All Chapters of 父と子は元カノしか愛せない?私が離婚したら、なんで二人とも発狂した?: Chapter 201 - Chapter 210

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第201話

紗夜は今日はシルクのロングドレスを着ていた。薄い生地越しに、文翔の手が触れた瞬間、くすぐったさが走る。紗夜はそっと身を引いたが、文翔の手は彼女の脚に置かれたまま動かず、「そんなに距離を取ってどうする。ただ薬を塗るだけだろ」と言った。「それとも長沢奥様は――俺に何かしてほしいのか?」文翔が眉を上げ、からかうように問いかける。「そ、そんなことないわ!」紗夜は反論し、頬がわずかに熱くなる。彼女のその戸惑いぶりを見て、文翔は口元をわずかに弧にし、腕を彼女の脚に横たえた。「なら包帯を巻くぞ」同時に、中島が車を発進させ、京浜へ向かう。窓の外の景色は後ろへ流れ、林を抜けたあたりで陽光が遮られ、車内が一気に薄暗くなった。文翔の顔は半分ほど影に沈み、鋭い線の形がより浮き立つ。整った顔立ちに深い陰影。ジャケットは無造作に脇へ置かれ、黒いシャツの第一、第二ボタンが外されているせいで、品の良さの中に気だるい色気が混ざり、まるで見る者を底なしの深みに引きずり込むような引力を纏っていた。美しい人間は、みんな危険だ。紗夜はそっと唇を噛み、すぐに視線を反らす。薬箱を開け、綿に消毒液を染み込ませ、乾いた血を拭いながら治療を続ける。だが、うっかり傷口に触れてしまった。「っ......」隣の男が鋭く息を飲む。紗夜は慌てて力を弱め、手早く薬を塗り、包帯を巻き、最後に小さなリボン結びを作った。そのリボンを見た文翔は、鼻で小さく笑う。「ガキかお前」「嫌なら自分でやれば」紗夜が小声でぼそり。「今なんて?」文翔が横目で見る。紗夜は返事をせず、薬箱を片付けようとしたが、文翔が手を伸ばして蓋を閉め、そのまま彼女の手首を掴んで一気に自分の方へ引き寄せた。その瞬間、前方で大きくカーブ。紗夜はそのまま勢いよく文翔の胸に倒れ込んだ。「っ......!」額が彼の硬い胸にぶつかり、紗夜は思わずお腹を庇うように手を添える。しかし、彼女の手が触れたのは文翔の手の甲だった。文翔が彼女より先に、その腹を守るように手を当てていたのだ。温もりが掌越しに伝わり、紗夜のまつ毛がわずかに震える。車はカーブを抜け、動きが落ち着いた。紗夜が顔を上げると、文翔もまた彼女を見ていた。視線が絡んだ一瞬、彼の手が彼女の腹に触れた
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第202話

紗夜は何も答えなかった。そもそも彼女はキスなんて慣れてないし、この何年も、文翔が彼女にするキスはいつも一方的な奪い取りで、彼女の気持ちなど一度も気にかけたことがない。ただ自分の欲や苛立ちをぶつけるための行為でしかなかった。だから、ドラマや映画に出てくるような、あの甘くてロマンチックな口づけがどんなものなのか――彼女には想像もつかない。彼女の記憶にある彼とのキスは、攻め立てるような荒々しさと、拒む暇もない強引さ、そして唇を噛み切られた時に絡んだ血の味ばかり。全部、良くない記憶で、良くない感覚ばかり......だからこそ、今の彼の言葉は、彼女には皮肉にしか聞こえなかった。紗夜は顔をそむけ、彼の指先から逃れながら、呼吸は乱れているのに、声だけは落ち着いていた。「そんなことより、まずは要件を話しましょう」「さすが長沢奥様だな。こんな状況でも、そんな真面目な顔ができるとは」文翔はようやく彼女の柔らかさを味わえたからか、ご機嫌な様子で、背もたれにだらしなく体を預けた。「言えよ、お前の条件を」文翔は、紗夜が話そうとしている「要件」が二人の関係についてだと分かっていた。だから紗夜も遠慮せず、まっすぐ切り込む。「父のために最良の治療環境を整えて、きちんと治してくれるなら......協力する。プリス氏の前で『長沢奥様』として演じきる」「プリスの前だけじゃない」文翔が言葉を挟んだ。「もうお前が俺の妻だと公にした以上、今後のビジネスでの場にも当然一緒に出てもらう」つまり、彼と同席するすべての公の場で、彼女は「妻役」を演じ続けなければならない。紗夜はわずかに眉を寄せた。彼女はああいう華やかな場が元々好きではないし、今の体の状況もある。もし何か予想外のことが起きたら......「安心しろ。妊婦のお前を毎回外に連れ回すほど無茶はしない」文翔の視線がふと彼女の腹に落ちる。まだ11週でお腹は目立たないが、そこに宿っている小さな命の存在を、彼は確かに感じていた。その不思議な感覚に、口元がかすかに緩む。「月に一回、イベントに出れば十分だ」譲歩したつもりなのだろう。ここで断るのは得策ではない。紗夜は静かに頷き、今度は自分の条件を出した。「また仕事に戻りたい」文翔は小さく笑った。「
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第203話

