All Chapters of これ以上は私でも我慢できません!: Chapter 141 - Chapter 150

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第141話

薫の仕業だとわかっていても、玲奈にはどうすることもできなかった。久我山で智也と拓海を除けば、最も大きな力を持つのは薫と洋だ。しかも、拓海以外の人たちの関係は複雑で、もし薫に手を出せば、それは智也や洋を敵に回すことになる。そうなれば、誰にも太刀打ちできるはずがない。玲奈が家へ戻ると、姪の陽葵と少しゲームをしてから階段を上がった。依然として昂輝からはいまだ返事がなく、いっそう彼女を不安にさせる。再び電話をかけても、すでに電源は切られていた。玲奈自身はネット上で攻撃を受けたことはなかったが、それが耐え難いものだと見当はつく。匿名の言葉は、刃物よりも鋭く、薬より人を傷つける。その夜、彼女はほとんど眠れなかった。ようやく明け方近くになって、昂輝から【大丈夫だ。心配しなくていい】とだけ返信が届いていた。玲奈はそれを見て、少し胸を撫で下ろすと同時に【ごめんなさい】と返信した。【君のせいじゃない。責任を背負うな】昂輝はそう返したきり、また黙ってしまった。翌朝。ほとんど眠れなかったはずなのに、玲奈の頭は意外にも冴えていた。彼女は早めに小燕邸へ行き、お粥とおかずを用意して愛莉の食事を準備した。食卓につき、玲奈は何度も階上や玄関先に視線を向ける。智也の帰りを待っていたのだ。自分にはどうにもならないことでも、智也なら解決できる。まもなく、智也が玄関から入ってきた。外は霧が立ちこめ、小雨が降っていたのか、彼の肩や髪には水滴がついていた。それを見て、玲奈は気持ちをぐっと飲み込んだ。だが、彼が階段を上がろうとしたとき思わず声をかけていた。「智也?」彼は足を止め、階段の途中で振り返った。「どうした、何か用か?」冷えきった声には、微塵の情もない。その時、階上から沙羅が姿を現した。「智也、帰ってたのね?」彼女はシルクのパジャマ姿で、髪をおろし、物憂げな表情で甘い眼差しを向けている。智也は玲奈が黙ったままなのを見て、沙羅に目をやる。「ん、どうしてもう少し眠らなかった?」沙羅はわざと声を落とし、柔らかに言う。「ちょっと騒がしくて......二度寝できなかったの」二度寝?――朝から事を終えての、二度寝ということか。智也は階段を上がり、沙羅の隣に立った。その視
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第142話

食事のあと、玲奈はいつものように愛莉を学校へ送った。車を走らせながら、玲奈はついに重い口を開いた。「愛莉、お願いを聞いてくれる?」スマホゲームに夢中だった愛莉は、母の言葉に顔を上げ、首を傾げる。「ママ、どんなお願い?」ちょうど赤信号で車を止めたとき、玲奈は横の娘を見た。「愛莉、高井おじさんのことは知ってるわよね?」「知ってるよ。高井おじさん、わたしにすごく優しいもん」玲奈は口角をあげていたが、目には少しの光もなかった。「高井おじさんがね、ママの友達のことで誤解してるの。愛莉から、ちょっとその人のことを良く言ってもらえないかしら?」愛莉は小さな顔をしかめ、しばらく考え込んでから首を振った。「高井おじさんに嫌われる人なら、きっとろくな人じゃないよ。ママ、どうしてそんな人と友達になるの?」今度は玲奈の眉間にしわが寄った。だが、娘はさらに言葉を重ねる。「だから、そのお願いは聞けない」玲奈は声を落とし、すがるように言った。「......もし、それがママのお願いだったら?」しかし、愛莉は母の思いを理解するどころか、諭すように続ける。「ママ、高井おじさんに嫌われるような人とは、距離を置いたほうがいいよ」玲奈は背筋を伸ばし、返事をする。「わかった」青信号に変わり、アクセルを踏み込むと車は一気に加速した。それから先、二人のあいだに言葉はなかった。幼稚園が近づいてくると、愛莉がふいに口を開いた。「ママ、わたしからもお願いがあるんだけど......聞いてくれる?」玲奈の表情は冷ややかで、声も淡々としていた。「うん。できることならね」「これからは、あんまり早く来て朝ごはんを作らないでほしいの。じゃないと、ララちゃんの邪魔になっちゃうから。眠れないと、勉強も演奏もできなくなるでしょ?」その言葉に、玲奈の胸は一瞬で何万本もの針に刺されたかのように痛む。可笑しさすら込み上げたが、拒む言葉は出てこなかった。彼女は返事をする。「......わかったわ」――それから数日間、玲奈は小燕邸へは娘を迎えに行くだけで、朝食を作ることはしなかった。智也に会えるときもあれば、会えないときもある。そして、彼の隣には必ず沙羅の姿があった。それはもうどうでもよかった。昂輝が医学
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第143話

