All Chapters of これ以上は私でも我慢できません!: Chapter 181 - Chapter 190

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第181話

玲奈を二階へ運んだ智也は、大きなベッドに彼女をそっと横たわらせ、布団を掛け直してやった。解熱剤と白湯を持ってきて、ベッドの縁に腰を下ろし、彼女が薬を飲むのを見守る。飲み終えたところで、手からコップを受け取ると、ふいに口を開いた。「少し、話そう」玲奈は頭の奥がずきずきと痛み、枕に凭れながら彼を見上げる。「何を?」「週末に出張がある」その一言に込められた意図は明白だった。――玲奈に愛莉を任せたいのだ。玲奈もその含みを察していたが、あえて気づかぬふりをする。「智也、あなたがどこへ行こうと、私に報告する必要なんてないわ。もともと干渉するつもりはなかった」かつては報告を望んだこともあった。だが今となっては、家にすらろくに帰らない彼が、自分に逐一伝えるはずもないと知っている。「週末はお前が家で愛莉を見ていろ。日曜には戻る」智也はもう遠回しにせず、直截に言った。彼があまりにも率直に要求するので、玲奈も深く考えず、ただ仕事としての出張だと思った。新垣グループの社長である以上、彼の手を待つ案件は山ほどある。週末に出張が入るのも当然だろう。玲奈も週末は休みで、ちょうど当直もない。少し迷った末に、静かにうなずいた。「......分かったわ」智也が出張で、沙羅も不在なら、愛莉の傍にいられるのは自分だけだ。果たすべき義務を果たせばいい――そう思った。彼女が承諾すると、智也はようやく安堵したように息を吐く。「じゃあ、休め。俺は愛莉を見てくる」玲奈は返事をせず、そのまま布団に潜り込んだ。智也は掛け布団を直し、乱れた髪をそっと撫で付けた。玲奈は無意識に目を閉じた。――現実感のない仕草。けれど、触れられた箇所の熱は確かに残り、夢ではないと告げていた。智也が愛莉の部屋に入ると、彼女はベッドに寝転びながら沙羅とビデオ通話をしていた。ただ繋いでいるだけで、言葉を交わすことはない。画面の向こうで沙羅は病床の母を世話し、こちらで愛莉は別のタブレットでアニメを見ている。扉が開いた瞬間、愛莉が顔を上げた。「パパ!」小さな両手を差し伸べ、抱っこを求める。智也の心は一瞬で溶け、すぐに近づいて膝の上に抱き上げた。ビデオの向こうで沙羅が母親に何かを伝えているが、智
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第182話

智也が小燕邸を発ったのは、金曜の夜だった。その晩、まだ体調の戻らない玲奈は、愛莉のために彼女の部屋のソファで横になった。翌朝には熱も引き、少し気分も回復していた。朝食を済ませると、娘を連れて外へ出かけることを思いつく。このところいろいろあって、愛莉の玲奈に対する態度は日によって温度差がある。「外で少し歩こうか」と提案すると、拒むことはなかったが、嬉しそうでもない。義務的に応じただけのようだった。それでも、玲奈は気にしなかった。母親としてすべきことを果たす――ただそれだけだ。公園をひとまわり散歩したあと、スーパーへ寄る。戻ったときにはすでに十時近くになっていた。「お昼は栄養のあるものを作ろう」そう思い立ち、早めに台所に立つ。十一時を回ったころ、電話が鳴った。画面に映った名は――大学時代の同級生、一華。第二子を身ごもったとき、玲奈の流産手術を担当したのが彼女だった。彼女の名を見た瞬間、玲奈の胸に、あの生まれることのなかった子の影が蘇る。――あの時、二人目で智也の心を繋ぎとめようとした自分。今振り返れば、なんと愚かで滑稽だったのだろう。通話に出ると、一華が明るく言った。「玲奈、今日の午後、新幹線で久我山に着くの。一緒に食事しない?」「ええ、私が予約しておくわ」迷いもせず、玲奈は応じた。そこで会話は終わるはずだった。だが、一華は言いかけては黙るのを繰り返す。「......どうしたの?」ためらいの後、彼女は息を吐き出した。「さっき婦人科病棟に行ったとき......智也を見かけた気がするの」玲奈は一瞬だけ間を置き、何事もないように答える。「そう」それでも一華は堪えきれない。「でもね、女の人と一緒で、すごく親しげで......まるで夫婦みたいだった」その瞬間、玲奈には相手が誰か分かった。けれど表情ひとつ変えずに告げる。「心配しないで。分かってるから」その静けさが、むしろ一華を不安にさせる。「本当に大丈夫なの?」玲奈は淡々と答えた。「彼女は深津沙羅。智也が本当に愛している人よ。愛されない女こそ、負けるの」「でも!婚姻関係にあるのはあなたなのよ?あの女のすることなんて、ただの不倫と変わらないじゃない!」
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第183話

