妊娠中に一緒にいた彼が、彼女を失って狂った話。 のすべてのチャプター: チャプター 421 - チャプター 430

527 チャプター

第421話

蓮司は英樹と知り合いではない。今まで接点もなかったはずだ。蓮司から見れば、英樹が天音にあんな態度をとるのは、要に取り入るためだと思った。しかし、英樹が……天音を見る目は……あまりにも複雑な色を浮かべていた。英樹の天音への想いは、蓮司を不安にさせた。「まだ行かないのか?」そのとき、要が腕時計を見ながら言った。「七時半の映画じゃなかったのか?」英樹の表情が数秒固まったが、我に返ると穏やかな声で言った。「そうだった。蛍を待たせると、きっと千葉さんに俺の悪口を言いつけるからね。では失礼」英樹が腰をかがめて銃を拾おうとすると、すぐにその手にレーザーサイトの赤い点が向けられた。英樹の表情は一瞬で凍りついた。しかし、すぐに穏やかな顔つきに戻し、体を起こして後ろに下がる。「では、また明日の夜、蛍の誕生日パーティーで会おうね……加藤さん」その言葉を、英樹は口の中で噛み締めるようにして、ようやく発した。そこには微かに冷たさが感じられた。英樹は踵を返し、その場を去った。みんなの横を通り過ぎた後、穏やかだったはずの表情は一瞬にして険しくなった。三十年前、恵梨香が去り際に彼にした約束が、頭の中をよぎった。「英樹、あなたは私のたった一人の子供よ。私を逃がしてちょうだい。ここにいたら、いつかあなたのお父さんに殺されるわ。私は彼の妻じゃない。母親として、堂々とあなたの隣に立つことなんてできないの。私はただ、松田家がその人に捧げた『モノ』にすぎないのよ」あの頃、自分は何歳だっただろうか?もう覚えていない。ただ、あの雪の夜に恵梨香を逃がしてやったことだけは、はっきりと覚えている。恵梨香は、まるで最初から存在していなかったかのように、完全に姿を消した。そして自分は、洋介の本当の息子になった。突然現れ、人々を驚かせた松田家の天才少女とは、もう何の関わりもない人間になった。しばらく歩いた後、英樹はふと振り返った。そして要の隣に立つ天音を見た。なぜ蓮司を前にして、思わず天音をかばってしまったのだろう?血のつながりが、そうさせるのか?そんなことがあるのか?だが、もし天音が恵梨香と同じ才能を持っていると知れば、必ずこの手で始末する。自分がずっと追い続けている叢雲のように。自分より強い者は全員、自分の手で叩き潰す
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第422話

「嘘つき!」天音は、蓮司の頬を平手打ちした。蓮司は天音の手を掴み、怒りと苦しみに満ちた彼女の目を見つめた。天音が抵抗したので、蓮司は彼女の手を離した。そう言うしかなかったんだ。天音がコンピューターに触れさえしなければ、その正体がばれることはない。指先にはまだ天音の手のぬくもりが残っていた。でも、風が吹くとすぐに消えてしまって、まるで錯覚だったかのように。「お母さんが、私がコンピューターを諦めることなんて望むはずがないわ。私がパソコンに触れるたび、お母さんはいつも目を輝かせていたのよ。それに、『天音はコンピューターの才能が誰よりもある』って、いつも言ってくれた」天音は怒りで全身を震わせていた。すると、その手は要にそっと握られた。天音は冷静さを取り戻した。自分の正体を誰にも知られるわけにはいかないのだ。「録音は合成よ、偽物に決まってる!どうして、私が唯一大切にしていることまで邪魔するの?」天音は恵里のことを思い出した。「私はあなたと別れた。離婚して、あなたと恵里の邪魔はしない。あなたは望み通り、恵里と堂々と一緒になれたんでしょ。なのに、どうして銃撃事件まで自作自演して、私にしつこく付きまとうの?」天音は信じられないという顔で蓮司を見た。「命懸けで愛を演じているつもり?本当に私を愛しているなら、恵里も、彼女の娘もいなかったはずよ」蓮司は、どう説明すればいいか分からなかった。恵里と一緒にいる時でさえ、頭の中にはいつも天音の姿があったからだ。でも、天音はあまりにも儚げで、触れることさえできなかった。天音への想いは、行き場をなくしていたのだ。宙に止まっていた蓮司の手は、ゆっくりと下ろされた。「恵里とは一緒になっていない。恵里の娘は、お前のために産んだ子供だ。お前が要らないなら、俺も自分の子だとは思わない。俺が愛しているのは、最初から最後まで、お前だけだ。この録音は本物だ。信じられないなら、鑑定に出してもいい」蓮司が携帯を差し出すと、天音はそれを叩き落とした。「そんなはずはない!」天音は目を赤くし、パニックに陥っていた。「お母さんは、IT会社のDLテクノロジーを私に残してくれた……」「あれは俺がお前のために残した会社だ……お前のお母さんは一つだけじゃなく、いくつものIT会社を持っていた。そして亡く
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第423話

