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これ以上は私でも我慢できません! のすべてのチャプター: チャプター 281 - チャプター 290

322 チャプター

第281話

智也は噛まれたあとの痛みをそのままに、それ以上、何もせず車のロックを外した。玲奈は、解き放たれるようにドアを開け、逃げるように外へ飛び出した。彼は運転席にもたれ、去っていく彼女の背中を横顔で追う。唇の端に、わずかな冷笑が浮かんだ。そして、視線をもう一度、先ほど拓海が去っていった方角へと向けた。――あの男の存在も、最初から分かっていた。玲奈が芝生へ戻ると、颯真がすでに真言の画材を片づけ終えていた。陽葵の絵も完成していて、ふたりは笑いながら遊んでいる。愛莉も宮下の手を借りて、なんとか秋の絵を描き上げていた。ただ――そこに、拓海の姿だけがなかった。玲奈は無意識に辺りを見回す。けれど、そのどこにも彼の姿はない。「きっと、何か用事ができたのね」そう自分に言い聞かせ、心の奥にわずかな空白を抱えたまま、息をついた。颯真たちが帰り支度を整え、「みんな、バイバイ」と真言が手を振る。玲奈も笑顔で挨拶を返し、陽葵の荷物をまとめた。見送りを終えると、陽葵がそっと言った。「玲奈おばちゃん、今日の夜ね、外でご飯食べたいの。ピザが食べたい」玲奈は少し考え、穏やかに微笑む。「でも、ママが言ってたでしょ?夜はみんなで家でごはんって」陽葵は得意げに腕時計を見せた。「さっきママから電話があったの。パパが残業になったから、家族のごはん会は中止だって。ママはパパの会社に行くんだって」玲奈は一瞬迷ったあと、「念のため、お母さんに確認してみるね」と言い、綾乃へ電話をかけた。事情を話すと、綾乃は快く許可してくれたが、「陽葵を頼むわね」といくつか注意も添えた。玲奈は一つひとつ胸に刻み、電話を切った。そのとき――ふと前方に見えた光景に、彼女の指先が止まる。少し離れた芝生の向こう、智也が沙羅と並んで歩いていた。二人とも穏やかに笑っている。智也の頬には絆創膏が貼られ、それがあの傷を隠していた。愛莉が沙羅を見つけ、嬉しそうに駆け寄る。「ララちゃん、来てくれたんだ!」その声は、わざと大きく響いたように感じられた。――まるで、玲奈に聞かせるためのように。沙羅は優しくかがみこみ、愛莉を抱き上げる。その拍子に、わざとらしく身体を傾けたのか、少しバランスを崩した。智也はすぐに
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第282話

午後の出来事があってからというもの、拓海の胸の中はずっとざわついていた。そして今――その元凶である玲奈を目にして、胸の奥の苛立ちはさらに膨らんだ。彼は玲奈の挨拶に返事をせず、ただ、無言で視線をそらした。その代わり、真言が先に動いた。彼は迷いもなく玲奈の隣の席にちょこんと座る。真言は、昼間何があったのか知らない。けれど、拓海のために、玲奈と二人きりになれるきっかけを作りたかった。だからこそ、陽葵に怒られるかもしれないのを承知で、彼は勇気を出して座ったのだ。拓海は「おい」と言いかけたが、すでに手遅れだと悟ると、深いため息をついた。「須賀おじさんも来なよ、一緒に食べようよ」真言が明るく手招きする。拓海はしぶしぶ腰を上げ、仕方なくその席へ向かった。玲奈がメニューを差し出す。「須賀君、真言くんが何を食べたいか、私じゃ分からないから、選んで」拓海は黙ってメニューを受け取った。けれど、ろくに目も通さず、適当に二つの写真を指差す。「......これと、これでいい」玲奈は軽く頷き、店員を呼んで注文を済ませた。支払いは玲奈がした。拓海は何も言わなかった。料理が運ばれてくるまでのあいだ、テーブルを沈黙が覆っていた。ピザが焼ける音、グラスを置く音――そのどれもがやけに大きく響く。料理が出揃っても、拓海は手をつけない。玲奈はふと彼を見つめ、その沈んだ表情に違和感を覚えた。最近、彼はどこか変わった。前のように馴れ馴れしくも、軽口を叩くこともなくなった。――もう、私に興味がなくなったのね。そう思うと、不思議と心が落ち着いた。もともと、二人は同じ世界の人間じゃない。それでいい――そう思った。気を取り直して、玲奈は穏やかに声をかける。「須賀君、食べないの?」その口調は礼儀正しく、どこか距離があった。拓海はその他人行儀な言い方に、かえって胸の奥がざらついた。「もう腹いっぱいだよ。怒りでな」玲奈は眉をひそめたが、それ以上は聞かずに黙った。その無反応が、今度は拓海の神経を逆なでる。――どうして、何も言い返さない。重たい沈黙を破るように、真言がぱっと手を叩いた。「ねえ、陽葵ちゃん。積み木で遊ぼう!」陽葵はすぐに笑顔になり、「うん、行こ
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第283話

