父と子は元カノしか愛せない?私が離婚したら、なんで二人とも発狂した? のすべてのチャプター: チャプター 341 - チャプター 350

510 チャプター

第341話

彼女の願いは、始めから終わりまでただ一つ――両親と再び一緒に暮らすことだけだった。たとえごく普通で、何の変哲もない日々でも、それでいい。いや、それこそが望みだった。「......終わり?」文翔はふっと笑い声を漏らした。底知れぬほど暗く深い眼差しで彼女を捉え、その視線はまるで、彼女を逃げ場のない淵へと引きずり込もうとするかのようだった。「紗夜......本気で、終われると思っているのか?」紗夜は眉をひそめた。彼の声は呪いのように、頭の中で何度も反響する。「お前が俺に離婚なんて口にできるのは、父親の冤罪を晴らしたからだろう?だがな、紗夜――俺があの男を外に出せたのなら、もう一度叩き込むこともできる。それが無理なら......その場で始末すればいいだけだ」紗夜の瞳が一瞬で縮み、指先が白くなるほど握り締められた。文翔は、砕け散ったガラス片を素手で掴んだまま、鋭利な破片が手のひらに食い込むのも構わず、血を流し続けていた。袖は赤く染まり、それでも彼は痛みを感じていないかのように、笑みを深めていく。その言葉は、血に塗れた悪魔の囁きのようで、紗夜の背筋を凍らせた。「試してみるか?お前が逃げるのが早いか、こっちが動くのが早いか。和洋は今日の午後に出所だったな?いい天気じゃないか。この大雨なら、血が出ても、雨が全部洗い流してくれ――」「この悪魔!」紗夜の目は血走っていた。彼は彼女を追い詰めている。父親の命を盾にして、彼女の離れる意思を根こそぎ潰そうとしているのだ。――もう、限界だった。抑え込んできたものが、一気に溢れ出す。紗夜はバッグから、あらかじめ忍ばせていたナイフを掴み出した。「父の道連れにしてやるわ!」文翔は一瞬だけ目を見開いた。だが、避けようとはしなかった。刃が突き立つ寸前で、紗夜の手は止まった。「どうした?刺さないのか?」紗夜は答えず、ただ彼を睨みつける。――自分まで、彼と同じ、人を傷つける化け物にはなりたくない。文翔はふっと笑い、どこか人を惑わすような、柔らかい声で言った。「さーちゃん......優しさは、時に罪だ」その言葉が終わるより早く、彼は彼女の手首を掴んだ。ナイフごと、その手を自分の腹部へと引き寄せる。布を裂き、肉に食い込む
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第342話

「文翔!」紗夜は彼のあまりにも常軌を逸した様子に圧倒され、深く息を吸い込んだ。目の奥がつんと痛み、赤くなった眼には涙が溜まり、今にも零れ落ちそうだった。手を引き抜こうとしたが、彼は強く握ったまま離さない。その隙を突くように、彼はもう片方の手で彼女の後頭部を掴み、身を屈めて唇に噛みつくようなキスを落とした。濃厚な血の匂いに、彼の身にまとうシダーウッドの香りが混ざり合い、抗えない力で彼女の鼻腔を満たす。紗夜の涙が、目尻からぽろりとこぼれ落ちた。大きく見開かれた瞳には、ただただ困惑が浮かんでいる。彼女は分かっていた。自分が離婚訴訟に署名したと知れば、文翔が怒ることは避けられない。けれど、ここまで理性を失うとは思っていなかった。ましてや――たとえ子どもが自分の子でなくても、彼は彼女をそばに縛りつけようとするなんて。その一語一句、その振る舞い一つ一つが、刃となって彼女を刻みつける。血は流れないのに、胸の奥まで切り裂かれるように痛かった。だが、痛いのは彼女だけではなかった。文翔の呼吸も乱れ、胸が上下に激しく波打つ。腹部の傷からは血が滲み続け、止まる気配がない。怒りに満ちていた顔色も、次第に目に見えて青白くなっていった。やがて彼はふらりと体を揺らし、顎を紗夜の肩に預けた。紗夜はぎょっとして、ようやく手を引き抜き、彼を突き放そうとした。しかし、彼はまるで彫像のように重く、どうしても動かない。血の気を失っていく彼の顔を見つめ、彼女は歯を食いしばって吐き捨てた。「信じられない。あんた、狂ってる!」「狂えば......君を引き留められるなら......」文翔は唇の端をかすかに動かしただけだった。真っ赤に充血した眼にも涙が溢れ、その一粒が静かに零れ落ちる。声はかすれ、今にも消えそうだった。「俺は、構わない」紗夜は言葉を失い、何も返せなかった。「長沢社長!」遠くで、文翔が紗夜の身体にもたれかかったのを見た瞬間、中島が悲鳴のように叫び、慌てて駆け寄ってきた。座席に広がる濃い血の染みを目にした途端、全身に寒気が走る。最初は不思議に思った。手の甲にガラス片が刺さっただけなら、血はとっくに止まっているはずだ。だが、よく見て――息を呑んだ。文翔の腹部にも刃物の
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第343話

