All Chapters of これ以上は私でも我慢できません!: Chapter 261 - Chapter 270

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第261話

愛莉の言葉に、智也の胸はちくりと痛んだ。彼は顎を娘の頭にそっと乗せ、低く囁く。「パパがいるよ。いつだって一緒にいる」「分かった」愛莉は駄々をこねることはせず、渋々と答えた。智也は、その不機嫌の理由が「母にそばにいてほしい」という気持ちなのかどうかまでは分からなかった。子どもの心は、時に本人ですら整理がつかないものだ。胸に顔を寄せた愛莉は、身を横にすると、玲奈が陽葵と楽しげに笑いながら写真を撮っている姿が目に入った。幸せそうに笑い合い、自分には向けてくれない笑顔。――どうして、私にはくれないの?愛莉はもう見ていられず、父に言った。「パパ、別の遊びがしたい」智也は娘を喜ばせたくて、すぐに頷いた。だが心配もあり、試しに言葉を添える。「でも、長くは遊べないぞ。まだ怪我が治りきってないんだから」「分かってる。ちゃんと言うこと聞くよ」愛莉は素直に頷いた。二人はミニ列車やブランコに乗った。楽しくはあったものの、愛莉の胸には拭えない違和感が残っていた。その正体は自分でも言葉にできない。いくつかアトラクションで遊び終えると、愛莉はもう興味を失ってしまった。そのころ、玲奈は陽葵をメリーゴーラウンドから降ろしていた。「陽葵、気をつけてね」そう声をかけた直後、背後から弾むような少年の声が飛んできた。「おばちゃん!」振り返ると、昨夜のパーティーで会ったあの少年がいた。今日はスポーツウェアに黒いキャップ姿だ。玲奈はすぐに思い出す。――父親が呼んでいた名は「真言」。「まあ、真言くんじゃない」彼女はにっこりと微笑んだ。少年は真剣な顔で言う。「おばさん、僕は羽生真言(はにゅう まこと)って言います」玲奈は笑みを深める。「分かったわ。覚えておくね、羽生真言くん」その時、陽葵が振り返り、少年を見つけた。「羽生真言?なんであなたもここに?」真言は答えず、きょろきょろと辺りを見回し、大きな声を張り上げた。「須賀おじさん!」――須賀おじさん?須賀拓海?玲奈は周囲を見渡す。そして少し離れた場所に、両手をポケットに突っ込み、棒つきキャンディーをくわえて歩いてくる拓海の姿を見つけた。頬の片側にキャンディーの形が浮き出ている。
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第262話

それでも玲奈は礼を欠かさなかった。「昨日のことは心晴から聞いたわ。どういう形であれ、助けてくれてありがとう」拓海は答えず、視線も向けない。けれど歩き去ることもせず、その場に立ち続け、ただ顔を横に向けていた。反応がないままの彼に、玲奈はもう一度呼びかける。「須賀君?」それでも沈黙。彼女は分かっていた。聞こえているのに、あえて無視しているのだと。玲奈は落ち着いた口調で告げる。「これからは家に物を送らないで。どれも使うことはないから」しかし彼は依然として黙り込み、何も返さない。その態度に、玲奈はふと不安になる。――本当に自分を病院に運んだのは彼だったのだろうか。だが心晴が嘘をつくはずはない。彼が何に拗ねているのかは分からない。けれど追及するつもりもなかった。もともと二人は交わることのない世界の住人なのだ。彼が距離を取るのなら、その方がよほど楽だろう。玲奈は陽葵が怪我をしないか心配で後を追う。彼女が動けば、拓海もついてくる。しばらくして陽葵がトランポリンから降り、水を欲しがった。拓海は子どもの面倒に慣れていないうえ、飲み物も用意していない。玲奈が多めに持ってきていたので、自分の分を真言に渡し、二人で分けさせた。飲み終えた陽葵は、今度は拓海の手を引く。「おじさん、あっちの大きな飛行機に一緒に乗って!おばちゃんは手を怪我してるから乗れないの」拓海はやわらかな笑みを浮かべ、即座に承諾する。「いいよ」陽葵は嬉しそうに彼の手を引き、大型アトラクションへ駆けていった。真言はというと、「高いところは苦手」と言って乗らない。陽葵に「怖がり」とからかわれても、首を横に振ったままだった。玲奈は真言と一緒にベンチへ腰かけ、スマホを構えてはしゃぐ陽葵の姿を撮影した。その頃、アトラクションに乗った陽葵は、無邪気さを抑えて真顔で問いかける。「おじさん、ほんとはおばちゃんに会いに来たんでしょ?」拓海は小声で答える。「そうだよ。でも内緒だ。おばさんは今、俺に怒ってるから」本当は玲奈が怒っているのではない。あの日、彼女が智也を庇ったことに、拓海自身が腹を立てているのだ。陽葵は手すりを握りしめながら、眼下の景色を眺めつつ言う。「でもね、
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第263話