玲奈には、拓海がなぜそんなことをしたのか理解できなかった。だが、あえて問い詰めることもしなかった。彼の指先からはまだ血が滲み続けている。今はただ、応急処置を急ぐしかない。手際よく止血を終えると、玲奈は淡々と言った。「はい、これで大丈夫。薬は忘れずに取り替えてね」使った道具をひとつひとつバッグに戻し、顔を上げる。その瞬間、拓海の視線とぶつかった。彼はまるで何かを言いたげに、じっと彼女を見つめている。玲奈が目を返すと、拓海は途端に居心地悪そうに目を逸らし、手元の指を見ながら問う。「......傷はひどいか?」玲奈は答えず、逆に静かに問い返した。「須賀君。あなた、私から一体何を求めてるの?」店内には客の姿がまばらで、少し離れたキッズスペースからは陽葵と真言の笑い声が聞こえてくる。その明るさとは対照的に、テーブルの空気は張り詰めていた。拓海はその言葉で全てを悟った。――玲奈は、彼が自分でつけた傷だと気づいている。トイレでわざと刃で傷つけたとき、彼は一瞬、そのことを忘れていた。彼女が医者であるということを。処置をしてもらっている最中に、ようやく思い出したが――もう遅かった。それでも、彼は逃げずに口を開いた。「......おまえに笑ってほしい。智也から離れてほしい。それから......おまえが、俺の女になってほしい」玲奈は彼を見つめた。その瞳の奥には、確かに偽りのない真実があった。だが、彼女は冷静すぎるほど冷静に答えた。「私たち、友達と呼べる関係ですらないのに......そんなこと、する必要はないでしょ」その一言で、拓海の身体が強ばった。次の瞬間、彼は勢いよく立ち上がり、鋭い視線で彼女を見下ろした。「――やっぱり、あのときの言葉は全部嘘だったんだな」玲奈は眉をひそめる。彼が何を指して言っているのか分からない。だが、彼が説明する気がないのもすぐに悟った。彼女は淡々と告げた。「もう、家には来ないで」拓海の手が震える。血で濡れた指をぎゅっと握りしめ、喉の奥で何かを押し殺した。午後に見たあの光景――あれを思い出した瞬間、彼の胸の奥に黒い感情が噴き上がる。目を閉じ、深く息を吸う。再び目を開けたとき、その瞳には赤
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第284話

