All Chapters of 百合な親友と共に双子を育てる離婚妻。元夫とのすれ違い愛には裏があった: Chapter 21 - Chapter 30

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第21章:幼き日の檻*遥花

【1993年~2000年】養父母の影は、私の人生の始まりからずっと付きまとっている。6歳より前のことは何も覚えていない。物心ついたのがいつだったかさえ、ぼんやりしている。目が覚めたら、6歳の道仲遥花としてそこにいた、という感覚だ。白い壁の部屋、知らない大人たちの声。そして偽りの家族。すでに言葉も話せるし、自分が「遥花」という名前なのも理解している。ただ「道仲」という苗字がどうも馴染めなかった。他所の家から間違えてそこに連れてこられたような感覚は、その頃からあった。家族との記憶の最初は、養母の膝の上に座らされ、冷たい紅茶を飲まされる場面。砂糖も入れてもらえず、苦みだけが口に広がって、思わず吐いてしまった。「ちょっと、なんてこと! カーペットが汚れたじゃない!」養母はそんな私の頬を反射的に叩いた。躾ではなく、単純な怒りで叩いたという感じだった。重厚な本棚が並ぶ養父の書斎はビジネス系の書籍で埋め尽くされ、革の椅子には煙草の匂いが染みついている。当時ルミナスコーポレーションは、まだ小さな会社だった。養父は夜遅くまで机に向かい、数字を睨み、電話で怒鳴っていた。「この契約が取れれば、俺たちは大物だ。ステアリンググループとの提携だって夢じゃない」そんな養父が私を見る目は、いつも計算高かった。「遥花、お前は親戚から預けられた仮の存在だ。本当のお父さんとお母さんは、事故で死んだ。もう会えない。だから、俺たちを大事にしろよ」6歳の私にそんな残酷な言葉を突きつけるなんて。夜はいつも、布団の中で泣きじゃくった。両親が死んだのは何の事故? 顔も、声も、何ひとつ思い出せない。ただ、胸にぽっかり空いた穴が痛かった。養母は慰めもせず、ため息を吐いてはいつもこう言い聞かせた。「泣くんじゃないよ。女の子は強くないと。ルミナスの娘として、恥をかかせてもらっちゃ困るの」“娘”? そんなときばかり“娘”なんて言葉を使う。大人は卑怯だ。いつもは“仮の存在”だ、“駒”だと言うくせに。会社が成長途中の頃、養父はよく豪語した。「遥花、やがてお前は大企業の経営者の元へ、妻として嫁ぐことになる。お前は会社と会社をつなぐ大事な駒だ。そのために、あらゆるマナーや作法を叩きこむ。それらを身に付けて、“上流階級の娘”として恥じない振る舞いをしろ」毎日のレッスンは地獄だった。朝からドレスを着せら
last updateLast Updated : 2025-10-05
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第22章:対峙の炎*香澄

【2015年10月】マンションの部屋で独り、PCに向かって密かに作業を進める私。まだ入院中の遥花は帝王切開の痛みに相当苦しんでいたし、早産でNICUに運ばれた双子の様子も心配だった。また医者から「安静に、ストレスを避けて」と念を押されたが、養父母がまたいつ訪ねてくるかという不安が最も大きなストレスとして私たちにのしかかっていた。遥花がいない、久しぶりに独りきりの部屋で、私はルミナスのネットワークにハッキングを仕掛けた。その道の専門家としては簡単だったけど、心はざわついた。画面に広がるデータの中から、私たちの個人情報が流出したことさえわかればよかったが、潜れば潜るほどルミナスが隠していた不正が次々と出てきた。顧客の個人情報が闇市場に流れるログ、税務署への虚偽報告。叩き上げで地位を築いてきた会社の蔵は真っ黒に染まっていた。やがて私は、最も厳重になっている扉にたどり着く。パスワードは、5回間違うと完全にネットワークからシャットアウトされるばかりか、彼らにハッキングの通知が飛んでしまう。開けるか、開けまいか。私たちの個人情報が流出していたという事実がつかめなくても。彼らを訴えるには十分すぎるほどの材料がある。何もこんな危ない橋まで渡らなくていいだろう。そんな気もして、一旦は離れたのだが。「私……そのパスワード、わかるかもしれない」翌日、遥花を見舞いに行ったときに、彼女はそう言った。「養父がある日、呪文のように変な言葉を唱えていたの。確か、“ルミナスの心臓、誕生日……ルミナスの心臓、19500825”って。何を言ってるかと思ってこっそり部屋を覗き込んだら、パソコン画面に表示された小さなダイアログに、何か文字を入力していて。それを打ち込むと、一気に画面の中に、データの波が広がっていったの」“ルミナスの心臓、誕生日”がパスワードに紐づく情報? それを口にしていたというなら何とも間抜けだが、彼ほどの老人ならありえる話だ。「でもそれ、いつの話?」「私が結婚する直前だったから、2年半くらい前になるわ」2年半くらい前のパスワード。そんなものをいまだに使っているだろうか。いや、老いた人々には、パスワードを頻繁に変える習慣はない。システムから変えるように警告されて一度変えても、次に警告されたときにもとに戻してしまう人間だっている。どんなにシステムを刷新したところで、
last updateLast Updated : 2025-10-07
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第23章:温もりの夜*遥花