玲奈は思った。――このことを智也に話せば、きっと薫の昂輝への圧力を止める術を持っているはずだ。そう口を開こうとした瞬間、胸に緊張が走る。だが、電話から最初に聞こえてきたのは沙羅の弾んだ声だった。「智也、見て!流れ星よ。早く、お願いごとをして」一瞬、電話の向こうは静まり返った。けれど、すぐに沙羅の声が続く。「ねえ、さっきどんなお願いをしたの?」智也の答えは、ただひと言。「ヒミツ」たった三文字。けれどその声には、深い愛情が滲んでいた。電話越しにさえ、玲奈には二人の甘い空気が伝わってくる。沙羅が楽しげに笑い、また声を弾ませる。「愛莉がカニを見つけたの。一緒に捕まえに行こう?」智也はためらうことなく応じた。「ああ」しかし直後、ようやく通話中であることを思い出し、電話口に向かって言った。「そうだ、さっき何か言ってなかったか?」彼は玲奈の言葉をひとつも聞いていなかった。玲奈はしばらく黙り、やがてかすれた声で尋ねた。「今、どこにいるの?」いつもと同じ問いかけ。だが違うのは――今回は夫婦関係を繋ぎ止めるためではなく、ただ彼に助けを求めるためだった。智也は少し間を置いて、不思議そうに聞き返す。「俺を監視でもしているつもりか?」「どうしても、直接伝えたいことがあるの」玲奈の言葉に、彼は冷ややかに答える。「今は無理だ。今度にしてくれ」――その言葉を、彼女はもう何度聞いたことだろう。次など永遠に訪れないことも知っている。必死に切り出そうとした目的を言い出す前に、電話は一方的に切られた。無機質なツー、ツーという音を聞きながら、玲奈は携帯を持った手を下す。その瞬間、全身の力が抜け落ちる。それから二日間、彼女は智也に連絡を取らなかった。だが今度は昂輝との連絡が途絶えてしまう。その一方で、拓海からの贈り物は一度も途切れることなく、毎日のように届けられた。いくつもの宝石箱を、玲奈は一度も開けていない。拓海のことだから、安物であるはずがない。無駄だと分かっていても、彼は送り続けた。けれど今の玲奈には、それを気にかける余裕などなかった。頭は昂輝の身の安全の事でいっぱいだった。一日待っても、彼からの返信はない。不安に押しつぶされそうにな
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第144話

