ログイン玲奈が「愛莉を迎えに行こう」と自分から言い出したのを聞き、智也の顔には笑みが浮かんだ。そして嬉しそうに言った。「やっぱり、母親のお前は気が利くな」その言葉が、玲奈の胸をちくりと刺した。——笑いたくなる。かつて智也は、彼女に「お前は母親に向いていない」と言い放ったのに。真実と嘘が混ざり合う言葉の中で、いったいどれが本音なのか。玲奈は何も返さなかった。返事がないことなど気にした様子もなく、智也はそのまま勝との通話を続ける。一方、玲奈のスマホにはラインの未読が十件以上溜まっていた。開くと、拓海からの連投だった。【玲奈、お前がクズだ】【クズ、クズ。お前はクズだ】【聞いてんのか?】【とぼけんな】【智也の前にいるからって返さないつもりか?今すぐ小燕邸に乗り込んでやるぞ】【?】【返事しろ。返さないと本気で怒る】【もう一度言う。あいつに触らせるな。離婚のために我慢してるって言っても、俺はもう認めない】【聞いてんのか?】そのあとも拓海は何度か電話をかけてきた。玲奈はマナーモードにしていたため、智也は気づかない。着信をいくつか切ってから、玲奈はようやくメッセージを返した。【分かった。もう送らないで】拓海は即レスする。【さっき何してた?】玲奈は短く返す。【何もしてない】拓海は釘を刺してきた。【いいか、言うこと聞けよ。智也のあのクソ野郎に触らせるな】玲奈が【うん】とだけ返した、その瞬間。智也がふいに顔を寄せてきた。気配を感じ、玲奈は慌てて画面を消した。こそこそした様子から、智也は誰かとやり取りしているのだと察した。相手が拓海かどうかは、確信できない。だが智也は怒らなかった。むしろ、にやりと笑って玲奈の目を覗き込む。「そんなに顔赤くして。......また俺に隠し事か?」玲奈は顔を背け、答えない。智也もそれ以上は迫らなかった。少し考えたあと、今度は沙羅に電話をかける。向こうはほとんど秒で出た。沙羅の弾む声が響く。「智也?病院に来てくれるの?」智也は淡々と答える。「ああ」そしてすぐ、付け足した。「それと、愛莉に支度させておけ。俺が連れて帰る。明日も幼稚園だろ」沙羅
結婚してから今日まで、祖父の前で仲のいい夫婦を演じるとき以外、智也が玲奈をこんなふうに呼んだことはなかった。その「玲奈」という一言を耳にした瞬間、玲奈の胸はずしんと重く沈んだ。拓海もその呼び方を聞いて、顔色が一気に陰った。次の瞬間、彼は智也に向かって大声で怒鳴りつける。「智也!気持ち悪ぃんだよ!」智也は拓海の焦った声を聞いても、聞こえなかったみたいに振る舞った。顎を上げ、玲奈を連れて傲然とその場を去っていく。その姿はまるで、勝ち戦でも終えたみたいだった。得意げな表情が、やけに腹立たしいほどに映る。玲奈が階段を下りながら、横目で拓海を見た。怒っている。苛立っている。けれど、拓海は動かなかった。玲奈は胸の奥がちくりと痛み、申し訳なさが込み上げた。口を開きかけたが、隣に智也がいると思うと、結局なにも言えなかった。智也に引かれるまま車へ向かい、後部座席に乗せられる直前、玲奈はもう一度、拓海のいた場所を振り返った。拓海もこちらへ顔を向け、深い視線で見返してくる。視線がぶつかった、その一瞬――拓海が玲奈に向けて、ウィンクした。たったそれだけで、玲奈の心臓が一拍、抜け落ちた気がした。拓海は顔もいい。背も高い。金もある。何より、女の心をくすぐるやり方を知っている。玲奈でさえ、あの仕草に簡単に揺さぶられてしまう。智也は酒を飲んでいたため、代行運転を呼んでいた。だから二人とも後部座席へ座った。智也が乗り込むとき、身体を寄せて玲奈を覆い、空気の中で交わっていた視線を遮った。ほどなく車は走り出す。智也は横目で玲奈を見た。彼女の顔に波風がないのが、かえって胸に刺さる。自分は勝ったつもりでも、玲奈の心は動いていない――そんなふうに見えたからだ。そのとき、智也のスマホが鳴った。勝からの電話だ。智也は通話に出ると、玲奈に意識を向けなくなった。同時に、玲奈のスマホにもラインの通知が入った。画面を見ると、拓海からだった。開くと、メッセージが表示された。【玲奈。今夜は早く帰ってこい。一緒に寝たい】玲奈の胸が、どくんと二度跳ねた。だが、彼女はすぐに打ち込み返す。【沙羅は病院にいるわ】拓海からの返信はすぐだった。【?】玲奈はは
