All Chapters of これ以上は私でも我慢できません!: Chapter 271 - Chapter 280

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第271話

玲奈がうちに戻ったとき、家の中はまだ明るい灯りに包まれていた。リビングに入ると、秋良と綾乃が食卓の前に並んで座っている。二人の視線が同時に玄関の方へ向いた。玲奈はまっすぐ歩み寄り、静かに声をかけた。「兄さん、お義姉さん」秋良は彼女を上から下まで一度眺め、穏やかに言った。「座れ」玲奈は綾乃の隣に腰を下ろした。綾乃がそっと彼女を見つめ、優しく尋ねる。「ご飯、食べた?」玲奈は小さくうなずいた。「ええ、食べてきたわ」綾乃はようやく安心したように息をつき、柔らかく言った。「陽葵、さっきまでずっと泣いてたの。泣き疲れて、今はお手伝いさんに抱かれて寝てるわ」玲奈の胸に、ちくりとした痛みが走った。申し訳なさと、何も言えないもどかしさが混じる。綾乃はテーブルの下で玲奈の冷えた指先を握り、静かに言った。「今日は陽葵を遊びに連れて行ってくれてありがとう。大変だったでしょう」玲奈は首を振り、微笑んだ。「大変じゃないわ。陽葵ちゃんと一緒にいる時間が、何より幸せなの」綾乃はその言葉に頷き、玲奈の手の甲を優しく叩いた。言葉はなくとも、その温かさが胸に沁みた。――母親同士だからこそ、理解できる痛みがある。子どもに拒まれる寂しさは、言葉では言い表せない。二人が話している間に、秋良がどこからか一枚のカードを取り出した。それをテーブルに置き、玲奈の方へ押し出した。「このカード、持っておけ。離婚の話がなかなかまとまらなくても、財産のことは気にするな。新垣家は金があるが、そう簡単に渡すとは限らない。どうせ施しみたいな金を待つくらいなら、自分から手放せ。俺と綾乃でおまえを支える。金の心配はいらない」玲奈はその言葉に息をのんだ。目に涙が滲むのを感じながら、首を振った。「兄さん......私、自分の力で生きていけるから。これは受け取れないわ」彼女は離婚の詳細を家族に話していなかった。秋良がまだ協議中だと思っているのも無理はない。実際のところ、智也は慰謝料として二百億を提示していた――十分すぎる金額だ。それでも綾乃は、玲奈の手にカードを押し込んだ。「少ないけれど、私たちの気持ちなの。受け取って」玲奈は震える手でカードを握りしめた。鼻の奥が
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第272話

電話はすぐにつながった。ただ、背後が少し騒がしく、病院のような音が混じっていた。智也の声が受話口から聞こえてくる。「愛莉」父の声を聞いた瞬間、愛莉の目が真っ赤に染まった。我慢していた涙が一気に溢れ出し、泣きじゃくりながら訴える。「パパ......だれも、いっしょにいてくれないの」その小さな声を聞いて、智也の胸がぎゅっと締めつけられた。けれども、どうすることもできない。優しく、静かな声で言う。「愛莉、いい子だろ。パパはもう少しで終わるから、終わったらすぐ帰るよ」愛莉は涙声で尋ねた。「じゃあ、十時には帰ってくる?」今はまだ八時過ぎ。智也は一瞬ためらったが、正直に答えた。「たぶん、夜遅くになる」その一言で、愛莉の中の期待が音を立てて崩れた。「......そっか。分かった」電話が切れると、愛莉は声を上げて泣き出した。「宮下さん、ママがいい。ママなら、ずっといっしょにいてくれる。ママはわたしを置いていかないもん......ママ......ママぁ」嗚咽が部屋中に響いた。宮下は泣きじゃくる愛莉を抱き上げ、部屋の中をゆっくりと歩きながらあやした。三十分ほど泣き続けたあと、ようやく愛莉は力尽きたように静かになった。そのころ――春日部家。珍しく、玲奈はゆっくりと朝を迎えていた。久しぶりに目を開けたのは、すでに午前十時を回ってからだった。これほど長く眠ったのは、いつ以来だろう。ぐっすり眠ったせいか、体が軽く、心まで少し晴れやかに感じた。まだ夢の余韻のようなぼんやりした気分のまま、隣から小さな声が聞こえた。「玲奈おばちゃん、やっと起きた!」声の主は陽葵だった。朝の八時にはもう来ていたらしい。玲奈が気持ちよさそうに眠っているのを見て、起こすのをためらっていたのだという。玲奈は身を横にして、ふっくらした陽葵の身体を抱き寄せた。「陽葵ちゃん、どうしたの?」陽葵は玲奈の首元に顔をすり寄せながら言った。「玲奈おばちゃん、いっしょに秋の絵を描いて。先生に出す宿題なんだけど、まだできてないの。明日が提出日で......」玲奈は思わず笑みを浮かべ、返事をしようとしたそのとき――携帯の着信音が鳴った。画面を見ると、見覚えのない番号
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第273話