あの時、蓮司は恵梨香に聞いたんだ。「会社は天音に残すんじゃなかったんですか?天音を留学させて、コンピューターの分野でもっと勉強させるんじゃなかったんですか?」「天音に残す必要はないわ。彼女には必要ないの。もし天音があなたの元に戻ったら、もうコンピューターには触れさせないで」天音は、そこまで聞いていた。そして、この後の言葉は、天音には聞こえなかった。「天音が帰ってきて、私がいないなら、もうその必要はないのよ……」そこまで言うと恵梨香は落ち込んだけれど、何かを思いついたようにパッと顔を明るくした。まるで最後の蝋燭の炎が燃え上がるように、一筋の光が見えたかのようだった。恵梨香が話したいくつかの言葉を、その時の蓮司はまったく理解できなかった。恵梨香は蓮司の手を握りしめて言った。「うちの天音に、一番いい道を用意したつもりだった。でも、彼女は、もっといい人と出会ったの……あの人は……もうあんなに優秀な人間になったのね……蓮司、もしもいつか、あなたと天音の縁がなくなってしまったら……彼女を手放してあげてちょうだい……もし天音が戻ってこなくても、探さないで」蓮司が天音に渡したものの中で、本物だったのはあの遺言書だけだった。だから、天音が相続した会社の株の八割は蓮司が持っていたし、天音が相続したマンションも、蓮司が所有するビルの中にあった。多額の生命保険金でさえ……純一が東雲グループの金を使い込んだせいで、彼が会社を支えきれなくなることを恐れて、天音に与えた保障だったのだ。恵梨香は重い心臓病を抱えていた。そんな状態では、どの保険会社も生命保険には加入させてくれないだろう。結局、恵梨香は心臓発作を起こし、合併症を引き起こして、手術台の上で亡くなった。だが、恵梨香が亡くなる前に残した言葉は、蓮司をひどく動揺させていた。でも、彼女を手放すことなんてできない。天音を留学させるのは恵梨香の遺言だったし、当時の天音の心を支える唯一の希望でもあったからだ。今にして思えば、恵梨香が言っていた「あの人」とは、要のことだったのかもしれない。要は十三年も前に天音と出会っていたのに、蓮司はそのことをまったく知らなかった。天音の毎日のスケジュールや会う人については、ボディーガードから報告を受けていた。ただ一人、要だけが
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第424話

