鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました のすべてのチャプター: チャプター 381 - チャプター 390

457 チャプター

第381話

「分かっているよ。もう引き留めても無駄だってことくらい……せめて今夜だけは、私の可愛い孫のお嫁さんとして、最後の夕食を付き合っておくれ」……深雲が清音を連れて帰宅した頃には、すでに日は落ちてあたりは暗くなっていた。ただ、典子の住む離れだけが煌々と明かりを灯している。玄関をくぐると、ふわりと食欲をそそる匂いが漂ってきた。深雲は一瞬足を止め、リビングへと視線を向ける。そこには、ダイニングテーブルにつき、典子にスープをよそってやっている景凪の姿があった。その光景は、暖色系の照明に照らされ、あまりにも温かく、そして見慣れたものだった。まるで、ここ数日の景凪との争いなど全て悪夢だったのではないかと錯覚するほどに。夢から覚めれば、また彼女は俺の『景凪』に戻り、こうして祖母の世話をしながら、俺の帰りを待ってくれているのではないか――と。だが次の瞬間、景凪がスッと顔を上げ、深雲の幻想を粉々に砕いた。彼に向けられたその眼差しには一片の熱もなく、氷のように冷え切っていたのだ。深雲は気を取り直し、表情を引き締めて歩み寄った。「ひいおばあちゃん!」清音が真っ先に駆け出し、典子の懐へと飛び込む。典子にすれば、姿月に懐いていることへの不満はあるものの、やはり曾孫は可愛い。清音の愛らしい笑顔を見ると、強張っていた表情も自然と緩んだ。彼女は両手を広げ、小さな体をしっかりと受け止めた。「おばあさん」遅れて深雲も声をかける。だが、典子は一転して彼を睨みつけた。「お前みたいな孫を持った覚えはないよ!あんな女のために、病院で私に盾突くなんて!」さらに、研時のことを思い出したのか、怒りがぶり返したようだ。「研時もだよ、まったく大馬鹿者め!源三さんも、あのとき鞭でも使ってもっと厳しく折檻しておけばよかったんだ!」深雲は反論しなかった。ただ黙って頭を下げ、祖母の叱責を受け流す。言いたいことを言って少し気が済んだのか、典子の剣幕がやや和らいだ。「清音、手を洗っていらっしゃい。ご飯にするよ」「はーい」清音は素直に返事をしたが、部屋に入ってからずっと、横目で景凪の様子を窺っていた。以前なら、目が合うたびに微笑んで、『清音ちゃん』と優しく声をかけてくれたはずなのに。今日の母は、一度としてまともに目を合わせようとしなかった。清音は不安
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第382話

清音は呆然と立ち尽くした。姿月ママを選べば、目の前のママを失ってしまうの……?昨夜のことが頭をよぎる。姿月は泣きながら謝ってくれた。この前キツく当たってしまったのは、清音を愛しすぎるあまり、景凪に奪われるのが怖かったからだ、と。彼女はボロボロと涙をこぼしていた。「清音ちゃん……私はずっと、あなたを本当の娘だと思ってきたの。だから、姿月ママのことを見捨てないで……」清音は誓ったのだ。絶対に姿月ママを見捨てたりしない、と。景凪は、娘の瞳に浮かぶ迷いを読み取った。これ以上彼女を追い詰めるつもりはないし、自分自身を傷つけるのも、もうたくさんだ。景凪はタオルを置くと、背を向けて歩き出した。「ママ……」清音はとっさに手を伸ばし、甘えるような声を出す。だが今回は、景凪が振り返ってその手を握り返してくれることはなかった。ただ肩越しに一瞥をくれただけだ。「大した高さじゃないから、自分で降りなさい」清音は仕方なく、一人で踏み台から飛び降りた。短い足で懸命に後を追い、ダイニングへ戻った頃には、景凪はすでに席についていた。彼女の隣の席は空いている。清音は少し迷ってから、すがるような目で景凪を見つめた。「こっちへおいで」と呼んでくれるのを待っていたのだ。だが、景凪は彼女の視線になど気づかないかのように、黙々と典子にスープをよそっている。「……」清音は唇をへの字に曲げ、こみ上げる寂しさを飲み込んだ。そしてくるりと背を向けると、深雲の元へ走って行った。「パパ、ここ座る」食事の間中、景凪は典子とだけ言葉を交わし、深雲や清音には一度として視線を向けなかった。深雲も、そのあからさまな無視に気づいていた。自分への態度は百歩譲っていいとしても、清音は実の娘だぞ。まさか、姿月に懐いているからという理由だけで、たった五歳の子供相手に意地を張っているのか?幼い頃から世話をしてくれた人間に情が移るのは、子供として当然のことじゃないか。深雲は険しく眉を寄せた。食事が一通り済むと、深雲は使用人に命じ、清音を外へ連れ出させた。ここから先は、子供の耳には入れられない話になる。一行は、典子の書斎兼茶室へと場所を移した。「景凪、この年寄りに付き合ってくれてありがとうね」典子は悟っていた。景凪が今日ここへ足を運んだ本当の
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第383話