真言はむっとして顔をそむけ、拓海を睨んだ。小さな眉を寄せて、不満げに言う。「須賀おじさん、断ったのは玲奈おばさんだよどうして僕に怒るの?」拓海は少し苛立ち、片眉を上げて真言を見やった。「じゃあ、朝のチーズスティックはタダ食いか?」真言は口をとがらせて言い返す。「じゃあ須賀おじさんが行けばいいじゃん!」その口ぶりに拓海の目が鋭くなった。彼はゆっくりと手を伸ばし、真言の耳を軽くつまむ。「ガキのくせに生意気だな。大人に口答えとは誰に教わった?父さんか?弁護士のくせに、息子まで言い負かし屋に育てるとはな」真言は痛くなかったが、わざと大げさに「いたっ」と叫び、そのあと舌を出してニヤリと笑った。「ちがうよ。須賀おじさんに教わったんだもん」拓海は耳を離し、今度は真言のほっぺを両手で包み込み、わざと怖い顔をして言った。「おじさんはな、女の人の前でビビったりしない。おまえみたいに女の子を怖がる男じゃないんだよ」真言は真っ赤な顔で反論した。「陽葵は、女の子っぽくないもん!あんなのただのガキだ!」拓海はあきれたように笑い、椅子の背にもたれた。「言い訳しても弱虫は弱虫だ」その一言に、真言は目を見開き、次の瞬間、「うわあああん!」と大泣きし始めた。拓海は慌てて上体を起こす。「お、おい、泣くなって......!」手を伸ばして宥めようとしたものの、何をすればいいか分からずに固まってしまう。泣き声はどんどん大きくなる一方。見かねた拓海は思わず怒鳴った。「泣きやまないと陽葵ちゃんを呼ぶぞ!」その瞬間、真言の泣き声がぴたりと止んだ。涙目のまま、きっと拓海をにらむ。「......パパに言いつけてやる!」ちょうどそのとき、背後から落ち着いた男の声が響いた。「何の騒ぎだ?」真言は弾かれたように振り向いた。「パパ!」羽生颯真(はにゅう そうま)がリビングに入ってきて、息子を抱き上げた。「どうした?須賀おじさんにまたからかわれたのか?」言葉より早く、拓海が口を挟む。「おまえの息子、まったくおまえにそっくりだ。図々しいところまでな」颯真は笑みを浮かべ、ソファに腰を下ろした。「そうか?俺には須賀おじさんのほうがよっぽど似てると思う
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第274話