陽葵の言葉は、拓海の胸の奥に張り詰めていた弦を強く震わせた。彼は視線を落とす。木陰のベンチでは、玲奈が真言と並んで座り、何かを話していた。その口元にふと浮かんだ笑み――それはほんのわずかなものだったが、拓海にははっきり見えた。彼女が、笑っていた。拓海は玲奈を見つめながら、真剣な口調で陽葵に告げる。「陽葵ちゃん、おじさんは――必ずおばさんを笑顔にできる人間になる」木陰で、玲奈は水を真言に手渡した。真言は一口飲むと、顔を上げて言った。「おばさん、僕、愛莉や陽葵と同じ幼稚園なんだ。一緒に通ってる」玲奈はすでに察していた。やさしく微笑み、問い返す。「それで、どうして須賀おじさんと一緒にこの遊園地に?」今日の偶然の再会――本当に偶然なのか、心の片隅に疑いがあった。真言は水筒を返しながら答える。「パパが出張に行ったんだ。だから須賀おじさんに遊びに連れてきてもらったの」玲奈は納得したように頷く。「そうだったのね」――やはり、考えすぎだったのかもしれない。やがて遊具が止まり、拓海が陽葵を抱えて戻ってきた。真言は彼を見つけ、立ち上がると両手を広げて玲奈に言った。「おばさん、僕も抱っこして」玲奈は腕を怪我していることを理由に断ろうとした。だが先に拓海が口を開く。「真言、俺が抱いてやる」そう言うなり、片腕で陽葵を抱えたまま、もう片方で真言を軽々と抱き上げた。両腕に子どもを抱えながらも、余裕のあるその姿に、玲奈は思わず笑みをこぼした。拓海はその笑顔を見て、一瞬だけ動きを止めた。だが言葉はなく、そのまま子どもたちを連れて歩き出す。玲奈が後に続くと、陽葵が指さした。「須賀おじさん、あの綿あめ食べたい!」拓海はやわらかく笑って答える。「もちろんいいよ」二人を降ろして屋台へと向かい、それぞれに選ばせる。陽葵はウサギの形の綿あめを、真言はトラの形を選んだ。玲奈がスマホを取り出して支払おうとしたその時、拓海が先に支払い、さらに彩色の綿あめを追加注文する。店主は笑顔で礼を言った。玲奈は譲ることにした。たかが数百円、彼にとって気にもならないだろう。だが出来上がった彩色の綿あめを受け取った拓海は、それを自分の口に運ぶことなく、玲奈に差し出した。
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第264話