――あの男、本当に狂ってる。紗夜はうつむき、両手で顔を覆った。部屋には彼女ひとりだけが残され、辺りは静まり返っている。低く押し殺した嗚咽だけが、かすかに響いていた。外に立つ池田は、紗夜の華奢な肩甲骨が震えるのを見つめ、すすり泣く声に胸を締めつけられる思いだった。そのとき、小さな影がそっと中へ入ってきた。「お母さん、どうして泣いてるの?」理久が心配そうに声をかける。ティッシュを取り出し、紗夜の涙を拭いながら、かつて自分が泣いたときに母にあやしてもらった仕草を真似て、ぎこちなく彼女を慰めた。紗夜は次第に泣き止み、目の前の幼い顔を見つめる。その顔は、文翔によく似ていて、言葉を失った。「泣かないで。ほら、キャンディ食べて」理久はポケットから飴を二つ取り出し、宝物を差し出すように両手で紗夜の前に差し出した。「これね、クラスの子にもらったんだ。食べるの我慢してたけど、お母さんにあげる。食べたら、きっと元気出せるよ」紗夜が動かないのを見て、理久は自分で包み紙を剥き、そっと彼女の口元へ運んだ。甘さが舌に触れた瞬間、口いっぱいに広がり、胸の奥に溜まっていた苦味までも、少し薄れていくようだった。「もう大丈夫だから......」ティッシュを使い切った理久は、自分の袖で涙を拭ってやる。これまで慰められる側だった彼は、誰かを慰めたことがなく、どこか不器用だった。それでも、必死に紗夜を笑わせようとする。「お母さん、歌うたってあげようか?」そう言うや否や歌い出したが、どうやら神様は彼に歌の才能までは授けてくれなかったらしく、最初の一音から盛大に音を外した。紗夜は、かつて文翔が真面目な顔で音痴な歌を歌う姿を思い出し、思わず唇が緩む。それに気づいた理久は、紗夜の顔の前に身を乗り出し、かわいらしい変顔までしてみせた。ついに紗夜は、涙を拭いながら笑い声を漏らした。「やった、お母さんが笑った!」理久の目がぱっと輝く。彼は手の中に残った最後の一粒の飴を見つめた。それは、あの女の子からもらったものだった。少し迷った末、やはり紗夜に差し出す。――お母さんが元気になるなら。傍で見ていた池田は、ようやく紗夜が元気を取り戻したのを見て、安堵の笑みを浮かべた。理久はずいぶんと大人になった。以前
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第344話

