ひと仕事を終えたあとに、時間指定で呼び出された高級ホテルのスイートに足を運ぶ。部屋のインターフォンを鳴らすと相手はすぐに扉を開けるなり、満面の笑みを浮かべて俺の肩を抱き寄せ、高級感漂う室内に誘った。 俺を見つめる視線から、値踏みするような感じが漂っていたが、それを無にするために、持っていたクリアファイルを相手の目の前に突きつける。「む? なんだこれ?」「これからおこなうことについての契約書だよ、森さん」 肩に触れている手を払い退けて、目についたソファに腰を下ろす。仕方なさそうな顔をした森さんも、向かい側にあるソファに座った。そして手渡したクリアファイルから契約書を引っ張り出し、ザッと目を通してから、訝しそうに俺を見つめる。「こんなことも契約って、なにを考えてるんだ?」「俺にとって、芸能界での仕事がかかっているからね。裏切られないようにするための手段ですよ」「この俺が、裏切ると思っているのか?」 森さんはくだらないと言わんばかりに契約書をクリアファイルごと、テーブルに放った。バサッという無機質な音が最初からなにもなかったように、スイートの室内に溶け込む。「森さんだってわかってるでしょ。芸能界に長くいれば裏切りはもちろんのこと、いきなりの解雇や身に覚えのないネタを、週刊誌に売られたりするとか」「まあな……」「モデル出身の俺が森さんにたどり着くまでの苦労を、少しだけ考えて欲しいんだけどな」 肩まで伸びた黒髪を耳にかけ、ニッコリほほ笑んで立ち上がり、森さんの傍にしゃがみ込む。「契約書の内容は、森さんの喜ぶことばかりがプリントされているのに、契約に応じない感じですか?」上目遣いで質問した俺に、森さんは顔色を一切変えずに低い声で口を開く。「俺が断ったら、次はどこの誰を相手にするんだ?」 質問を質問で返されたものの、訊ねられたセリフは想定内のものだった。困惑の表情を作り込むために眉根を寄せ、瞳を潤ませながら少しだけ震える口調で告げる。「森さんよりも有能なプロデューサーなんて、この俺が見繕えるわけがないのに。意地悪なことを言わないでくださいって」 言いながら森さんの利き手を掴み、頬に擦り寄せて熱い吐息を吹きかける。ついでに流し目をして、手のひらにキスを落とした。これで俺のヤル気が伝わったら、こっちのものだ。「……これに署名すればいいのか?」
Last Updated : 2025-07-09 Read more