった。智也も無言のまま、スプーンを取って娘に食べさせる。玲奈は少し汁を口にしただけで、もう食欲はなかった。食後、愛莉がアニメを見たいと言い、智也が抱き上げて再び二階へ。宮下が食卓を片付けている間、玲奈はソファに体を沈めた。疲れ切った体は触れた途端に眠気に呑み込まれていく。どれほど眠ったのか分からない。朧げな意識の中で、人影が自分の前に立つのを感じた。薄く目を開けると、智也が毛布を手にして、そっと彼女に掛けようとしているところだった。唇を動かそうとしたが、声は出なかった。毛布を払いのける力は残っていない。智也は彼女の額に手を当て、自分の額と比べる。「また熱がある」玲奈は喉を鳴らし、かすれ声で答えた。「薬を飲めば治るわ」額には汗が滲み、目の縁は赤く、弱々しい。智也は眉を寄せ、身を屈めた。「二階で休め。抱えて行ってやる」手を伸ばした瞬間、玲奈はそれを払いのけた。「いいわ......自分で歩ける」全身が鉛のように重くても、意地で自分の足で立とうとする。ソファから起き上がったとたん、汗が滝のように流れ落ちた。しばらく息を整えてから、ふらつく足取りで階段へ。だが二歩も行かないうちに、視界がぐらりと揺れ、体が横へ倒れかける。その瞬間、智也が支えた。「......何を強がってる」寄りかかったまま、玲奈はか細い声で返す。
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