それを聞いて、文翔は視線を落とした。「......もし本当にあいつに手を出したら、さーちゃんは一生、俺を許さないだろう」彼が紗夜に向けて吐いたあの言葉は、実際に何も起こさない脅しに過ぎなかった。彼は自分を刺したあと、そのナイフまで持ち去っている。紗夜が自分を傷つけてしまわないようにと。さらに木村に電話をかけ、紗夜が何も食べていないことを伝え、何か作ってやるよう頼んでいた。仁は一瞬呆けたあと、思わず苦笑する。「君はほんとに......救いようがないな」文翔が復讐のためにあまりにも過激な行動に出ることには賛成していなかったが、常に冷酷果断でいた長沢社長が、ひとりの女のためにここまで逡巡するとは、仁にとってなんとも感慨深い話だ。「災いだった――」「彼女は災いなんかじゃない!」文翔は即座に言い返した。その拍子に、まだ縫い終えていない傷口が引きつり、痛みに眉を強くひそめる。「はいはい」仁は肩をすくめて笑う。「大人しくしてくれ。これ以上引っ張ってまた出血したら、苦しむのは君だよ。変な傷跡が残ったら、奥さんに嫌われるよ」文翔は一瞬固まり、すぐに動きを止め、歯を食いしばって耐えた。仁は首を振る。――犬のしつけ方を、改めて紗夜に聞かないとな。だが、文翔の傷口が完全に縫合され、包帯が巻かれた直後、慌ただしい声が飛び込んできた。「長沢社長、大変です!」中島が息を切らして駆け込んできて、よろめき、危うく倒れそうになる。「奥さまが、突然天野に連れられて本家へ......!」「なに?」仁の目に、一抹の不安がよぎった。一方、文翔はその言葉を聞いた瞬間、勢いよく身を起こし、縫ったばかりの傷口が開くかどうかなど気にも留めず、ベッドから降りた。「文翔!」仁が叫ぶ。「落ち着け!」「落ち着いてなんかいられるか!」文翔は冷たく言い捨てる。紗夜が絡むこととなれば、彼に冷静さなど望むべくもなかった。......長沢本家。部屋の全体は暗く冷たい色調で統一され、荘厳かつ厳粛な空気が漂い、思わず身がすくむ。貴仁は椅子に座り、外から戻ってきたボディーガードたちが二列に並ぶのを冷ややかに見つめていた。そのうちの一人は、理久の手を掴み、動けないようにしている。「離して!」理
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第345話

紗夜は横目で理久をちらりと見た。胸の奥にかすかな痛みが走る。だが彼女はよく分かっていた。理久は正真正銘の長沢家の血筋だ。彼らが理久に手を出すことはない。――今夜、狙われているのは自分だ。「まったく、雅恵は子どもを甘やかしすぎなんだよ」隣一が肩を抱き寄せ、ため息混じりに言った。「だって文翔の子でしょう。私たちの孫で、お父さまの曾孫だもの。多少は大目に見てあげないと」雅恵はそう続けながら、視線を紗夜の腹部へと落とした。「まあ、もう一人のほうが長沢家の血かどうかは、まだ分からないけどね」その様子を見て、悦代がすぐさま前に出た。病院の検査報告書を取り出し、貴仁に向かって声を張り上げる。「お父さま!紗夜のお腹の子は、文翔の子じゃありません!他の男とできた子どもです!」悦代の言葉を聞いた瞬間、貴仁は手にしていた杖を、どん、と床に強く打ちつけた。悦代はそこで口をつぐみ、紗夜に向かってほくそ笑む。鋭い視線が紗夜に注がれ、老いながらも低く重い声が、逆らえぬ威圧を帯びて響いた。「なるほど。災いの種のようだな」「お父さま、この話が外に漏れたら、長沢家の名に傷がつきます」雅恵が口を開く。貴仁はしばし考え込み、問い返した。「なら、どうする?」雅恵は紗夜を見つめ、唇の端をわずかに吊り上げる。「早めに片づけてしまえばいいのでは?後腐れが残らないように」その瞬間、稲妻が空を裂いた。紗夜が顔を上げると、ちょうど雅恵の意味深な視線とぶつかった。このとき、彼女はようやく悟った。雅恵があの宴で仕組んだ、本当の狙いが何だったのかを。料理で腹の子を傷つける――そんな単純な話ではない。公の場で妊娠を認めさせ、そのうえで子どもが文翔の子ではないと暴く。そうすれば、彼女ごと始末できる。一つ一つが噛み合い、緻密に組まれた罠。それこそが、雅恵の仮面の下に潜む本性だった。「そうですよ、お父さま。こんな女がいるから、長沢家の運が損なわれて、悦代には跡継ぎができないんです!」悦代はハンカチで涙を拭いながら訴える。「この子を産ませるわけにはいきません。早く始末するべきです!」貴仁はそれ以上何も言わなかった。代わりに、隣一が軽く手を上げる。それを合図に、ボディーガードたちが紗夜へ
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第346話

