七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した のすべてのチャプター: チャプター 781 - チャプター 790

863 チャプター

第781話

LAUの本社ビルを出た後も、二人の顔色は土色だった。特に璃々子の怒りは凄まじかった。「あんた、どういう調査してたわけ!?LAUのバックがあの女だってことくらい、なんで調べられないのよ!あんな大恥かかせて!」斉藤も思わず反論する。「正式なルートで調査依頼を出せば、結果が出るまで最低でも一ヶ月はかかるのよ。それを『待てない』って急かしたのはあなたでしょう……」「私のせいにする気?」璃々子が鬼のような形相で睨みつけると、斉藤はすぐに口をつぐんだ。それにしても、誰が想像できただろうか。あのミキが、LAUという巨大企業のトップに君臨しているなどとは。やり場のない怒りに震える璃々子は、停めてあった社用車のタイヤを思い切り蹴り上げた。「なんであいつばっかり!何の才能もないくせに、なんであんなデカい会社の社長なんかになれるのよ!」「……きっと、白彦さんのおかげよ。白彦さんの威光を借りたに決まってるわ」斉藤はそう結論づけた。璃々子もまた、そう信じたかった。だからこそ、その事実が余計に妬ましくてたまらない。斉藤はここぞとばかりに囁いた。「あなたも白彦さんにお願いすればいいのよ。資本を持つ側に回れば、売れっ子スターなんて操り人形も同然なんだから」その言葉は、璃々子の功名心に火をつけた。帰りの車中、彼女はずっと考えを巡らせていた。どうすれば白彦の力を利用して、自分もあの場所へ這い上がれるのか。どうすればミキを見下ろせる立場になれるのか。甘美な野望に浸っていたその時、隣でスマホを操作していた斉藤が悲鳴のような声を上げた。「きゃああっ!」思考を遮られた璃々子は、不快そうに顔をしかめた。「ちょっと、何騒いでるのよ」しかし、斉藤の顔からは血の気が完全に引いていた。「大変……終わったわ……」この業界に身を置いて二十年。並大抵のトラブルなら鼻で笑い飛ばしてきたベテランマネージャーの斉藤が、これほど取り乱すとは異常事態だ。璃々子はひったくるように斉藤のスマホを奪い取ると、画面に釘付けになった。「嘘……誰が……!誰がこんなの撮ったのよ!」画面には、目を覆いたくなるような動画が流れていた。璃々子は震える指で、すぐさま動画の元凶と思われる人物――映画プロデューサーの成沢に電話をかけた。呼び出し音は虚しく鳴り続けるだけ。
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第782話

ミキはそこまで言ってから、はたと数日前の記憶を呼び覚ました。「あ!私としたことが!あの夜のこと、すっかり忘れてたわ!」自分の額をパチンと叩いてから、心の中で白彦を罵倒する。あのクズ男とぶりっ子璃々子のせいでドタバタして、一番肝心なネタを聞きそびれていたなんて!ミキは飲みかけのタピオカをテーブルに置き、食べる手も止めて、ぐいと詩織の方へ身を乗り出した。「ねえ、教えてよ。結局あの晩、二人で何があったの?一線、越えちゃった?」そうでなきゃ、あのクズ也が詩織から逃げ回る理由がない。やましいことがあるからに決まっている。「え、いや……その……」詩織は視線を泳がせ、言葉を濁した。「だってあんた、薬盛られてたじゃない。響太朗さんの連れてきた医者が言ってたわよ。『かなり強い薬だから、点滴で中和するか、男で発散させるしかない』って。でもアンタ、点滴打たなかったでしょ?」ミキの目は完全に尋問モードだ。詩織はさらにしどろもどろになり、消え入りそうな声で呟く。「ま、まあ……その……あれよ……」「『あれ』って何よ!じれったいわね!」業を煮やしたミキは、ズバリと切り込んだ。「ここだけの話、どうやって『処理』されたのよ?指?それとも……舌?」「……ッ」詩織は絶句した。こんな豪快な親友を持った己の運命を呪いたい。「何赤くなってんのよ、早く白状しなさいよ!」「……りょ、両方よっ!」詩織は両手で顔を覆って叫んだ。それを聞いたミキは、一瞬きょとんとした後、ニヤリと名探偵のような顔つきになった。「なるほどね。指と、口……フルコースで奉仕したのに、肝心のアレは挿れなかった、と?」詩織は何も言い返せず、耳まで赤くしている。ミキは確信したように頷いた。「じゃあ、あいつが逃げてる理由は一つね。……勃たなかったのよ」「……は?」「絶対そうよ!いざという時に中に入れられなかったんでしょ?男としてのプライドがズタズタで、合わせる顔がなくて逃げてるのよ!辻褄が合うじゃない!」詩織は天を仰いだ。この思考回路、もはや天才的だ。これ以上何を言っても無駄だと思い、詩織はそっと口を閉ざした。反論すればするほど、深みにはまるだけだ。まだ二人がエッグタルトを食べ終えないうちに、店内の空気が一変した。ドカドカと雪崩れ込んできたのは、五、六人の
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第783話