パパラッチ数人と連絡を取り、海辺や建物の写真を参考に調べた結果、彼らの滞在先が「東城」という名の場所であると突き止めた。玲奈は一番早い便を予約したが、それでも午後のフライトしか取れなかった。東城に着いたときには、すでに夜の七時を回っていた。晩秋の七時ともなれば、辺りはすっかり暗い。タクシーに乗り込み、運転手に道を尋ねながら、智也たちが滞在しているであろう場所へと急ぐ。その頃、東城でも最高級の「東城ホテル」のビーチでは、盛大な焚き火パーティーが始まっていた。スタッフたちは肉を焼き、ココナッツの実を割り、鍋料理を用意し......活気に満ちている。海辺では、智也と沙羅が子どもと戯れていた。愛莉は海が大好きだ。昼はダイビング、夕方は浜辺で磯遊び、夜はパーティー。あまりに心地よく、離れたくない。焚き火を囲む机の上には、焼きたての肉やワイン、ビールが並ぶ。そのそばで、薫と洋が酒を酌み交わしながら、時折遠くの「一組の親子」を眺めていた。やがて薫がスマホを見て、大声で笑い出す。「洋、見ろよ。俺が昂輝のでっちあげを書いただけで、山ほど人が便乗して叩き始めた。やつは家に閉じ込められて、何日も身動きが取れないらしい。おまけに、一昨日は変装して外に出た途端に捕まって、袋叩きに遭ったみたいだ。しかも手まで怪我したんだって」そう言って、楽しげに続ける。「外科医のくせに手をやられたら、もう役立たずも同然だろ?」薫は声をあげて笑った。この結末こそが、自らの最高傑作であると誇るかのように。洋は顔をしかめ、黙って聞いていた。だが一言も同調はしない。薫はそれに気づくこともなく、再びスマホをいじりながら言う。「俺はちょっと火をつけただけだ。だがネット民のほうが怒ってる。賄賂だの、違法集資だの......勝手に話を盛り上げてくれる。俺はほんの少し煽るだけでいい」その言葉を遮るように、洋が口を開いた。「薫、それで本当に良いと思ってるのか?」この言葉に気分を害した薫は、苛立ち混じりに睨み返す。「何が悪い?奴が智也の女に色目を使ったんだ。そうなれば、こうなるのは当然だろ。自業自得ってやつだ」洋は深呼吸をし、静かに言った。「智也は彼女を好きじゃない。彼女がいつまでも新垣夫人という肩書きに縛られるわけがな
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第145話

玲奈は、洋の表情から彼の考えが分かったが、わざわざ説明する気にはならなかった。ただ一言、問いかける。「みんなは、どこにいるの?」洋は、玲奈の纏う雰囲気がこれまでと違うことに気づいた。かつて彼女が智也にすがりついていた頃は、周囲の人間に対しても媚びるような態度ばかりだった。だが、今は彼女の瞳に冷たさがあり、不思議と見ていて不快ではなく、むしろあっさりしている。それでも、玲奈の問いには答えあぐねていた。彼女はそれを見抜き、真剣な声で言う。「本当に急いでいるの。命に関わるかもしれない大事なのよ」何が起きているのか洋には分からなかった。だが彼女の目から嘘ではないと感じ取れた。結局、彼は観念したように手を上げ、ホテルの方向を指差した。「あいつらは、ホテルの裏の浜辺にいる」玲奈はもう洋を振り返りもせず、ただ礼だけを残す。「ありがとう」そう言って、ホテルへと足を向けた。宿泊の理由など告げず、玲奈は「海辺で遊べる部屋を」とだけ告げて部屋を取った。そしてすぐさま、ホテル裏の海岸へと向かう。出た途端、焚火のそばでグラスを片手に不機嫌そうに酒をあおる薫の姿が目に入った。少し離れた場所では、智也、沙羅、愛莉の三人が、本当の家族のように仲睦まじくはしゃいでいる。玲奈の姿を、最初に見つけたのは沙羅だった。彼女が声をかけ、智也と愛莉も玲奈の存在に気づく。だが玲奈は彼らに一切目をくれず、真っすぐに薫へと歩み寄った。「薫。ここで話す?それとも外で話す?」智也の友人に対して、玲奈がこんな強い口調なのは初めてだった。薫はそんなことは気にもせず、嘲るように手のひらを広げてみせる。「話す?俺とおまえの間に、話すことなんてあるか?」玲奈の声から苛立っているのが分かる。「自分が何をしたのか、分かってるでしょう?」薫はのけぞるように顔を上げ、得意げに言う。「さあな」その目には傲慢さが滲みでている。玲奈は我慢できず、洋が飲み残していた赤ワインのグラスを掴むと、そのまま薫の顔にぶちまけた。その光景を、智也も愛莉も沙羅も目の当たりにする。呆然とした愛莉は数秒の沈黙の後、怒った様子で母のもとへ駆け寄った。「ママ、どうしてそんなことするの!高井おじさんに謝って!」娘の顔には嫌悪が滲
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第146話