「きゃっ......!」紗夜は天野に力任せに引き戻され、よろめいてそのまま床に尻もちをついた。「棒で腹部を叩けば、流産させることができるそうですし、見た目もそれほど凄惨にならない。長沢家を血で汚すこともありませんし、彼女にも二度と忘れられない教訓になるでしょう――長沢家の血筋は、決して混ぜ物を許さないだと」雅恵は微笑みを浮かべたまま、貴仁を見やり、そう提案した。稲妻の光に照らされたその笑みは、まるで舌を吐く毒蛇のようだった。「それでいこう」貴仁は短く頷いた。「かしこまりました」雅恵も軽く頭を下げる。次の瞬間、手首ほどの太さの木の棒を二本持った者が現れ、紗夜の前に立った。どん、と床が震えた。その衝撃は、紗夜の胸にもそのまま伝わり、心臓が制御不能なほど激しく跳ね上がる。彼女は目の前の人々を見渡した。無表情なボディーガード、愉快そうな悦代、早く片づけたいだけの隣一、笑顔の裏に刃を隠した雅恵、そして高みから無感情に見下ろす貴仁。――この場にいる全員が、紛れもない悪魔だ。京浜で畏れ敬われる長沢家が、実のところ骨まで喰らい尽くす魔窟だったとは。紗夜は深く息を吸い込んだ。見えない手で心臓を掴まれているかのように苦しく、息が詰まりそうになる。「やりなさい!」雅恵のその一言と同時に、棒を持った者が前に出た。「やめて......!」紗夜の瞳が大きく見開かれる。彼女は地面を這い、外へ逃げようとしたが、山のような人垣に行く手を阻まれ、脚を掴まれて引きずり戻された。外では雨が止むことなく降り続き、まるで天が裂け、すべての水が一気に流れ落ちているかのようだった。世界は滲み、断片的にしか見えない。脚を押さえつけられ、両腕を取られ、必死に抵抗しても、涙が枯れ、声が嗄れても、すべて無駄だった。誰ひとり、彼女の訴えを聞こうとせず、同情の視線を向ける者もいなかった。周囲の人間は、ただ冷ややかに見下ろしているだけだった。――あるいは、もう慣れてしまっているのだ。強者が弱者を蹂躙する光景に。この力だけが支配する魔窟に。感覚そのものが麻痺してしまっている。助けなど、来るはずもない。重苦しい絶望が紗夜を包み込み、底の見えない深淵へと引きずり込み、容赦なく呑み込んでいく。彼女の顔
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第347話

その言葉を聞いた瞬間、千歳は一瞬呆然とした。それを見た雅恵は、さらに声を強めて脅す。「今すぐその女を下ろしなさい。そしたら、あなたが来なかったことにしてあげる。でなければ――もう容赦しないわよ!」「断る!」千歳はきっぱりと言い返した。「今日は、絶対に彼女を連れて帰るから!」その答えに、雅恵は怒りで全身を震わせた。「千歳、いったいどういうつもり!?こんな女のために――!」「彼女のお腹の子は、俺の子だからだ!」千歳は大声で叫んだ。紗夜は、言葉を失った。その一言で、場の空気は一変した。悦代は口を大きく開け、何度も瞬きをし、信じがたい話を聞いたかのような表情を浮かべる。貴仁と隣一の顔色は、一瞬で沈んだ。雅恵に至っては、怒りで目を剥いた。「この馬鹿者!でたらめを言うんじゃないわよ!」紗夜も慌てて千歳の服の裾を引き、首を横に振った。「でたらめなんかじゃない!」千歳は紗夜を真っ直ぐに見つめ、その目には揺るぎのない決意が宿っていた。「間違いなく俺の子だ!」――ドン。貴仁の杖が、重く床を打った。その音に、千歳は思わず肩をすくめる。理屈では説明できないが、この老人には本能的な恐ろしさがあった。「よくもまあ、立派な甥を育てたものだな」貴仁は、冷ややかに雅恵を一瞥した。雅恵は顔色を変え、すぐに頭を下げる。「申し訳ありません、お父さま。私の教育が行き届かず......すぐに連れて帰ります!」「このまま帰らせるつもりか?」貴仁が静かに問い返す。雅恵は一瞬言葉に詰まり、指先を強く握りしめたが、何とか体裁を保って口を開いた。「で、では......一体......?」「長沢家の嫁と、長沢家の外戚が関係を持ち、子まで宿した。これが我が長沢家の恥だ」貴仁は目を細める。「さっきまで威勢よく殺せだの何だの言っていたくせに、甥が相手だと黙りか?」「そ、そんなことはありません!」雅恵の目に、明らかな動揺が走る。「そうだよ、父さん。雅恵にそんなつもりは......」隣一が慌てて取り繕う。「では、どういうつもりだ?」貴仁の一言に、隣一は言葉を失った。しばしの沈黙の後、雅恵は歯を食いしばり、貴仁に向き直る。「お父さまのご判断にお任せします。どう処分なさ
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第348話