いや、それもあり得ない。響太朗は詩織以上に百合子を大切にしている。妻の実家である香川家の体面を、誰よりも気にするはずだ。彼が静姫に手を下すとは考えにくい。だが、あの日の薬の一件を知る人間は限られている。消去法でいくと、詩織の脳裏に浮かぶ人物はただ一人。その名前は、考えるほどに確信へと変わっていく。「悪いけれど香川さん、お門違いよ。私には何の関係もないわ」「は……?江崎さん、私は誠心誠意お願いに……」キョトンとする青山を、詩織は冷淡に遮った。「事実を言ったまでよ。ここで時間を浪費しても無駄だわ」冗談を言っている雰囲気ではないと悟ったのか、青山の顔色が変わる。背筋に冷たいものを感じたらしい。彼はそれ以上食い下がらず、手下を引き連れて慌ただしく店を後にした。詩織が店を出るのとほぼ同時に、響太朗から電話がかかってきた。青山め、動きが早い。詩織のもとを去るや否や、すぐに響太朗へ連絡を入れたに違いない。用件は聞かなくても想像がついた。「もしもし」通話ボタンを押すと、響太朗は単刀直入に切り出した。「詩織さん、賀来と連絡はつくか?静姫を連れ去ったのは恐らく彼だ」やはり。詩織は正直に答える。「彼、私の電話には出ないんです」「もう一度、試してみてくれ」言われた通りリダイヤルしてみたが、結果は同じだった。柊也とは繋がらない。当然、彼がどこにいて、静姫に何をしたのかも知る由はなかった。一部始終を聞いていたミキが、ポツリと感想を漏らす。「あの駄犬にしては、今回は骨のあることするじゃない」ミキに理屈は通用しない。彼女にあるのは仲間意識だけだ。あの狂女が親友を傷つけたのだから、どんな目に遭おうと自業自得。精神が不安定だからといって、何をしても許されると思ったら大間違いなのだ。本港市に戻るなり、詩織たちの乗った車は、一台の赤いスポーツカーによって強引に道を塞がれた。車から転がり出てきたのは、一人の女性だ。足をもつれさせながら、詩織の方へなりふり構わず突進してくる。「江崎さんはどこ!会わせて!私は静姫の母親ですっ!」喚き散らす相手が女性とあっては、大森も手荒な真似はできない。彼女の腕を軽く抑え込むと、困ったように詩織を振り返った。「ご主人が来られた時の話と同じことよ。静姫さんの行方不明に関
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第784話