遊びを終えたところで、智也の携帯が鳴った。片腕に愛莉を抱きながら、もう片方の手で通話を取る。相手は山田だった。「旦那さま、思い出したんですけど......戸籍謄本、あれは邦夫さまがお持ちになったんじゃないかと」智也は一瞬、言葉を失った。だがすぐに平静を装い、低く答える。「分かった」玲奈と結婚した当初から、二人の仲は不安定だった。祖父は折に触れて「きちんと暮らせ」と言葉を残していたが、智也は意に介さなかった。しばらく前に戸籍謄本が見当たらなくなっても、祖父の仕業だとは考えもしなかった。しかし今になって山田がそう告げたなら、すべての辻褄が合う。電話を切り、携帯をしまった時――智也の視線は思わず固まった。少し離れた場所で、拓海が両手に子どもを引き連れ、その後ろを玲奈が歩いている。手には綿あめを持ち、時折小さく舐めては微笑む姿。まるで夫婦が子どもを連れて出かけているような光景だった。胸の奥がざらつくように塞がれていく。思わず声が出た。「玲奈!」その声は大きく、玲奈だけでなく拓海の耳にも届いた。子どもたちを引いて次のアトラクションへ向かおうとしていた拓海は、その声を聞くと足を止めた。智也は愛莉を抱いたまま玲奈の前に歩み寄り、低く告げる。「祖父が、皆で実家に戻って食事をしろと言っている」玲奈は一瞬たじろいだが、すぐに無表情で答える。「今日は行かないわ。陽葵と一緒に出てきたんだもの、送って帰らないと」「じゃあ俺も一緒に送る。そのあとで一緒に行こう」智也の腕の中で、愛莉はしょんぼりとうなだれていた。玲奈の声に反応して顔を上げかけたが、母親が自分を見ようともしないことに気づくと、言葉を飲み込んだ。玲奈はきっぱりと拒む。「必要ないわ」智也がさらに口を開こうとした時、拓海が彼女の前に立ちはだかった。「もう十分だろ。女に無理強いするなんて、男らしくないな」智也は娘を胸に抱き寄せ、冷ややかな視線を拓海に向けた。「これは俺たちの家庭のことだ。お前には関係ない」拓海は鼻で笑う。「へえ、忠告しておくよ。浮気は罪じゃないが――女の意志を踏みにじれば、そうとも限らない」背後でその言葉を耳にした玲奈は、咄嗟に拓海の袖を引き、小声で囁いた。「須
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第265話

真言の声が少し大きくなったのを見て、拓海は慌ててしゃがみ込み、手で彼の口を覆った。「しーっ」と合図をすると、真言はすぐに理解してこくりと頷く。拓海が手を放すと、その頭を軽く叩いて言った。「おじさんの用事が片付いたら、必ずお化け屋敷に連れていくよ。しかもいろんな所のな」真言は白い目を向け、不満げに口を尖らせる。「須賀おじさんはいつも口だけ」拓海は両手を合わせ、ふざけるように揺らしてみせた。「頼むよ、おじさんを助けると思って」真言は大きな丸い瞳をくるりと動かし、しぶしぶ答える。「......分かったよ」だがすぐに思い出したように付け加えた。「でも須賀おじさん、あの陽葵ってすごく怖いんだ。友だちになりたいけど、話しかけるのがこわい」拓海にはとっくに分かっていた。真言は陽葵を恐れている。けれど本当は、陽葵は気が強く見えても、とても素直でいい子なのだ。拓海の脳裏に過去の自分がよぎる。もし玲奈が智也と結婚する前に、もっと強く自分の気持ちを貫いていれば。今のような混乱もなかったのかもしれない。だがあの頃の玲奈は智也を深く愛していた。だから、彼は身を引くしかなかった。けれど――結果がこうなると分かっていたら、命を賭けても諦めはしなかった。拓海は真言の頬に手を添え、真剣な声で言った。「男なら、やりたいことはやるんだ。後になって後悔するくらいなら、今やれ」それは真言に向けた言葉であると同時に、自分自身への言葉でもあった。真言はこくりと頷く。「うん、分かった」勇気を出して、小走りで玲奈と陽葵の背後に駆け寄った。「おばさん!」玲奈は足を止め、振り返る。「どうしたの、真言?」真言は顔を上げて言った。「おばさん、ぼく、今夜一緒にご飯を食べたい」だが彼女が返事をするより先に、陽葵が口を挟んだ。「真言、ママから電話があったの。私とおばちゃんはお家に帰って食べるんだって」真言は呆気にとられる。「えっ?」陽葵は彼のぽかんとした顔に苛立ち、きつい声を上げた。「えっ、じゃないでしょ。今日がダメなら次にすればいいじゃない。これから先、いくらでもチャンスあるんだから」その迫力に押され、真言は思わず拓海の方を振り返る。拓海は好機を逃す
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第266話