「志津子様、そんなに急いでは......!」使用人が心配そうに声を上げた。「遅れたら、紗夜は危ないよ!」志津子の声は切迫していた。「あの人たちは長沢家のくだらない体面のために、紗夜の命を差し出そうとしているのよ!あなたも知っているでしょう、紗夜は小さい頃から家族に大事に育てられてきた子。心根がまっすぐで、文翔に嫁いでからは、彼が意識的に長沢家の腐りきった連中から彼女を遠ざけてきた。あの泥沼に足を踏み入れさせないために......そんな子が、人を食らうような悪鬼どもを相手にできるはずがないわ!」使用人に支えられながら、志津子は足早に本家へ向かった。だが、入口に差しかかったところで、文翔が複数のボディーガードを連れて中へ入っていく姿が目に入った。志津子は、そこで足を止めた。「志津子様?」使用人が不思議そうに尋ねる。志津子は文翔の背中をじっと見つめ、ほっと息を吐いた。「......戻りましょう」「え?」「忘れていたわ。今の紗夜には、もう守ってくれる人がいることを」志津子の目には、深い安堵と慈しみが浮かんでいた。「あの子は、約束を破らなかった」――あの年、結婚式前夜。彼女が文翔に、今後どう紗夜と向き合うつもりなのかと尋ねたとき、彼は淡々とこう答えた。「愛はないが、彼女の安否は俺が守る」......紗夜は、ゆっくりとこちらへ歩いてくるその姿を見つめ、言葉を失った。文翔は血に染まっていた上着をすでに着替えており、顔色がやや青白い以外、怪我を負っていた痕跡は見当たらない。だが近づけば、彼の体から消毒薬の匂いがかすかに漂ってきた。「何を言っているんだ!命取り?」紗夜が文翔を見る視線に、千歳は理由の分からない苛立ちを覚えた。文翔が事前に連絡をくれて、紗夜を救いに来たとはいえ、それでも納得がいかなかった。「お前のせいで、俺の妻は罰を受ける寸前。それが命取りじゃないとでも?」文翔が問い返す。千歳は言葉に詰まった。彼はただ、紗夜に自分の本心を知ってほしかっただけだ。罰についても、彼女が傷つかないよう、自分が代わりに受け止めるつもりだった。棒で打たれるよりは、よほどましだと思っていた。だが、その考えは文翔に容赦なく暴かれた。それは本心ではなく、紗夜の心の
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第349話