写真に映る指先には、べっとりと血がついていた。その中央には、深く長い裂傷が走っている。拓海はこの投稿を――玲奈だけが見られる設定にしてアップした。投稿を終えると、彼はスマホの画面をロックし、助手席に放り投げた。そしてカーステレオの音量を上げ、音楽に合わせて声を出し、無理にでも気持ちを紛らわせようとした。数分後――ようやくスマホの画面が光った。通知音が鳴る。拓海は反射的に身を乗り出し、ほとんど飛びつくようにしてスマホをつかみ取った。しかし、画面を開くとそこにあったのは、玲奈からのメッセージではなく、ただの「おすすめ通知」だった。拓海の笑みが一瞬で消える。ため息をつきながら、スマホを再び投げ捨てた。――けれど。もしかして、玲奈がストーリーを見てくれたかも?そんな一縷の期待が胸をよぎり、彼はまたスマホを手に取って確認した。赤い「1」の数字がついている。拓海の顔に再び笑みが浮かんだ。だが開いてみると――通知には、【あなたの投稿に〇〇さんがいいねしました】と表示されていた。玲奈ではなかった。拓海は瞬時に不機嫌になり、その「〇〇さん」を即座に友達リストから削除した。それからも何度も画面を更新し、玲奈からの反応を待ち続けたが――結局、何も来なかった。しばらくして、彼は力なくハンドルを叩きつけ、低くつぶやいた。「......玲奈、おまえ、ほんとに冷たいな。血も涙もないのかよ」胸の奥に怒りが渦巻く。ほんの少し彼女をかばっただけで、まるで存在ごと切り捨てられたような気がしていた。――もし、投稿したのが智也だったら?玲奈はきっと電話をかけまくって、無事を確かめようとしただろう。それなのに、自分がケガをしたという投稿には、反応ひとつ寄こさない。拓海は、ひとり運転席で笑った。その笑いは、痛みを隠すためのものだった。春日部宅。玲奈は陽葵の髪を結っていた。丸い団子のような髪形ができあがったとき、玲奈はふいに「ハックション」と二度くしゃみをした。陽葵は鏡の中の自分を見つめながら、足をぶらぶらさせ、手にしたエッグタルトをかじって笑う。「玲奈おばちゃん、すごい!ママがやってくれたのと同じくらい可愛いよ!」玲奈はその頭をなでながら、柔らかく微笑んだ。
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第275話

玲奈は医師である。だからこそ、彼女のコメントは専門的で信頼できるものだった。【指の傷、かなり深いわ。すぐに病院で消毒と縫合が必要よ。もし錆びた鉄で傷ついたのなら、破傷風の予防接種も受けて。絶対に軽く見ないで】コメントを送信してから、玲奈はもう一度写真を見た。画面を閉じようとしたその瞬間――拓海からの返信が表示された。【病院にいる?治療してもらいに行っていい?】玲奈は一瞬だけ眉を寄せたが、深くは考えなかった。冷静に思い返せば、彼のような立場の人間なら、専属の医者くらいいてもおかしくない。仮にいなくても、まわりの人が放っておくはずがない。――それなのに、ネットで質問をするなんて。答えを待っている間に、出血で倒れかねないじゃない。そう思いながら、玲奈は短く返信した。【今日は週末だから、私は病院にいないの。すぐに救急外来を受診して。救急の先生が処置してくれるわ】すぐに返事が返ってきた。【いいよ。どうせ死にはしない】その軽い言葉に、玲奈の眉間の皺がさらに深くなる。もう少し真剣に話そうと思った矢先――「玲奈おばちゃん、準備できた?」陽葵の声が背後から響いた。すでに待ちくたびれた様子で、椅子の上で小さく足を揺らしている。明日は月曜日。宿題の絵はまだ完成していない。陽葵は几帳面な子で、課題はきちんと仕上げて提出したいタイプだった。玲奈はスマホの画面を閉じ、微笑んだ。「できたわよ。さあ、公園に行きましょ」陽葵は玲奈の手を取って声を弾ませた。「やったー!出発だ!」二人は手をつないで春日部邸を出た。玲奈が運転し、近くの公園へ向かう。秋の公園は色鮮やかで、子どもが遊ぶにも、絵を描くにもぴったりの場所だった。着くなり、陽葵は歓声を上げ、芝生の上を駆け回った。風に髪をなびかせ、くるくると回りながら笑う姿は、見ているだけで胸が温かくなる。やがて走り疲れたのか、陽葵は草の上に座り込んだ。玲奈がそばに歩み寄り、画架を立ててスケッチブックと鉛筆を手渡す。「何を描く?」陽葵はペンを口元にあてて、少し考えた。「紅葉を描きたい!」すぐ近くに大きな紅葉の木があり、落ち葉が地面いっぱいに広がっている。足もとにも、風に運ばれ
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第276話