玲奈は目を覚ますと、すぐに智也の携帯へ電話をかけた。呼び出し音のあと、出たのは彼ではなく――沙羅の声だった。「はい、もしもし。智也をお探しですか?」玲奈は一瞬もためらわず、冷静に答えた。「ええ。彼に代わって」沙羅は、相手が誰なのかすぐに分かった。しかし、切ることはせず、ほんの数秒で智也のもとへ携帯を持っていった。その短い間で、玲奈には二人の距離がとても近いことが分かった。「智也、電話よ」その声の直後、電話の向こうからシャワーの音が聞こえてきた。玲奈は静かにまぶたを閉じる。――今、彼は浴室にいて、沙羅は寝室。少しの間を置いて、彼の低い声がした。「分かった、沙羅。パンツを持ってきてくれ」「うん、携帯は洗面台に置いとくわ。ちゃんと出てね」バスルームの扉が閉まる音。そして、水の音が止む。そのあとすぐ、智也の声が響いた。「あとで、かけ直す」通話が切れる直前――沙羅のくぐもった声が漏れた。「智也、私まだシャワーしてないのに......」それ以上、考える必要もなかった。彼らが何をしているのか、分からないはずがない。だが――それはもう、どうでもよかった。約四十分後。智也から折り返しの電話が入った。だが、玲奈はちょうど病棟の回診中で、その場では出られなかった。ひととおり仕事を終えてから、彼女のほうからかけ直した。すぐに繋がり、彼の低い声が響く。「どうした?」玲奈は単刀直入に告げた。「今日、少し休みを取れると思うの。一緒に戸籍謄本を再発行しに行きましょう」短い沈黙ののち、智也の返答は冷ややかだった。「無理だ。これから会議だし、それに、俺の条件はもう伝えてある」その「条件」とは、離婚手続きの前にもう一度関係を持つこと。玲奈は唇を噛み、こみ上げる嫌悪を抑えた。――どうして、そんなことを当然のように言えるの。昔なら、まだ受け入れられたかもしれない。けれど今は違う。彼に触れられることが、ただ汚らしく感じた。それでも、彼がそう言うのなら――玲奈は乾いた声で言い返した。「そんなに自分を証明したいなら、相手は誰でもいいでしょう」そう言い切って、電話を切った。彼が卑劣なら、自分ももう、優しくある必
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第285話

救急処置室に入ると、ベッドの上の邦夫の身体にはいくつもの管とモニターがつながっていた。室内には、消毒薬や血の匂い――さまざまな匂いが入り混じり、空気は張り詰めている。機器の電子音が、規則的に「ピッ、ピッ」と鳴り続けていた。医師である玲奈には、その音の意味が分かる。――危険な状態だ。彼女は智也と並んで病床へ近づいた。真っ白な顔色、うっすらと開いたままの瞼。祖父の容態は明らかに重かった。「玲奈さん......」かすれた声で名を呼ぶ。玲奈は慌ててその手を握りしめ、目に涙を滲ませた。「おじいさん、私はここにいます!」思えば――智也との結婚を後押ししてくれたのも、邦夫だった。彼の一言があったからこそ、玲奈は愛した人と結ばれることができたのだ。たとえその結末が今のように痛々しいものであっても、あのときの恩は、決して忘れたことがない。結婚してからの五年間、邦夫はいつも彼女を実の孫のように可愛がってくれた。その温かさを思い出すと、胸が締めつけられる。邦夫は震える手で玲奈の手の甲を撫で、もう片方の手を伸ばした。「智也......」智也がすぐそばに手を差し出すと、邦夫は二人の手を重ね合わせた。そして、途切れ途切れの声で言った。「私も、もう長くはない。最後の願いはひとつだけだ......どうか仲良く暮らして、もう一人、孫を......孫娘でもいい。それさえ見届けられたら、私は心残りなく逝ける......」玲奈は、その言葉を予想していた。しかし、智也はすぐには答えなかった。そして、冷静すぎる声で返した。「涼真や清花もそろそろ結婚する年齢だ。じいちゃん、もっと長生きして、あの子たちの子も抱いてくれ」その瞬間、邦夫が咳き込み、モニターが警告音を鳴らした。玲奈はすぐに邦夫の胸を支え、落ち着かせるように声をかけた。「おじいさん、深呼吸してください。ゆっくり......」彼の呼吸がようやく落ち着き、智也も黙り込んだまま、険しい顔で見守るしかなかった。邦夫は智也を睨みつけ、掠れた声で言う。「私が抱きたいのは......おまえと玲奈さんの子だ。あの子たちはまだ若い。私は......もう待てんのだ」短い沈黙ののち、智也は目を伏せ、低く答えた。「
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第286話