2億――200万の百倍だ。紗夜は、彼の突然の太っ腹ぶりに少し驚いたものの、その表情にはほとんど変化がなかった。それは「長沢奥様」に与えられる待遇であって、これまでの彼の目に映っていた自分は、人前に出す価値もない女だった。だからこそ、十万なんて金額で済まされていたのだ。彼を愛していた頃の自分は十万の価値しかなく、今、愛していない自分は2億の価値になった――紗夜は心の中でほろ苦く笑った。結局、愛なんて一番価値のないものなのだ。少なくとも、文翔に向けた愛は。「これで満足か?」文翔は彼女を見つめ、その視線は自然と彼女の腹部へと落ちた。声色はめずらしく柔らかい。「お前が妊娠したって知ったら、ばあさんは喜ぶだろうな」志津子はずっと、もう一人子供を望んでいた。もうすぐ新しい命が生まれ、理久と一緒に柔らかい声で「パパ」と呼んでくれる――そう想像しただけで、文翔の口元は自然と緩んだ。かつては感じたことのなかった感情。今になって初めて、父になる喜びが胸に満ちてくる。自分がこんな気持ちを抱くなんて、と文翔は驚いたが、嫌ではなかった。むしろ、その喜びをしっかり味わっていた。ところが、紗夜は顔を上げ、静かに言った。「最後にもう一つ。妊娠のこと、みんなに知られたくないから、しばらく内緒にして」その瞬間、文翔の笑みはすっと消え、目の奥の柔らかさも薄氷のように凍りついていく。本当は仁たちにすぐ知らせたかったのだ。こんな強い「誰かに言いたい」気持ち、以前の自分にはなかったのに。今回だけは、本気で知らせたいと思っていた。だが、紗夜は内緒にするのを望んでいる。彼の気持ちとは正反対だ。「どうして」わずかに不機嫌さを滲ませて問い詰める。紗夜は妊娠しても彼に知らせず、そっと姿を消した。そして今は戻ってきたのに、公表もしないと言う。疑わしく思うのも当然だった。「......和洋の治療が済んだら、そのまま俺の前から消えるつもりじゃないだろうな?」文翔は真剣な目で彼女を射抜いた。紗夜は一瞬息を呑み、膝の上の指がわずかに震えた。そしてその目にかすかに動揺が走る。――彼は、彼女の考えを一瞬で言い当てたのだ。確かにそのとおりだった。妊娠を公にしないのは、彼との結びつき
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第204話

