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第189話

Author: ルーシー
隣の地方の中心都市。

智也が医療論文を数篇読み終えたところで、ふと目に飛び込んできたのは――拓海と恋人のスキャンダルを伝える速報記事だった。

普段は芸能やゴシップに興味を持たない。

だがその夜に限って、なぜか記事を開かずにはいられなかった。

見出しは煽るように大きく躍っていた。

【須賀拓海、恋人と車内で情事】

添えられた数枚の写真は、女性の顔までははっきり映っていない。

けれど、その背中の線、服の柄――智也にはどこか見覚えがあった。

眉間に皺が寄る。

――まさか、玲奈なのか。

考え込む間もなく、階上から足音がして沙羅が降りてきた。

「智也、何を見てるの?

そんなに夢中になって」

彼女は近づき、智也の隣に腰を下ろす。

智也はさりげなくスマホを伏せた。

「たいしたことじゃない」

穏やかな笑みを浮かべ、逆に尋ねる。

「そういえば、愛莉は寝たのか?」

沙羅は頷いた。

「ええ、遊び疲れて。

お風呂に入れたらすぐ眠っちゃった」

「お母さんは?」

「休んでるわ」

智也は沙羅の顔を見つめた。

清らかで端正な輪郭、透き通るように白い肌。化粧をしなくても際立つ美しさ。

けれどここ数日、やつれた気配が隠せない。

胸が締めつけられ、思わず声を掛ける。

「お前も休みなさい。

この二日間、無理をさせたな」

その一言に、沙羅の目に涙が滲む。

俯いた途端、大粒の涙がこぼれ落ちた。

「......ありがとう、智也」

涙を拭おうと手を伸ばし、優しく問いかける。

「どうしたんだ、泣くことはない」

彼の胸に顔を埋め、か細い声で呟く。

「智也は、私が一番必要とするときに必ずそばにいてくれる」

智也は肩を抱き寄せ、背中をやさしく叩いた。

「当たり前だ。

感謝なんて要らない」

その言葉に、沙羅はますます声を上げて泣く。

仕方なく、智也は彼女を抱き締め、指で柔らかな髪を梳いた。

やがて嗄れた声で告げる。

「智也、お母さんの住む場所、私が探すから」

智也は彼女を少し離し、真っ直ぐ見つめて言った。

「久我山に来たら、小燕邸に住んでもらえばいい。

愛莉も喜ぶだろうし、お前も行き来しやすい」

「でも......」

「もういい、休め。

久我山に戻ったら、落とした学業をきちんと取り戻すことだ」

「分かったわ」

沙羅はようやく笑
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