Tous les chapitres de : Chapitre 381 - Chapitre 390

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第381話

「ママ」陸哉は小道を駆け上がって山へやって来た。玲奈はそっと目尻の涙の跡をぬぐい、しゃがんで息子を抱きしめた。「陸ちゃん、どうして来たの?」「ママを手伝いに来たんだ。ママ、僕は働けるよ」陸哉はやわらかな小さな手で彼女の目元をぬぐった。「ママ泣かないで。陸ちゃん、すぐ大きくなるから」息子の聞き分けのいい言葉を聞いた瞬間、胸の奥の痛みが波のように押し寄せた。玲奈は必死にこらえ、息子に悲しさを悟らせないようにして、懸命に笑った。「ママは泣いてないよ。さっき目に埃が入っただけ」「ママ、陸ちゃんがふーってしてあげる」陸哉は彼女の頬を両手で包み、唇をすぼめた。あたたかな息がまぶたの縁を撫で、彼女の目元はいっそう熱くなった。――私は潰れたりしない。この結婚は、必ず終わらせる。暮らしだって、きっとどんどん良くしていける。やっぱり馨には感謝しないといけない。この茶畑の仕事を紹介してくれたのだから。茶を育てて作ることについては、彼女はまったくの初心者だった。でも学べる。給料はそれほど高くないけれど、この仕事が好きだった。ここは空気が澄んでいて、景色もいい。人間関係もシンプルで、彼女にはこれ以上ない環境だった。それに、馨の叔父の内木賢人(うちき けんと)に弟子入りして、茶づくりを専門に教わっていた。賢人はとてもいい人で、馨と同じタイプの性格だ。義理堅くてさっぱりしていて、教え方も辛抱強い。そして陸哉はここに来てからというもの、まるで遊園地にでも入ったみたいだった。茶畑はあまりにも広く、思いきり走り回れる場所がそこにあった。普段、玲奈と陸哉は茶園が用意した寮に住んでいた。青い煉瓦の家で、広くはなく一間だけ。文男が買った大きな家とは比べものにならない。でも清潔であたたかく、一日働いてくたくたになったあと、何の遠慮もなく倒れ込んで眠れる場所だ。もう、あの人が今日はどの女と一緒にいるのか、何時になったら帰ってくるのか、そんなことを考える必要はない。午前中ずっと、彼女は茶園で作業をしていた。水やり、虫の駆除。内木家の茶園は農薬を使わない。だから虫退治は昔ながらの方法に頼るしかなく、夏の茶園で最大級の仕事の一つだった。昼になり、茶園で体よく「手伝い」と呼ばれている陸哉も連れて山を下り、昼食をとろうとした。ところが、茶園に客が訪れてい
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第382話

「茶園のオーナーの息子よ」玲奈は笑って言った。「どうやってこの茶園を見つけたの?」まさか馨の紹介?……それはなさそうだった。知佳は聖也をちらりと見て、笑いながら言った。「兄のほう。目利きだって言ってさ。大手ブランドはどうも気に入らないらしくて、こうやって一軒ずつ探すんだよね」「それなら正解よ」玲奈は言った。「内木師匠のお茶作りは、本当に心を込めてる。良心も誠意も、欠けるところがない。飲めば分かるわ。ただ無名なのがね、仕方ないの。完全手作業の伝統製法だから、売り方も昔気質で、知ってる人が少ないのよ」玲奈がそう話していると、もう一台車が入ってきた。降りてきた顔ぶれを見た瞬間、彼女は呆然としてしまい、思わず呟いた。「今日って、いったい何の日なの?」もう揃っちゃうじゃない……その車から降りてきたのは三人。馨、新吾、そして……拓海。知佳も、こんな場所で拓海に会うなんて夢にも思っていなかった。新吾はこのメンツを前にして、目を丸くした。「こ……これ……馨ちゃん、言ってくれ。偶然じゃないよな?」まさにその偶然で……もし馨が今日こんなに大勢と鉢合わせると知っていたら、叔父の茶園に新吾を呼ぶことなんてしなかった。まして新吾が拓海を連れてくるのを許すはずもなかった。馨は今日、会社に新吾を迎えに行った。祖母の様子を見に来たかったし、もちろん玲奈がここでどうしているかも気になっていた。ところが新吾が拓海を無理やり引っ張ってきたのだ。拓海は最近気分が落ちてるから、親友なんだし連れ出して気晴らしさせよう、と。言ってやりたかった。気分が落ちてるなら自業自得だって!それでも結局、拓海を連れて来てしまった。文男じゃなければいい。文男は、玲奈が茶園で働いていることをまだ知らないのだから。「知佳さん、本当に知らなかったの……」馨は申し訳なさそうに知佳へ謝った。知佳は首を振った。「別にいいよ。私たちはお茶を買いに来ただけだし、おじさんがいいお茶持って来てくれるのを待ってるだけ」だが一人だけ、固まっていた。そこに立ったまま、視線を知佳のほうへ向け続けている。彼が車を降りてから今まで、知佳は一度も彼を見ていない。彼の周りをずっと回っていたひまわりは、もう瞳の中から完全に彼を消してしまっていた……賢人は社交が得意ではない。だから最後は、竜
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第383話

