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All Chapters of 神様を殺した日: Chapter 21 - Chapter 30

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その子が泣くとき

「……ゼオ、なんか見てるよ。こっちに」その言葉を聞いた瞬間、誰もが動けなくなった。息を飲む音さえ、どこか遠くに感じるほどだった。ノアは、ただ笑っていた。無邪気に。穏やかに。怖さも、恥ずかしさも、なにもない顔で。「……お前、今……なんて言った?」セツの声が低く落ちる。だが、その声すら掠れていた。ノアは少し首をかしげて、笑ったまま答える。「なんとなく、そう思っただけ」それだけだった。誰もそれ以上、何も言えなかった。カナがノアを見つめるが、言葉が浮かばない。何を聞けばいいのか、どこから触れていいのか、なにもわからなかった。ミナはゆっくりとノアから視線を外す。腕を組んだまま、沈黙の中でただ立っている。アキラは、唇をかみしめていた。怒っていいのか、怯えるべきなのか、そのどちらも飲み込んで。ただ、どうしようもなく怖かった。目の前にいるはずの少女が、まるで別の世界からこっちを見ているような、そんな感覚だけが残っていた。セツがふっと息を吐く。腕を組んだまま、壁に背を預ける。「……本人に聞いても、何も出てこねぇだろうな」ノアはまだ、あの笑顔のままだった。何も知らないふうでもなく、かといって何かを隠しているようにも見えない。むしろ、何も区別していないように見えた。「わかってるのか、わかってねえのかも、もうこっちじゃ判断できねぇ。……だから、こっちで探るしかねぇな」セツが端末のほうを顎で示す。「ミナ。まだ何か残ってねえか、念のため見てくれ」ミナは無言で頷くと、壊れかけた記録装置に近づく。接続ポートに小型の解析端末を差し込み、静かに起動させた。カチ、カチ、と静かな操作音だけが響く。誰もそれに口を挟まない。少しして、ミナが顔をしかめる。「……記録は途中で切られてる。再生データも破損してるし、アクセスログも全消去」「消されたか?」「ええ。でも……乱雑じゃない。完全に誰かの手で整えられてる。綺麗に、確実に」「……後を残さねぇ消し方ってわけか」セツがぼそりと呟く。全員の表情が硬くなる。継承記録の内容だけ残して、他は何もない。まるで、見せたいものだけを見せたような、そんな空間。何かが仕組まれていたのだと、誰もが直感していた。けれど、それが何なのか、今の彼らには、まだ見えなかった。「……行こう」セツの声が、乾い
last updateLast Updated : 2025-07-19
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夢が現実になる前に

施設を離れた一行は、山道を下った先にある、古びた廃村跡に足を止めていた。屋根の残った小屋の一つを修繕し、風雨をしのげる程度の野営地として整える。陽が落ちる頃には、枯れ枝を集めた焚き火に火が灯り、集落跡の静けさが夜を包んでいた。セツが持ち込んだ携帯端末を膝に置き、淡々と口を開く。「次の継承地は、候補が二つある」「……二つ?」カナが顔を上げる。「ああ。都市部の旧医療施設と、山間の通信基地跡だ。どっちも封鎖されてるが、記録に照らす限りは継承可能地に指定されている」カナが足元の砂を軽く蹴りながら問い返す。「順番って、関係あるの?」セツは首を横に振る。「いや、各継承地はそれぞれ独立してるらしい。ただ、行けるタイミングを逃せば、アクセス不能になる可能性はある。施設の崩壊、敵対勢力の介入、地形の封鎖……理由はいくらでもある」アキラは黙って空を見上げた。薄雲の向こうに、夕日がにじんでいる。「都市部に行こう」アキラの言葉に、セツとミナが視線を向ける。「理由は?」「人がいた痕跡が残ってる方が、何かしら拾える。全くの無人より、リスクがあっても可能性がある方がマシだ」それは彼にとって、自然な判断ではなかった。だが、そう口にしたとき、カナはほんの少しだけ目を細めてうなずいた。成長ではなく、変化。守られていた立場から、自ら決断する側へ。彼の中で、何かが確かに動いていた。その声に、誰も異論は出なかった。ノアは焚き火のそばで、毛布にくるまりながら静かに丸くなっている。火に照らされた頬は子どものように穏やかで、まるで何も知らない者のようだった。その夜。眠りに落ちた一同の中で、ただ一人、カナだけが――夢を、見た。場所は、廃れた都市の一角。鉄骨の剥き出しになった高層ビル。割れたアスファルト、焦げた壁、空には煙が立ち込めていた。どこかで火災報知器が鳴り続けている。見覚えがあった。セツの端末で見た、次の継承地――都市部の旧医療施設。カナはその空間の中に立ち尽くしていた。視界の奥。廃墟の廊下に、一人の少女がいた。ノア。だがその体は、黒い鋼の腕に拘束されていた。巨大な蜘蛛のような異形のAI兵。無数の脚を持ち、眼球のようなセンサーを輝かせる金属の怪物。ノアは何も言わない。叫びも、抵抗もなく、ただ静かに連れていかれる。「ノア!
last updateLast Updated : 2025-07-24
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その手を、今度は