あれに初めて目を通した時、あまりの内容に血を吐くかと思ったほどだ。協議書の中で、景凪は彼の資産のきっちり半分を要求していた。現金から不動産、自社株オプションに至るまで……何一つ取りこぼしなく、だ。深雲は冷ややかな目で景凪を睨みつけた。その眼差しは凍えるように冷たく、嘲りに満ちている。「俺に嫁いで七年、その代価が数千億円か。景凪、お前はただの天才科学者じゃないな。生まれついての『女優』だよ」彼は、彼女が捧げてきた年月と愛情の全てを、金目当ての茶番に過ぎなかったと貶めたのだ。彼女という人間を、そして彼女の愛と献身を、足蹴にするように侮辱した。景凪は、さざ波ひとつ立たない表情でそれを聞き流す。だが、黙っていられなかったのは典子だ。彼女は手近にあった茶碗を掴むと、中身ごと深雲の顔面にぶちまけた。「馬鹿者!なんて口を利くんだ!景凪が財産の半分を持っていこうと、それは当然の権利だよ!彼女の献身なくして、今のあんたがあると思うのかい!」景凪は静かに深雲へペンを差し出した。キャップまで外してやるという周到さで、サインを促す。典子は何か言いたげに口籠もった後、意を決したように切り出した。「景凪……あの、伊雲の動画と写真のことなんだが……」どれほど愚かで残酷な孫娘であろうと、やはり血を分けた可愛い孫には違いない。典子が見捨てることなどできなかった。景凪は淡々と答えた。「典子様。撮影に使ったカメラは、あるスーパーのコインロッカーに預けてあります。私が、深雲の署名入り離婚協議書を持って無事にこの家を出られたら、ロッカーの場所と暗証番号をお送りします」今の彼女には、鷹野家に対する信頼など欠片も残っていない。たとえ典子がどれほど自分を可愛がり、目をかけてくれていたとしても――結局のところ、彼女もまた『鷹野の人間』なのだ。景凪はもう、人の善意に賭けるような真似はしない。彼女がたった一人でこの伏魔殿のような本邸に乗り込んでこられたのは、切り札を用意していたからだ。景凪は腕時計に目をやると、事務的に告げた。「もし夜の十時を過ぎても私がまだここにいるようなら、担当弁護士の桐谷先生が警察を引き連れて安否確認に参ります。それと同時に、例のカメラも……『パイオニア・エンタメ』の記者が偶然発見し、うっかりネットに流出させてしまう手筈になっ
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第384話