この問いの答えなど、実のところそれほど重要ではなかった。玲奈はすぐに話題を変え、静かに尋ねる。「昂輝のこと......もう耳に入っているのでしょう?」智也は冷えきった顔で応じた。「そんな些末なことを気にしている暇が、俺にあると思うか」玲奈はあっさり信じるような性格ではなかった。「そうかしら?」そう言い残し、彼女は一歩、また一歩と後ずさった。その視線は智也と薫の顔を行き来し、やがて自嘲めいた笑みを浮かべる。「結局は、似た者同士ね」智也と薫は友人同士。彼女は一時でも、智也が薫の勢いを抑えてくれるかもしれないと夢想した。けれども忘れていたのだ――自分がこの場で最も軽い存在であることを。智也が味方しないのは当然として、愛莉ですら彼女の側には立たない。ならば、口を開く意味などどこにある?そう思った瞬間、玲奈はためらいなく背を向け、ホテルを去ろうとする。だが出口で、再び誰かにぶつかった。洋の身体だった。「玲奈さん!」と彼は慌てて声をかけた。だが玲奈は聞く耳を持たない。仮にその声が届いていたとしても、振り返ることはなかっただろう。彼女が完全にホテルを離れた後、洋は憤りを押し隠せず、薫に向き直った。「薫、昂輝の件は......さすがにやりすぎじゃないか」智也は目を細め、顔を彼に向ける。「......昂輝に、何をした?」ほんのさっき、玲奈が見せた怒りの表情を思い返す。胸の奥に、不意にざらつくような不快感が広がった。昂輝は、彼女にとってそこまで大事な存在なのか。――愛莉にきつい言葉を投げつけてまで、庇うほどに?翌日。玲奈は再び久我山の街へ戻っていた。だが昂輝の消息はいまだ掴めない。不安に駆られた彼女は、車を走らせて彼の住むマンションの外まで来てしまった。以前よりも張り込む記者の数は減ったとはいえ、まだ数人周囲をうろついている。マンションの窓ガラスは前回来た時以上に砕け散り、部屋の中にはありとあらゆるゴミが投げ込まれ、悪臭が漂っていた。中に入ることはできず、昂輝が本当に家にいるのかさえわからない。車内でしばらく待っていると、不意にドアが開かれる音がした。視線を向けると、そこにいたのは拓海だった。無頼をまとった顔立ち――粗野さと紙一重の痞気
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第147話

車内で、玲奈は顔をそむけ、真剣な眼差しで拓海を見つめていた。拓海もまた彼女を見返す。光と影がその顔にまだらに落ち、彼の表情を一層濃く際立たせる。「一晩、俺と寝ろ」彼は、先ほどの言葉を繰り返した。だが前回の戯れとは違い、今度は本気で「ただ一緒に眠るだけ」を望んでいるのだと、玲奈にも伝わってきた。それでもなお、彼女は必死に食い下がる。「須賀君......あなた、前に言ったでしょう?人に何かを頼むとき、まずは無茶な条件を出すのだって」拓海は眉をわずかに吊り上げ、口元に笑みを浮かべる。「今回は違う。本当にそれだけでいい。寝た後なら――君がどうしようと構わない。命を差し出せと言われても、俺は従う」玲奈の頬に一気に朱が走り、彼を睨みつける。「......スケベ野郎。恥を知りなさい」拓海の瞳には相変わらず粗野な色気がにじんでいる。「君は俺にとって宝物みたいな存在だ。いくらでも待ってやる。時間は好きなだけ使え」玲奈は言葉を失い、ただ沈黙する。昂輝の行方は依然わからず、智也を頼れぬ以上、他に縋れる相手はいない。拓海はこれまでも手を差し伸べてくれた。彼なら、約束を守ると信じられる。――だが、その代償として彼が求めているものを、自分は差し出せるのだろうか。胸に湧いた疑念が、次の瞬間には虚しさへと変わる。守り抜いてきた清らかさに、果たしてどれほどの意味があるのか。拓海は彼女に無理強いするつもりはなかった。車のドアに手をかけ、降りようとする。玲奈に時間を与え、本気で考えさせたかったのだ。だが、その背に、思いがけず声が届く。「......須賀君。私、あなたの条件を呑むわ」振り返った拓海の瞳が驚きに大きく揺れる。「本気か?」玲奈は彼を見ず、うつむいたまま小さく答える。「ええ」彼は待ちきれぬように車を降りると、低く告げた。「運転は俺がする」玲奈が助手席に移ると、心臓は荒々しく跳ね、胸を塞ぐような不安が押し寄せた。自分の選択が正しいのか、それとも取り返しのつかない過ちなのか――答えはわからない。すでに智也との離婚を思い描いてはいたが、まだ法的には夫婦のまま。もしこのまま拓海と関係を結べば、それは「婚内不倫」に他ならない。けれど
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第148話