董子は逆上したまま怒鳴り散らす。「あんたは疫病神だって言ったのよ!百合子の遺体もまだ冷めきらないうちから響太朗さんをたぶらかして!あざとく小春ちゃんを手懐けて、全部計算尽くなんでしょう!」黙っていられなくなったミキが、助手席から身を乗り出して吠えた。「いい加減にしなさいよ、このヒステリー!恥知らずなのはあんたの娘でしょ!姉の旦那のベッドに潜り込もうとするなんて、どこの三文小説よ!お姉さんが亡くなってすぐ後釜を狙うなんて、そっちの方がよっぽど下劣じゃない!」口喧嘩ならミキの独壇場だ。青山と結婚して以来、上品な社長夫人として振る舞ってきた董子など敵ではない。「罵倒」のスキルは錆びついているのだ。「静姫こそ恥知らず!ふしだら!最低女!」ミキが機関銃のように罵声を浴びせると、董子は言葉に詰まり、胸を押さえて荒い息を吐き始めた。過呼吸になりかけている。その隙に、詩織は車を降りて董子の方へ歩み寄った。大森がさっと二人の間に割って入り、万一に備えて董子を牽制する。詩織は重苦しい表情で、董子を見据えた。「さっきの話……詳しく聞かせて。柊也が静姫さんの肋骨を四本も折って、精神病院に五年も閉じ込めたって言ったわよね?」詩織のただならぬ気迫に押され、董子はたじろいだ。さっきまでの勢いはどこへやら、視線を泳がせながら弁解がましく口を開く。「う、嘘じゃないわよ……事実だもの。昔、静姫が嫉妬に狂ってあなたを海に突き落とした時、あの男、激怒して娘を蹴り飛ばしたのよ。肋骨を四本も折られて……娘は全治三ヶ月の重傷を負ったの。胸には手術の跡が残って、今でも背中の開いたドレスが着られないくらい……」董子が未だにぶつぶつと愚痴なのか恨み節なのか分からないことを言っているが、詩織の耳にはもう届いていなかった。思考の喧騒が、目の前の女の金切り声を掻き消してしまったのだ。あの日、海に突き落とされた自分を救い、静姫を蹴り飛ばした人物。詩織はずっと、それが響太朗に他ならないと信じて疑わなかった。だからこそ、彼にはずっと感謝の念を抱いていたのだ。けれど、今になってようやく違和感の正体が繋がった。静姫の所業がどれほど酷かったとしても、彼女は亡き妻・百合子の実の妹だ。響太朗がそこまで冷酷な仕打ちをできるはずがない。今のこの状況だってそうだ。静姫が詩織に薬
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第785話

整った顔立ちだからこそ、その冷徹な眼差しは背筋が凍るほどの恐怖を煽る。「ごめんなさい……許して、もうしないから……本当にごめんなさい」静姫の目からボロボロと涙が溢れ出し、冷や汗と混じり合ってシーツに滴り落ちた。全身が瘧(おこり)のように激しく震えている。柊也はナイフを滑らせるように動かした。切っ先が下へ向かい、彼女の手足を拘束していたロープを鮮やかに切り裂く。自由になった瞬間、静姫は安堵し、涙ながらに感謝の言葉を吐こうとした。だが、柊也は無関心にナイフを放り捨て、背を向けるなり冷酷に言い放った。「香川のお嬢さんを、たっぷりと楽しませてやれ」「え……?」状況が飲み込めないまま、柊也と太一が部屋を出て行くのが見えた。重い音を立ててドアが閉まり、部屋は再び薄闇に包まれる。静姫は必死に起きあがろうとしたが、まるで糸の切れた人形のように、四肢に力が入らない。それどころか、体の奥底から奇妙な感覚が這い上がってくる。熱い。まるで何万匹もの蟻が血管の中を這いずり回っているような、耐え難い疼きだった。「……あたしに何を飲ませたの?どうして、こんなに苦しいのっ」静姫は狂ったように自分の服をかきむしり、肌を露わにした。数人の男たちが、冷めた目で彼女を見下ろしている。「静姫さんが一番よくご存じでしょう?これ、あんたが自分で用意した薬だよ。効能書きなら、俺たちより詳しいはずだ」効能?まさか、詩織に盛ろうとした例の薬?――いや!静姫の顔が恐怖に歪む。「ここから出して!早く!」絶叫も空しく、男たちは微動だにしない。間もなく、彼女の意識は薬の奔流に飲み込まれた。逃げなくてはという思考も、恐怖心さえも、灼熱の欲動にかき消されていく。彼女は残っていた衣服を力任せに引き裂き、裸身をさらけ出した。それでも男たちが反応しないと見るや、自ら床を這いずり、すがりついた。「助けて……お願い、誰か……助けて」……甲板に出ると、海風が全てをかき消す勢いで吹き荒れていた。公海の夜は深い。まるで万物を飲み込むブラックホールのようだ。柊也はタバコに火をつけたが、口には運ばなかった。指に挟んだまま、紫煙が風にさらわれて消えていくのをただ眺めている。一本すべてが灰になるまで、彼は微動だにしなかった。太一が
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第786話

『おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりません』無機質なアナウンスが冷たく響く。何度リダイヤルしても同じことの繰り返しだ。太一の携帯にかけても同様だった。居留守を使われているのか、本当に電源を切っているのかは分からない。確かなのは、柊也と連絡がつかないという事実だけだ。静姫の安否は依然として不明だ。詩織が一番恐れているのは、柊也が自分のために再び一線を越えてしまうことだった。彼はやっとの思いで刑務所から出所し、どん底から這い上がってきたのだ。これ以上の波乱に人生を狂わされてほくない。それに、腐っても鯛。香川家は本港市の名門だ。相手のホームグラウンドで追い詰めすぎれば、窮鼠猫を噛む事態になりかねない。そうなれば、柊也だって無傷では済まないだろう。迷った末、詩織は響太朗に電話をかけた。裏社会にも顔が利く兄の高坂剛太郎なら、何か掴んでいるかもしれないと思ったからだ。コール音が鳴るとすぐにつながり、響太朗が先手を打つように言った。「静姫が見つかった。やはり賀来が連れて行っていたようで、今は兄貴が迎えに行かせている。僕も今、埠頭に向かっているところだ」詩織は場所を聞き出し、急いで車を走らせた。埠頭にはすでに響太朗の姿があり、その少し離れた場所には青山もいた。詩織の顔を見ると、バツが悪そうに視線を逸らす。海風に吹かれながら待つこと四十分。一台の小型クルーザーが波を蹴立てて近づいてきた。デッキには剛太郎が立ち、陸で待つ人々に軽く手を振っている。接岸と同時に、剛太郎の部下に抱えられるようにして静姫が降りてきた。全身を厚手のコートで覆い、顔まで隠している。まるで力が入らないようで、両脇を抱えられて辛うじて立っている状態だ。詩織は静姫には目もくれず、じっと船内を見つめた。だが、どれだけ待っても後に続く人影はない。剛太郎は響太朗に「無事引き渡したから、後は頼む」と短く告げ、さっさと立ち去ろうとする。響太朗は詩織の焦るような視線に気づき、去り際の兄に声をかけた。「賀来はどうした?」「あいつか?俺に女を引き渡した後、さっさと消えちまったよ。一緒には戻っていない」……弁護士の峰岸丞との通話を切り終えたミキは、絵に描いたような不機嫌さを撒き散らしながら、
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第787話

「はあ……まさか、一生頭を引っ込めたままの亀になるつもり?」ミキの呆れたような感想に、詩織は言葉を返すこともできなかった。正直、誰にも分からない。ただ、ここ最近の静寂の中で、詩織はある程度冷静さを取り戻し、過去の問題についてじっくりと考えを巡らせていた。これまでの出来事を繋ぎ合わせていくと、見えてくるものがある。まるで、賀来柊也という人間を、もう一度最初から知り直しているような感覚だ。すべての事象が、彼がどれほど詩織を大切に想っているかを物語っている。けれど――柏木志帆を選んだのは事実だ。彼女と婚約したことも、また揺るぎない事実。矛盾する現実に、詩織は思考停止に陥りそうになる。ミキも同じように男のことで心を乱したくないらしく、二人は暗黙の了解で核心には触れずにいた。「明日、誕生日でしょう?どう過ごしたい?」詩織が話題を変えると、ミキは少し間を置いて答えた。「……特に何も。知ってるでしょう?もう何年も祝ってないもの」彼女の誕生日は、両親の結婚記念日であり、母親が自ら命を絶った日でもある。あれ以来、彼女にとって誕生日は祝うべき日ではなくなっていた。「じゃあ、静かに食事だけでもしましょう」詩織は彼女の痛みに触れないよう、さらりと提案した。ミキは小さく頷く。「ええ、そうね。お母さんも誘って」場所は詩織が予約した『せせらぎ』だ。以前から詩織が絶賛していて、ミキも一度行ってみたいと言っていた店である。翌日。ミキは午前中に雑誌のインタビュー取材をこなし、そのまま『せせらぎ』に向かって詩織と合流する予定だった。ところが取材を終え、詩織に電話をかけようとした矢先、目の前に現れたのは白彦だった。ミキは見なかったことにして踵を返したが、白彦はすぐに追いつき、彼女の腕を掴んだ。「放して!」ミキが眉を吊り上げて睨みつけると、白彦は手を放すどころか、さらに強く握りしめてきた。「わざわざ誕生日を祝いに来てやったのに、その態度はなんだ」その言葉に、ミキの拒絶が一瞬止まった。……誕生日を祝う?彼が?知り合って六年、結婚して五年。一度たりとも私の誕生日など祝ったことのない男が?今日は槍でも降るんじゃないかしら。ミキは乱暴に白彦の手を振り払うと、氷のような視線を突き刺した。「……誰
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第788話