「いえいえ、俺なんて素人ですよ」新吾は慌てて言った。「お茶を飲むってことなら、森川社長も西村副社長も俺より詳しいです。俺は猫に小判で、あの人たちこそ味わって飲むんですよ。特に――」そこで新吾は、なぜか言葉がもつれた。「……ぶりっ子、じゃなくて。緑茶系は、お二人ともお好きで……」言った瞬間、しまったと思った。馨が普段から「あざとい女」を「ぶりっ子」だの何だのと散々こき下ろすせいで、その単語がうっかり口から滑ったのだ。「えっと、今のは違います!」新吾は真顔で言い直した。「ほんとにお茶の話です。変な意味じゃなくて……」馨が鼻で笑い、新吾はそれ以上しゃべれなくなった。聖也は茶をひと口含み、穏やかに微笑んだ。「……ぶりっ子って、お茶の銘柄ですか?」新吾は反射的に拓海を見てしまった。拓海の顔色が、みるみる沈んでいく。「へえ。森川社長はお詳しそうですね?」聖也は笑みを崩さずに続けた。拓海は内心で苦笑した。――この人、本当に分からないのか。分からないふりなのか。その場で事情が飲み込めていないのは竜也だけだった。彼は軽く息をついて、さらりと説明した。「ぶりっ子って、可愛いふりをして人を転がすタイプを揶揄する言い方ですよね。でも僕は、引っかかる男のほうがよっぽど悪いと思います。自分にも落ち度があるのに、全部女のせいにするのは違うでしょう」ぱちぱちぱち、とテーブルに拍手が落ちた。聖也が手を叩いていた。「内木さんの今の言葉を聞けば分かります。内木さんは筋の通った、責任を取れる方です」聖也はにこやかに言った。「きっとお茶作りも誠実にやっておられます。――今日は来て正解でしたね」そう言うと、今度は拓海を見た。「森川社長、どう思う?内木さんの話、すごく良かったんだよね?」拓海は顔色が青く、聖也の目を見ることすらできず、適当に「……うん」とだけ返した。聖也の目に冷笑が一瞬走り、立ち上がった。「内木さん、それじゃ茶葉を包んでもらえますか」新吾は帰る気配だと見て取り、慌てて立ち上がって引き留めた。「ロッシさん、みんな顔見知りですし、せっかく揃ったんです。よかったらご飯でも――」「山城副社長」聖也は笑みを崩さずに言った。「申し訳ないですけど、また機会があれば」新吾の目がぱっと輝いた。「本当ですか?」聖也は笑って、知佳の手
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第384話

「拓海、私は本気で、私たちの間にもう話すことがあるとは思えない。離婚したくないって言うなら勝手にすればいい。私は訴える。財産分与に異議があるなら、それも裁判所に決めてもらえばいい。私たちの話はもう全部、きっちり片付いてる。まだ何を話すの?」知佳は目の前の男を見つめた。これもまた、彼女にとって見知らぬ拓海だった。彼女の前ではいつも冷淡で、いつも人を遠ざけて、いつも値踏みするような目で彼女を見て、いつも外の人間ばかり庇う――あの拓海はどこへ行ったの?「なんでないのか?」拓海は眉をひそめて彼女を見た。瞳の奥で感情が渦巻いている。「離婚は君が一方的に言い出したことだ。俺はずっと受け身だった。君は一度だって、俺の気持ちを聞こうとしなかった」知佳は急に、ひどく疲れた気がした。「拓海、結婚して五年。あなたはいつ、私の気持ちを聞いたの?私に向けてきた冷たさだって、あなたが一方的に押しつけてきたものじゃない」拓海の目の感情が沈んでいき、全身から力が抜けたように見えた。だが彼はすぐに持ち直し、知佳が車に乗って行ってしまうのを恐れるみたいに、焦って言った。「だからちゃんと話さなきゃいけないんだろ?俺は君の気持ちを知らない。君も俺の気持ちを知らない。俺たちは互いに一方的だった。だからこそ、話して分かり合う必要があるんだろ?」知佳は淡く首を振った。「違うよ。二人とも、これからも良くしていこうって思ってるときにだけ、話し合う意味があるの。拓海、私はもうあなたと暮らしたくない。だから、話し合う必要なんて最初からない」「違う、知佳」拓海は聖也を一瞥し、席を外してほしそうにした。だが聖也にその気はまったくない。彼は続けるしかなかった。今言わなければ、次に会えるのがいつになるか分からないのだ。「知佳、前は俺が分かってなかった。俺が馬鹿だった。君はもう、とっくに俺の人生に根を張ってたんだ。俺はそれを見ないふりしてただけで、知佳、俺は……」目の奥が熱くなり、喉も熱くなった。言葉が続かなかった。知佳は困ったように彼を見た。「拓海、結局、何が言いたいの?」「知佳、俺は君がいないとだめなんだ」彼は詰まるように言った。知佳はふっと笑った。「拓海、あなたの心って、ずいぶん根付きやすいんだね」拓海はその言葉に、詰まって固まった。「五年前、あなたの心に根を張った人がいて、
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第385話