部屋の暗闇が、私の心を優しく包み込む。テレビに映るのは、TSUTAYAから借りてきたDVDの映像だ。ハイスピードアクションもので、主人公が敵の銃弾をかわし、ビルを駆け上がっていく。爆発の炎が画面を赤く染め、追う影が迫る。ドキドキが止まらない。隣に座る香澄がポップコーンの袋をガサガサ開ける音が、唯一の現実味だ。取り出しやすいように袋の側面を開く、いわゆる“パーティ開け”されたポップコーンに手を伸ばすと、指先が香澄の手に触れた。温かく、柔らかい感触。「あ、ごめん、当たっちゃった」香澄の声が耳元で囁くように響き、彼女の指が私の指に軽く絡む。離さないまま、笑顔を向けてくる。「あはっ、相思相愛だね」その言葉に、胸がときめいてしまう。香澄の目が、スクリーンの光を反射して輝く。女同士なのに、こんな気持ちになるなんて思わなかった。ほんの数ヶ月前まで、私は別れたはずの悠真の影を完全には払いきれないまま、養父母や脅迫めいた謎の手紙に怯え、双子の命を案じていただけだった。離婚の痛みや早産の恐怖に心を支配され続けていた。でも今は違う。すべての苦しみが、香澄の存在で少しずつ溶けていった。この温もりが、私の新しい現実なんだ。映画の銃声が鳴り響く中、手を握り返す。香澄の掌が汗ばんでいる。緊張から? それとも、私と同じドキドキを感じてくれているのだろうか。アクションの連続が、心臓の鼓動を加速させる。敵の罠に落ちかけた主人公が、逆転のカウンターを決める。香澄が小さく声を上げる。「よしっ! かっこいい!」興奮する香澄。私はただ、隣の存在に意識が奪われる。女同士の恋。世間がどう見ようと、今、この瞬間は純粋だ。数ヶ月、共に過ごした時間――病院のベッドサイドで手を握り、NICUのガラス越しに双子を見つめ、夜遅くまで語り合った。あの親密さが、私を変えた。いや、それ以上に。香澄のまっすぐな視線が、私を「遥花」として見てくれるから。映画がクライマックスを迎える。主人公が、恋人を守るために最後の賭けに出る。爆風が画面を揺らし、静寂が訪れる。エンドロールが流れ終わり、香澄が照明を点ける。放心状態の私の肩に、彼女の手が触れた。「あー、面白かったねぇ。やっぱアクションってスッキリするわぁ……って、え、遥花!? 泣いてる!? そんな、泣くようなシーンあった?」目から涙がこぼれる。拭いながら、首を
last updateLast Updated : 2025-10-16
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第24章:冷たいキス*百合子