朝だった。けれど、光はどこか白く濁っていた。古い廃屋の窓から差し込む陽射しは、埃と静けさを巻き込んで、眠る少女の頬に淡く落ちる。ノアはまだ眠っていた。小さく丸まって、毛布にくるまれて。その隣に、カナは膝を抱えて座っていた。眠れないまま朝を迎えたらしい。──あの夢が、まだ胸の奥に残っていた。ノアの手が、すり抜けていった。また一人ぼっちだね、と微笑んで消えていった。その笑顔が、どうしようもなく悲しかった。カナはそっと、ノアの手を握った。あたたかかった。ちゃんと、ここにいる。それだけで少し、息ができるような気がした。「起きてるのか」振り返ると、セツがいつの間にか戻っていた。肩口にうっすらと土埃がついている。ミナもすぐ後ろにいる。「都市の外れまでまわってきた。地図と地形が一致しねえ。再構築されてる」「誰に?」「知らねえ。でも、わざとやってる。隠すためって感じじゃねえ。“何かに誘導してる”みてえだった」「……気味悪いな」ミナは小さく呟きながら、端末を起動する。「でも進むしかないんでしょ? 第……次の継承地に」「旧都市部。医療施設跡だ。正式な記録にはもう残ってねえ。俺たちも、見たことねえ場所だ」セツが口調を重くする。情報がない、というより、“削られている”ような感触。「迂回ルートは?」「ひとつだけ、廃線ルートが使えそうだ。車両は無理だが、人だけなら抜けられる。途中で見つかればアウトだがな」「監視は?」「表面にはねえ。けど、動きのない目が残ってる。全部壊れてるわけじゃなかった」ミナがカナの方をちらりと見る。「……ノアは?」カナはノアの手をそっと握り直す。「まだ寝てる。けど、平気。きっと、目を覚ましたらまた“おはよう”って言うよ」その声には、確かな意志があった。昨日まではなかったはずの、静かな強さ。「……準備するか」セツが荷物を整え始める。ミナも手際よく装備を確認する。廃屋の空気は、どこかやけに澄んでいた。静かすぎて、音を立てるのが憚られるほどだった。ノアの手は、あたたかかった。カナはそのぬくもりをもう一度確かめるように、ゆっくりと立ち上がった。ノアが目を覚ましたのは、準備がほとんど整った頃だった。「あれ……もう朝?」毛布の中からひょこっと顔を出し、眠たそうに目をこする。その動きはいつも通りだった。
last updateLast Updated : 2025-08-07
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優先識別