子ども服売り場に足を踏み入れると、玲奈は夢中で愛莉の洋服を次々と手に取った。一華はその様子を見て、思わず口を開く。「そこまで娘さんに尽くすより、自分にもう少し使ったら?」玲奈は淡く微笑み、静かに答える。「......今回が最後かもしれないもの。次に買えるのがいつになるかも分からないわ」それ以上、一華は強く言えず、ただ根気よく付き添った。いくつもの袋いっぱいに選んだあと、ようやくレジへ向かう。店員が品物をまとめ、金額を告げた。「百七十六万円です」玲奈は一瞬だけ驚いたが、特に疑問は抱かなかった。ここは高級ブランドの子ども服売り場。品質は良いが、その分値も張る。愛莉を育ててきた数年間、彼女は何度もここで買い物をしてきた。少なくて数十万円、多いときは一度に数百万円。慣れている金額だった。まして智也は専用のカードを渡しており、毎月のように振り込みもしていた。「娘のために使え」という意味だと分かっていた。最初のうちは残高を気にしたこともあった。だが、一度に千万円単位で入金されるので、使い切ることなどなかった。そのうち確認すらしなくなった。一華は値段に目を丸くしたが、すぐに思い直す。智也の妻と娘なら、使う物が高級でも当然。――そういう生活なのだ。玲奈はバッグからカードを取り出し、店員に差し出す。「暗証番号は****です」店員がカードを通す。だが、表示されたのは「決済不可」の文字。玲奈は耳に飛び込んだ機械音に、思わず固まった。店員も彼女の顔を知っており、その経済力を疑ったことはなかった。だが、事実として決済は通らない。店員も困惑の色を浮かべる。一華はさらに驚き、声を漏らす。「どういうこと?」店員がカードを確認し、やがてこう説明した。「春日部さま......このカードは凍結されています」「凍結?」玲奈の眉が寄る。店員は何度も確認し、確かめるように繰り返した。「はい、凍結されています」玲奈はしばし立ち尽くし、ようやく声を絞り出す。「すみません......品物は預かってください。電話を一本かけてきます」そう言い、一華の腕を引いて店を後にする。人目のない階段の踊り場で、玲奈は迷わず電話をかけた。――意外にもすぐ繋
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第184話