母さんはどうして自分に、もうコンピューターに触ってほしくないんだろう?なんでそれを、蓮司にわざわざ言う必要があるんだ?でも、あれは本当に母が言った言葉なんだ。「何か、勘違いがあるんじゃないかな?君のお母さんは、あれほど君を愛していたんだ。好きなことを続けるのを、止めるはずなんてないさ」要は、天音の顔を両手で包み、涙をぬぐってあげた。天音は要の言葉を素直に受け入れた。彼の言うことは、天音はいつも信じている。「彼が嘘をついてるのよ。絶対にそうよ」天音が言う「彼」が誰なのかは、言うまでもなかった。「問い詰めて、はっきりさせなくちゃ」要の手は天音の顔の横で止まった。彼は静かに答える。「ああ、機会があったらな」天音はそう言ったものの、体はまだ震えていて、涙が頬を伝った。しかし、今回、要の瞳は曇っていた。要は手を伸ばして涙を拭おうとはしなかった。代わりに身をかがめると、天音の目じりの涙にキスをし、そのまま唇を重ねた。全ての感情を言葉に込め、天音の唇のすぐそばで囁いた。「最近、外は不安定だ。ハッカーが近くでうごめいていることに、君も気づいているだろう?この数日は、面倒なことがたくさん起こるだろう。目立つような真似はしないでほしい。何かやりたいことがあっても、人事異動の発表が終わってからにしろ」要は顔を上げ、天音の小さな顔を見つめた。キスをしても、天音から何の反応も返ってこないのは初めてだった。要は尋ねた。「いいな?」要は、天音が自ら蓮司に接触することを望んでいなかった。彼女の感情は、いつも蓮司のせいで乱される。それは、良いことではなかった。「しばらく、香公館に引っ越すんだ」要は彼女の耳元で言った。「安全のためだ」天音は要の視線とキスを避け、彼の胸に顔をうずめた。そして、小さく答えた。「うん、あと17日ね」17日後、要の元を去るのだ。香公館では、想花はもう眠っていた。しかし、一階はまだ賑やかで、要は四六時中、仕事をしていた。暁、達也、澪、桜子がひっきりなしに出入りしている。天音は廊下に立って少し聞き耳を立てた。今日のショッピングモールでのロボット事故は、ハッカーがシステムに侵入して引き起こしたもので間違いなさそうだ。しかも、これから数日のうちに、同じような事件がもっと増えるかもしれな
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第425話

天音の腕を掴む要の手には、ある程度の力が入っていた。彼女を痛めつけるほどではないが、明らかに不機嫌であることは伝わった。天音は目を逸らすように顔を背けた。何も言わず、ただ目じりを赤く染めていた。どうして自分に任せてくれないの?要は、天音の反抗的な態度をじっと見ていた。約束したはずなのに、すぐにそれを破る。蓮司を調べるために、『マインスイーパ』を使ってダークウェブで無茶な動きをするなんて。正体がバレてもいいとでもいうのか?なぜ、そんなに急いだんだ?天音の目から涙がこぼれ、鼻の頭が赤くなるのを見て、要は思った。悪いことをしたのはそっちなのに、逆にふてくされている。要は怒りを抑え込みながら、仕方なく天音を抱き寄せた。天音は不満そうに身をよじった。そして、要に抱きしめられないよう、力強く胸を押し返した。二人は一歩も引かず、こうして立ち尽くした。「君が動いたせいで、ダークウェブ中のハッカーが君の行方を追っている……」天音は顔を上げ、要を見つめた。冷ややかな視線と怒りを帯びた声で、彼女は言った。「見つかるわけないでしょ!」その時、ドアの方から足音が聞こえてきた。息を切らしながら桜子が駆け込んできた。「ぎりぎりで電源を切ったから、基地も、天音さんを追うハッカーたちも、京市までしか追跡できませんでした。IPアドレスまでは特定されていません」「私のノートパソコンは電源を切ってないし、マインスイーパシステムも止めなかったわ」天音は、負けん気の強い目つきで言った。「ハッカーたちが京市にいなければ、私が京市にいることなど、知られるはずがない」要はノートパソコンを開いた。さっき、電源ボタンを長押しして強制終了させたはずだ。だがノートパソコンを開けると、画面がパッと明るくなり、カメラが天音の顔を捉えてロックが解除された。そして、マインスイーパシステムが起動し、無数のコードが画面上を流れ始めた。「隊長、市内複数のホテルから緊急事態発生の報告が相次いでいます。ハッカーたちのノートパソコンが爆破されたことが原因のようです」暁が駆け寄ってきた。「基地からの報告では……加藤さんがやったようです。警察たちが現場に向かいましたが、状況の収拾に手間取っているようです……隊長、現場に向かってください」要がはっと我に返った瞬間、天
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第426話