「あら、ご立派な心がけね。この子が私の誕生日をわざわざ教えてくれるなんて、なんて気が利いて健気なんでしょう!だから私はその真心を受け取って、ありがたくプレゼントを頂戴しなきゃいけないってわけ?」ミキは怒りを通り越し、クスクスと喉を鳴らして笑った。だが、その瞳には凍てつくような蔑みが宿っている。白彦は一番嫌いなこの挑発的な態度に、声を一段と低く沈めた。「……まともに会話をすることも忘れたのか」「相手によるわよ。言葉が通じる人間なら、私だってそれなりの口を利くわ」ミキは鼻で笑うと、一歩詰め寄った。「そんなに気の利く愛人様なら、教えてくれなかったかしら?私が誕生日なんて一度も祝ったことがないってことを。ねえ、白彦、私がなぜ一銭もいらないから離婚しろって言ったか分かる?」ミキは一呼吸置くと、吐き捨てるように言い放った。「その浮いたお金で、一度じっくり自分の脳みそを治療してもらいなさいって意味よ!」ミキはそれだけ言い捨てると、振り返ることもなくその場を立ち去った。残された白彦の顔は、ひどく険しく歪んでいる。璃々子がプレゼントの袋をぎゅっと握りしめ、いかにも申し訳なさそうな表情を作った。「白彦兄さん、ミキさんにまた誤解されちゃったみたい……私、追いかけて説明してくるわ。遠くからわざわざ来てくれた白彦兄さんのためにも、これ以上仲が悪くなってほしくないもの」そう言って一度言葉を切り、白彦の反応を伺うように上目遣いで見た。だが、どれだけ待っても返事はない。白彦は眉間に深い皺を刻んだまま、何かを考え込んでいるようで、彼女の言葉など耳に入っていない様子だった。璃々子は唇を噛み、癪に障るのを堪えて携帯を取り出した。「やっぱり私、メッセージで謝っておくわね」「……いい、そんなことは」白彦は冷淡な口調でそれを遮ると、不意に問いかけた。「あいつは……なぜ誕生日を祝わないんだ?」璃々子の心臓がドクリと跳ねた。彼がこれほどミキに関心を向けるのは、彼女にとって愉快なことではない。「……たしか、私のおばさんのことで何かあったみたいだけど。私も当時はまだ小さかったから、よく覚えていないの」璃々子は曖昧に言葉を濁した。幸いなことに白彦はそれ以上追及せず、苦虫を噛み潰したような顔でミキの後を追って外へ出た。だが、追いつけるはずもな
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第789話

