暴走する愛情、彼は必死に離婚を引き止める のすべてのチャプター: チャプター 291 - チャプター 300

352 チャプター

第291話

真琴が梱包材を片付けていると、貴博も自然に手を貸してくれた。間もなく一明が食事の準備ができたと声を上げ、真琴も慌てて配膳を手伝いに行った。二人とも気が利く若者で、言われなくてもテキパキと動く。貴博が二人にジュースを注ぐ。一明には何の変哲もないガラスのコップ。真琴には、ピンクと黄色が混じり合った、可愛らしいマグカップが出された。あまりに露骨な待遇の差に、一明は思わず真琴のカップを二度見した。だが、すぐに視線を外し、気づかないふりをした。料理が並ぶと、一明と真琴が並んで座り、貴博がその対面に座った。貴博は真琴に料理を取り分けながら言った。「辻本さん、遠慮しないで食べてください」そして一明に視線を移すと、ニッコリと笑って言った。「石本くんも遠慮するなよ。男同士だ、取り分けは自分でやってくれ」一明は背筋を伸ばして答えた。「はい、お構いなく。自分でやります」そして、場の空気を和ませるように言った。「それにしても、まさか五十嵐さんが自炊されるとは驚きました」「たまにね」貴博は笑って答え、不意に尋ねた。「ところで石本くん、いくつだ?」一明は答えた。「もうすぐ三十です」貴博は軽く「ああ」と頷いた。自分とそう変わらない。年齢は変わらないが、貴博が纏っているオーラはあまりに強大で、圧倒される。どれだけ丁寧に話していても、隠しきれないプレッシャーがそこにある。一明は本能的に察知し、すぐに付け加えた。「実は先日、彼女と入籍しまして。来月、式を挙げる予定なんです」その必死な釈明に、貴博の目が和らぎ、口元に笑みが浮かんだ。――賢い奴だな。……食後、帰りの車中にて。ハンドルを握りながら、一明は隣の真琴を見て、真顔で言った。「辻本さん、五十嵐さんは間違いなく君に気があるぞ」助手席で携帯をバッグにしまっていた真琴は、一明を見て苦笑した。「何言ってるんですか?」一明は力説した。「絶対に好きだ」真琴は笑い飛ばした。「変なこと言わないでくださいよ。他人に聞かれたら笑われます」信じようとしない真琴に、一明は証拠を並べ立てた。「本当だって。いいか、彼は君を丁寧に『辻本さん』と呼ぶのに、俺には『石本君』呼びだぞ。入社は俺の方が先だし、年齢だって俺の方が上なの
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第292話

哲男は……不機嫌というより、憂いを帯びた表情だった。しばらく考え込み、重い口を開いた。「本当に離婚して、お前は再婚できるのか?いつになったら新しい家庭を持てるんだ?意地になってるだけじゃないかと、わしは心配なんだよ」庭のベンチで祖父の隣に座り、真琴は手を握って慰めた。「大丈夫よ、お爺ちゃん。約束する。三十歳までには必ず身を固めるわ」「三十か……」哲男は遠くを見た。「あと六、七年か。わしは生きてるかね?」真琴は祖父の手を強く握り、優しく笑って言った。「何言ってるの。生きてるに決まってるでしょ。こんなに元気なんだから」哲男は深くため息をついた。「そうだといいがな」……実家で週末を過ごした後、真琴は怒涛の忙しさに追われた。家庭用ロボットの発表会が目前に迫っていた。智昭が会場を「科学技術館」に決めたため、発売前の最終製品テストに加え、会場設営の監督までこなさなければならなかった。そして一週間後。土曜日の午前、アークライトはようやく家庭用ロボットの初回発表会を迎えた。社員たちは休日返上で駆けつけ、準備に追われていた。会場にはメディア関係者だけでなく、国内外の多くのテクノロジー企業も視察に訪れていた。由美も、峰亜工業の代表として出席していた。信行と貴博は特別ゲストとして招かれていた。貴博以外にも、市の幹部が多数出席している。六、七名の幹部と、信行たち主要な出資者は最前列に、由美は三列目に席を用意されていた。彼女の視線は舞台ではなく、信行と貴博の背中を行ったり来たりしていた。会場内の各ブースには、アークライトの最新技術が展示されていた。本日発表の家庭用ロボットをはじめ、多機能クリーナー、ワイヤレス給電システムの展示、大型シミュレーション謎解きゲーム、仮想四次元空間体験など、目白押しだ。来場者は皆、まるで近未来の仮想惑星に迷い込んだかのような錯覚を覚えた。司会によるオープニング、そして智昭の短い挨拶の後。真琴が舞台袖から姿を現した。洗練されたオフィスカジュアルに身を包み、颯爽とステージ中央へ歩み出る。今日発表される製品の技術解説を担当する。眩い照明の下、会場は熱気に包まれていたが、真琴の態度は沈着冷静そのものだった。原稿は一切ない。自らの技術を知り尽くしている彼女は、
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第293話