智也は玲奈の言葉を聞き、胸の奥がじわじわと酸っぱくなった。だが、結局は力なく説明するしかなかった。「俺が洋に話したのは、先に知っておいてほしかったからだ。全部知った上で、それでも心晴にちゃんと向き合うっていうなら、俺はもう止めない。ただ......こういうことは、隠したままじゃいけない」玲奈は視線を逸らし、智也の言葉には答えなかった。どう返せばいいかも分からないし、正しいか間違っているかを評する気にもなれない。玲奈自身、智也の言葉が正しいのかどうか、判断できなかった。智也は玲奈の手を強く握り直し、言う。「洋には時間をやれ。自分でちゃんと考えさせたい」玲奈は小さく「うん」とだけ返し、足を進めて店の外へ向かった。智也も追い、二人は並んで回転扉を抜ける。店を出たその瞬間、玲奈は顔を上げ、階段の下から大股で上がってくる人物を見た。拓海――そしてその隣には、一人の女がいた。朱里だ。拓海と朱里も、玲奈たちに気づいた。智也も階段下へ視線を落とし、次の瞬間、玲奈の手をさらに強く握り締めた。その強引さは、どう見ても彼女は自分のものだという誇示だった。拓海の顔は、智也が玲奈の手を握っているのを見た途端に陰った。だがそのとき、朱里がふいに距離を詰め、拓海の腕に絡みついた。拓海はその気配を感じると、すぐに腕を彼女の抱え込みから抜き取った。そして、にやりともしない笑みを浮かべながら、朱里の明るく整った顔を見下ろして言う。「俺から離れてろ。俺の大切な人に見られたら、嫉妬される」わざと声量を上げた。玲奈と智也に聞かせるためなのは、誰の目にも明らかだった。朱里は面子を潰されたように、顔を真っ赤にした。拓海は視線を外さず、容赦なく続ける。「お前は俺の秘書だ。一線を越えるな。越えたら、お前のおじさん相手でも俺は遠慮しない」どのみち拓海の立場は、三浦家より上だ。面子を立てるかどうかは、拓海次第だった。朱里は拓海を見つめたまま、彼の目に宿る凶さに呑まれ、身体が小さく震えた。それ以上、言葉が出ない。だが次の瞬間、拓海は急に笑った。「......怖くなった?」朱里は首を振る。勇気をかき集めて拓海を見上げ、言い切った。「怖くない」そうだ。怖くない
ケーキを配り終えると、洋は玲奈をちらりと見た。それから立ち上がり、玲奈の右隣に座っていた人物に席を替わってほしいと頼んだ。玲奈の左隣には、智也が座っている。洋の行動に、玲奈は少し戸惑った。洋は座るなり身を乗り出し、声を潜めて玲奈に尋ねた。「玲奈さん、心晴さんは。最近何してるの?グルメ動画も、更新が止まってるみたいで」洋が急に心晴の名を出したので、玲奈は頭が真っ白になった。一方、洋の様子をずっと気にしていた智也は、その言葉を聞いた瞬間、眉間をきつく寄せて洋を見た。智也の表情が張り詰めたのを見て、洋は慌てて笑い、説明する。「そうだ、智也。彼女の仲のいい友達の心晴さんって、前に俺が話しただろ。俺が気になってる子だよ」洋があまりに堂々としているので、智也は思わず目を見開いた。そして次の瞬間、玲奈が振り返り、疑うように智也を見た。周囲が緊張した空気になるのを感じ、洋は訳が分からず口にした。「......どうしたんだ?」智也は玲奈を一度見てから、洋に言った。「お前とは合わない」たった一言だが、智也の態度は明確だった。それを聞いた玲奈は、胸に重いものが落ちたように感じた。理屈では、智也が友人のために言っているのだと分かっている。それでも玲奈は、智也が薄情な男だと思わずにはいられなかった。洋は何が起きたのか分からないまま、笑って智也に言う。