「隊長、ひどすぎるよ!」天音はもがいたが、お尻をまた軽く叩かれた。「降ろして!要!!!」天音は急にバランスを崩して後ろに倒れ込み、慌てて要のシャツの襟を掴んだ。柔らかい革のシートに背中が落ちると、引っ張られた要がそのまま天音の上に覆いかぶさってきた。パン、とドアが閉まる音がして、車が静かに走り出した。相変わらず、あの防弾仕様の黒い車だった。薄暗い後部座席で、天音は要の冷めた瞳と視線を合わせた。心の中で、抑えきれない感情がどんどん膨らんでいく。天音は冷たい視線を向けたままだったけど、真っ赤になった瞳はすぐに涙で潤んだ。そんな天音に、要は感情のこもらない声で尋ねた。「どこがひどいんだ?」「『俺が一番信頼できるのは君だ。誰もが俺を裏切っても、君だけは裏切らない』って言ったじゃない?『君を誇りに思う。君ほどすごいホワイトハッカーは見たことがない』とも言ったわよね。全部忘れたの?どうして前回松井さんの件を教えてくれなかったの?今回のハッカーの件も、私に手を出させてくれなかった。私が手伝ったのに、あなたは不満そうだったじゃない?あなたの基地には優秀な人がたくさんいるものね。たしかに私の力なんて必要ないんでしょ。もう手伝わない。二度と手伝ってあげないから」天音がそう訴えても、要はまったく反応しなかった。彼女は腹を立てて背を向け、シートに突っ伏す。要の冷たい顔なんて見たくなかったから。「自分のことで手一杯なのに、あなたのことなんて構ってられないわ。どこに連れて行くの?家に帰って寝たいのに!明日も仕事があるのよ!」天音は突っ伏したまま、雪のように白い肌が、黒いシートに映えてより一層か弱く見えた。要の視線が揺れた。どう謝って、どう機嫌を直してもらおうか考えているうちに、天音は自分の腕の中で、まったく無防備に体を預けていた。天音から漂う甘い香りに、要の呼吸が少し乱れた。要は彼女の体をそっと抱き起こし、自分の膝の上に座らせた。要の力には敵わず、天音は諦めて彼の肩にもたれかかった。そして小さな声で呟いた。「これから、あなたが頼んできても、絶対に手伝ってあげない。私……もともとあなたの部下じゃないし!どうして手伝わなきゃいけないのよ?」天音はまだかなり怒っていた。要は大きな手で天音の背中を優しくポンポンと叩くと、運
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第427話

要は駐車場に戻ってきた。ドアが開けられ、車内に朝日が差し込んだ。けだるそうに体を丸めていた天音は、うっすらと目を開けた。車のそばに立つ要が、じっとこっちを見つめていた。天音が視線を落とすと、手元にチューリップがあるのが見えた。天音はゆっくりと体を起こした。隣のシートが、要の重みで沈んだ。要はチューリップを手に取って匂いを嗅ぎ、「なんか臭うな、捨てよう」と言った。そう言うと、窓から捨てようとした。その腕は、天音の冷たい手でぐっと掴まれた。要は眉をひそめた。さっき天音が体を丸めていたのは、寒かったせいかもしれないと、そこでようやく気づいた。振り返ると、天音はチューリップを奪い返して胸に抱き、匂いを嗅いだ。「全然、嫌な匂いなんてしないじゃない?」要は天音を抱き寄せると、外に向かって手を差し出した。「ブランケットは?」特殊部隊の隊員がすぐにトランクからブランケットを取り出し、要に手渡した。要はそれを広げて天音を包み込み、ぎゅっと抱きしめる。天音の機嫌が少し直ったのを見てから、「お腹空いたか?」と尋ねた。天音は何も言わず、要の方を見ようともしなかった。「君は部下じゃない、俺の妻だ。俺のために働く必要はない。でも、君がそうしたいなら、俺は嬉しい」要は謝りたかった。だが、冷たくしたのは蓮司が原因だとは、言わないでおこうと思った。蓮司なんて取るに足らない男だ。どんな形であっても、自分たちの生活に割り込ませるべきじゃない。要は手を伸ばして、まだ不満げな天音の顔を上げた。「ありがとうな、天音。ハッカーのほとんどは、君が見つけてくれたんだ。さすがだな、期待通りだ」その言葉で、天音の胸のつかえがすっと消えていった。彼女は要を見つめて言った。「私の安全を心配してくれてるんでしょ。でも、自分の身くらい守れるわ。昨日のハッカーだって、私が見つけたんだから」「ああ」要は、天音の耳元に唇を寄せた。それは、まるで口に出していないかのような、低い囁き声だった。温かい吐息が耳をくすぐり、天音の心まで揺さぶった。要は、今まで誰にも頭を下げたことがない。天音を除いては。「悪かった、天音。だからもう、怒らないでくれ」天音は機嫌を直し、要の胸に寄りかかった。しかし、少し考えて、また怒り出した。「どうして
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第428話