彼は10歳になるまで母の愛というものを感じたことがなかったし、10歳以降はなおさらだった。だから、自分の子どもを失うことが母親にとってどれほどの衝撃になるのか、まるで分かっていなかった。だが、あの時、紗夜の顔に浮かんだ絶望の表情を見た。あまりにも悲しくて、真っ直ぐに胸の奥を刺してきて、その一瞬、彼の中に迷いが生まれた。だからこそ、彼は志津子を訪ねた。理久が再び紗夜のそばへ戻ったあの日、彼は紗夜の蒼ざめた顔に、久しぶりに笑みが戻ったのを見た。その笑みには、失ったものを取り戻した喜びも、また失うのではないかという怯えも混じっていて、とても複雑だった。彼は遠くから、その姿を長く見つめていた。そして今、彼は再び、紗夜の顔に同じ表情を見ていた。ただ、彼自身の心境は、すでに変わっていた。冷淡な傍観者として立ち尽くしていた場所から、彼は一歩、前へと踏み出したのだ。「わかった。約束する」文翔がゆっくりと口を開いた。声音は真剣だった。「秘密にすることも、子どもがあいつらに奪わせたりしないことも」紗夜は一瞬だけ目を瞬かせた。文翔が約束をくれたのは、これが初めてだったからだ。「お前も、逃げるのを諦めろ」文翔の声には淡い警告が滲んでいた。「俺が和洋を治せるなら、牢の中で死なせることもできる」紗夜の指先がぎゅっと縮こまる。文翔なら、本当にやりかねない。だから、彼女は静かに頷いた。「......分かった」文翔は彼女の素直な妥協に満足したようで、手を伸ばし、彼女の鎖骨にそっと触れた。そこには、昨日彼が残した噛み跡があった。強く噛みすぎて皮膚が破れ、血がにじみ、いまは薄いかさぶたになっている。「まだ痛むか?」紗夜は首を横に振ったが、無意識に身体を少し後ろへ引いた。どうしても、彼の触れ方に慣れることができなかった。文翔はわずかに目を細め、手を引き、シートにもたれかかった。そして淡々と言う。「三つの約束をした。だから俺からも条件だ」「何?」「まだ決めてない」文翔はだるそうに彼女へ視線を流した。「決まったらまだ改めて言うよ」紗夜は何も言わなかったが、その目にははっきりと警戒が浮かんでいた。「安心しろ。お前が三つなら、俺も三つ。公平だろ」それを聞いて、
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第205話

紗夜は、文翔が彩へメッセージを返しているときの、あの真剣な横顔を見つめ、そっと唇を噛んだ。やっぱり、彩に向き合う時の文翔は、こんなにも丁寧で、こんなにも忍耐強い。どうやら、この前の岩波家のパーティーの件は、二人の関係に何の影も落としていないらしい。紗夜は、彩の度量に少し驚いていた。好きな男が公衆の前で他の女と堂々とアピールしたというのに、それを許せるなんて。それに、もう一つ疑問があった。文翔と彩は互いを深く理解し、長く仕事でも関わってきた。なのに、どうして文翔は彩を「長沢奥様」に選ばなかったのだろう?二人はあれほど仲が良く、雅恵もずっと彩を息子の嫁だと認めていた。互いに思い合い、親の承諾もある。それで十分完璧じゃないか。それなのに、自分は......夫の愛情も、夫の家族の認めもなく、ただ文翔への執着だけを頼りに、無謀にも飛び込んだ。今になってみれば、あまりの愚かさに、自分で自分が滑稽に思えてくる。紗夜は小さく息を吐き、こみ上げる痛みを無理やり押し戻して、彼を見ないようにした。道中、文翔は彩への返信に忙しく、紗夜の方を振り向きもしなかった。紗夜も空気を読んで黙っていたが、妊娠中のせいで情緒が揺れやすいのか、胸の奥に小さな重さが残っていた。......会社に着くと、文翔は先に車を降り、中島は指示どおり、紗夜を宝石店へ連れて行った。紗夜はきらびやかなガラスケースの前に立ち、長いこと眺めていたが、どれも選べなかった。「お好みのものがありませんでしたか?」店員が尋ねた。紗夜は微笑んで首を横に振った。「他にもいろいろございますよ。ちょうど、特別な新作が入ったばかりでして」店員に案内され、ガラスのショーケースの前へ。確かに、他の指輪よりずっと美しかった。カットの整った白いダイヤ。その周囲には細かなダイヤがぐるりと埋め込まれ、光を浴びて鮮やかに輝いている。紗夜は思わず目を奪われた。だが、彼女が口を開くより先に──「これ、包んでちょうだい」別の女の声が先に飛び込んできた。紗夜は一瞬止まり、そちらへ顔を向ける。ちょうど、その女と目が合った。彩だった。「深水さん、奇遇ね」彩が先に声をかけてきた。微笑んでいるが、その目の奥には明らかな探る色がある。
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第206話