ホテルのスイートルーム。乱れたベッドのシーツ。先ほどまでの体の熱が冷たく消えていくのを感じ、裸の上半身を毛布でくるむ。ベッドの縁に座っている男が、そちらも裸の姿のままでセブンスターにライターで火をつける。煙が漂う薄暗い部屋。窓の外では、11月も暮れの夜の東京が光っている。「大道寺家の御曹司を取り込む計画はどこまで進んでる?」彼――隆一の声はいつも通り無機質だ。ダスクコーポレーションの再起の話を私に持ち掛けてきたビジネスパートナー。私を利用し、私も彼を利用している。「ちょっとした計画のズレが生じてね……あの佐伯敏夫とかいう秘書に言いくるめられて。悠真ったら、私に内緒でお見合いしたみたいなの。信じられる? 浮気と一緒でしょ」私は笑ってごまかす。悠真がお見合いに本気じゃないのは分かる。でも、佐伯の裏工作が気に入らない。わざと私を遠ざけるようなことをして、完全にこちらの素性をお見通しだと言わんばかりに。「浮気、か。今の今まで他所の男に抱かれていたお前とは違うのか?」隆一の目が鋭く光る。私は肩をすくめる。「ぜんぜん違うわ。私とあなたはビジネス。事を円滑に進めるためのコミュニケーションじゃない。そのハズでしょ? それともあなた、私に変な気を持った? やっぱりあなたも単なるオスだったってワケ?」隆一が笑う。「馬鹿にしてもらっちゃ困る。私もわきまえてるよ。酒を飲みかわす行為の延長線上だ。それ以上でもそれ以下でもない。だいいち、自分の娘ほどの年齢のお前に、そんな気を起こすと思うか」「自分の娘ほどの年齢の女と抱き合った男が言うセリフじゃないでしょ」「はは、そりゃそうだ。まあ、どんなときにもエンターテインメントは必要だからな」そう言って煙を吐くと、隆一は私の唇を奪う。冷たく、乾いたキス。舌が絡む、計算された動き。私は目を閉じ、受け入れる。「ふふっ、私、あなたのそういうところは嫌いじゃないわよ。ちゃんとドライに弁えてるところも、どこかのお坊ちゃんと違ってキスが上品なところも」「どこかのお坊ちゃん、か。今はそれが大事なターゲットだろ。離すな、モノにしろ」隆一の声が低く響く。悠真はダスク再起の鍵。ステアリンググループの御曹司である彼を手中に収めれば、未来が開ける。なのに最近、思うようにできない。「じゃああなたも、あの秘書をどうにかしてよ」私が
last updateLast Updated : 2025-10-19
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第25章:疑惑の涙*悠真

玄関のベルが鳴り、百合子を迎えに行っていたドライバーが帰ってきたことを知らせた。「お連れしました」屋敷のエントランスで百合子を迎え入れる。黒のタイトスカート、赤いリップ。いつもの妖艶さだ。だが、今日はどこか疲れた目をしている。ドライバーは、今日の仕事はもう終わりといった表情をしていたが、目配せしてもうしばらく敷地内に待機するよう指示した。意外そうな表情をしながらも、彼は電子煙草を取り出して玄関の外へと出ていった。もちろん、その分のチップが受け取れることを了解して、だ。彼女をリビングに招き入れ、ソファに腰を下ろさせる。広い部屋に二人きりだ。「怖い顔してどうしたの、悠真」「お前こそ、なかなか会ってくれなくてどうしたんだ。俺に愛想尽かしたのかと思った」百合子が笑う。細い指で、俺の手を取る。思いのほか冷たい。「そんなわけないじゃない。あなたは私の運命なのに」「運命、か」俺は手を振りほどく。彼女の言葉に、違和感が募る。「その運命とやらにかこつけて、俺が利用されてるとしたら、たまったもんじゃないな」百合子が目を細める。「何を言ってるの?」「周りの連中がうるさいんだ。俺は“女狐”にハメられてるだけだって」「言いたい奴には言わせておけばいいのよ」彼女が再び手を取る。冷たい指。俺は思い出す。2月のあの日、彼女が初めて家を訪れ、ここで手を取り合っていたことを。それが、俺と遥花の離婚のきっかけになった。けれど5月、彼女が手首の傷について語り、俺の記憶の奥底で眠っていた誘拐事件を思い出させてくれた。そのことで、百合子の出会いは運命だったと感じることができた。離婚後の虚しさも、百合子が埋めてくれたはずだった。「幼いころ、私が誘拐されていたあなたを救ったのは事実。そしてあなたと付き合い始めてから、何度も熱い夜を過ごしあったのだって事実でしょ」「何度も……」だが、その言葉に引っかかる。彼女との営みに関して、俺の記憶では数えるほどだ。「百合子、お前、いま誰と会話しているんだ?」「誰って……あなたよ、悠真……」当たり前のことを言う百合子。もし間違えて他の男の名を呼べば尻尾がつかめると思ったが、そう簡単にはいかないようだ。「悠真、なんだか変よ。最近、いろいろありすぎて疲れちゃったんじゃない?」そう言う百合子に、いつもだったら仕事のことを労ってくれてい
last updateLast Updated : 2025-10-22
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第26章:崩壊の告白*百合子