貴仁は何も言わず、ただ鋭く文翔を見据えていた。その瞬間、場の空気は凍りついたように静まり返った。誰一人として声を発する者はなく、家全体が影に包まれたかのようだった。皆がうつむき、恐る恐る顔を上げかけた者も、周囲の様子を見て結局は視線を落とすしかなかった。空気さえも固まったようで、息苦しさが胸に迫る。「......いいだろう。実にいい」貴仁は両手を上げ、ゆっくりと拍手をした。その表情は笑っているようで笑っておらず、底が知れない。「お前が幼い頃からただ者ではないとは思っていたが......まさか、ここまで成長したとはな」文翔は黙したままだった。貴仁の眼差しの奥に、はっきりとした危険の兆しを感じ取っていたからだ。――それは、彼が本気で怒る直前の合図。先ほど、千歳と紗夜に罰を下すと言ったときの彼は、どこか余裕すらあり、まるで面白い玩具を弄ぶかのようだった。長沢家以外の人間など、彼にとっては取るに足らない他人に過ぎない。だが、文翔は違った。彼は貴仁自らが選び、近いうちに長沢家のすべてを託そうとしていた後継者だ。その文翔が、一人の女のために、公然と逆らった――それで怒らずにいられるはずがない。文翔もまた、それを理解していた。だから一歩前に出て、頭を下げ、丁重な口調で言った。「どうか情けをかけて、妻だけはお見逃しください。条件があるのでしたら、いかようにも」その言葉を聞き、貴仁の表情はわずかに和らいだ。瞳の奥に、意味深な光が一瞬走る。まるで、狙い通りだと言わんばかりに。しばらく文翔を見定めるように眺めてから、口を開いた。「よかろう」「本当か?」千歳が思わず声を上げる。雅恵は眉をひそめた。ここに来てようやく気づいたのだ。自分が貴仁を紗夜を排除するための刃として使っていたつもりでいたが――実のところ、貴仁こそが、この一連の騒動を利用して文翔と取引をしようとしていたのではないか、と。あるいは、最初から彼の狙いは紗夜ではなく、文翔だったのかもしれない。その瞬間、雅恵は悟った。自分こそ、貴仁の手のひらの上で踊らされていた一枚の駒に過ぎなかったのだと。「だがな」貴仁は続けた。「一度罰を持ち出した以上、何もなかったことにはできん」その視線は文翔
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第350話

「はい」紗夜は、ほとんど迷いもなくそう答えた。彼女はすでに未怜と打ち合わせを済ませており、今日は父親を連れてここを離れるつもりだった。だからこそ、鞄の中にナイフを忍ばせていたのだ。本来は、自分の命を盾にして文翔を脅すつもりだった。自分が死を選ぶと言えば、彼は折れて、手を放してくれるかもしれない。――そう賭けていた。だが、彼女は思いもしなかった。文翔が、そこまで徹底的なやり方に出るとは。彼は彼女の父を殺そうとしたのだ。その瞬間、「自害するため」の刃は、彼に向けられた。さらに予想外だったのは、文翔自身がその刃を掴み、自らの身体に突き立てたことだ。流れ出した血が彼女の両手を染め、彼女ははっきりと思い知った。――両手が血にまみれるとは、こういう感覚なのだと。しかも、それは彼の血だった。血の匂いに、彼特有のダーウッドの香りと、独占欲を帯びた強い感情が混じり合い、それを彼は深く、逃げ場のないキスで、彼女の唇に刻みつけた。あの瞬間、彼女は完全に取り乱していた。そして先ほど向けられた、文翔の眼差し。一切の余地なく彼女の側に立ち、守り抜こうとするその態度。それらが、彼女の心を大きく揺さぶった。それでも――一瞬の迷いのために、ようやく手に入れた自由を手放すわけにはいかなかった。しかも今、文翔は足止めされ、他のことを顧みる余裕がない。これは、彼女にとって最良の機会だ。紗夜は胸の内の複雑な感情を押し殺し、静かな表情で千歳を見る。「助けに来てくれて、本当にありがとう。これで間に合う」あのままなら、あの棒は彼女に振り下ろされ、お腹の子も危険にさらされていたはずだ。千歳は唇を引き結んだ。本当は文翔から連絡がなければ、ここまで早く来られなかった。それでも、彼は少しだけ自分勝手になり、微笑んだ。「どういたしまして。俺はただ、君を守りたかっただけだ」彼は意を決し、ついに想いを口にしようとした。「紗夜。実は俺、ずっと前から君のことが――」「ごめんなさい」言い終わる前に、紗夜は彼の言葉を遮った。断ることは、すでに決めていた。だから、最後まで言わせるつもりもなかった。「あなたならきっと、もっといい人に出会える」紗夜の声は、心からのものだった。千歳は一瞬、
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