ルートのトンネルを抜けた瞬間、空気が変わった。湿った土と錆びた鉄の匂いが、ぴたりと途切れる。そこから先は──何も匂わない。アキラたちは線路跡を外れ、崩れたビル群の影を抜けた。旧都市部のはずれ、地図にも残っていない場所に、それはあった。巨大な医療施設──だったもの。外壁は崩れ、屋上は抜け落ち、骨組みがむき出しになっている。けれど、入口だけが異様に整っていた。剥がれ落ちたタイルの境目から、まるで別の時代が覗いているみたいに、そこだけ新しい。「……ここ」先頭を歩いていたノアが、足を止めた。振り返った瞳は、どこか遠くを見ている。「誰かが、泣いてた気がする」その声に、風が一瞬止んだように感じた。ミナがわずかに眉をひそめ、端末をスライドして周囲をスキャンする。「演算残響かもね」「……えんざん……?」とカナが聞き返す。「強い感情が、その場の波形として空間に焼き付く現象。 笑い声も、泣き声も、場合によっては何十年も残る」ノアは聞いていないように、入口の床を見つめていた。何もない。ほこりすらない。まるで、昨日ここで誰かが靴を揃えたかのように整っている。アキラはその光景に、無意識に左腕へ視線を落とした。衣服の下、前腕の刻印がじわりと熱を帯びる。痛みではない。けれど、血の温度が変わるような感覚に、喉の奥がわずかに締まる。「どうする」短く問うセツに、ミナが「入るしかない」と答える。セツは無言で入口脇のパネルに手を置いた。もちろん反応はない。だが彼は手を離さず、膝をついて配線口をこじ開け、細い工具を差し込む。カツン、と金属の感触が響き、微弱な光が配線の奥を走った。「……生きてる」セツが呟く。アキラは一歩後ろに下がり、ノアとカナを視界の端に収めたまま周囲を見張った。「じゃあ、開けるぞ」低く言うと、セツは端末を繋ぎ、静かに信号を送った。かすかな機械音。埃まみれの自動ドアが、ためらうように左右へ開いた。その奥に広がっていたのは、崩れた外観からは想像できないほど、異様に整った白い廊下だった。廊下は、まるで時間が止まったようだった。壁も床も白く、割れや欠けひとつない。だが、その無傷さが逆に不気味だった。照明は落ちているはずなのに、光源の見えない淡い明かりが空間を満たしている。「……外とは別世界だな」アキラが小声で
last updateLast Updated : 2025-08-08
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白い廊下は呼んでいる

廊下の空気が変わった。心理支援区画を出た途端、あの白い壁の清潔さが、どこかねっとりとした質感に変わっていく。光は同じはずなのに、陰影が濃くなり、呼吸のたびに肺の奥がざらつく。「……まだ奥がある」ミナが端末を見ながら呟いた。地図上ではここで行き止まりになっている。だが、表示の下に薄く灰色のラインが延びているのを、彼女は見逃さなかった。封鎖用の鋼製シャッターが廊下を塞いでいる。長年動いていないはずなのに、表面にほこりが積もっていない。セツが前に出て、旧式のアクセスパネルをこじ開ける。工具の先が金属を削る音が、やけに大きく響いた。「……通電してるな」低く言い、端末を繋ぐ。数秒後、シャッターのロックが外れる音がして、ゆっくりと上下に分かれていく。開いた隙間から、奥の空気が押し寄せた。匂いは──ない。湿気も、金属臭も、血の匂いすらも。まるで全ての感覚が削ぎ落とされた真空のようだった。アキラは無意識に腕の刻印へ視線を落とす。服の下で、微かな熱がじわじわと広がっている。理由はわからない。ただ、その熱は奥へ進むごとに強くなる予感がした。「やめるなら今だぞ」セツが振り返る。カナはわずかに息を吸い、首を振った。「まだ……行く」一行は慎重に足を踏み入れた。通路は狭く、両脇の壁には古びた擦過痕が点々と続いている。爪で削ったような跡。あるいは、硬い器具で無理やりこじ開けたかのような傷。数歩進んだところで、カナが小さく眉をひそめた。「……目が回る……」ノアも同時に足を止め、壁に手をつく。顔色が、紙のように白い。「演算残響が濃くなってる。長くいると意識が持っていかれる」ミナの声は淡々としていたが、その指は端末の入力を急いでいる。「戻るか?」とセツ。カナは小さくかぶりを振る。「まだ……」先へ進む。足音が吸い込まれていく。曲がり角をひとつ抜けると、空間の奥に、鈍い銀色の光がぼんやりと浮かんでいた。銀色の光は、壁面に埋め込まれた円形の装置から漏れていた。表面は鏡のように滑らかで、中心にはかすかな脈動がある。心臓の鼓動にも似た間隔で、淡く明滅を繰り返していた。「……何だこれ」アキラが低く呟く。装置からは音も熱も感じない。ただ、近づくたびに皮膚の内側がざわつく。髪の毛が立つような微細な振動が全身を包み、呼吸のリズムまで乱される。ミナが端末を翳すと、画
last updateLast Updated : 2025-08-09
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光輪の檻