4億円──文翔はそれを迷いなく彩に渡した。けれど自分が長沢奥様になってから、ようやく手にしたのは2億だけ。やはり、文翔の太っ腹さは「立場」で決まるものじゃない。彼が「誰を気にかけているか」で決まるものだ。この瞬間になってようやく理解した。文翔がなぜ自分を長沢奥様にしたのか。彼は、言うことを聞き、必要なときに「芝居」に付き合ってくれる妻を求めつつ、自分と感情が通じ合い、空気を読んで寄り添う恋人も欲しかったのだ。立場には立場の使い道がある。秘密の恋には秘密の恋のスリルがある。どちらも手放さない。彼の最近の態度を見て、「もしかして、自分に気持ちが傾き始めたのか」と一瞬でも思った自分が馬鹿みたいだ。可笑しいにもほどがある。紗夜は唇を引き締め、平静を保ったまま店を出ようとした。だが、彩が先に進み出て道を塞ぎ、嘲るように言った。「文翔があなたを『長沢奥様』と公にしたからって、あなたに決めたわけじゃないわ。この界隈じゃ、形だけの夫婦なんていくらでもいる。まして文翔みたいなお金と権力を持つ男の周りに、女が一人だけなんてありえないでしょ?」そう。彩の言うとおりだ。紗夜も何度も見てきた。これは名門の妻たちの暗黙の了解。結婚して年月が経ち、夫が飽きれば外で新しい刺激を求める。妻もいちいち怒らず、見て見ぬふりをする。なぜなら、もう夫婦は結婚という契約で利益共同体になっている。一方が栄えれば両方が栄え、一方が落ちれば両方が落ちる。だから、中には夫のスキャンダル処理を自ら引き受ける妻もいるし、さらに夫の好みそうな「相手探し」に手を貸す妻でさえいる。滑稽なのは、自分が「特別」だと勘違いしたことだ。文翔が自分を呼び戻したのは、何か変わったからだと思っていた。だが、彼が「長沢奥様は彼女だ」と宣言した瞬間から、自分の立場は他の名門妻と何も変わらない。文翔が自分を気にしないからこそ、立場を押しつけ、こういう厄介ごとはすべて自分に回す。一方、彼が本当に大切にしている彩は、そばにいて愛情だけを受ければいい。一瞬で、紗夜の胸中に「見透かした」冷笑が生まれた。だが幸いなことに、彼への期待などもうほとんど残っていなかった。だから、彩の挑発に対しても、紗夜は静かに口角を上げ、淡々と返した。
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第207話

店員は一瞬きょとんとし、疑わしげな視線を彩と紗夜のあいだで行き来させ、どうしていいか分からない様子だった。「だめ!これは文翔が私にくれたものなの!」彩は有無を言わせず奪い返そうと手を伸ばしたが、紗夜はすでに一歩早くカードを奪い取り、すっと後ろへ下がった。彩の手は空を切り、その勢いでよろけてしまい、肘をガラスのショーケースの角にぶつけた。鋭い痛みに息を呑んだ瞬間、怒気が一気に噴き上がる。「深水紗夜!」甲高い声が響く。「長沢奥様よ」紗夜は無表情のまま訂正した。彩の剥き出しの怒りとは対照的に、紗夜は氷のように冷ややかだった。この尊大な態度と表情に、彩は気が狂いそうになる。その時、中島が店内へ入ってきた。彩はすぐさま駆け寄り、「中島さんから説明してよ!」と訴える。中島は文翔の右腕であり、常に彼の指示に基づいて動く。つまり、彼の判断はほぼ文翔の意向と同義だ。紗夜も中島を見た。カードを持つ指先に少し力が抜ける。一瞬、彼女は先ほどの衝動を悔やんだ。文翔の彩へのあの偏愛ぶりからすれば、ここで自分が彩に対して強気に出たことは、彼の機嫌を損ねるかもしれない。そうなれば、父の治療が......胸が強く締めつけられ、息を呑む。紗夜は緊張しながら中島を見つめた。これまで会う機会は少なくはないが、特別親しいわけでもない。だからどう判断するのか読めなかった。だが、彼が文翔に絶対の忠誠を誓う人物だということだけは確かだ。つまり、自分の味方にはならない。紗夜はそっと視線を落とし、瞳に陰が差す。だが次の瞬間、中島は彼女に向き直り、軽く頭を下げて丁寧に告げた。「奥さま」紗夜は息を呑んだ。彩はさらに目を大きく見開き、驚愕が露骨に表情に浮かぶ。中島は店員へ向き直り、淡々と告げた。「こちらが長沢の奥さまです。今後、彼女がお選びになった指輪はすべて長沢様のご請求にしてください」「長沢奥様でいらっしゃったんですね!」店員の目が輝き、先ほどまでとは比べものにならないほど態度が一変した。「失礼いたしました!どうぞVIP室へ。最新の指輪をすぐお持ちいたします!」「結構です」紗夜は淡々と答える。「もう選ぶ気が失せましたので」「かしこまりました。ではご希望の際は、いつで
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第208話