智也の言葉に、玲奈は怒りを覚えた。だが、もはや言い合う気力も残っていなかった。「いらない」短く答え、ためらいもなく通話を切った。そばにいた一華は、一部始終を聞いて顔をしかめる。「何あのクズ男!ここまでされても、まだ離婚しないの?」玲奈は掠れた声で答えた。「......もうすぐよ」一華はますます腹を立てる。「愛人の誕生日に何千万も花火を上げて、贈り物だって桁違い。一方で、あなたが娘の服に数百万円使おうとしただけで口を出すなんて!どうしてあんな奴、罰も受けずに平然と外を歩けるのかしら!」玲奈は胸の奥に失望と痛みを抱えていた。けれども、それすらも習慣になってしまった。「一華......私が買わなければ済む話よ。あなたが怒ることじゃない」一華は納得できず、拳を握りしめる。「本当にあのクズ、ぶっ潰したい!」玲奈は彼女の手を取って、静かに宥めた。「もういいの。そんな価値もない」――こんなこと、これが初めてではない。いちいち怒っていたら、とっくに憎しみに呑まれていただろう。一華は悔しさを滲ませながら言った。「玲奈......あなたはあんな男のせいで学業を棒に振って、自分を犠牲にして。あの頃は学年一位の成績で卒業したのに、今じゃ最下層の医師扱い。私でさえ産婦人科の執刀医になったのに、あなたがこんな境遇だなんて」玲奈は俯き、静かに答えた。「......必ず学業を取り戻すわ」一華は信じていた。玲奈ならきっとやり直せる。けれど、結婚のために失った五年間――誰が償ってくれるのだろう。二人は再び子ども服売り場へ戻った。玲奈が選んだ商品は、まだレジ脇に置かれていた。店員が気づいて近寄る。玲奈は申し訳なさそうに口を開いた。「すみません、さっきの品は......」「不要です」と言い切る前に、背後から低く響く声がした。「全部包んでくれ」振り返った瞬間、玲奈の目に飛び込んできたのは、黒いトレンチコートに身を包んだ拓海だった。彼の最も好む色――黒。荒々しい雰囲気をまといながらも、その整った顔立ちが野性味を打ち消していた。拓海は口元に笑みを浮かべていた。挑発的で、傲慢なほどの笑み。玲奈は眉をひそめる。「必要ないわ。もうい
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第185話

一華の茶化すような言葉に、玲奈の耳が赤く染まった。「一華、冗談はやめて」肘で軽く小突き、真剣な顔をする。彼女が生真面目なのを分かっていても、一華はつい諭すように言った。「でもさ人間、一人に固執してちゃ、人生面白くないでしょ。智也がダメなら、別の誰かを試したっていい。人生は一度きりなんだし、しかも先に裏切ったのはあっちじゃない」玲奈は唇を結び、無理に笑みを作った。「......もう、その話はやめましょう」それ以上、一華は追及せず、話題を切り替えた。二人はまた少し街を歩き、久我山の名物を食べ歩いた。夜十時近くになると、一華が「疲れたからホテルに戻る」と言い出した。玲奈はホテルまで送った。降りる直前、一華がふと思い出したようにバッグを探り、小さな包みを取り出す。「はい、これプレゼント。もうすぐ誕生日でしょ?」受け取った瞬間、玲奈の目が潤む。「......ありがとう、一華」智也と結婚してから、玲奈は実家との縁を断たれていた。毎年、唯一誕生日を覚えてくれているのは綾乃だけ。密かにメッセージと振り込みをくれたが、それも家族のように祝うものではない。もう何年も誕生日らしい誕生日を迎えていない。今年も、一華に言われなければ忘れていただろう。あと数日で二十七歳になるのだ。一華は彼女の胸の内を察し、そっと抱きしめた。「もっと自分を大事にしなきゃ。気にする価値のない人間のために、心をすり減らす必要なんてないのよ」玲奈は肩に顔を埋め、小さく「......うん」と答える。しばし沈黙ののち、ふと思い出したように尋ねた。「そういえば......昂輝先輩も久我山にいるのよ。会いに行かないの?」一華の笑みが消え、首を横に振る。「いいの。だって、前に告白して振られたこと、まだ忘れてないから」大学五年の実習のとき、一華は昂輝に想いを告げた。そのことを知っている数少ない人物の一人が玲奈だった。昂輝は「恋愛するつもりはない」とはっきり断った。それ以来、一華は彼に連絡していない。「そう。じゃあ無理には勧めないわ」車を降りた一華は、立ち止まって玲奈に微笑んだ。「帰りは気をつけてね。着いたら連絡して」玲奈が小燕邸に戻ったのは、夜の十一時。愛
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第186話