拓海もむっとして言い返した。「じゃあ陽葵が悪者だって言うのか?」真言は言い負かされて、顔を真っ赤にして怒鳴った。「ふん、パパに言いつけてやる。須賀おじさんがぼくをいじめたって!」玲奈はタクシーで家へ戻った。玄関先に着くと、意外なことに智也の車が停まっていた。夕食の時間まではまだ二時間ほどあり、綾乃と秋良たちはまだ帰っていない。健一郎と直子も留守だった。そのため、玲奈が陽葵の手を引いて中に入ると、リビングのソファに智也がひとり腰かけていた。テーブルの上には湯気の消えた一杯のお茶が置かれていたが、彼は手をつけていなかった。もし家族の誰かがいたなら、智也はこの屋敷の敷居をまたぐことさえできなかっただろう。玲奈が戻ってくるのを見て、ソファにもたれながら携帯をいじっていた智也が顔を上げた。「帰ってきたのか?」玲奈は陽葵の手を離して言った。「陽葵ちゃん、先に二階で遊んでて。おじさんと少し話があるの」陽葵は少し不満そうだったが、玲奈が強く促すので、しぶしぶ階段を上がっていった。陽葵の足音が遠ざかるのを確かめてから、玲奈は智也の方へ歩み寄り、険しい声で問い詰めた。「智也、何しにここへ来たの?」その口調にはとげがあり、表情にもはっきりと不快さが浮かんでいた。智也は携帯を置き、淡々とした声で言った。「じいちゃんに頼まれて、おまえを迎えに来た」玲奈は顔をそむけ、冷えた声で言い放った。「結構よ。今夜は帰らないわ」智也は彼女の横顔を見つめ、ふと心を奪われたように動きを止めた。しばらくの沈黙のあと、かすかに唇をゆるめて言った。「戸籍謄本を見つけた」その一言が、玲奈の胸を大きく揺らした。「どこで?」思わず身を乗り出して尋ねる玲奈の瞳には、わずかな喜びの色が浮かんでいた。だが智也の心には、喜びなどひとかけらもなかった。かつて自分をあれほど愛してくれた玲奈は、もうどこにもいないのだと痛感する。少しの沈黙ののち、彼は静かに告げた。「一緒にうちへ戻れば、教える」その取引めいた言葉に、玲奈の怒りがこみ上げた。「智也、あなた......いったい何がしたいの!」智也は怒りを隠そうともしない彼女の瞳をまっすぐに見返し、同じ言葉を繰り返した。「俺と一緒にうちへ
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第267話

智也の言葉は、まるで説教のように理屈ばかりだった。だが陽葵には、その意味がよく分からなかった。それでも彼女は真剣な表情で、きっぱりと言い返した。「そんなの違うもん。パパとママが言ってた。玲奈おばちゃんは春日部家の人で、帰りたいときはいつでも帰って来ていいって。だから玲奈おばちゃんの家はここで、おじさんの家なんかじゃないの!」その言葉を聞いた瞬間、智也の顔色がさっと陰った。複雑なまなざしで陽葵を見つめながら、何も言えずに黙り込む。陽葵が玲奈をかばうのは、それだけ玲奈が好きだからだ。そして智也には、子どもの言葉を責める資格などない。沈黙の中で、陽葵はさらに言葉を重ねた。「玲奈おばちゃんを連れて行っちゃだめ。わたし、許さない」その小さな声には必死の思いがこもっていた。玲奈はその様子をそっと見つめ、胸が熱くなった。陽葵が自分を守ろうとしてくれている――そのことがたまらなく嬉しく、同時に切なかった。けれども、もし智也の言うとおり、彼が本当に戸籍謄本を見つけたのなら......一度は行くしかない。智也の我慢の限界が来る前に、玲奈は陽葵をそっと抱き上げ、リビングの方へと連れていった。「陽葵ちゃん、玲奈おばちゃんはね、おじさんの家にちょっと用事があるの。すぐ戻ってくるから。その間、好きな食べ物を作ってもらおうか?」陽葵の目に、涙が次々と溜まっていった。小さな手で玲奈の服をぎゅっとつかみ、離そうとしない。玲奈の胸が締めつけられる。そっと抱きしめながら、優しく言い聞かせた。「ね、陽葵ちゃんはいい子でしょう?玲奈おばちゃんは、ちゃんと約束を守る人よ」陽葵は玲奈の胸に顔をうずめ、しゃくりあげながら小さな声で答えた。「......分かった。でも、絶対に早く帰ってきてね。帰ってこなかったら、パパとママに言いつけるから」玲奈はその頭を撫でながら、胸の奥が崩れるように痛んだ。「うん、分かったわ」そう言って微笑むと、陽葵は玲奈の頬を両手で包み、ぎゅっと顔を寄せてキスをした。「じゃあ、玲奈おばちゃん、またね」玲奈の目が一瞬で赤く染まり、涙が頬をつたった。唇を震わせながら、小さく答えた。「うん、またね」立ち上がり、外へ向かおうとしたその時――智也
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第268話