さきほど自分の側に立ってくれた中島に、紗夜は心の中で感謝していた。もっとも、それが文翔の意向であるはずがないことぐらい、彼女にも分かっている。彩にはカードまで渡している男だ。誰を大事にしているかなんて、言うまでもない。「気にしないでください」中島は穏やかに笑った。「五年前、兄が工事現場で怪我をして、治療に相当なお金が必要になったんです。あのとき奥さまが、お年玉の名目でそっと渡してくださったお金がなかったら......本当に助かりました」そういえば、そんなことがあった。紗夜はすっかり忘れていたが、秘書の言葉でようやく思い出し、「お兄さんは今どうしてるの?」と尋ねた。「今はラーメン屋をやってまして、なんとかやっています」もし紗夜があの時、あの形で渡してくれなければ、兄は最適な治療の時期を逃し、一生車椅子だったかもしれない。お年玉という形にしたおかげで、家の窮地も救われ、兄の尊厳も守られた。それ以来、中島はずっと紗夜に恩を感じていた。――奥さまと長沢様が幸せになってほしい、と。だが、その願いとは裏腹に、「こんなにいい奥様を、大事にしないなんて......」胸の内でそっと溜息をつく。とはいえ、名門の事情に口を挟むつもりなどない。自分にできるのは本分を尽くすことだけだ。「奥さま、どうぞ」紗夜は軽く頷き、車に乗る前にふと迷った末、カードを取り出して差し出した。「これ、文翔に返しておいて」彼のカードを自分が持っているのは、どうにも落ち着かない。だが中島は受け取らず、丁重に言った。「長沢様のカードは......奥様がご本人にお返しするべきかと」紗夜は唇を結び、秘書の立場を理解し、カードをそっとしまい込んだ。車は穏やかに市街地を走る。紗夜はシートにもたれながら、指先をもつれさせ、不安げに外を眺めていた。文翔が今日の件で自分にどう出るか......中島まで巻き込まれないか......その思いが胸に重く、景色に目を向ける余裕もない。そんな落ち着かない心を抱えたまま、車は長沢家に到着した。車を降りた瞬間、真っ先に池田が駆け寄ってくる。「奥様!やっと帰ってきてくれたんですね!」勢いよく抱きついてきた池田の目には涙があふれていた。「奥様がいなくて、本当に寂しか
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第209話