玲奈は一瞬だけ言葉を失い、それから淡々と告げた。「あなたが何をしたいかは、あなたの勝手よ。私に相談する必要なんてない」智也が言葉を継ぐ前に、玲奈は通話を切った。スマホを握りしめたまま、ソファに腰を落とし、しばらく呆然と座り込む。ほどなくして画面が光り、着信が入った。智也かと思えば、表示された名は――昂輝。「昂輝先輩」電話を取る声を、できる限り平静に装う。彼は玲奈の沈んだ気配に気づいたが、何も聞かずに提案した。「明日は土曜だろ。一緒に図書館へ行かないか?」玲奈は拒まなかった。「ええ、何時に?」「十時に」「分かったわ」彼女は大学院受験を控えていた。だがこのところ愛莉の病気で勉強が滞っていた。今なら娘はいない。久しぶりに腰を据えて勉強できる――そう思った。翌朝、早くから身支度を整え、図書館へ向かう。図書館には昂輝がすでに待っていた。一緒に勉強するとはいえ、彼は自分の時間を割いて、玲奈の質問に答え、要点を丁寧に解説してくれた。昼食は軽く外で取り、午後も再び勉強。だが夕方五時、病院から緊急手術の連絡が入り、昂輝は慌ただしく戻ることになった。彼が去ったあとも、玲奈は一人で勉強を続け、ようやく目が霞んできたころ、外はすっかり暗くなっていた。荷物をまとめ、駐車場で自分の車に乗り込む。エンジンをかけようとした、そのとき。助手席から低い声が響いた。「どうして、俺がやった贈り物を突き返した?」心臓が跳ね、玲奈は振り向いた。拓海の鋭い眼差しが闇の中に浮かんでいた。「......ど、どうやって車に?」震える声を押し出す。答える代わりに、拓海は身を寄せ、手を伸ばして彼女の手首を掴む。ぐいと引き寄せられ、簡単に間合いを奪われた。至近距離。互いの息遣いが混じり合い、甘く曖昧な気配に包まれる。玲奈の睫毛が小刻みに震える。拓海の目は深い闇を宿し、その震えを追いかけるように彼女を見つめた。声はかすれ、低く押し殺されている。「答えろ。どうして返した」恐ろしいほどの迫力を持つ男が、彼女の瞳を覗き込んだ瞬間、力を失ったように手の力を緩める。眉を寄せた玲奈の顔を見て、痛ませたと悟ったからだ。彼女は軽く身を捩ったが、逃れることはできない
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第187話

拓海は抑え、必死に自制していた。だが、玲奈の言葉はその火に油を注ぐだけだった。胸の奥の炎はますます勢いを増し、彼はもう抑えることをやめた。顔を傾け、強引にその唇を塞ぐ。口の中に流れ込んでくるのは、タバコの苦味とミントの清涼感が入り混じった強い味。圧倒的で荒々しいそのキスは、突風のように彼女の喉奥まで吹き込んでくる。逃れる暇も、声を上げる隙すらなかった。玲奈は顔を仰け反らせ、ただその暴力的な口づけを受けるしかない。必死に腰をつねり、爪が食い込むほどに力を込める。だが彼は眉ひとつ動かさない。むしろ、耐えきれぬ痛みに低い声を洩らした。その声に、玲奈の全身が痺れ、思わず手を離してしまう。代わりに彼の胸を拳で叩いた。拓海の手は容赦なく、片腕で彼女の両手を縛り上げる。そしてその手を自らの胸に押し当て、鍛え上げられた筋肉の起伏を触れさせた。酸素が薄れていく。玲奈が窒息しそうになり、ようやく拓海は唇を離す。見下ろす視線はどこか愉しげだった。「どうだ、気持ちよかったか?」玲奈の顔は一瞬で真っ赤になる。「......須賀君、恥を知りなさい」握られた手を引き戻そうとしたが、彼は逃がさない。赤く濡れた唇を見下ろし、唇の端を吊り上げた。「俺のキス、満足できたか?」玲奈は憤りに震え、睨み返す。「放して」涙が滲んでいるのを見て、拓海は自分がやりすぎたと気づく。手を離した瞬間、玲奈の平手打ちが頬を打った。「須賀君!私は金で弄ばれる女じゃないの!夫も、娘もいるの!」拓海の顔は横を向いたが、怒りの色はなかった。舌先で打たれた頬を押し、薄く笑む。「ここまで空気の読めない女、初めてだ」玲奈は皮肉に口角を上げる。「それで?失望したの?」泪を堪えながらも、目だけは強く彼を射抜いた。拓海はポケットから紙を取り出し、玲奈の目尻の雫を拭った。「いや、失望したのは俺じゃない。お前自身にだ」玲奈は顔を背けた。「助けてもらったことには感謝してる。けど、私はあなたに借りも貸しもない」その言葉を無視するように、拓海は彼女を抱き寄せた。顎を頭に乗せ、がっちりと閉じ込める。耳元で低く囁く。「違う。お前は俺に借りがある」玲奈にはその意味が
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第188話