陽葵は、玲奈が「一緒に遊びましょう」と言ったのを聞くと、心のどこかでまだ愛莉への反発が残っていたものの、ぐっとこらえた。彼女は振り向き、愛莉を見ながら少し首を傾げて尋ねた。「愛莉ちゃん、秋の絵、もう描いた?」学校では、陽葵は愛莉のことをあまり好きではなかった。そして――玲奈のことになると、さらに複雑な感情を抱いていた。けれど、愛莉は玲奈の娘。だからこそ、ここで嫌な態度は見せたくなかった。愛莉は手に紅葉を数枚抱えたまま、陽葵のスケッチブックを覗き込み、少し眉をひそめて尋ねた。「先生、宿題なんて出してたの?」陽葵は目を丸くして眉を寄せた。「えっ、誰も教えてくれなかったの?」愛莉は小さく首を振る。「知らなかった......」陽葵は口をとがらせながらも、ぐっと言葉を飲み込み、丁寧に説明した。「先生たちは保護者グループっていうLINEみたいなのを作っててね。週末の宿題はそこでお知らせがくるの。おうちの人が子どもに伝えてやるの。誰も言ってくれなかったの?」愛莉は唇を結んだまま、何も答えない。陽葵は少し困ったように、それでも話を続けた。「私はママが教えてくれたんだよ。でもママはお仕事だから、代わりに玲奈おばちゃんが一緒にやってくれるの」近くで二人の会話を聞いていた玲奈の胸が、ずしりと重くなった。なぜ愛莉が宿題を知らなかったのか――答えは明白だった。智也と沙羅、どちらも忙しさにかまけて、ただ単に忘れていたのだ。玲奈は愛莉の小さな横顔を見つめ、どうしようもなく切なく、そして苦しかった。そのとき、陽葵が画架から何枚かの紙を取り出し、愛莉の手元にそっと差し出した。「じゃあ、これあげる。いっしょに描こう?玲奈おばちゃんが教えてくれるよ」愛莉は紙を見つめた。けれど、すぐには受け取らない。数秒後、彼女は小さく首を振り、紙を押し戻した。「いらない。ララちゃんが一緒に描いてくれるもん」そう言い捨てるようにして、愛莉はくるりと背を向け、歩き出した。玲奈の胸が、ぎゅっと痛む。思わず口を開きかけ――「愛......」と、名を呼ぼうとしたが、声は途中で途切れた。ただその小さな背中を見送るしかなかった。見かねた宮下が慌てて立ち上がり、「愛莉さま、待っ
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第277話

愛莉が去ったあと、玲奈は気持ちを切り替え、陽葵に紅葉の描き方や草原の色の塗り方を教えていた。そのとき――背後から小さな声がした。「玲奈おばさん?」振り向くと、そこにいたのは真言。そのすぐ後ろには、カジュアルな服装に身を包んだ颯真の姿もあった。今日はスーツ姿ではなく、淡い色のシャツにスニーカー。三十を過ぎた男性とは思えないほど若々しく、柔らかな光の下、その整った顔立ちがより際立って見えた。曇り空から差し込む光が、時おり雲に遮られたり、また明るくなったりする。白い雲の下――芝生の上に立つ彼の姿は、どこか絵のように映えていた。玲奈は視線を戻し、真言を見つめて笑顔を向けた。「真言くん」真言には母親がいない。生まれたとき、母親は難産で亡くなったのだ。だから、彼はずっと「母親のような存在」に憧れてきた。玲奈のそばにいると、ほんの少しだけ、そのぬくもりを感じられる――それが嬉しくて、彼は玲奈をとても慕っていた。拓海のことはさておき、真言は玲奈のことが大好きだった。真言は駆け寄ると、玲奈の腕にぎゅっと抱きつき、顔を上げて無邪気に言った。「玲奈おばさん、今日すっごくきれいだね!」思わず玲奈の頬に笑みが広がる。胸の奥の沈んだ感情が、少しだけ和らいだ。「ありがとう、真言くん」そのやりとりを聞いていた陽葵が振り返る。「真言くんも秋の絵を描きに来たの?」真言は玲奈の腕を離し、こくりと頷いた。「うん」陽葵はそのあと、そっと颯真の方を見て、礼儀正しく言った。「羽生さん、こんにちは」颯真は相変わらず無表情で、少し堅い声で返す。「こんにちは」玲奈も軽く会釈をし、それで挨拶を済ませた。陽葵が真言の手を取り、「ほら、ここに座って一緒に描こう」と言った。真言は少し迷った。怖がっているというより、拓海に知らせたいことがあったのだ。拓海は口が悪いけれど、真言にとってはとても良い人だった。父がいちばんつらかった時期、支えてくれたのは、ほかでもない彼だったから。陽葵はじれったそうに言う。「早く座りなよ。固まってどうしたの?別に悪いことしたりしないから」真言は少しむくれながらも笑い、父を振り返ってからおずおずと答えた。「分かったよ。座るから、そん
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第278話