書き終えるや否や、ペンを冷たく放り投げた。「これで満足か」彼は眉を吊り上げ、景凪を見やった。普段は優しげで情愛を湛えているその瞳には、今や氷のような皮肉と、わずかな嫌悪の色が浮かんでいる。満足、だと?ふん、こんなものはほんの序章に過ぎない。景凪は表情一つ変えず、離婚協議書を丁寧にしまい込んだ。そのあまりに淡々とした態度が、深雲の苛立ちに油を注ぐ。「何年も猫を被り続けて、離婚となれば最後にごっそり毟り取る気か……大した女だよ、お前は」「……」聞き捨てならない言葉に、典子が口を挟もうとした。だが、それより早く、景凪の唇から乾いた笑いが漏れた。「ふふっ」彼女はようやく顔を上げ、かつて自分の半生を捧げて愛した男を見つめた。以前なら、ただその顔を見ているだけで心が和み、幸せを感じられたものだ。しかし今、同じ顔を見ても、こみ上げるのは吐き気をもよおすほどの嫌悪感だけ。もしかしたら、彼は最初から特別な存在などではなかったのかもしれない。ただ自分の愛が、彼という平凡な男に金メッキを施していただけなのだ。その眼差しには重い感情が込められており、深雲は居心地の悪さを感じて眉をひそめた。「何がおかしい」景凪は口元の笑みをさらに深め、頬杖をついて彼をまじまじと見つめた。「おかしくて。以前はどうして気づかなかったのかしら。あなたって、顔立ちは平凡なくせに、自己愛だけは人一倍お強いのね」深雲の瞳に怒りの色が走る。「景凪!」「ねえ、深雲。自分の胸に手を当てて聞いてみなさいよ。あなたって男は、私が十五年もの歳月を費やしてまで罠にかける価値があると思う?」景凪は気だるげな口調で、侮蔑を込めて言い放った。「家柄を取り払ってみれば、あなたの能力なんて凡庸そのものよ。私の遺伝子レベルが下がってしまうわ。それに、鷹野家は確かに資産家だけれど、トップクラスの名家というわけでもないでしょう」深雲の顔色が見る見るうちにどす黒くなっていくのを眺めながら、彼女の笑顔はいっそう輝きを増した。「安心して、鷹野さん。もし私が若気の至りで目を曇らせていなくて、本気で玉の輿を狙っていたとしたら――あなたなんか、百パーセント選ばなかったわ」ガタッ!深雲は勢いよく立ち上がり、椅子が床を削る音が響いた。「景凪、よくも言ってくれたな!」「深雲!
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第385話

残されたのは、たった一通の手紙だけ。「静かな場所で最後の医学書を完成させたい。探さないでほしい」と書かれていた。当時、彼女が深雲との結婚を決めた際、祖父は決して賛成とは言えなかった。だが、反対もしなかった。「お前はお母さんに似て強情だ。わしには止められん。この先の人生、苦しかろうが楽しかろうが、全てお前自身で責任を取るんだぞ」景凪に後悔はない。愛したからこそ、すべてを投げ打ったのだ。ただ、その愛の道のりは……あまりにも苦難に満ちていたけれど。景凪は鼻の奥がツンとするのを必死にこらえ、典子に懇願した。「典子様。もし祖父の行方をご存じでしたら、どうか教えてください。もう一度だけ、おじいちゃんに会いたいんです」典子は長い間、葛藤していた。目の前の景凪の、あまりに痩せ細った顔を見ていると、ふと彼女と初めて会った頃のことが思い出される。当時十二歳だった景凪は、活発で物怖じしない少女だった。キラキラした瞳で駆け寄ってきて、「おばあちゃん、とっても優しそうなお顔ね」と言ったものだ。典子は目を閉じ、深く吐息を漏らした。「……いいだろう。一度だけ、約束を破ることにするよ。……ただ、景凪。心の準備だけはしておきなさい」景凪の心臓が早鐘を打つ。不吉な予感がしたが、あえて深くは聞かず、短く答えた。「はい」典子は便箋に住所を書き記し、景凪に手渡した。「面会できるのは日曜日だけだよ」景凪はその住所を頭の中で二度反芻し、大切に懐へしまった。そして静かに立ち上がり、別れを告げる。「典子様。お暇いたします……どうぞ、お体をお大事になさってください」「景凪!」典子はたまらず追いすがると、その手を握りしめた。老いた瞳から堰を切ったように涙があふれ出す。震える手で景凪の頬に触れた。「いい子だねえ……今まで、本当に苦労をかけたね。どうか……どうか達者で。この年寄りを、許しておくれ……鷹野家を、許しておくれ……」景凪は身を屈め、典子の体をそっと抱きしめた。「今まで、良くしていただきました。貴女がご自分の家族を守ろうとされるのは、何も間違っていません」彼女には分かっていたのだ。典子の葛藤も、そして最終的に選んだ道も。どれほど自分を可愛がってくれても、彼女は『鷹野家の大奥様』なのだから。典子の体が激しく震えた。全てを見透かされている―
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第386話