発表会終了。プロジェクトチームのメンバーは数班に分かれ、それぞれ来賓を誘導して展示製品の技術解説を行っていた。真琴も割り当てに従い、数名の退任した重役たちを案内していた。その途中、運営部の同僚が小走りで駆け寄り、製品の予約状況を報告してくれた。「注文が殺到していて、生産計画はすでに来年分まで埋まっています」他の関連製品の売上も好調に推移していた。中でも特に人気を集めているのが「ミニチュア・バディロボット」だ。これは本来付属品だったが、真琴が後期に独自でデザインを手がけたものだ。その時、案内中の一人の重鎮が、空中に浮かぶ一人乗りの乗り物を指差し、驚いたように尋ねた。「辻本君、あれは一体何だね?宙に浮いているが、本当に日常で運転できるのか?」真琴は柔らかな笑顔で答えた。「重松(しげまつ)先生、あれは小型の『浮遊型モビリティ』です。アークライトのワイヤレス給電技術の展示用プロトタイプで、磁場を通じて電力を無線伝送して浮遊しています。現状では、ワイヤレス給電は伝送過程でのエネルギーロスが大きいため、まだ一般実用化には至っていません。ですが、この分野の技術的ブレイクスルーが起き、受信機が環境中の電力を自動的かつ高効率で受信できるようになり、都市全体を磁場でカバーできれば……この小型モビリティは完全に我々の生活の一部になります。また、他の電子機器も新型の受信機を搭載すれば、充電の手間から解放され、半永久的に使用可能になります。自然環境や大型設備から漏れ出る余剰電力を、自ら吸収してエネルギーに変えることができるからです」それを聞いた重鎮は目を丸くした。「そんな……それじゃあまるで永久機関じゃないか?」真琴は笑って解説した。「厳密には永久機関ではありませんが、限りなくそれに近い『資源の完全循環利用』です。近い将来必ずこの技術の壁は突破されると信じています」真琴の説明に、重鎮たちは大いに興味をそそられ、彼女を囲んで「永久機関は実現可能か」という議論に花を咲かせ始めた。真琴は笑顔を絶やさず、穏やかに応じた。「未来の科学技術は計り知れません。すべてが可能になりますよ」少し離れた場所で。信行はズボンのポケットに両手を突っ込み、静かに真琴を見つめていた。彼女が物怖じすることなく、政財界の長老たちと対等
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第294話