窓に映るガラス越しの影で、玲奈はすでにベッドに横たわっているのがわかった。拓海は手にしていた吸いかけの煙草を灰皿に押しつけ、火を消すと、ゆっくりとベッドの方へ歩み寄った。足音が近づくのを耳にした玲奈は、ぎゅっと目を閉じる。拓海はベッド脇に立ち、上から彼女を見下ろした。波のようにゆるやかに広がる長い黒髪が白い枕に散らされ、黒と白とが対照を描く。布団は肩までしか掛けられておらず、痩せた鎖骨の線が際立って美しい。視線をさらに下ろせば、呼吸に合わせて布団の下で上下する胸元の起伏。その微かな隆起が、男の想像をいやが上にも掻き立てる。拓海の喉がからりと渇き、唇を噛みしめてから照明のスイッチへ手を伸ばした。白々しい明かりは消え、残された淡い間接照明が部屋の隅々をようやく照らす。ベッドに腰を下ろした拓海は、玲奈を見下ろしながら低く問う。「本当に、覚悟はできてるのか」玲奈は瞼を閉じたまま、小さく答える。「......ええ」拓海が言葉を継ごうとした刹那――誰かが、ホテルのドアの鍵を解錠し、押し開けた。反射的に振り返った拓海は、そこに立つ人影をかろうじて認める。――智也。玲奈もまた顔を上げ、廊下の灯りに浮かぶ彼の姿を目にした。光と影に包まれたその表情は読み取れず、今の彼が何を考え、どんな感情を抱いているのかもわからない。拓海は素早く布団を引き上げ、玲奈の身体をすっぽりと覆い隠す。布団の下で玲奈は硬直し、一切身じろぎしない。彼女はいまだ智也の妻――名義上では結婚証明があり、娘もいる。愛情は崩れ去っていても、その関係自体は消えていない。今、自分がしていることは、智也の面子を踏みつけにする行為に他ならない。彼がどれほど冷え切っていようと、妻の不貞を目の前で突きつけられて、平然としていられるはずがない。拓海は布団を直してから、あえて気怠い仕草で玲奈の腰に手を置き、ドアの男へと声をかける。「これはこれは、新垣社長。ずいぶん珍しいお出ましだ。どういう風の吹き回しで?」言葉の端々には一片の怯えもなく、むしろ挑発を滲ませていた。背後から差し込む光に逆らって立つ智也の視線は、椅子の上に投げ出された衣類に注がれる。拓海のジャケット、その上には玲奈のジーンズ、カットソー、上着、そして
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第149話