「智也、合わないとかないだろ。俺たちは商売人で、心晴さんはネットで活動してる子だけど、俺はあの子がいい。特に、あの子が口が悪いとき、あれがすげえカッコいいんだ。率直なところも好きだし、ストレートなところも好きなんだよ」智也の表情はますます硬くなった。智也は立ち上がり、洋に言った。「来い。外で話す」手の傷には、紙がもう皮膚に貼りついている。それでも智也は気にも留めず、真剣な顔で洋を連れ出した。洋は首をかしげながらも立ち上がり、智也のあとを追って包厢を出た。二人が出ていくと、玲奈は俯いた。急に目の奥が熱くなり、込み上げるものを抑えきれなくなった。その胸の酸っぱさは、自分のためでもあり、心晴のためでもあった。智也と一緒に過ごしてきた年月の中で、玲奈は洋を「いい人」だと思っていた。妙な男女関係もな
想像に難くない。薫がどれほどの力で投げたか――グラスを智也が受け止めたのを見て、薫は焦ったように言いかけた。「智也、お前――」だが言い終える前に、智也は玲奈を腕の中へ引き寄せ、庇うように抱き込んだ。そして冷たい視線を薫へ向け、氷窟に落とすような声で言い放つ。「出てけ」薫は唇を震わせ、今の言葉が本当に智也の口から出たのか信じられなかった。呆然としたまま、ようやく怒鳴り返した。「出てけってんなら出てく!智也、あとで後悔すんなよ!」薫が上着を掴んで出て行こうとした瞬間、洋が慌てて立ち上がり、その腕を掴んだ。「薫、何してんだよ!」薫は振り返り、洋を睨みつけた。「出てけって言われたんだぞ。俺に何ができる?」洋は眉を寄せ、宥めるように言う。「落ち着け。智也だってそんなつもりじゃ――」薫は乱暴に腕を振りほどいた。「そんなつもりなんだよ」そして吐き捨てる。「頭おかしいのは俺じゃなくて、あいつだ」そう言い残し、薫は怒りのまま出て行った。洋が追いかけようとした、そのとき。玲奈を抱き込んだままの智也が、低い声で言う。「......ケーキ食わないのか?」洋の足が止まる。それでも薫の去った方向が気になって、視線が揺れた。すると智也が追い打ちをかける。「ケーキは玲奈が用意した。食わないなら、お前も出てけ」そこまで言われては、洋も腹を括るしかない。歯を食いしばり、席へ戻った。玲奈は智也の胸の中で、彼の手から漂う血の匂いを嗅いだ。割れたグラスの破片で切ったのだろう。出血は多いが致命傷ではない。――致命傷だとしても、彼女が心配する理由にはならない。玲奈は身を起こし、何事もなかったように俯いて食事を続ける。問いかけも、気遣いもない。その態度が、智也の胸をえぐった。手を負傷したせいで、箸すらまともに持てない。玲奈に取り分けてやることもできない。それでも、玲奈が目の前の数品だけを淡々と口に運ぶのを見て、智也は堪えきれず洋に言った。「洋。玲奈に取り分けろ」洋はさらに目を見張ったが、玲奈を嫌ってはいない。智也が怪我をしている以上、言われた通りにするのが筋だ。少し考え、洋は短く答えた。「......わかった」彼は玲奈の
智也の怒号は、その場にいた全員を黙らせた。普段から智也の怒りを見慣れている薫と洋ですら、反射的に体を強張らせる。二人は思わず智也を見た。その目には驚きと――そして、怪我を案じる色が混じっていた。智也の隣に座る玲奈も、さすがに大きく動揺した。ただし彼女は顔色一つ変えず、笑いも怒りも浮かべない。皆、智也の怒りに圧倒されて沈黙した。けれど薫だけは、怒りが収まらない。思い切り言い放つ。「関係ねぇ女のために、親友にそんな顔するのか?」智也は薫と視線をぶつけ、冷えた声で返した。「玲奈は俺の女だ。お前が彼女を侮辱するってことは、俺を侮辱してるのと同じだ」薫は凍りついた。信じられない、とでも言いたげに智也を見る。「智也......お前、自分が何言ってるかわかってんのか?」ここまで露骨に玲奈を庇う智也を、薫は見たことがない。洋も同じだ。結婚して五年――玲奈のことでここまで怒る姿など、これまで一度もなかった。