「内海さんも綺麗だけど、今の辻本さんと並ぶと分が悪いな」「離婚してから何かが吹っ切れたみたいで、オーラが違うよな。なぁ、俺が口説いたら脈あるかな?」「ははは、試してみろよ。信行さんから財産の大半を分与されたらしいから、俺たちなんかよりよっぽど金持ちだぞ」「くそっ、見れば見るほどいい女だ。なんていうか、浮世離れしてる。もはや菩薩様のような神々しささえ感じるよ」遠くから真琴を眺めていた数人の男性たちは、彼女への評価を180度変えていた。興衆実業を離れ、信行の元を去る決断をした彼女には、男顔負けの気骨がある。そう見直していた。以前は、彼女のことを陰で「都合のいい妻」だと笑っていた。だが彼らも本心では分かっていた。あの独裁者のような信行と一緒にいて、忍従を強いられない女などいないことを。現に、彼らだってそうだ。普段、信行とビジネスをする時は、彼の顔色を伺い、言われるがままだ。信行の前では、彼らこそが「かつての真琴」そのものだった。いや、今の真琴以下だ。少なくとも彼女は自ら手を離す勇気を持っていたが、彼らは信行にすがりつき、ご機嫌を伺わなければ生きていけないのだから。彼らの話し声が耳に入り、貴博は足を止め、淡やかな視線でその男たちを一瞥した。一方で、女性たちの反応は辛辣だった。容赦なく真琴を罵り、噂話を広げている。「信行さんと別れて、次はどの金持ちを捕まえる気かしら」「ふん、バツイチなんて、まともな男は相手にしないわよ」……昼近く。総務スタッフが来賓の幹部たちを昼食会場へ案内していると、由美が満面の笑みを浮かべてやってきた。真琴の前に立ち、親しげに祝福した。「真琴ちゃん、おめでとう!発表会は大成功ね。さっき見たら、もうトレンド入りしてたわよ」真琴は落ち着いた様子で由美を見つめ、短く応えた。「ありがとう」由美はさらに熱心に誘った。「これからお昼でしょ?一緒に行きましょうよ。信行も後で合流するから」その時、タイミングよく同僚が書類を持ってきた。「辻本さん、例の資料です」それを受け取り、真琴は穏やかに断った。「まだ仕事が残ってるから。みんなで先に行って」真琴の他人行儀な態度に、由美は一歩近づき、小声で囁いた。「真琴ちゃん、そんなに遠慮しないで……実はね、ちょっ
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第295話

「私はただ、二人の仲を取り持って、真琴ちゃんに早く幸せになってもらおうと思っただけなのに……どうしてそんなに捻くれて受け取るの?」実際、由美は真琴が信行と離婚しないことも怖かったが、それ以上に、「良すぎる相手」と再婚することを恐れていた。もし本当に貴博とくっつきでもしたら、目も当てられない。だから、手遅れになる前に、適当な男をあてがって厄介払いをしてしまいたかった。由美の白々しい演技に、真琴は冷たく言い放った。「自分の腹の底は、自分が一番よく分かってるでしょ。仕事があるから、邪魔しないで」言い終わると同時に、信行がやって来た。由美はすかさず信行の腕に絡みつき、甘えた声で呼んだ。「信行」信行は淡々とした動作で由美の手を外し、真琴を見て穏やかな声で言った。「飯、行くぞ」手元の資料に目を落としたまま、真琴は見向きもせずに答えた。「まだ仕事があるの。二人で行って」真琴が拒絶した直後、一明が駆け寄ってきた。「片桐社長、ホテルの宴会場で料理が出始めました。皆様、社長をお待ちです」それを聞いて、信行は真琴から視線を外し、無言で会場の方へ歩き出した。科学技術館の展示エリアに残っているのは、ほぼアークライトの社員だけとなった。皆との食事には参加せず、真琴は一人、休憩エリアで残業を続けていた。キーボードを叩く音が響く中、不意に貴博の秘書が姿を見せた。彼は丁寧に梱包された食事を差し出し、恭しく言った。「辻本さん。事務局長から言付かりまして、昼食をお持ちしました」真琴は手を止めて立ち上がり、両手でそれを受け取った。「ありがとうございます」「では、ごゆっくり。失礼いたします」真琴は弁当を両手で丁寧に持ち、柔らかな声で応えた。「はい、ありがとう」秘書を見送ってから、真琴は弁当を手に、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。……午後一時過ぎ。皆が食事から戻ってくる頃、信行が再び姿を現した。彼はホテルからテイクアウトした高級な弁当を真琴のデスクに置き、ぶっきらぼうに言った。「食え」そして、言い訳のように付け加えた。「残飯じゃないぞ。わざわざ新しく作らせたものだ」その声に顔を上げ、真琴は低い声で言った。「さっき、もう食べたわ」「……」信行は言葉を失った。しばらく真
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第296話