継承が終わった直後、部屋の空気はまだ重かった。カナは椅子に腰掛けたまま、額に浮いた汗を拭うこともできずにいる。吐き気と頭痛が交互に押し寄せ、呼吸が浅くなる。「このまま引き上げるべきだ」セツが低く言った。声に感情はなく、ただ判断を下すような響きだった。「でも……」ミナが端末から顔を上げる。「中枢ブロックがまだ残ってる。未回収の記録もある。この状態で外に出たら、次に来る時は封鎖されてるかもしれない」カナは返事をしなかった。視界の端でノアが心配そうにこちらを見ている。アキラはカナの肩に手を置き、ほんのわずかに力を込めた。やがてセツが短く息を吐く。「行くぞ。長居は得策じゃない」廊下は異様に真っ直ぐで、先が見えないほど暗い。壁のランプはところどころ壊れ、影が揺れている。足音だけが響き、外の世界と隔絶されている感覚が強まっていく。途中、「幸福メトロノーム」の設置区画を通過した。かつては笑顔を検出し、一定のリズムで点灯していたであろう装置は壊れ、赤ランプが不規則に点滅している。かすかなガスの匂いが鼻をかすめ、アキラは無意識に呼吸を整えた。ノアが足を止めた。視線は壁に向けられているが、その表情は何かを“聴いて”いるようだった。「……今、何か音がした?」ノアの問いに、誰も答えない。代わりに、小さな機械音が「ピ」と短く鳴り、廊下の奥で反響した。アキラは眉をひそめ、視線を先に送る。暗がりの奥に、何もいないはずの空間が妙に“在る”ように感じられた。誰も声を出さないまま、一行は再び歩き始めた。息が詰まるほどの沈黙の中、奥へ奥へと進んでいく。廊下を抜けると、広い中庭のような空間に出た。天井は高く、所々が崩れ落ちて夜の闇が覗いている。雨が降った形跡はないのに、床は薄く濡れ、靴底が吸い付くような音を立てた。中央には壊れかけた受付カウンターがあり、その奥に複数の扉が並んでいた。どれも古びてはいるが、不自然に“使用中”のランプが灯っている。「電源が死んでるはずじゃ……」ミナの声が細く揺れる。アキラは扉に近づこうとしたが、セツが手を伸ばして制した。「……待て。向こう側に“何か”いる」そう言って耳を澄ます。カチ、カチ、と金属を軽く叩くような音が、奥の扉から響いてきた。規則性はない。だが、完全な偶然とも思えない間隔だ。ノアがカナの袖を軽く引
last updateLast Updated : 2025-08-09
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檻の向こうから

ノアは光輪の檻の中央で立ち尽くしていた。青白い光は揺らぎもせず、彼女の足元を正確に囲い込み、結界のように形を保っている。アキラは一歩踏み出した。だが光の縁に触れた瞬間、皮膚が焼けるような熱が迸り、反射的に後退する。それは炎の熱ではない──もっと冷たい、骨の芯まで刺すような感覚だった。「……入れない」かすれた声が漏れる。カナは檻のすぐ外まで膝をつき、ノアに必死に呼びかけた。「ノア! こっちを見て! 今すぐ出ないと!」その声は震え、焦りを隠せない。だがノアは瞬きすらせず、視線を外界に向けない。まるでこの場の空気とは別の、どこか遠い場所を見ているようだった。唇がかすかに動くが、声にはならない。「反応しない……」ミナが端末を覗き込み、手を止めた。彼女の眉間に深い皺が刻まれる。「これ、防御フィールドじゃないわ」「じゃあ何だ?」セツが低く問い詰める。「転送の予備動作よ。光輪全体が“座標合わせ”をしてる……」ミナの声が一段と冷える。「つまり、このままだと──どこかに持っていかれる」アキラは息を呑み、再び檻の縁を睨んだ。光の表面が、微かに波打つ。それは呼吸のようにも、脈動のようにも見えた。胸の奥で、焦りがじわじわと広がっていく。一秒ごとに、ノアが遠ざかっていく気がした。ノアの足元の光輪が、ゆっくりと回転を始めた。床に刻まれた円形のパターンが、次々と淡く浮かび上がる。まるで見えない針が座標をなぞっているように、規則的な間隔で光が流れていく。「……速くなってる」ミナの声は限界まで低く、冷たい。カナは必死にノアの両肩を揺さぶろうとするが、光輪に触れた瞬間、鋭い静電のような衝撃が腕を弾いた。「っ……!」指先がしびれ、感覚が一瞬途切れる。それでも離れられず、カナは檻のすぐ外で必死に呼びかけ続けた。「ノア! お願い、帰ってきて!」返事はない。ノアの瞳孔はわずかに開き、どこかを見上げていた。そのとき──廊下の奥、暗闇の向こうで何かが光を反射した。一瞬だけ、銀色の輪郭。アキラは反射的に腰の刃に手を伸ばす。「……見られてる」吐き出すように呟くと、背筋に冷たいものが走った。影は人の形をしていた。しかし、輪郭は機械のように硬質で、動きには一切の揺らぎがない。その存在はただ静かに、檻の中のノアを見つめていた。次
last updateLast Updated : 2025-08-10
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転送