しかも相手は薫だ。それでも智也は一歩も退かない。「わかってる」掌から血が落ち続け、卓には小さな血溜まりができた。だが玲奈は、その傷に一切反応しない。彼女は医者だ。心配して当然なのに――彼女は見もしない。その無関心が、智也の胸を針で刺した。彼はナプキンを乱暴に掴み、傷口を押さえつけた。薫と洋も、玲奈の反応を見て目を見張った。昔なら玲奈は飛びついて、智也の手を必死に押さえただろう。それが今は、微動だにしない。重たい空気が張りつめたまま――数秒後、洋が慌てて場を回した。「......はいはい、もういい。飯を食おう。誕生日なんだから、空気を壊すなって」薫も、智也が怪我をしているのを見てひとまず怒りを飲み込む。だが酒を二口ほど飲んだところで、薫の視線が玲奈へ刺さった。何かを思いついたように、笑みを作ってグラスを掲げる。「智也が自分の女だって言うならさ。今日は洋の誕生日だろ?彼の女として、洋に一杯くらい敬うのが筋じゃねぇの?」洋はテーブルの下で薫の脚を蹴って止めた。だが薫は足をずらしただけで、取り合わない。玲奈には分かる。これは嫌がらせだ。彼女は酒が飲めない。迷いなく顔を上げ、薫を見て、きっぱり断った。「
タクシーに乗り込んだ玲奈は、シートにもたれた途端、疲れ果てて眠りに落ちた。「お客さん、着きましたよ」運転手に声をかけられて、ようやく目を開ける。料金を支払い、玲奈は車を降りて小燕邸の門をくぐった。いまの時間に春日部邸へ戻れば、家族を起こしてしまう。だから、玲奈は愛莉が慣れ親しんだこの小燕邸に戻ることにしたのだ。キッチンに入ると、彼女は手際よく鍋を火にかけ、娘のための朝食づくりを始めた。やがて味噌汁ができあがる。玲奈はそれを小さな容器に丁寧に移し、テーブルの上に並べた。そして「これだけでは足りない」と思い、味噌汁に合うあっさりした副菜をもう一品作ろうと、再びキ
玲奈は壁に手をつき、全身の力が抜けていくのを感じていた。心臓は狂ったように早鐘を打ち、呼吸さえままならない。病室の中から、愛莉の泣き声が響いてくる。その声は、胸を裂くような叫びだった。「ママ、いやだ!帰りたい!」その一言一言が、玲奈の神経を針で突くように刺した。――自分の身体から生まれた子どもが、いま苦しんで泣いている。その痛みを、母親が感じないはずがない。隣に立つ智也も、玲奈の震える肩を見つめながら、胸の奥に押し込めた不安と罪悪感に押し潰されそうだった。だが、彼の手が玲奈の肩に触れる前に――玲奈はその手を振り払った。「......智也、触らない
「......智也を探しに行くわ」玲奈はそう言って、踵を返し、灯籠を売っている屋台のほうへと歩き出した。だが、二歩ほど進んだところで足を止め、振り返る。「......須賀君、あなたは先に帰って。今度また一緒に来ましょう」その言葉を聞いた拓海の胸に、ふっと温かいものが広がった。次がある――そう言われたのが、なぜか嬉しかった。けれど同時に、過去のことが頭をよぎる。かつて、彼女も結婚すると約束してくれたのに、その約束は結局、果たされなかった。思い出すだけで、胸の奥がざらつく。だが玲奈は、そんな拓海の表情に気づく余裕もなく、すぐに駆け出した。拓海はため息をつ
拓海の笑みは、まるで人の心の奥に静かに染み込む毒のようだった。玲奈はその笑みを見つめながら、胸の奥が不意にざわめくのを感じた。――危ない。このままでは、彼の中に沈んでしまう。玲奈は慌てて顔を背け、一歩、彼から距離を取った。拓海という男が、あんな言葉を口にして、いったい何を求めているのか。彼女には分からなかった。けれど、信じてはいけない――そう思った。この世界は、真実と嘘が複雑に絡み合っている。信じた瞬間に傷つくのは、いつだって自分の方だ。玲奈は拓海から離れたが、彼の視線がなおも自分を追ってくるのを感じていた。やがてダンスが始まった。明も、智也も、