どれだけ自分に「下手に動揺しない」と言い聞かせてきたとしても、執事の言葉を耳にした瞬間、紗夜の胸は一気に締めつけられ、急いで理久の部屋へ向かった。ベッドに横たわり、ひどく弱りきった理久を目にした途端、紗夜の心は一気にざわつき、彼の様子を確かめようと歩み寄る。高熱で意識が朦朧としていた理久も、母親の気配を感じ取ったのか、必死に目を開けた。そして紗夜の姿を捉えた瞬間、その瞳に涙が溢れ、いつもは澄んだ声がかすれにかすれて、やっとの思いで呼んだ。「お母さん......」その一言が、紗夜の胸の奥をかすかに震わせ、瞳に複雑な感情がよぎる。「ど、どうしましょう......理久様、すごく具合が悪そうで......」執事の慌てた声に、紗夜は意識を現実へ引き戻された。彼女は返事をせず、体温計を見やった。三十九度。さらに腕には小さな発疹。「これは、急性のアレルギー反応」長年世話をしてきた紗夜は、彼の状態を誰よりも理解していた。すぐに、うろたえる執事へ指示を出した。「主治医に電話して、いつものアレルギーの薬を持って来てもらって。あと点滴の準備もあるから、到着前に手配するように伝えて」「は、はいっ」執事は慌てて頷き、強ばっていた表情も少し落ち着いた。ほかの使用人たちも、紗夜の指示で動き始め、屋敷内は一気に整然とした空気に戻っていく。池田はタオルを差し出し、理久の身体を拭く紗夜の横顔を見つめながら、胸の中でしみじみと思った――やはり奥様こそ、この家を支える柱なのだと。奥様が戻っただけで、死んだように静まり返っていた長沢家が、ようやく息を吹き返し始めていた。やがて医者が到着し、理久の治療に取りかかった。紗夜はキッチンで理久のために粥を作っていた。池田はその隣で手伝いながら、しみじみと口を開いた。「奥様が帰ってきて、本当に良かったです。奥様がいない間、お坊ちゃんが病気になるたびに、私たち大騒ぎするばかりで......何をしていいのか分からなくて......さすが奥様です。いつも落ち着いていて、頼りになります」紗夜は微かに唇をゆるめた。「奥様、もう戻ってこないなんてことは......」池田は名残惜しそうに尋ねた。奥様のいなかった期間、別荘全体が重苦しい空気に沈み、特に長沢さんの冷たく圧迫するよ
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第210話

彼は今すぐにでもベッドを降りて、紗夜の懐に飛び込みたかった。だが、自分の手の甲にまだ点滴が繋がれていることに気づいた途端、小さな頭がしゅんと垂れ、ただじっと紗夜を見つめるしかなくなった。その姿は、まるで道端に置き去りにされた可哀想な子犬のようだった。紗夜は胸が痛んだが、それでも彼に応えなかった。あの日、彼は「お母さんなんていらない。竹内おばさんにママになってほしい」と、あんなにも自信満々に言い切ったのだ。今こんなふうにしおらしくされても......彩から十分に愛されなかったから、仕方なく自分のところへ戻って来たのではないかとしか思えなかった。自分は彼にとって、ただの「代わり」にすぎない。その考えが棘のように胸に刺さり、呼吸するたびに鈍い痛みが走った。だから紗夜は返事をしなかった。粥をテーブルに置くと、踵を返して部屋を出ようとした。「行かないで、お母さん!」理久の声は鼻にかかり、感情が高ぶって激しく咳き込んだ。「ゴホッ、ゴホッ......!」紗夜は眉をひそめた。小さな顔は咳で真っ赤になり、涙がぽたぽたと落ち、息も苦しそうで身体まで震えている。その姿に、ついに見捨てきれなくなった。紗夜は息を吐き、そっと背中をさすって呼吸を整えてやる。理久はその手つきに安心したように紗夜へ寄り、小さな手で彼女の服の裾をぎゅっと掴んだ。少しでも離したら、紗夜が本当に去ってしまうと思っているみたいに。「ぼく......お母さんにすごく会いたかった......」潤んだ瞳で紗夜を見上げ、声は泣き声に変わっていた。「あんなひどいこと言ってごめんなさい......ごめんなさい、お母さん......」幼くかすれた声で、謝罪の言葉を何度も何度も繰り返した。それは学校の友だちが教えてくれたのだという――「間違えたなら、ちゃんと『ごめんなさい』と言わないといけない」、と。一方で、祖母の家の先生は「物事に正しいも間違いもない。自分にとって得になるかどうかがすべてだ」と教えていた。彼はふと思った。あの先生たちの言っていたことは、間違っていたのかもしれない。もし自分が間違っていなかったのなら、どうして母は離れて行ったのか。どうして自分をいらないと思ったのか。そう考えるほど胸が苦しくなり、また涙がこぼ
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