拓海は、玲奈が自分に気づいても声をかけてこないのを見ると、彼もまた何も言わず、そっと真言のそばへ歩み寄った。真言の描いている絵を覗き込むと、すぐに眉をひそめる。「違う、それじゃ秋の絵にならない」真言は唇を尖らせた。「じゃあ、どうやって描けばいいの?」拓海は腕を組み、淡々と答える。「秋に咲く花なんて少ない。描くなら、紅葉とか金木犀だ」真言はしょんぼりと肩を落とす。「でも、描けないよ......」それを聞いた玲奈が、すぐに身を乗り出した。「真言くん、玲奈おばさんが教えてあげるわ」決して拓海に近づきたかったわけではない。ただ、子どもの自尊心を傷つけるような言い方を、放っておけなかっただけだった。玲奈がそばに寄った瞬間、風が彼女の香りを運んだ。それは清らかで、けれど不思議に甘い匂い。拓海は思わずその香りを吸い込み、耳の先まで熱くなるのを感じた。やがて、玲奈は筆をとり、軽やかな手つきで金木犀の木を描き上げた。それを見た陽葵と真言は、ぱっと目を輝かせて拍手をした。「玲奈おばさん、すごーい!」「先生が見たら絶対ほめるよ!」玲奈は少し頬を染め、照れくさそうに笑った。「そんなに上手じゃないわよ」「上手!」「うん、上手!」子どもたちの声が重なった。そして、その中にひときわ小さく――「......うまい」という男の声も紛れていた。だが、拓海の低い声は、元気な二人の声にかき消されてしまった。その笑い声が、遠くにまで届いた。愛莉の耳にも。彼女は筆を握ったまま、スケッチブックを前にして動かない。――秋って、どんな季節?そう思いながら、ちらりと父の方を見た。智也はノートパソコンに目を落とし、指先を忙しなく動かしている。宮下はスマホを手に、夢中でドラマを見ていた。二人とも自分を大切にしてくれている。でも――宿題を手伝ってくれる人はいない。愛莉は唇を噛み、こみ上げる涙をどうにかこらえた。「......パパ」小さな声で呼ぶと、智也は顔を上げた。「どうした、愛莉?」「秋の絵......描けないの」智也は視線をパソコンから外し、思わず玲奈たちの方を見た。彼女は、子どもたちの間で穏やかに笑いながら筆を走らせている。その光景に少
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第279話