景凪は歩を進めながら、冷ややかな一瞥を背後に投げた。典子の手配したボディガードたちが、付かず離れずの距離を保って警護にあたっている。本邸の脇を通りかかると、そこは煌々と明かりが灯っていた。二階の寝室からは、物を叩きつける派手な破壊音と共に、伊雲のヒステリックな金切り声が響き渡っている。「出てってよ!みんな大っ嫌い!海外なんて絶対行かないから」髪を振り乱した伊雲が、バルコニーへ飛び出した。「誰か近寄ったら、ここから飛び降りてやるんだから」文慧は気が気でない様子だ。「伊雲、お願いだから早まらないで。お父さんが海外でほとぼりを冷ませっていうのは、あなたのためなのよ。半年も向こうにいれば騒ぎも収まるわ。そうしたら帰ってくればいいじゃない」伊雲がキーキーとわめく。「どうして私が逃げなきゃいけないの。やましいことなんて何もないわ。あの男たちに指一本触れられてないんだから」「で、でも……世間がそう信じてくれなきゃ意味がないのよ」文慧は頭を抱えた。「縁談が進んでいた名家の方々も、今は皆、潮が引くように離れていってしまったわ。お父さんだって顔に泥を塗られて……」文慧は必死に娘を諭す。「伊雲、いい子だから言うことを聞いてちょうだい。ネットの情報なんてすぐに流れていくわ。しばらく海外で身を潜めていれば、みんなあなたのことなんて忘れてしまうから」伊雲は半狂乱だ。「犯されてなんてないって言ってるでしょ!本来なら社会的に抹殺されるべきなのは穂坂景凪、あの女よ。全部あいつのせいなのに……」泣き叫び暴れる伊雲の視界の端を、ふと見覚えのある人影がよぎった。伊雲は見開いた目に憎悪をたぎらせ、歯噛みする。「穂坂景凪……!よくもぬけぬけと戻って来られたわね、このアバズレが」止めようとする文慧を体当たりで突き飛ばし、錯乱状態で部屋を飛び出す。テーブルの上にあったハサミを鷲掴みにすると、彼女は階段を駆け下り、一直線に景凪のもとへ向かった。「穂坂景凪、どの面下げて私の前に現れたのよ」伊雲は金切り声を上げ、景凪に襲い掛かる。「殺してやる」だが、その切っ先が景凪の服の裾にかすることすらない。闇の中から現れた二人のボディガードが、左右から伊雲の腕を捻じ上げたからだ。彼女はまるで鶏の雛のように、あっけなく吊るし上げられた。「放しなさいよ!」伊雲は口汚く
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第387話

景凪の唇に、冷ややかな嘲笑が浮かぶ。自分と伊雲は、たった一歳しか違わないというのに。「お母さん、立ってよ!こんなあまっちょろい女に怯えることなんてないわ。私を殺せるもんですか。ここは鷹野の家よ、穂坂の分際ででかい顔するなんて許さないんだから」伊雲の顔は狂気で歪んでいた。景凪を睨みつけるその目は、殺せるものなら食い殺してやりたいという憎悪に満ちている。「穂坂景凪……お兄ちゃんもお父さんも、私の味方なんだからね。私に傷一つでもつけてごらんなさい、後で地獄を見ることになるわよ」喚き散らす伊雲を見下ろしながら、景凪はふと、その憎らしさと共に、どうしようもない浅ましさに憐れみさえ覚えた。「その子を放してあげて」景凪の声は、拍子抜けするほど軽やかだった。ボディガードたちは顔を見合わせ、躊躇いの色を見せる。「ですが、穂坂様……」「あなたたちの目の前で、私に傷など負わせられるはずがないでしょう?」その言葉に納得し、男たちはようやく腕を拘束していた手を解いた。自由になった瞬間、伊雲は獣のような咆哮を上げて景凪に突進した。だが、景凪は身を翻してそれを避けると、すれ違いざまに彼女の髪を鷲掴みにする。そのまま容赦のない力で髪を引きずり、すぐそばの池へと彼女を連行した。景凪は伊雲の後頭部を押さえつけ、その顔を生臭く冷え切った水面へと沈める。「伊雲!」文慧が金切り声を上げて駆け寄ろうとするが、ボディガードたちに立ち塞がれて近づけない。伊雲が息絶えそうになった頃合いを見計らい、景凪は無造作に彼女を引き上げた。「……穂坂景凪ッ、このアマ……がぼっ!」罵倒も終わらぬうちに、再び頭を水中に押し込む。伊雲はたっぷりと泥水を飲まされた。それを何度か繰り返すうち、さすがの伊雲も心が折れたらしい。ずぶ濡れの顔を上げると、むせ返りながら泣き叫んだ。「や、やめて……許して……」景凪は濡れた髪を掴んだまま、伊雲の顔を強引に自分の方へ向けさせた。伊雲の唇は真っ青に震え、先ほどまでの狂気じみた威勢は見る影もない。「ねえ、伊雲。本当に鷹野家があなたを愛していると思っているの?」景凪は、彼女が信じていた甘い虚構の殻を突き破るように、冷淡に告げた。「あなたは深雲とは全く違う教育を受けてきたわよね。彼は幼い頃から、後継者としての資質を磨くための帝王学を叩き込ま
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第388話