ベッドルームの空気はまだ熱を帯びていた。シーツは乱れ、汗と香水が混じった匂いが漂う。悠真は私の肩に顔を埋め、荒い息を吐いている。「やっぱり……俺には百合子が必要だ。お前がそばにいてくれなきゃ、おかしくなってしまう」ポツリと独り言のように、彼はつぶやいた。「探偵なんか雇って悪かった。お前が何を企んでいようと許す。俺を利用したければ利用すればいい……お前になら何でも差し出してやる」さっきまでの鋭い視線も、疑念の棘も、すべて溶けてしまったかのように。彼の指が私の背中を這う。熱くて、甘い。私の目的は達成された。彼を、私がいなきゃ生きられないようにしてやること。それが叶った。でも、胸の奥に冷たい穴が開く。隆一の声が蘇る。“余計な個人的感情を持ち出すな”やはり、私は常人だ。目的のためなら何でもできる隆一のような狂人じゃない。こんなに悠真を偽り、それで得られたものを糧にして幸せを得られるはずがない。このままでは悠真があまりに哀れで、可哀そうにすら思えてきた。そして、そう感じられるほどに私は、悠真を愛し始めていることに気づく。不意に涙がポロポロとこぼれる。止められない。「百合子、どうしたんだ?」悠真が慌てて体を起こす。私は首を振った。「ごめんなさい。私……あなたの愛を受け取る資格がない。だって……ぜんぶ嘘だったもの」「嘘……ぜんぶっていうのは……」「ぜんぶよ。あなたを利用していたことだけじゃない。隆一との関係も、ただのビジネスパートナーじゃない。私は彼からダスク再起の件を持ち掛けられて、彼に従って行動してただけなの……」悠真は黙っている。呆然としているのか、何を言われているのか理解するのに時間がかかっているのかもしれない。先を続けるべきか一瞬迷ったが、黙っている方がかえって耐えられなかった。これから私は、彼が到底受け入れられないような話を、しっかり伝えなければならない。「社員に登用されたのも、彼の工作のお陰。私、社員研修であなたに会ったときからずっと、あなたを利用するために動いていたの。私とあなたの出会いは運命なんかじゃない。最初から仕組まれていたの」悠真の瞳が揺れる。彼はようやく、絞り出すように言葉を出した。「でも……君のその手首の傷は……それも嘘だったって言うのか……」「そう。この手首の傷は、単に学生の頃、金持ちの彼氏にフラれてヤケ起こ
last updateLast Updated : 2025-10-25
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第27章:闇の訪問者*百合子

覗き穴の外に立つ人物の姿に、疑問と恐怖が湧く。嘘……何で? 数時間前にホテルで別れたときは、確か出張だと言っていた。なのにどうして彼――隆一が、私のアパートを訪ねてきているんだろう? しかも、こんな早朝に。本物か? 誰か別の人物がなりすましているんじゃ……あるいはドッペルゲンガー?「百合子、入れろ」胸がざわつく。隆一の声はいつも通り無機質だ。私は無言でドアを開け、彼を招き入れる。冷たい朝の空気が入り込み、部屋ごと震えるようだった。リビングまで通すと、隆一はソファに腰を下ろす。煙草の匂いがする。いつものセブンスター。私は躊躇したが、隆一に手招きされ、隣に座る。足が、不安と恐怖で震えている。「どうしてここに? 出張じゃなかったの?」「予定が変わったんだ。ホテルに戻ったが、もうお前はチェックアウト済みだと聞いてな」隆一の目が、私の腫れた目を観察する。嘲るような笑み。「あはは……私のためにせっかくホテルを用意してくれたのに、ごめんなさい……女性用風俗でもデリバリーしようかと思ったけど、あなたとのあとで、そんなのに頼るのもなんだか虚しくなっちゃって……それに、明日仕事で必要な道具を置き忘れちゃってたの」隆一は笑みを浮かべながら黙っている。まるで、こちらの誤魔化しなどすべてお見通しだとでも言わんばかりに。「仕事で必要な道具か……それは、何だ?」「そ、そんなこと聞かないでよ……コンプライアンス違反よ。それとも、女子のプライベートを詮索する気なの? それならセクハラになるけど……」「コンプライアンス、セクハラ……はははははっ、相変わらず口が達者だな」急に笑い出す隆一。その様子で悟った。彼に誤魔化しは効かない。すべてお見通しなのだ。「百合子。女として、人間として、私はお前のことを本当に高く評価しているよ。しかし残念だ。お前がコンプライアンスなんてものを盾に取るのなら、我々だって、我々なりのコンプライアンスを遵守する必要がある。わかってくれ」「な、何を言っているの……?」「おや、回りくどい言い方だったかな。あるいは、すでに察しが付いているのにはぐらかす気か……では単刀直入に言おう。我々は、お前が悠真にすべてぶちまけたことを知っている」血の気が引く。隆一のネットワーク。組織の目。いつもそうだった。「……まさか、私の衣服か何かに、GPSか盗聴器でも付け
last updateLast Updated : 2025-10-26
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第28章:届かぬ温もり*悠真