「叢雲が今回ダークウェブに現れてやったことはただ一つ。要を助けるために、京市に入ろうとしたハッカーたちを排除した。叢雲は要の部下で、京市で、要の側にいる。教えろ、そいつは誰だ?そうすれば、君の欲しいものはすべて手に入るぞ!」澪は冷たく笑った。「木下さん、あなたのお父さんにお伝えください。離婚届の件はなんとかしますが、それ以外はごめんだと」澪は電話を切った。要と天音を引き離したいだけで、別に死にたいわけじゃないのだ。その頃、風間家の別荘では。「風間社長、昨夜叢雲がダークウェブに現れました」ジャックが不思議そうにつぶやいた。「今回の計画に参加するハッカーたちを排除したようです。幸い、俺は昨夜、ログインしませんでした」ジャックはほっと胸をなでおろすと、また不思議そうに言った。「風間社長、昨夜は叢雲が現れるのを阻止したと言っていませんでしたか?」蓮司は、監視カメラの映像に映るオフィスにいる天音を、険しい顔で見つめていた。「叢雲が言うことを聞かなくなったんですか?」ジャックは命知らずにも続けた。「まあ、聞かないのも当然ですけどね。もう風間社長とは何の関係もないんですから。でも、ダークウェブのみんなは叢雲が京市にいることを知ってしまいました。居場所を探しに、もっと多くのハッカーが京市に来るでしょうね。なんせ、叢雲を倒せばダークウェブで名を上げられますから」ジャックはつぶやいた。「実は俺も試してみたいんですが……」その言葉を聞くと、蓮司はジャケットを手に取り、部屋を出て行った。監視カメラの映像では、天音はすでに社長室を出ていた。政府の入札会場。天音と渉が到着した。「価格は、うちが一番低いはずです」渉は入札説明書を見ながら言った。「だが、結局は実力次第でしょうね。他の会社は、従業員の数も設備もうちより上ですから」渉は心配そうに言った。「まずは様子を見よう」天音がそう話していると、夏美が雲航テクノロジーの社員を連れて入ってきた。「DLテクノロジーも入札に来たのですか?あなたたちの五十人もいない小さな会社に、こんな大役が務まるわけないでしょう」夏美は嘲るように、探るような目で言った。昨夜、龍一と食事をした。龍一が酔うのを初めて見た。泥酔して、ずっと「天音」と呟いていた。ここ数日、夏美はわざと噂話に耳
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第429話

