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第155話

Author: ルーシー
智也はシャツの袖で沙羅の掌についた血と泥を拭い、さらに傷口にふっと息を吹きかけた。

沙羅は眉をひそめ、涙をこらえた潤んだ瞳で見上げる。

その儚げな姿に、智也の胸は強く締めつけられた。

「まだ痛むか?」

心配そうに、声を落として尋ねる。

沙羅は唇を噛み、首を振る。

「智也、大丈夫。

こんなの、たいしたことないわ」

智也はそっと彼女を支え起こす。

「中に戻ろう。

薬で消毒した方がいい」

その言葉に、とうとう沙羅の涙がこぼれ落ちた。

「ごめんなさい。

薫を助けてあげられなかった。

私、役に立たなくて」

智也は指先で彼女の涙を拭い、柔らかく言う。

「君のせいじゃない。

もう十分頑張ってる」

それでも沙羅は自分を責めた。

「私は医者なのに......昂輝と同じ学校を出たのに、あの手術はできない。

私にもっと腕があれば、誰かに頼む必要もなかったのに。

智也、私、無力すぎるわ」

智也は彼女の頭を撫で、穏やかに宥めた。

「もう十分だ。

これ以上自分を責めるな。

薫だって、そんな君を見れば心を痛める」

沙羅は涙に濡れた目を伏せ、小さく「うん」と答える。

智也に支えられて歩き出す二人を、玲奈は黙って見つめていた。

言葉もなく、ただじっと。

大広間へ向かう前、智也がふと振り返った。

その眼差しには、明らかな怒気が滲んでいた。

――玲奈は彼の怒りを正面から受け止めた。

冷ややかに視線を返し、胸の奥で苦笑する。

まるで彼の目が告げているようだった。

「お前がやりすぎた」と。

だが――本当にそうだろうか?

自分の行く手を遮り、退こうとしなかったのは沙羅の方だ。

なのに責められるのは、いつだって自分。

「可笑しな話ね」

視線を逸らし、踵を返そうとしたその時。

「歩けるか?」

智也が沙羅に問う。

彼女はまだぼんやりとしていて答えられない。

次の瞬間、智也は腰をかがめ、彼女を横抱きにした。

その拍子に傷ついた手に触れられ、沙羅は小さく呻く。

「智也......痛い」

「じゃあ、もっと優しく」

智也は囁き、顔を寄せる。

その角度から見れば、玲奈の立つ位置からは、彼が彼女の額に口づけを落としたようにしか見えなかった。

「......ふっ」

玲奈は鼻で笑い、踵を返す。

智也が沙羅を抱えたまま屋内へ入ると、
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U Tomi
クソピッチ速く退場願います!
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