【2015年12月】街はすっかりクリスマスムードに包まれている。街が華やげば華やぐほど、孤独な俺の心は一層凍てついていくような気がする。あの妖艶な笑顔。赤いリップ。俺はいまだに百合子を忘れられずにいる。俺に近づいた理由も、手首の傷も嘘だったのに。俺の心は、体は、百合子を求めてしまう。“私があなたのこと愛し始めたのは事実なの……いまは本当に、あなたのことを愛してる……”彼女と過ごした最後の夜。あの言葉だけは本当だったんじゃないかと信じたくなる。無論、確証はない。そればかりか、佐野百合子という存在そのものが今は謎を帯び始めている。別れた翌日から、彼女は会社に来なくなった。数日経って、郵送で退職願だけ送られてきた。彼女は、“あなたを利用するために動いていた”と言っていた。それを自らすべて暴露し、目的が果たせなくなった今、会社に来る理由がなくなったということは理解できる。ただ彼女が暮らすアパートまで行くと、すでに部屋には誰も住んでいなかった。管理人に問い合わせると、借主が急に引っ越すと申し出てきて、荷物もすべて運び出していったのだと言う。念のため、借主とは佐野百合子本人か、彼女自身が引っ越しを申し出たのかと確認を取ったが、個人情報に関することなので答えられないと返された。それ自体が妙な回答でもあった。普通は、そこに住んでいる人間が借主のはずだ。ただ、百合子は“組織”という言葉も口にしていた。アパートの借主は百合子以外の別の誰か――例えば、彼女が口にしていた“隆一”とかいう人物などで、“組織”の人間が百合子の代わりに退職願やアパートの引き払いを行った、ということも考えられた。であればあの夜、屋敷を後にして以降、百合子は一体どこに行ったのか……もしかして、“組織”に関することを俺に話すような真似をしてしまった結果、消されたんじゃ?まさか。ドラマの見過ぎもいいところだ。第一、百合子が俺に“組織”の話をしたのは、館の寝室での事だ。あんなプライベート空間のやり取りがどうやって外に漏れる?そもそも、“組織”なんてものも実際に存在するのかどうか。それすら百合子が吐いた嘘という可能性もある。話のスケールを大きくして、別れる俺を混乱させたかっただけでは。きっと今ごろ、どこか他所で、それこそ海外にでも行って奔放に暮らしているのではないか。一応、再び探偵に依頼して百合子の
last updateLast Updated : 2025-11-01
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第29章:笑顔の裏側*香澄