ホテルのエントランス。智昭は恭介の送迎を貴博に任せると、残された真琴を信行に託した。「片桐社長、辻本さんのことはお任せしても?」目の前の二人がすでに離婚の合意に至っていることなど、智昭は知る由もない。彼から見れば、二人はただの夫婦に過ぎないのだから。足元もおぼつかない真琴の身体を抱きとめながら、信行は淡々と応じた。「ええ、妻のことはご心配なく」「わかりました。明日、もし具合が悪そうなら会社は休むよう伝えてください。仕事なら来週に回せばいいことですから」と、智昭は言う。「ああ、伝えておきましょう」信行が応え終えると同時に、迎えの車が滑るように横付けされた。秘書の祐斗が後部座席のドアを開け、恭しく頭を下げる。「社長、お待たせしました」それを見て、信行は意識がないほど泥酔した真琴を抱きかかえ、そのまま車内へと乗り込んだ。実のところ、真琴は最初の一杯に口をつけるや否や、紗友里に迎えを頼むメッセージを送っていた。紗友里も大至急向かうと返信していた。だが結局、祝賀会がお開きになってもその姿は見えず、智昭の手によって信行に押し付けられる形になってしまった。……ホテルを後にした車は、夜の街を静かに走り出した。こっくりこっくりと首を揺らす真琴を見やり、信行はその頭を自分の肩へと引き寄せる。そして、柔らかな髪にそっと唇を落とした。やがて、すっかり寝入っている顔を覗き込み、耳元で囁く。「オートロックの番号は?」男の肩に顔を埋めたまま、真琴がもごもごと何かを呟いたが、信行には聞き取れなかった。そこで顔を上げ、運転席の祐斗に命じる。「芦原ヒルズへ」「かしこまりました」そう即答しつつも、祐斗の内心は呆れていた。どうせドアのオートロックには真琴様の指紋が登録してあるのだから、中に入れるに決まっている。だが、雇い主の命令は絶対だ。出しゃばって口出ししたり、余計な提案などしないのが賢明だ。窓の外を流れる眩いばかりのネオンは、車内のしんと静まり返った空気とはひどく不釣り合いだった。酔いのせいで、真琴の寝息はいつもより荒い。時折、かすかな鼾まで漏らしている。普段は寝息さえ聞こえないほど静かに眠る彼女だが、今日ばかりはアルコールのせいだろう。その無防備な寝息を聞いていると、信行の口元に笑みが
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第297話

その様子をルームミラー越しに窺っていた祐斗が、口を開いた。「社長、なぜ真琴様と腹を割って話さないのですか?」視線を上げ、信行は淡々と返した。「こいつは少し事情が複雑でな。それに、以前俺が追い詰めすぎた」そう言われてしまえば、祐斗はもう口をつぐむしかなかった。だが今この瞬間、信行の胸には激しい後悔が渦巻いていた。悔やんでも悔やみきれないほどの。そして……真琴が胸の奥底に秘めている「あの人」とは、いったい誰なのか。三十分後。車は芦原ヒルズに到着し、信行は泥酔して眠りこける真琴を抱きかかえたまま、二階の寝室へと直行した。一階へ下りてコップに水を汲み、部屋に戻ってみると、寝かせたはずの真琴がベッドから起き上がり、ソファの上で行儀よく背筋を伸ばして座っていた。目を覚ましてしまったその姿に、思わず頭を抱えたくなる。恐ろしかった。芦原ヒルズへ連れ帰ったことで、またしても口論になるのではないかと。ここ最近の絶え間ない衝突に、信行自身もすっかり疲れきっていた。歩調を緩め、コップを手にゆっくりと歩み寄る。すると顔を上げた真琴が、耳に心地よい声で尋ねてきた。「ここ、どこ?」その問いかけに、張り詰めていた緊張の糸が一気に解けた。酔いで記憶が飛んでいるのだ。過去と現在の区別すらついていないらしい。信行は彼女のそばに歩み寄り、ゆっくりとしゃがみ込む。手にしたコップを握らせ、その両手を包み込むようにして優しく語りかけた。「ここは芦原ヒルズだ。心配しなくていい、明日にでも帰るから」真琴は俯き加減に視線を落とすと、消え入りそうな声で尋ねた。「紗友里は?」「あいつなら、拓真たちと麻雀を遊んでるよ」そう答えながら右手を伸ばし、真琴の柔らかな頬をそっと撫でる。そして、とことん甘い声で問いかけた。「どうした?元気がないな」伏し目がちになった真琴は、しばしの沈黙のあと、ぽつりとこぼした。「さっき、お母さんの夢を見たの。私がまだ、小さかった頃の夢」その夢を見たせいで、目を覚ましてしまった。幼い頃からずっと、人生を揺るがすような大きな出来事があるたびに、決まって母親の夢を見てきた。感情の抜け落ちたような淡々とした声に、頬に添えた右手に思わずぐっと力がこもる。「お前には俺たちがいる。俺も、
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第298話