拓海の胸元へ押し込められた玲奈の体は、無理な姿勢のままコンソールの上に横たわっていた。外の記者に撮られるのを避けるため、彼は自分のトレンチコートを広げて彼女の全身を覆う。顔は拓海の胸に埋まり、タバコとミントが混ざり合った匂いがかすかに鼻をくすぐった。決して嫌な匂いではない。その手はコートの下で彼女の腰をしっかり押さえている。わざとだと分かっていても、玲奈は身じろぎすらできなかった。一度でも撮られれば、取り返しのつかない騒動になる――ネットの恐ろしさを、彼女は知っていた。記者は去る気配を見せず、なおもカメラを構えたまま拓海に向けてシャッターを切っている。拓海は顔を横に向け、レンズをまっすぐに見据えた。怒るどころか、口元に笑みを浮かべて。「随分と見出しを拾うのが上手いじゃないか」「須賀さん、その隣の美女も撮らせてもらえませんか?」記者がにやつく。拓海は笑ったまま返す。「じゃあ......君、辞表を出す覚悟はあるか?」「え?」記者が固まる。瞬間、拓海の顔から笑みが消え、声は冷たく落ちた。「できないなら......俺が手伝ってやろうか」意味を悟った記者は蒼白になり、カメラを抱えて逃げ出した。――見出しは欲しい。だが、拓海を敵に回すのは命取りだ。拓海はようやく玲奈の腰を軽く叩いた。「どうした?まだここに凭れていたいのか?」玲奈は慌ててコートを押しのけ、大きく息を吸った。だが二口三口吸っただけで、拓海が低く言う。「行け。ここは危ない」ネットに晒される恐怖を、玲奈は誰よりも理解していた。反論せず、すぐに車を発進させた。人気のない場所に着いてから、ようやくブレーキを踏む。助手席の拓海は降りる気配を見せない。玲奈が顔を向けかけると、遮るように言った。「手を出せ」「何をするつもり?」警戒の色を隠さない。拓海は何も言わず玲奈の手をつかみ、コートの内から何かを取り出すと、強引に彼女の手首へはめ込んだ。翡翠の光が目に飛び込む。――あの日、彼が花火を打ち上げて競り落とした高価な翡翠のブレスレット。玲奈の心臓が跳ね、咄嗟に外そうとする。「......外さない方が身のためだ」拓海の声は静かな警告だった。何度も試したが、びくともし
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第189話