すべては計算通りだ。彼女は深雲の性格を知り尽くしている。疑り深い彼は、景凪の言葉だけでは決して警戒を解かない。必ず裏を取りに来るはずだ。そして、その調査結果が「白」であれば――彼は完全に安心しきってしまう。景凪の狙いはそこにあった。彼が完全に油断したその瞬間にこそ、致命的な一撃を叩き込む。単に相手を社会的抹殺に追い込むだけでは物足りない。最高の復讐とは、相手の心を完膚なきまでにへし折ることだ。「サイン済みの株式譲渡契約書は、株主総会の当日に手元へ届くように手配するわ」斯礼がくつくつと笑う。「さっすが義姉さん……っと、もう義姉さんじゃないか。穂坂さん、だね。いやはや、昔はこんなに面白い女だなんて気づかなかったよ」彼の軽薄なお喋りに付き合う気はなく、景凪は通話を切ろうとした。「穂坂景凪」不意に、斯礼が真面目なトーンでフルネームを呼ぶ。終了ボタンを押しかけた指を止め、景凪も居住まいを正した。「何か、手落ちがあったかしら」「ははっ」斯礼が吹き出した。「いや、単なる興味本位の質問なんだけどさ」「?」斯礼は楽しげに続ける。「深雲と別れた後さ、アンタが俺と再婚したら、あいつ憤死すると思わない?」景凪は吐き捨てるように呟いた。「……頭おかしいんじゃないの」即座に通話を切る。鷹野の人間ときたら、どいつもこいつもまともな神経をしていない。景凪が家に帰り着いた頃には、既に夜の十一時を回っていた。シャワーを浴び、タオルで髪を拭きながらバスルームを出ると、スマホの画面に千代からの未読メッセージが何件も表示されていることに気づく。ロックを解除し、メッセージアプリを開く。千代:【ねえ景凪ちゃん、鷹野深雲と離婚したってマジ!?】続けて送られてきた数枚のスクリーンショットには、深雲のSNSアカウントのステータスが「独身」に変更されている様子が映し出されていた。さらに、それがトレンド入りしている画像まで。鷹野家は今まさに渦中の存在だ。深雲がステータスを変更しただけで話題になるのは当然だろう。おそらく、伊雲のネガティブなニュースを隠すための煙幕として、広報が仕掛けたに違いない。景凪は片手でフリック入力を始める。景凪:【うん。明日の朝九時、区役所に行って離婚届を出してくるわ】送信ボタンを押した瞬間、
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第389話