「日記?」真琴は彼を見つめ返した。「何のこと?」親指でその頬をそっと撫でながら、信行は囁くように言った。「お前の部屋の本棚、二段目にある白い日記帳だ。あそこに綴られていた、好きな男のことさ」色から隠し場所まで正確に言い当てられ、真琴はハッと息を呑んだ。そして、弾かれたように視線を逸らした。慌てて右手を伸ばし、頬に触れている彼の手首を掴むと、そっけない声で話題を逸らす。「紗友里を探してくるわ」言うが早いか、その手を振り払い、ソファから立ち上がろうとした。まさか、彼に日記を盗み見られていたなんて思いもよらなかった。そのまま逃げ出そうとしたが、手首が信行にぐっとつかまれ、強引に引き戻される。よろめいて広い胸板にぶつかり、真琴は再び男の顔を見上げた。至近距離で視線が絡み合う。信行は相手のうなじに手を添え、その瞳を真っ直ぐに射抜いた。「俺には言えないのか?」真琴はたまらず目を伏せる。表情をこわばらせ、しばらく何かを思い悩むように口を開きかけては、また閉じた。どうしても言葉にできなかった。俯く彼女を見下ろしながら、信行の脳裏にある言葉がよぎった。婚姻はただの形に過ぎず、愛はただ静かに胸の内に。真琴のうなじを撫でる右手に、ぐっと力がこもる。ただひたすらに、答えを待っていた。首筋に食い込む指の力に耐えかね、泳ぐ視線のまま真琴は繰り返した。「紗友里のところへ行く」なんと答えればいいのか分からない。頑なに口を閉ざすその顔をくいと持ち上げ、信行は強引に唇を塞いだ。耳まで真っ赤に染め上げ、真琴は慌てて顔を背けて逃れようとする。行き場を失った信行のキスが、白い首筋へと落ちた。もう日記のことは追及してこなかった。ただ執拗に、彼女の首筋から耳たぶへと、熱い唇を這わせていく。くすぐったさに身をよじり、真琴はその胸を押し返した。「……やめて。もうすぐ紗友里たちが来るんだから」濡れた舌先が耳たぶをなぞり、真琴はビクッと息を呑んで、無意識に甘い吐息を漏らした。貪るようにじゃれつき、その耳を軽く甘噛みしながら、男は低く掠れた声で問う。「じゃあ、俺のことは好きだったか?」その言葉を遮るように、空気を切り裂くような着信音が鳴り響いた。邪魔をされ、信行は舌打ち交じりにキャビネットの
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第299話