二分後、玲奈はホテルのドアを開いた。智也は振り返ることもなく、ただ大股で廊下の奥へと歩き出す。歩みながら低く言い放った。「......ついて来い」その声音には喜怒も哀しみも混じらず、何を考えているのか一切読めない。玲奈にできることは、ただ黙って彼の背に従うことだけだった。廊下の突き当たりで智也は階段室の扉を押し開け、中に入った。玲奈もあとを追うと、背後で扉が閉ざされた。智也は入口に立ち塞がり、まるで拓海を中へ入れぬようにしていた。すべてを目の前で見せつけられた玲奈の胸は、驚きと恐れで押し潰されそうだった。結婚して五年。彼を愛し、敬い、離婚を考えたときには、もう愛も敬意も失せたと思っていた。だが――こんなにも恐ろしいと感じたことは、一度もなかった。智也は扉に凭れ、静かに煙草へ火を点けた。打ち上がった小さな炎が彼の顔を照らし出し、その陰鬱な表情には笑みの欠片もない。薄暗い光の中、その面差しはぞっとするほど冷たかった。やがて煙を吐き出し、視線を落として彼女を射抜く。「俺と来い。ある場所へ」玲奈はその無表情を見つめ、胸に抱えていた思いがすべて嘲笑に変わるのを感じた。――そうか。本当に自分を愛していないのだ。だからこそ、妻が他の男の隣に横たわっていても、何ひとつ気にしない。もしそれが沙羅であれば?彼女が裏切ったのなら、智也は狂ったように取り乱し、崩れ、発狂するに違いない。玲奈の心は瞬く間に深い闇へ落ちていった。泣きたいのに涙は出ず、笑いたいのに声も出ない。結局、どちらもできなかった。智也はすでに階下へ歩き出していた。玲奈がついてこないのに気づくと、振り返って冷ややかに言い放った。「......玲奈。これでも俺は相当我慢してるんだ」その響きには警告と、わずかな宥めが同居していた。だが玲奈には、もうどうでもよかった。彼は最初から、自分を意に介したことなど一度もなかったのだから。智也が姿を現した瞬間、彼女は一瞬だけ自らの非を思った。――まだ離婚していないのに、こんなことをしていいのだろうか。けれど今にして思えば、それはただの独りよがりにすぎない。無表情のまま彼の背を追い、下へ。やがて智也は車に乗り込む。だが玲奈のためにドアを
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第150話

玲奈は、一瞬にしてどうしていいかわからなくなった。思わず手を伸ばし、病室の扉を押し開けようとしたその時――智也がその手を掴み、低い声で告げる。「話がある」玲奈の目は真っ赤に潤み、振り返って彼を睨みつける。「......何が言いたいの?」智也は目を細め、静かに答えた。「昂輝に手術をしてもらいたい」その瞬間、玲奈はようやく悟った。智也が急に久我山へ戻ってきた理由。彼女をホテルまで探しに来た理由。あれほど焦っていた理由。――すべては、この手術のためだったのだ。彼が口にしなくてもわかる。その患者の存在が、自分という妻の立場など遥かに凌ぐほど、彼の中で重いものだということを。五年の結婚生活で、玲奈は嫌というほど智也の冷淡を味わってきた。あの年、愛莉はまだ一歳にも満たず、床を這い回る盛りだった。その日、玲奈は高熱にうなされ、頭は霞み、身体は鉛のように重かった。それでも愛莉は元気におもちゃを探しては這い回り、彼女には手に余った。どうにも耐えきれず、玲奈は智也にメッセージを送った。【帰ってきて少しでも子供の面倒を見てくれない?私熱があって、もう持ちこたえられそうにない】返ってきたのは冷たい文字列だった。【熱なら薬を飲めばいい。俺は医者じゃない。宮下がいるだろ、愛莉を寝かせてやればいい】ひと文字ひと文字は知っているはずなのに、並べられた言葉はまるで他人からのもののように遠かった。その出来事のあと、玲奈は深い抑うつに沈んだ。後になって知ったのは、彼が帰ってこなかった理由。――助手のために出向き、面子を保つことに忙しかったのだ。智也には大勢の「大切な人」がいる。だが妻である自分は、その序列にすら含まれていなかった。思い返すたび、哀れさが胸に込み上げる。漂う思考を振り払って、玲奈は顔を上げた。「......誰の手術?」智也は答えを濁す。「それはお前の知ることじゃない」玲奈も追及はしない。ただ静かに言った。「私は昂輝の代わりに決められない。今は病室に横たわったまま、状態も不明。手術ができるかどうかだってわからない」智也はためらわず言い切った。「緊急の手術だ。多くの医師に当たったが、できるのは彼しかいない」玲奈の脳裏
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