智也は、玲奈の言葉が本心なのかどうか、それを確かめようとはしなかった。指先でライターのスイッチを押し込む。火がぱっと立ち上がる。だが次の瞬間、彼は指を離した。暗がりの中で、彼は玲奈を見据え、感情を押し殺したような静かな声で言った。「じいちゃんの容体が今の状態じゃ、少なくとも今は離婚なんてできない」玲奈は呆れたように笑った。「離婚は離婚。おじいさんの病気はおじいさんのことよ。どうしてそれを一緒くたんにするの?」智也は彼女の言葉を聞こうともしない。煙草を咥えたまま、淡々と続けた。「......二人目のことも、また考え直さないとな」玲奈は凍りついた。智也にとって、最も大切な肉親は祖父――邦夫だった。幼い頃、仕事に追われる両親の代わりに、いつも傍にいてくれたのは彼だけだった。智也は祖父に育てられた。だからこそ、彼の願いを叶えたいという思いが強すぎる。もう一人孫を抱きたいという祖父の望み――それを叶えることが、孫としての務めだと信じていた。玲奈はその自己満足を含んだ考えに、思わず皮肉な笑みを浮かべた。「だったら――沙羅との子を産めばいいじゃない」その言葉に、智也は煙を深く吸い込み、薄い煙幕の向こうから玲奈を見つめた。その目は読めないほど冷たく、低く、決定的な声で言い放つ。「二人目を産むのは、おまえだけだ」玲奈の胸に、鋭い痛みが走った。――なぜ、私なの。理由なんて分かっている。智也は、彼女が命懸けで愛莉を産んだことを見ている。その記憶が、沙羅に同じ思いをさせることを恐れているのだ。彼の中で「子どもを産ませる相手」は私だと決めつけている。まるで、私を生むためだけの女として扱っているみたいに。玲奈は込み上げる吐き気を押し殺し、震える声で吐き捨てた。「夢でも見てなさい」そのまま踵を返し、背を向けて歩き出した。智也は伸ばした手で空を掴み、彼女の影が遠ざかっていくのを黙って見送るしかなかった。祖父の急病が、すべての計画を狂わせた。――これで、また最初からやり直しだ。彼の目に浮かんだのは、冷たい決意の光だった。その夜。玲奈が実家に戻ったのは、心も身体も限界を超えていたからだった。ただ休みたかった。何も考えず、ただ眠りたかった
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第287話

拓海は床に伸びた長い脚を投げ出し、背をガラス窓に預けていた。上着は半ばはだけ、シャツは乱れて胸元の筋肉の線が見えている。その瞳には怨みとも哀しみともつかぬ光が宿り、彼は低く問い詰めた。「どうして俺を騙した?」玲奈は眉を寄せた。「......何のこと?」彼は酒が入っていて、意識がはっきりしているのか曖昧なのか分からない。言葉を聞いた途端、自分の頬をぴしゃりと叩いた。「俺は馬鹿だ。世の中に女なんていくらでもいるのに、どうしておまえだけが頭から離れないんだ......」その目に、涙が滲んでいた。玲奈は胸の奥がざわめいた。思わず手を伸ばして彼の腕に触れる。「須賀君、酔ってるわ」だが、彼はその手を掴み返し、逆に強く抱き寄せた。肩に彼の顎が触れ、息が肌を焼くほど近い。その腕の力は、まるで彼女を壊してしまいそうなほどだった。「......酔ってなんかない」かすれた声が耳元に落ちた。玲奈が身を引こうとすると、彼はさらに力をこめて抱き締める。「おまえ、俺に約束しただろ。俺と一緒に夜を過ごすって。それを果たさないまま、また智也のところに戻った。殴ってやりたい。けど、できないんだ」言葉の途中で、彼の声が震えた。「殴れない。おまえが傷つくのはもっと嫌なんだ。俺、こんなにおまえが好きなのに......どうして俺じゃ駄目なんだよ?」その嘆きに、玲奈の目からも静かに涙がこぼれ落ちた。あの誇り高い男が、こんなにも脆く、惨めな姿を見せるなんて。彼には名声も金もある。望めばどんな女性だって手に入る。それなのに、なぜ自分の前ではこんなふうに崩れてしまうのだろう。玲奈は何も言えなかった。本気なのか、酔った勢いなのか、それすら分からない。けれど、今だけは拒む気にもなれなかった。そっと彼の背を撫でながら、穏やかに言う。「須賀君......もう休んで。ベッドに行きましょう」「......ああ」掠れた返事が返る。玲奈が彼を支え起こすと、その大きな体の重みがずしりとのしかかった。どうにかしてベッドまで運び、寝かせる。「少し休んで」布団を掛けようとしたとき、彼の手が再び彼女の手首を掴んだ。「......玲奈、おまえには血も涙もないのか」
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第288話