景凪は目を閉じ、胸の奥からこみ上げる重苦しい徒労感を飲み込んだ。千代に「おやすみ」と短いメッセージを送ると、今度は桐谷弁護士の様子を伺うようにメッセージを送る。【桐谷先生、もうお休みでしょうか】即座に返信が来た。然:【いいえ、起きてますよ。急用なら電話でも構いません】景凪は迷わず通話ボタンを押した。コール音が一度鳴るか鳴らないかというタイミングで、相手が出る。「はい、穂坂さん」景凪は深雲が離婚協議書にサインしたこと、そして明朝九時に役所で離婚届を提出することを伝えた。「桐谷先生。正式に離婚が成立すれば、次はいよいよ子供たちの親権争いになりますね」然は落ち着き払った声で答える。「ご安心ください。辰希くんが『どうしても父親と暮らしたい』と固執しない限り、親権を勝ち取る自信はあります。清音ちゃんについては、まだ五歳ですからね。法的にはまだ自己決定能力がないと見なされます。彼女の希望は、裁判官が参考程度に聞くだけです」清音が姿月に懐いている姿を思い出し、景凪の喉の奥が苦く引きつった。もし無理やり親権を奪えば、あの子は私を余計に憎むようになるかもしれない。だが、どれほど嫌われようとも、命懸けで産んだ娘を仇のそばに置いておくわけにはいかないのだ。景凪は心を鬼にして答えた。「分かりました。それでは、引き続きよろしくお願いいたします」「とんでもない、全力を尽くしますよ。協議書に基づいた財産分与の手続きについても、こちらで責任を持って進めます。鷹野深雲氏名義の資産の半分、滞りなくあなたの名義に移転させましょう」景凪は、彼が遠回しに報酬の支払いを心配しているのだと勘違いした。「先生、弁護士費用の明細を出していただけますか。なるべく早くお振込みしますので」電話の向こうで、然が乾いた笑声をあげる。「穂坂さん、誤解しないでください。催促したわけじゃないんですよ。私はただ純粋に、あなたのために喜んでいるんです。ようやくあの地獄から抜け出し、自由になれるんですから。本当に良かった」オフィスのデスクで通話中の然は、パソコン画面に表示された来月の海外行きのファーストクラスチケットを眺めながら、緩みきった頬を抑えるのに必死だった。「本当にありがとうございます。先生には、なんと感謝していいか……こんなに親身になって助けていただい
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第390話

病院の一室。深雲が目を開けると、いつの間にか自分が病室のベッドで眠っていたことに気づいた。腕の中には姿月が小さく丸まって眠っており、彼女の手が自分の手をしっかりと握りしめている。深雲は絶句した。「……」慎重に手を引き抜き、身を起こす。ベッドの足元にあるソファには、清音がブランケットにくるまって眠っていた。おそらく姿月が掛けてやったのだろう。深雲はこめかみを押さえ、眉をひそめた。なぜ寝てしまったんだ?清音を連れて自宅へ戻る途中、姿月から泣きながら電話があったのだ。「怖くて眠れない、傷が痛む」と訴える彼女の声を聞き、今日一日の祖母からの仕打ちを不憫に思って、ついハンドルを切ってしまった。様子を見たらすぐに帰るつもりだった。だが、涙ながらに「目を閉じると誰かが襲ってくる気がする」とすがりつかれ、彼女が寝付くまでそばにいてやることにしたのだ。それなのに、なぜ俺まで寝込んでしまった?しかも、同じベッドで。深雲が身を起こすと、何かの香りが微かに鼻をくすぐった。振り返ると、サイドテーブルの上に小さな香炉が置かれているのが見えた。特に気にも留めず時間を確認すると、すでに午前一時を回ろうとしている。ベッドから降りようとしたその時、背後からしなやかな腕が腰に絡みついた。姿月が背中に頬を押し当ててくる。「……深雲さん」その声は寝起きの甘い色を帯びていて、男なら誰でも骨抜きにされそうな媚態を含んでいた。「どこへ行くの。行かないで……」だが次の瞬間、潤んだように見えた姿月の瞳が一瞬だけ冷たく光った。深雲が、彼女の腕をそっと解いたからだ。ベッドを降りた深雲は、そのまま姿勢を正して彼女を見下ろした。「どこか痛むのか。医者を呼ぼう」姿月はかぶりを振った。「ううん、あなたがいてくれるだけで薬よりずっと効くの」「……」深雲は彼女の頬を優しく撫で、低い声で諭す。「いい子だ。ゆっくり休むといい。看護師を呼んでおくから。俺はもう行くよ、辰希が家で待ってるから」言い終わらぬうちに、姿月が抱きついてきた。首に腕を回され、深雲は一瞬戸惑って彼女を引き剥がそうとするが、首筋が彼女の涙で濡れていることに気づき、手を止めた。「深雲さん、怖い……あなたが今夜帰ってしまったら、もう二度と会えない気がして。結局、あなた
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