暗闇が、形を持ったように動いた。湿った空気の向こう、光輪の檻の外縁──そのさらに奥。黒く無機質なスーツが、天井のわずかな光を吸い込みながら現れる。仮面のように表情を持たない顔。その奥、細く切られたスリットが淡く光っている。長い黒髪が無音で揺れ、歩くたびに微かに空気が震える。「……アイン」セツの声はほとんど吐息だった。この距離で、その名を呼ぶことの危うさを知っている声音。アキラは反射的に刃を握りしめた。だがアインはそれに視線を向けない。まるで存在そのものが、目的以外のすべてを拒絶しているようだった。足音はしない。しかし次の瞬間、距離が詰まっている。一歩、また一歩──時間が間引かれたような、不自然な移動。気づけば光輪のすぐ外まで来ていた。カナが即座に前へ出ようとする。だが、光輪の壁に触れた瞬間、透明な衝撃が体を押し返す。膝をつき、悔しげに歯を食いしばるカナの横顔に、アインは視線を落とすことすらしない。仮面のスリットがわずかに細く光を増す。ノアの瞳がその光をとらえた瞬間、動きが止まった。まぶたすら動かせず、視線だけが磁石に吸い寄せられたように固定される。「……見るな!」アキラが叫び、光輪へ踏み込む。刻印が熱を帯び、皮膚の下で脈動する。だが足が縁に触れた瞬間、障壁はさらに硬くなり、氷の刃を突きつけられたような冷たさで拒絶した。アインは一言も発しない。ただその存在だけで、空気が押しつぶされていく。ノアの肩がかすかに震え、その唇がわずかに動く。だが、そこから音がこぼれることはなかった。ミナの指が端末の上で止まる。「……まずい、光輪の反応が変わった」低い声に全員が振り返る。「外から同期をかけられてる。あれ……アインのスーツだ。障壁が二重になってる」アキラは奥歯を噛みしめ、もう一度踏み出そうとした。だがアインの仮面がゆっくりとこちらを向いた瞬間、心臓の鼓動が一拍、抜け落ちた。まるで、その視線だけで動きを止められたかのように──。アインの仮面から放たれる視線は、刃物ではなかった。それは無音の鎖。視線を受けた瞬間、筋肉が収縮し、全身が硬直する。アキラは足を踏み出したまま止まり、肺の奥に冷たい空気が滞るのを感じた。「……動けない……?」喉から押し出された声は、自分のものとは思えないほど弱かった。セツは一
last updateLast Updated : 2025-08-11
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奪われた輪の中心で