隣の地方の中心都市。智也が医療論文を数篇読み終えたところで、ふと目に飛び込んできたのは――拓海と恋人のスキャンダルを伝える速報記事だった。普段は芸能やゴシップに興味を持たない。だがその夜に限って、なぜか記事を開かずにはいられなかった。見出しは煽るように大きく躍っていた。【須賀拓海、恋人と車内で情事】添えられた数枚の写真は、女性の顔までははっきり映っていない。けれど、その背中の線、服の柄――智也にはどこか見覚えがあった。眉間に皺が寄る。――まさか、玲奈なのか。考え込む間もなく、階上から足音がして沙羅が降りてきた。「智也、何を見てるの?そんなに夢中になって」彼女は近づき、智也の隣に腰を下ろす。智也はさりげなくスマホを伏せた。「たいしたことじゃない」穏やかな笑みを浮かべ、逆に尋ねる。「そういえば、愛莉は寝たのか?」沙羅は頷いた。「ええ、遊び疲れて。お風呂に入れたらすぐ眠っちゃった」「お母さんは?」「休んでるわ」智也は沙羅の顔を見つめた。清らかで端正な輪郭、透き通るように白い肌。化粧をしなくても際立つ美しさ。けれどここ数日、やつれた気配が隠せない。胸が締めつけられ、思わず声を掛ける。「お前も休みなさい。この二日間、無理をさせたな」その一言に、沙羅の目に涙が滲む。俯いた途端、大粒の涙がこぼれ落ちた。「......ありがとう、智也」涙を拭おうと手を伸ばし、優しく問いかける。「どうしたんだ、泣くことはない」彼の胸に顔を埋め、か細い声で呟く。「智也は、私が一番必要とするときに必ずそばにいてくれる」智也は肩を抱き寄せ、背中をやさしく叩いた。「当たり前だ。感謝なんて要らない」その言葉に、沙羅はますます声を上げて泣く。仕方なく、智也は彼女を抱き締め、指で柔らかな髪を梳いた。やがて嗄れた声で告げる。「智也、お母さんの住む場所、私が探すから」智也は彼女を少し離し、真っ直ぐ見つめて言った。「久我山に来たら、小燕邸に住んでもらえばいい。愛莉も喜ぶだろうし、お前も行き来しやすい」「でも......」「もういい、休め。久我山に戻ったら、落とした学業をきちんと取り戻すことだ」「分かったわ」沙羅はようやく笑
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第190話

かつての玲奈は、いつも笑顔を絶やさず、温かく声をかけてくれる女だった。けれど今は、自分から電話をしてくることすらない。かかってくるとしても、愛莉のことばかり。智也は胸騒ぎを覚えていた。――もしかして、本当に拓海と関わりを持っているのではないか。そのころ、玲奈は入浴を終え、翡翠のブレスレットを指先でなぞりながらしばし物思いに沈んでいた。隣で陽葵が休んでいるのを気にして、スマホはサイレントにしてある。智也からのビデオ通話にも、当然気づかなかった。通知を見ても、かけ直す気にはなれなかった。眠る前、何気なく動画アプリを開くと、最初に表示されたのは「知り合いかもしれません」というアカウント。沙羅のものであった。ララの名前で投稿されたのは、一枚の画像。誰かに抱きしめられている姿――映っているのは肩と顎だけ。それでも、玲奈には一目で分かった。智也だ。キャプションは甘ったるい言葉で飾られていた。【あなたはいつも、私が一番必要とするときに現れてくれる。あなたの胸はあたたかい。智也、愛してる】その瞬間、玲奈はスマホを投げ出した。胸の奥が冷え、眠気など消え失せた。結局、明け方になってようやく浅い眠りに落ちた。──翌日、日曜。玲奈は陽葵を連れて遊園地へ行き、夕方五時過ぎまで遊んだ。帰宅すると、綾乃と直子が台所で夕食の準備をしていた。食事を終えたあと、一家で散歩に出る。その最中、不意にスマホが鳴った。画面に浮かんだ名前を見て、玲奈は驚く。――長らく音沙汰のなかった、心晴からの着信だった。電話に出ると、心晴の声は落ち着いていた。「玲奈、迎えに来てくれる?」理由は分からない。だが彼女の頼みを断ることなどない。「いいわよ、場所を送って」通話を切ると、送られてきたのはバーの住所だった。玲奈が到着すると、心晴は和真とその仲間たちに囲まれていた。彼女はひとり隅に座り、場の空気から浮いていた。玲奈が個室の扉を開けると、心晴はすぐに立ち上がり、音楽を止め、目映い照明を消した。和真が眉をひそめ、苛立ちを隠さずに睨みつける。「心晴、今度は何の真似だ?」──三十分ほど前。心晴が扉の前に立ったとき、中から笑い声と会話が聞こえてきた。「和真、お前らもう
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