「言い訳など聞きたくもない!」サワは彼に喋る隙を与えずに畳み掛けた。「もう離婚しな!これ以上、あの子を縛り付けるんじゃないよ。ミキちゃんにはもっと相応しい相手がいる!」一方的にそれだけ告げると、電話は切れた。ツー、ツーという電子音が虚しく響く中、白彦は携帯を耳に当てたまま固まっていた。その漆黒の瞳には、説明のつかない暗い感情が渦巻いている。やがて彼は、誰もいない空間に向かって低く呟いた。「……離婚なんて、しない」車外では、璃々子が愛想の良い笑みを浮かべて車に近づいてきていた。気を取り直して助手席に乗り込もうと手を伸ばす。だが、その指先がドアノブに触れるより早く、車は急発進した。ブォン!とエンジン音が唸り、赤いテールランプがあっという間に遠ざかっていく。璃々子はその場に取り残され、呆然と立ち尽くした。表情が凍りつく。白彦に忘れ去られ、置き去りにされたのは、これが初めてだった。……ミキが『せせらぎ』に到着したとき、詩織はすでに十分ほど待っていたようだ。「ごめん、道がすごく混んでて……おばさん、だいぶ待ちましたよね?」息を切らせて謝るミキに、初恵は優しく微笑んでお茶を注いでくれた。「いいのよ、気にしないで。私たちもついさっき着いたばかりだから」ふと見ると、隣の空いた椅子にギフトバッグが置かれている。「ねえ詩織、プレゼントなんていらないって言ったじゃない。私の誕生日なんか、祝うようなものじゃないの知ってるでしょ?」ミキは呆れたように眉を寄せたが、詩織は小さく首を横に振った。「私からじゃないわ」「じゃあ誰?」「澪士先輩から」ミキがグラスに伸ばした手が、ぴたりと止まった。「……彼、江ノ本に来てるの?」「午前中、華栄(うち)に仕事で寄ったときに預かったの。もう北里へ戻ってるはずよ」それを聞いて、ミキは人知れず安堵の息を吐いた。グラスの水を口に含みながら、視線はどうしても澪士からの紙袋へ向いてしまう。中身は何だろう。料理が運ばれてくるのを待つ間、詩織が数枚の書類を差し出してきた。「ついでにこれ、サインしておいて」紙面を埋め尽くす細かい活字を見ただけで、ミキは頭痛がしてくる。「何これ」「いくつか署名の必要な書類があるだけよ」詩織は顔も上げずにさらりと答えた。その言葉を、ミキは微塵も疑わなか
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第790話

詩織の手元が狂い、ペンが紙の上で鋭い音を立てた。丁寧に書き連ねていた文字を切り裂くように、無機質な一本の線が走る。静寂を塗り潰したその一線は、まるで平穏な午後の終わりを告げる合図のようだった。電話の向こうで報告を続けていた部下は、突然途絶えた指示に戸惑い、恐るおそる声を漏らした。「……江崎社長、お聞きになっていますか? 何か不手際でもございましたでしょうか。ご指示をいただければ……」詩織は返事もせず、立ち上がると同時に通話を切った。視線の先には、長く続く竹垣。向こう側へ行くには、かなりの距離を迂回しなければならない。最短と思われるルートを見定め、彼女は逸る気持ちを抑えきれずに駆け出した。意識のすべては竹垣の向こう側――そこにいるはずの柊也を捕まえることだけに向けられていた。そのため、前方からトレイを運んできた店員の存在に、まったく気づかなかった。二人は正面から激突した。ガシャガシャと耳を突き刺すような音が響き渡り、トレイに乗っていた食器が地面に散らばる。「ごめんなさい!」詩織は慌てて店員を支え、何度も謝罪の言葉を口にした。怪我がないことを確かめると、自分の名を告げ、割れた食器や料理の弁償代はすべて自分のツケに回すよう早口で伝えた。詩織の名を聞いた途端、店員は顔をこわばらせて首を横に振った。「とんでもございません! 私の不注意ですから、お気になさらないでください」江ノ本市の経済を牛耳る大物を相手に、いちゃもんをつける度胸など、この店の誰にもあるはずがなかった。詩織もそれ以上構っている余裕はなかった。彼女の心はすでに竹垣の裏側へと飛んでいる。足早にその場を去り、庭の端にある東屋を回り込んで、ようやく目的の場所へと辿り着いた。そこは小川のせせらぎが聞こえる、風情溢れる特等席だった。あまりに贅沢な空間ゆえにテーブルは一つしか置かれておらず、この店で唯一の完全なVIP席となっている。だが、そこに座っていたのは、たった一人だった。太一が、きょとんとした顔で詩織を見つめていた。彼女と目が合うと、太一はぎこちない動作で右手を挙げ、顔いっぱいに輝かんばかりの笑顔を浮かべた。もっとも、その笑顔はどこか無理やり作り物めいていて、引き攣っているように見えなくもない。「ご無沙汰っす、江崎社長」詩織は周
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