ノアの呼吸は浅く、肩が小刻みに上下していた。光輪の檻はもう消えているはずなのに、足元にはまだ残像のような淡い輪郭が見える。床にこびりついた光の痕が、まるで焼き印のようにノアを縛り続けていた。カナはその前にしゃがみ込み、額に手を当てた。「熱い……」指先から伝わる熱は、体温というよりも、どこか機械の発熱に近い不自然さを帯びている。「……起きて」呼びかけても、ノアの瞳は焦点を結ばない。薄く開いたままの瞼の奥で、瞳孔がわずかに揺れている。その時、廊下の奥──闇の中で足音が響いた。硬質で、規則正しい、まるで時間そのものを刻むような歩み。アキラの背筋が凍る。「……来る」セツの低い声が全員を緊張させた。足音は、ためらいなくこちらへ近づいてくる。やがて、闇の奥から姿を現したのは──黒く無機質なスーツに身を包み、仮面のような顔をした女。腰まで届く黒髪が、ゆるやかに揺れた。その存在感は、光を拒む影の塊のようで、近づくほど空気が冷たく沈んでいく。「……アイン」ミナがかすれ声で名を呼ぶ。アインは立ち止まり、何も言わずにノアを見つめた。その視線は、感情のない観測装置のように冷たく、しかし一点に向けられた執着だけは隠そうともしない。カナが立ち上がり、ノアを庇うように前に出た。「来ないで……!」声は震えていたが、その足は一歩も引かない。アインは応えない。ただ静かに手を伸ばし、その指先がわずかに光を帯びた。次の瞬間、空気が圧縮されるような低音が廊下全体に響き、床の残光がふたたび輪を描き始めた。光の輪が瞬く間に完成し、ノアの足元を囲った。その輝きは先ほどよりも濃く、触れれば即座に焼き切られると本能が告げてくる。「やめろ!」アキラが叫び、刃を抜いて踏み込む。だが輪の縁に近づいた瞬間、見えない衝撃波が全身を叩きつけ、肺の奥から息を奪った。膝が床に着く音と同
last updateLast Updated : 2025-08-12
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消えた少女と残された痛み

光が収束した時、ノアの姿は跡形もなく消えていた。アキラは呆然と立ち尽くし、カナは床に膝をついたまま動けずにいた。湿った床には、ノアが立っていた場所だけ、かすかに光の残滓が輪を描いている。「……嘘だろ」アキラの声が震えた。拳を握りしめた手から、血が滴り落ちる。「俺たちは……何をやってたんだ……」セツは沈黙を保ったまま、消失地点を見つめていた。その目には怒りと、そして深い無力感が宿っている。ミナが静かに端末を操作する。「転送痕を解析してみる……座標は……」画面に表示された数値を見て、彼女の表情が暗くなった。「幸福圏中央管理塔。ゼオの中枢直下よ」「中枢……」カナがかすれた声で呟く。顔は青白く、瞳は焦点を失っていた。「ノアが……あんなところに……」涙が頬を伝い落ちる。それは悔しさと無力感、そして深い喪失感が混ざった涙だった。アキラは壁を拳で叩いた。鈍い音が響き、コンクリートに小さなひびが入る。「くそっ……!」痛みなど感じない。それよりも、心の奥で渦巻く怒りの方がよほど激しかった。「俺は……また、誰かを守れなかった……」セツが重い口を開く。「……自分を責めるな。相手が悪すぎた」「でも!」アキラが振り返る。「俺たちには力があるはずじゃないか!継承者だって、記録者だって……それなのに、たった一人の子供も守れない!」その叫びに、誰も答えられなかった。確かに彼らは力を得ていた。だが、それはまだ世界を変えるには足りなすぎる力だった。ミナが立ち上がり、カナの肩にそっと手を置く。「……ここを離れましょう。いつまでもここにいるわけにはいかない」カナは返事をしなかった。ただ、消失地点を見つめ続けている。「カナ……」アキラが声をかけると、ようやく彼女は顔を上げた。「……私、何もできなかった」その声は空虚で、どこか遠くから聞こえてくるようだった。「記録者なのに……ノアの手を握ってたのに……何も」「お前のせいじゃない」「わかってる。でも……」カナは両手で顔を覆った。「わかってるけど、やっぱり……悔しい」-----同時刻。幸福圏中央管理塔、第零層。白い光に満ちた無機質な空間で、ノアは透明な筒状の装置の中に浮かんでいた。意識はなく、穏やかな寝顔を浮かべている。装置の周囲には無数のケーブルが伸び、彼女の生体反応を詳細に監視し
last updateLast Updated : 2025-08-13
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