天音は杏奈のことを思い浮かべた。どうやら二人は知り合いのようだ。「俺のいとこが、どうして追い出されなきゃいけないんだ」突然、大輝の声が聞こえてきた。一行が外から入ってきた。大輝だけでなく、浩平や松田グループの社員、それに昨晩会った英樹もいた。夏美は浩平に挨拶したが、大輝なんて話す気にもなれなかった。天音は親戚として認めてもいないのに、しつこくつきまとって。バカじゃないの?一体、何を考えているの?夏美はそのまま席に着いた。天音は大輝を見ると眉をひそめた。そこに英樹が近づいてきた。「加藤さん、また会いましたね」天音は、英樹の自分に対する態度に戸惑っていた。なんだか、この人は何か目的があって、わざと近づいてきている気がする。「もう知り合いだったのか?」大輝が前に一歩出た。天音は大輝を無視した。一方、英樹が口を開いた。「昨晩、蛍を映画に迎えに行った時に、お会いしたんだ」「そちらも入札に?」英樹の視線が、天音の胸にある社員証に落ちた。そこにはDLテクノロジーと書かれていた。調査報告書には、とっくにそのことは書かれていた。しかし、実際に目の当たりにすると、やはり胸が苦しくなった。DLテクノロジー、それは三十年前、恵梨香が英樹を抱きしめ、あやしながら語った名前だった。恵梨香は、すべての人を守るセキュリティソフトを設計したいと言っていた。その名を、ディフェンダー・オブ・ライフと。「まさか、DLテクノロジーの社長だったとは、若くて有能ですね」英樹の目には暗い影が落ちていたが、口では褒め言葉を並べた。「要は本当に幸せ者です、こんなに優秀な奥さんをもらえて」「母が遺してくれた会社です」そう言って、天音は蓮司の言葉を思い出した。あのマンションは蓮司のもので、会社も蓮司が母に内緒で残してくれたものだった。「あなたのお母さんの会社……」英樹はつぶやくと、続けた。「さぞかし実力のある会社だったんでしょうね?」天音はぼうっとした。「母が……天才少女だったと言いましたよね?」英樹の眼差しは冷たくなったが、表情には出さなかった。「加藤さん、三十数年前のニュースを探してみてください。きっと記録が残っていますよ」でも、母はコンピューターの話なんて、一度もしたことがなかった。コンピューターが好きだとか
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第430話

「ちょっと待ってください」天音が手を挙げた。「少し、お話ししてもよろしいでしょうか?」「どうぞ」政府の担当者が言った。天音は立ち上がった。白いワンピースを着た彼女は、清楚で美しい。「入札に参加されたすべてのIT会社を調べましたが、我々DLテクノロジーだけが、初心を忘れずにアンチウイルスソフト一筋で開発を続けています。この数日間でソフトは三回もアップデートされ、防御率は市場のどの製品よりもはるかに高いです。また、メンテナンスはほぼ自動化されています。そのため、弊社の社員たちはアップデート開発に専念するだけで、詐欺対策ソフトが求める性能を十分に満たすことができるのです」「数日で?」夏美は立ち上がり、静かに尋ねた。彼女は決して、勝算のない戦いはしない。夏美は既に、DLテクノロジーのアンチウイルスソフトを徹底的に分析し終えていた。その程度のソフトでは、簡単なウイルスすら駆除できないことを知っていた。「保護率が、市販のソフトよりずっと高い、ですって?」夏美は冷たく笑った。「ご冗談でしょう?加藤社長」「では、この場で比べてみましょうか」天音が言い終わると、渉に袖を引かれた。渉は天音のそばで声を潜めた。「社長、忘れたんですか?この数日、ずっと社員研修ばかりで、アップデートなんてさせてませんよ」「私がアップデートしたの」もっと強力なソフトにできたはずなのに、昨夜は……ノートパソコンに触れられなかった。要の、落ち着き払った端正な顔が脳裏に浮かんだ。「えっ!」渉は声を上げたが、天音に睨まれて声を小さくした。「社長がお一人で、数日で三回も?」渉の表情を見て、夏美は天音が嘘をついていると確信した。「いいでしょう!では、DLテクノロジーの最新アンチウイルスソフトの実力、試させてもらいましょうか」夏美は、いくつものウイルスを準備していた。「もしDLテクノロジーが防ぎきれたら」天音は政府の担当者を見た。「弊社にもう一度チャンスをいただけませんか?提示価格は変更いたしません」担当者は蓮司に視線を移した。「雲航テクノロジーの方がよろしければ、我々は構いません」天音は蓮司と視線を合わせた。それは、蓮司が滅多に見たことのない、真剣で頑なな眼差しだった。蓮司は天音を、まるで別人のように感じた。自分の思い通りにならない天音だ
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