――とある休日の朝、7時15分。蓮が「うわあああ!」と泣き叫び、菖蒲が「きゃあきゃあ!」とハモる。まるでデュエット。私も“うわあああ!”と叫びたくなるのを我慢しながら、「はいはい、ミルクの時間ねー! 香澄ママ、完璧対応よ!」と、威勢よく布団から這い出す。蓮はベビーベッドで足をバタバタ。菖蒲も競うように横でバタバタし始めながら「にゃー!」と猫みたいに鳴く。遥花は寝不足の目をこすりながら、「香澄、助かる……」と呟いた。「いいってば! 今日は私が全部やるから、遥花は二度寝しなさい!」こうして始まる、私たちのドタバタ朝ルーティン。――7時30分。「熱っ!」菖蒲にあげるミルクを用意していたが、うっかり冷やし忘れて直接指で検温し、危うくヤケドしそうになる。ただ逆に、検温まで忘れてたらもっと大変なことになっていたと肝が冷えた。一方、先に用意したミルクを飲んでいた蓮は、口から「ぶぅー!」とミルクを噴き出し、私の顔に直撃した。「わっ、ちょっ……口に合わなかったの!? 粉、入れすぎちゃったかなぁ……」菖蒲も「ぶぅー!」と口を鳴らす。蓮の真似をしているのか、早くミルクを用意しろというブーイングか。その様子に、遥花が「ぷっ」と吹き出す。「もう二人とも、香澄料理長にそんなに厳しくしないであげて……生まれて間もないのにグルメなんだから!」私もタオルで顔を拭きながら、笑いが止まらない。――8時00分。オムツ替えタイム。蓮は体をバタバタさせながら必死の抵抗を見せる。一方、菖蒲は新品のオムツを口ではむはむし始めた。遥花が「香澄、蓮が……!」と叫ぶ一方で、私はすでに菖蒲から新品のおむつを取り上げている。多少ヨダレが付いたが、台無しにはなっていない。直後、蓮も取り押さえて「はい、捕獲完了! すぐにオムツ変えて!」と遥花に指示を出す。「もう、双子ってパワフルすぎでしょ……将来、この子たちどんな風になっちゃうんだろう」「そりゃあもう、プリキュアか、戦隊ヒーローか……!」「香澄、それ本当に実現しそうで怖いんだけど」と、二人で笑い合う。大変だけど、宝物みたいな日常。――9時00分。遥花は蓮を、私は菖蒲を、それぞれ双子を抱っこしながら近所を散歩する。ベビーカーはすでに調達済みだけど、まだ体のサイズが小さくて乗せられないのだ。その分軽くはあるけれど、落っことしそうで
last updateLast Updated : 2025-11-02
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第30章:甘いミルクと赤い脅迫*香澄

――夜の8時。数ヶ月ぶりに脅迫状が届いた。当初は遥花が契約したマンションに届いていたそれらから逃れるために、遥花を呼んで共に暮らすことにしたのに。まさかここの住所まで知られてしまうなんて。しかも送り主は、マンションのエントランスを通過してきた。エントランスも管理人か住人、配達員ぐらいしか入れない。そして配達員は大概、エントランスホールの郵便受けに入れる。今回、わざわざ玄関の備え付けのポストに封筒を入れられた。住人に紛れて侵入してきたのか……まさかとは思うが、ここの住人である可能性もゼロじゃない。そうだ、監視カメラ。きっとマンションの管理人に連絡すれば、脅迫状が届けられた前後の時間に出入りした人間がわかるはずだ。それから、警察にも連絡を入れておこう。届いた封筒を見ながらそう考えを巡らせていると、双子の寝かしつけを終えた遥花がリビングに戻ってきた。「……また、引っ越さなきゃいけない?」不安げに遥花が言う。その声が今にも泣き出しそうで、私は立ち上がり、思わず彼女を抱きしめる。「心配しないで。もう逃げるんじゃなくて、根本的な解決策を考えよう。私が犯人をとっ捕まえて、こんなことしないって土下座させて謝らせてあげるんだから! 倍返しだよ!」なんて、数年前に流行ったドラマのキメ台詞を真似て笑って見せる。遥花も少しだけ微笑んだが、やはり浮かない様子だ。「遥花、そんな顔しないで。こんな状況じゃ、元気になれって言う方が無理だけど……」「うん……そうだよ、私、怖くて仕方ない……」「困ったな、どうすればいい?」遥花の頬を撫でながら尋ねる。少し間を置いて、おずおずとした様子で遥花は答えた。「香澄が……私を、元気にして……?」意外なセリフにやや驚く。「遥花? もしかして今、私に甘えてる?」遥花は頬を染めながら、答えた。「そうだよ……私、香澄の恋人なんだから。甘えるに決まってるでしょ……」何やらじんわりと、心の奥底から温かいような、気恥ずかしい感情が込み上げてくる。ヤバい、可愛い。本当に、自分が男になったんじゃないかという錯覚を覚える。いまさら男も女も無いが。私は遥花の恋人。性別なんて関係ない。自分の大切な人が、私を頼ってくれてるんだ。それだけで心が震えないわけはない。一方、今こんな状況で、ロマンティックな一時を過ごすのもどうかという気はしている。私たちは
last updateLast Updated : 2025-11-03
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