拓海はすぐに反発した。「拭かない」まるで子どものような口調だった。彼は玲奈のベッドがあまりに清潔で、香りが良すぎるのが気に入らない。だからこそ、そこに自分の匂いを残したかった。玲奈は呆れながらも、少し脅すように言った。「拭かないなら、ベッドで寝るのはなしよ」すると彼は、ふてくされた声でぼそりと答えた。「......拭くよ、拭けばいいんだろ」玲奈は洗面所から温かいお湯を汲み、タオルを絞って手渡す。拓海はそれを受け取り、顔を乱暴に二、三度なでただけで「はい終わり」とタオルを差し出した。玲奈はきれいに拭けていないことに気づいていたが、もう何も言わず、タオルと湯おけを片づけに行った。部屋に戻ると、拓海はすでに天井の明かりを消し、ベッドサイドの小さな灯りだけを残していた。玲奈は仕方ないと息をつく。どうせ今夜は追い出せそうにない。彼は酔っているし、無理に動かせば兄の秋良に気づかれてしまう。そこで、ベッドから枕をひとつ取ってソファで寝ようと近づいた瞬間――拓海の手が彼女の手首をつかみ、そのまま強く引き寄せた。彼の体温は高く、火に触れたように熱かった。その体が背中にぴたりと貼りつき、玲奈は息をのむ。背後から抱きすくめた彼は、動こうとせず、ただ彼女の首筋に頬を寄せて言った。「少しだけ......少しだけ抱かせてくれ」玲奈は強張ったまま、彼の腕を押そうとする。だが彼はその抵抗に気づくと、逆に力を込めて抱き締めた。「お願いだ、玲奈......俺を愛人にしてくれ。おまえが智也を愛してるのは分かってる。でも――俺の居場所まで奪うな」その声は震え、どこか泣いているようでもあった。玲奈の後ろ髪に、湿った熱が伝わる。本当に泣いているのかは分からない。ただ、胸の奥がざわついて仕方がなかった。玲奈は抵抗するのをやめ、静かに息を整える。「須賀君......酔ってるのよ」すると彼は、彼女の肩をつかんで向かせ、鋭く目を光らせた。「俺は酔ってない」その瞳は冴えていた。彼は低く、言葉を一つひとつ確かめるように並べた。「おまえは春日部玲奈。俺は須賀拓海。おまえが愛してるのは新垣智也。娘の名は愛莉。身長一六八センチ。好きな色は淡い青と白。医者で、
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第289話

