結衣が現れる前は、拓海はいつも優しかった。穏やかに声をかけ、早く休むように促し、髪を撫でてくれた。二人の間で喧嘩をしたことは一度もなかった。でも、それがどうだというのか。喧嘩をしない結婚が、果たして幸せの証になるのだろうか。知佳はもう拓海とのあれこれを思い返したくなかった。思い出すたびに重い枷をはめられたように胸が痛み、そんな時間があるくらいなら勉強をした方がましだった。彼女はすぐに起き上がり、身支度を整えると、パソコンとスマホを客室に持ち込み、留学申請の代行業者や関連投稿を調べ始めた。やはり今のアルゴリズムは驚くほどだ。昨夜バレエを観ただけなのに、今日のタイムラインにはその公演に関する投稿がいくつも流れてくる。それらの投稿を通じて、知佳は男性主役の名前が澤本翔太(さわもと しょうた)だと知った。確かに、以前同じ学科にそんな名前の人がいたような記憶がある……さらに彼本人の投稿も見つけた。目にした瞬間、知佳は写真の場面に覚えがあることに気づいた。翔太が自分に花を差し出している場面だった。思わず驚き、まさか自分を取れてないよなと思いつつ慌ててクリックした。幸い、写真は一枚だけで、正面から翔太を撮ったもの。知佳の姿は一切写っていなかった。だが、添えられた文章にまた驚かされた。タイトルは【彼女が僕の公演を観に来てくれた】【人の海に消えたと思っていた。もう二度と会えないと思っていた。ほんの一瞬の再会。彼女が客席に座って僕の踊りを見てくれていた。遅くなったけど、ありがとう。君がいなければ、今こうして舞台に立つ僕はいなかったかもしれない】知佳は困惑した。これは自分のことを指しているのだろうか。それとも違うのだろうか。自分が彼にそこまで感謝されるほどのことをした覚えは全くない。「君がいなければ、今日の僕はいない」なんて、あまりにも重すぎる。まったく記憶にない……疑問に沈んでいると、小野先生から電話がかかってきた。「今夜ね、私と夫の私的な集まりがあるの。明日西京に戻るから、今日は何人か友人を招いてるんだけど、知佳もどう?」「いいですね。時間通り伺います」知佳は本当は翔太のことをもっと聞いてみたかった。だが考え直してやめた。今さら知る必要はない。小野先生が他の友人を招くことは知っていた。だが、そ
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