その久しぶりの言葉――「ママ」という呼びかけに、玲奈の身体がびくりと震えた。だがすぐに我に返ると、彼女は無理に笑みを作って言った。「大丈夫よ。気にしないで」淡々とそう言い残し、立ち去ろうとする。けれど愛莉の声は、智也の耳にも届いていた。彼が顔を上げると、玲奈の腕からにじむ赤い血が目に入った。「こっちへ来い。見せてみろ」その声は命令のように強く、思わず周囲の空気を張りつめさせた。玲奈は一度だけ彼を見やり、冷ややかに言う。「たいしたことじゃないわ」だが言葉が終わるより早く、智也は立ち上がり、彼女の腕をつかんでいた。玲奈は驚き、慌てて手を振り払おうとしたが、彼の指はまるで鉄のように固く、びくともしない。「離して!」身を引こうとする玲奈の腰に、智也の腕がまわる。次の瞬間――彼は何のためらいもなく、彼女の身体を抱き上げた。「智也、やめて......!何するの!」玲奈の抵抗も無視して、智也は無言のまま草地を横切り、外へと歩き出す。背後で宮下の戸惑う声が上がった。「はい、旦那さま......!」「宮下、愛莉と陽葵ちゃんを見ていてくれ」智也の低い声が命令のように響く。宮下は慌てて頭を下げた。「承知しました」玲奈の叫び声が遠ざかる。陽葵がその方向を見つめ、立ち上がろうとしたとき、真言がその手をつかんだ。「陽葵ちゃん、追いかけても無理だよ」その横で拓海が、黙って一部始終を見ていた。手にしていた鉛筆を、無意識のうちに握りしめ――ばきっ。鋭い音とともに、鉛筆が二つに折れた。拓海はそれを草地に投げ捨て、顔をしかめて立ち上がる。そして苛立ちを隠しきれずに、思い切り芝を蹴り上げた。土ごとえぐれた草が、遠くまで飛んでいった。颯真はその様子を見ていたが、何も言わず、ただ静かに目を伏せた。玲奈は智也の腕の中で必死にもがいていた。けれど、どんなに暴れても彼の力はびくともしない。彼の腕は、まるで鉄の輪のようだった。やがて車のドアが開き、玲奈は強引に助手席へ押し込まれた。「離して!」思い切り彼の脛を蹴りつける。だが智也は顔色一つ変えず、車のドアを閉めてロックをかけると、淡々と医療用の小さな救急箱を取り出した。そして、ためらいな
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第280話

今度は、智也のほうが黙り込んだ。玲奈は、もうこれ以上言い合う気もなく、ただ静かに告げた。「あなたは愛莉の父親なんだから......せめてあの子の勉強のことには、もう少し気を配って」智也はわずかに目を細め、皮肉を帯びた視線を返す。「他人の子どもに構う時間があるなら、どうして自分の子にしてあげないんだ?」玲奈は思わず笑ってしまった。――愛莉が自分をどう扱っているか、陽葵が自分をどう慕ってくれているか。智也は何も知らない。けれど、玲奈は痛いほど分かっていた。いまさら説明する気にもなれず、ただ静かに息を整えると、淡々とした声で言った。「智也、言葉を重ねても無駄よ。ひとつだけ聞かせて。いつ、離婚の手続きに行くの?市役所での離婚の申請――」智也もまた、同じように落ち着いた口調で返す。「俺は前にも言った。離婚する前に......もう一度、やり直す」玲奈の顔から血の気が引いた。「最低ね」そう吐き捨てた瞬間、智也は彼女の手をつかみ、強引に引き寄せた。玲奈はとっさに、傷のない方の腕で胸を庇う。二人の距離は一気に縮まり、智也の熱い息が頬に触れた。「やめて......!」玲奈は全身の力で押し返す。けれど、その力はあまりにも弱く、男の体の重みに簡単にかき消されてしまう。智也は彼女の額に自分の額を押し当て、低く、囁くように言った。「......今、試してみるか?」玲奈の瞳に怒りが燃え上がる。「気が狂ったの?」智也の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。「人目のあるところでなら、少しは思い出せるかもな」その言葉に、玲奈の手が弾かれるように動いた。ぱしん――乾いた音が車内に響く。玲奈の手のひらが智也の頬を打ち抜いた。硬い輪郭に衝撃が返り、今度は彼女の手のほうが痛みで痺れた。智也の顔が横に弾かれる。一瞬、静寂の後、そして、彼がゆっくりと顔を戻したとき――その瞳の奥には、冷たい光が宿っていた。次の瞬間、彼の大きな体が覆いかぶさり、玲奈の背中はシートの角に押しつけられた。熱い唇が、彼女の首筋をかすめ、耳元をなぞる。「やめて!離して、あなた――狂ってるわ!」玲奈の叫びを無視し、智也は罰を与えるように、その耳たぶに軽く歯を立てた。「っ....
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