玲奈には、智也が何を考えているのか分からなかった。ただ、数秒の沈黙のあとで、ようやく彼の低い声が響いた。「俺が昔、おまえに冷たくしすぎたからか?それで、今になって俺を責めてる?」玲奈はあきれたように小さく笑った。「今さらそんなこと言って、意味あるの?」智也は首を横に振り、どこか曖昧に答えた。「もしかしたら、あるかもしれないじゃないか」その煮え切らない態度に、玲奈は苛立ちを隠せなかった。「いい加減にして。あなたの家に行かないなら、私、ここで降りるから」その言葉に、智也はしばらく彼女を見つめたまま黙り込み、ようやく身体を起こした。そして無言のままエンジンをかけ、車を走らせた。新垣家へ向かう途中、彼は突然、郊外のスーパーの前で車を停めた。玲奈は意味が分からず、座席に残ったまま外を見つめた。やがて智也がドアを開け、助手席側に回ってくる。「降りないのか?」玲奈は眉をひそめて尋ねた。「何を買うの?」「じいちゃんに何か持っていこうと思って」そう言われ、玲奈も仕方なく車を降りた。二人で店内に入ると、玲奈はギフトコーナーの棚を見て回った。だが智也は彼女のそばにいなかった。品を選び終えて振り返ると、彼が少し離れた棚から何かを手に取る姿が目に入った。近づいたとき、玲奈はそれが何かをはっきり見た――避妊具の箱だった。智也は隠す素振りもなく、それを片手に持ったまま歩いてきた。まるで、見られても構わないというように。彼女と彼は、もうすぐ離婚する関係だった。すでに三、四ヶ月、夫婦としての関係も途絶えている。だからその箱の行き先は――誰のためなのか、考えるまでもなかった。沙羅の顔が脳裏をよぎり、玲奈は視線をすっと逸らした。会計を済ませようとしたとき、背後から智也の声がした。「おまえの好きなもの、何か買っていかないのか?」玲奈は振り向かず、淡々と答えた。「いらないわ」智也は一瞬言葉を失った。何か買ってあげたい気持ちはあったが――彼女が何を好きなのか、もう思い出せなかった。二人が着くころ、邦夫はまだ食事をとっていなかった。二人が並んで戻ってくるのを見て、顔をほころばせる。「おお、そろって帰ってきたのか!」そう言うなり、家政婦に向かって「料理
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第269話