拓海はジャケットを片手に、窓辺へと歩み寄った。しかし途中で、ふと足を止める。部屋の中央で、まるで時間が止まったように立ち尽くしたまま、しばらく動かない。玲奈はその背中を見つめ続けた。目を逸らすことも、声をかけることもできなかった。やがて、拓海はゆっくりと振り返った。肩にジャケットを掛け、指先でその襟を軽く引っかける。酔いはすっかり醒めている。だが、どこかだらしないその姿のままでも、彼は相変わらず絵になるほど整っていた。「言ったことを、守らないからな。おまえの言うことなんて、聞くもんか」もし玲奈が約束を守る人なら――彼女はとっくに約束を果たしていたはずだ。彼女は嘘をついた。だから、もう信じない。玲奈は一瞬、何か言いかけたが、その前に拓海が再び背を向けた。窓辺まで行ったところで、彼は再び振り返る。そして、ためらうことなく大股でベッドのそばまで戻り、両手で玲奈の顔を包みこんだ。そのまま身をかがめ、彼女の額に勢いよくキスをする。唇を離すと、彼は満足げに舌で唇をなぞり、低く笑った。「......俺がバカなんだろ」そう言い捨てて、ジャケットをつかみ、逃げるように部屋を出ていった。玲奈はベッドの上でしばらく呆然と座り込み、空っぽになった窓辺を見つめた。そこにはもう、彼の姿はなかった。けれど――部屋中には、まだ彼の体温と香りが残っている気がした。玲奈はゆっくりと横になり、天井を見つめる。視線の焦点は定まらず、そのまま、時間の感覚が溶けていった。夜が明けかけ、空がうっすらと白み始めたころ。智也はようやく家に戻ってきた。沙羅は一晩中眠れず、リビングのソファで彼を待っていた。玄関の音を聞いた瞬間、彼女は立ち上がる。「智也......やっと帰ってきたのね」智也は疲れの色を滲ませた目で沙羅を見つめ、眉をひそめた。「どうして寝ていないんだ?」沙羅は小さく首を振り、寂しげに微笑んだ。「あなたが帰らないと、眠れないの」智也はため息をつき、彼女の頬に手を伸ばして軽く撫でた。「......まったく、馬鹿だな」沙羅の目が赤く潤む。何も言わず、ただ首を横に振った。智也は苦笑しながら言った。「もう寝ろ。立ってると倒れるぞ」それでも沙羅
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第290話

智也は部屋に戻ると、玲奈にメッセージを送った。【会って話そうか?】すぐに返ってきたのは、冷めた一文だった。【離婚の話じゃないなら、会う必要はないわ】智也は淡々と返す。【関係がまったくなくなったわけじゃないだろ。それに、じいちゃんはまだ入院中だ。今日会わなくても、病院でどうせ顔を合わせることになる】玲奈はその意図をすぐに理解した。要するに――自分が拒んでも、彼は職場まで来るつもりなのだ。それなら、病院で人目につくよりはましだろう。結局、彼女は折れた。ふたりは昼十二時、カフェで会う約束をした。約束の時間、玲奈が店に着くと、智也はすでにコップを空にしていた。彼女が席に着くのを待たず、智也は口を開いた。「じいちゃんはまだ危険な状態だ。だから今は、形だけでも仲の良い夫婦を演じてくれ。その方が回復のためになる。じいちゃんが落ち着いたら、その時点で離婚の手続きを進めよう」玲奈は落ち着いた声で答える。「おじいさんのために、形だけの関係を続けるのは構わないわ。でも、離婚の手続きは先に始めておきたい。一ヶ月後にはちょうどおじいさんも回復している頃でしょうし」智也は黙ったまま、複雑な表情で彼女を見つめた。玲奈はその視線を受け止め、言葉を継ぐ。「離婚しても、おじいさんのことは私も変わらず大切にするわ」智也は少し間を置き、低く尋ねた。「じゃあ......二人目の子どもは?」玲奈は即座に首を振った。「ありえないわ」「だが、仮に流産を装うとしても、いつかは隠し通せなくなる」玲奈の声に、冷えた棘が混じる。「智也。子どもが欲しいなら、他の人に産んでもらえばいいでしょう?どうして私でなきゃいけないの?」このやり取りはもう何度も繰り返された。彼女の中では、とうに終わった議題だ。智也は苛立ちを隠せず、声を荒らげた。「俺がほかの女と子どもを作れるわけないだろ!」玲奈はまっすぐに見返す。「どうしてできないの?」沙羅はもう小燕邸に住み、愛莉も彼女を母のように慕っている。それなのに――なぜ妻である自分だけが、この不毛な立場に縛られ続けるのか。智也は、これまで見たことのない玲奈の強さに言葉を失った。彼女は、もう従順だった昔の玲奈ではない。
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