自分を一体何だと思っているのか?いくら人でなしでも、意識のない女を無理やり抱くほど落ちぶれてはいない。よほど自暴自棄になっているか、あるいは未来のすべてをドブに捨てる覚悟でもない限り、そんな真似ができるはずもなかった。信行が通話の切れたスマホをキャビネットに放り投げた隙に、真琴はその腕の中からすり抜け、彼を見据えて言った。「紗友里からの電話でしょ?私、紗友里のところへ行くわ」真琴が言い終わるか終わらないかのうちに、信行は再びその腕を引いて強引に抱き寄せた。「なんでそうやって逃げるんだ?今はもう、抱きしめることすら許されないのか?」「……」顔を上げ、信行の瞳を見つめ返すものの、真琴には何を言えばいいのか分からなかった。無言で見つめ返す彼女を、信行は壊れ物を扱うようにそっと抱き寄せ、その華奢な肩に顎を乗せた。「紗友里は今、手が離せないらしい。明日、一緒に会いに行こう」昔から、真琴と紗友里はどこへ行くにも一緒だった。何をやるにもべったりで、幼い頃は一緒にお風呂に入り、同じベッドで眠るのが当たり前だったほどだ。成美や由美の姉妹よりも、よほど双子らしかった。そう言って宥めるように、信行は再び真琴の頬に軽いキスを落とした。だからこそ、あそこまで言われてしまえば、むやみに彼を突き飛ばす気にもなれなかった。今日の信行はどう考えてもおかしい。そのまましばらく抱き合っていると、信行がほっとため息を吐き出し、ぽつりとこぼした。「ここ最近、俺はなんだかすごく疲れたよ」彼が弱音を吐くなんて滅多にないことだった。真琴は左手でその背中にそっと腕を回し、宥めるように右手でポンポンと優しく背中を叩いた。その不器用な慰めに、信行の口元からふっと笑みがこぼれた。ひとしきり笑ったあと、彼は再び真琴の頬に唇を落とし、縋るような声で囁いた。「離婚するのはやめにしないか?」「……」真琴がそっと身を引いて彼の顔を覗き込むと、その瞳にはありありと悲痛な色が浮かんでいた。目の前の男を宥めるために、静かにこくりと頷いた。「……分かったわ」今日の彼は、明らかに酔いが回っておかしくなっている。大人しく頷いた彼女を見て、信行の笑みはさらに深まった。どこか満足げに、冗談めかした口調で笑う。「やっぱり、酔っている時の方が素
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第300話

ベッドから足を下ろして立ち上がると、真琴はよそよそしく答えた。「そう。それなら、ありがとう」そんな彼女を冷ややかに一瞥し、信行は淡々と言葉を繋いだ。「高瀬からの伝言だ。今日は家で休んで、仕事は月曜日に回せばいいとのことだ」真琴は小さく頷いた。「ええ、分かったわ」「まずは顔を洗ってこい。江藤さんが朝食を用意してくれている」「……うん」真琴は短く返し、以前ここに置いていた着替えを手に取ると、そのまま洗面所へと向かった。鏡の前に立ち、首筋から鎖骨にかけて散らばる生々しい痕跡を目の当たりにした瞬間、真琴の表情が凍りついた。普段は飲まないというのに、昨夜の席では上司や同僚の手前、付き合いを断ることができなかった。幸いにも最悪の事態は免れたものの、一歩間違えれば一生消えない後悔を背負うことになっていた。鏡の中の自分を見つめ、首元に添えていた手を力なく下ろす。昨夜の記憶はひどく曖昧で、断片的にしか思い出せない。確か、信行に日記のことを持ち出され、誰が好きなのかと問い詰められたような気がする。そこまで思い至った瞬間、真琴の心臓が跳ね上がるような衝撃を覚えた。だが、余計なことは言っていないはずだ。どんな状況下であれ、おいそれと本心をさらけ出すような真似はしない。自分の性格は、自分が一番よく分かっている。ましてや、相手はあの信行なのだから。しばらくして。シャワーを浴びて着替えを済ませ、一階へ降りると、舞子たちは甲斐甲斐しく立ち働き、真琴の好物でテーブルを埋め尽くした。真琴も無理をして、少しでも多く料理を口に運んだ。もう二度とここへ来ることはないだろう。せめて、彼女たちの温かな好意だけは無下にせず、受け止めたかった。朝食を終えて屋敷を後にする際、信行が車で送り届けてくれた。道中、車内は息が詰まるような静寂に支配され、互いに一言も口を利かなかった。マンションの前で車が停まると、信行も席を降りて見送りに立った。だが、それも建物の入り口まで。真琴が部屋に誘うことはなく、彼も上がるとは言わなかった。エントランスの奥へと真琴の背中が消えていくのを、完全に見えなくなるまで見届けた後、信行はようやく運転席に戻り、静かに車を発進させた。……それからの数日間、二人の生活は元の軌道へと戻っ
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