智也が受け入れた瞬間、邦夫の顔はぱっと明るくなった。玲奈は疑問を抱えたまま、邦夫が休むまで沈黙を貫いた。二人が二階に上がると、玲奈は寝室の前で足を止め、扉の外に立ったまま問いただした。「智也......これ、どういうつもり?」彼が「戸籍謄本を見つけた」と言ったから、彼女はここまで来た。決して祖父に見せるための芝居をするつもりではなかった。そんな偽りの温かさに、何の意味があるというのだろう。智也は憤りを隠さない玲奈を見つめ、かすかに口角を上げた。そして彼女の腕を取る。「中で話そう」玲奈は反射的にその手を振り払った。「放して。自分で歩けるわ」怒りを帯びたまま部屋に入り、ソファに腰を下ろす。智也も隣に腰を下ろし、横顔で彼女を見ながら言った。「戸籍謄本は――じいちゃんが持っている」玲奈は一瞬、言葉を失った。だがすぐに察した。この家で彼女たちの仲を望んでいるのは、邦夫ただ一人だ。きっと離婚を止めるために、戸籍謄本を隠したのだろう。短い沈黙ののち、玲奈は冷静に言った。「だったら、もういいわ。紛失扱いにして再発行すれば、離婚の手続きはできるもの」その一言に、智也の表情がわずかに険しくなった。けれどすぐに、平静を装って言葉を続けた。「もう一つ、話がある」玲奈は眉をひそめた。「何?」智也は背もたれに身体を預け、淡々とした声で言った。「俺たち、もう一度やり直さないか」玲奈は瞬時に立ち上がり、怒りを込めて言い放った。「智也、冗談にもほどがあるわ」そう言うなり、部屋を出ようとしたが、彼が腕をつかんで引き寄せた。彼の呼吸が近く、熱を帯びていた。「おまえ、いつも俺のことを三分しかもたない男って言うだろ。証明させてくれ」玲奈は身を引き、距離を取ろうとした。「......智也、やめて。もう昔とは違うの。私はあなたに、そんなことをさせるつもりはない」だが彼はその抵抗を無視するかのように、腕を回して彼女を抱き寄せた。彼の動きは乱暴ではないが、拒む余地のない強さがあった。玲奈は必死に突き放そうとし、声を張り上げた。「やめて!今のあなたは正気じゃない!」智也の呼吸が荒くなり、視線は暗い熱を帯びていた。玲奈の心臓が激しく打ち、
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第270話

電話の向こうで、沙羅は泣いていた。かすれた声で、震えるように言葉を探している。「戻ってこれる?話したいことがあるの」智也は、泣き声を耳にした途端、反射的に立ち上がった。胸元のボタンが外れたままだったが、そんなことに構う余裕もない。「すぐ帰る」短く答えると、電話を切ってシャツのボタンを留めながら、ソファの方へ目を向けた。玲奈は部屋の隅に身を寄せ、膝を抱えていた。肩が小刻みに震えている。泣いているのだと、すぐに分かった。その姿を見て、智也の胸に一瞬だけ罪悪感がよぎった。だが、その感情はすぐに押し流される。――自分は彼女を傷つけるつもりではなかった。ただ、侮辱されたまま終わらせたくなかった。自尊心を取り戻したかっただけだ。そう思い込みながら、智也は避妊具を取り出し、再びスーツの内ポケットにしまった。そして、玲奈の方を向いて言った。「沙羅が......用事があるらしい。行ってくる」玲奈は顔を上げた。血走った瞳が、怒りと絶望をたたえていた。「――それが、あなたの本当の目的だったのね?わたしをここに呼んだ理由は?」智也は淡々と答える。「戸籍謄本のことは本当だ。じいちゃんが持っている」玲奈は乾いた笑いを漏らした。「それで?何が言いたいの?おじいさんに離婚したいのは私ですって自分で言えってこと?」智也は眉をひそめた。「離婚を言い出したのは、おまえのほうだろ?」その言葉に、玲奈は泣き笑いのような表情を見せた。確かに、離婚を望んだのは自分だ。だが――なぜそうせざるを得なかったのか。それを誰より知っているのは、この男のはずだった。智也の無神経な顔を見つめながら、玲奈の胸の奥に怒りが込み上げた。「そうね。私が離婚を言い出さなければ――誰かさんはずっと正式な妻になれなかったでしょうね」ちょうどそのとき、再び電話が鳴った。また沙羅からだった。受話口の向こうでは、彼女が泣きながら訴えている。「智也、もうすぐ着くの?お願い、早く来て......」智也は焦ったように応じた。「すぐ行く。泣かないで、大丈夫だ。俺がいる」そう言いながら、彼は部屋を出て行った。玲奈はその背中を見送り、苦笑した。――戸籍謄本
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