拓海は何も言わなかった。さっきまで聖也に向けていた刺々しさもすっかり消え、瞳には尽きることのない苦しみと未練だけが残っていた。彼は車内の知佳を見つめた。知佳は振り向きもしない。けれど兄のその言葉は耳に入った。自分を捨てるなんて、いつものことじゃない?ただ、拓海が何度も何度も自分を捨てたことで痛みに鞭打たれてきた心は、今この瞬間、何の感覚もなかった。「お兄ちゃん、もう相手にしなくていい。行こう」知佳は車の中から聖也を促した。聖也は拓海が何の件で呼ばれているのか、おおよそ分かっていた。ただ笑って、拓海に皮肉を一つ投げた。「幸運を祈るよ、森川さん」聖也のその言葉の意味が分からず、拓海はぼんやりと彼を見た。聖也も車に乗り込み、そのまま車は砂埃を上げて走り去った。どうして聖也は、いつも何もかも知っているように見えるんだ?じゃあ今回の言葉も、何かを知ったうえで言ったのか?聖也の車が出て行ったのを見て、新吾は焦ってたまらず外へ追いかけたが、見えたのは後ろ姿だけで、車はすぐに消えてしまった。新吾は地団駄を踏んだ。「もう、拓海!なんでロッシさんを止めないんだよ。ちゃんと話せばよかったのに!」拓海は返事をせず、新吾に鍵を求めた。「車の鍵。お前の車、借りる」新吾は鍵を渡しながら、焦って聞いた。「会社の話、あの人に切り出したのか?」拓海は鍵を取ると、そのまま車に乗り込んだ。「おい、どこ行くんだよ?車持って行かれたら、俺、あとでどうやって帰るんだ?」新吾は排気の向こうに叫んだ。次の瞬間、拓海の車も姿を消した。新吾はしょんぼりしてテーブルへ戻った。頭の中は会社のことでいっぱいで、竜也にも言いつけた。「兄貴、今度あの人がまたお茶を買いに来たら、俺に知らせて」馨は彼に白い目を向けた。「あんた、まだ何かする気?まさか、親友のために知佳さんを取り戻してやろうとか思ってないでしょうね?そんな馬鹿なことやめなよ!」「してないよ」新吾は本当に憂い顔だった。「さっきロッシさん、俺の誘いを断らなかったんだ。『また機会があれば』って言ってた。ってことは、うちの会社にもまだ一縷の望みがあるってことだろ?だから、もう少し粘らないと」……真面目に仕事してるの、あんただけだよ。知佳と聖也は茶葉を買って家に戻ると、良子が荷造りをしているのが目に入っ
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第386話

聖也「……」これが知佳が唯一、聖也が言葉に詰まるところを見た瞬間だった。思わず「ははは」と笑ってしまった。聖也は知佳を睨みつけ、苦笑いしながら言った。「あの老舗の飴屋で、向こうに持ってく菓子をオーダーするとか言ってたろ?そろそろ頼まなきゃだよな。いつ行くんだ?」話題を逸らした。「明日か明後日かな」知佳は予定を数えた。古い製法で昔ながらの飴菓子を作る店を知っているが、特注は順番待ちになる。時間がない、これ以上先延ばしにはできない。良子も笑って聖也を許した。「私と知佳ちゃんで一緒に行こうかね」「いいよ。その時は運転手に付き添わせる。俺は行かない」聖也はようやくほっとした様子だった。自分の女の子の話なんて、もう二度と振られたくない。その老舗の飴屋は海城市の路地裏にあった。そこは今では、セレクトショップやオーダーメイドの店が軒を連ね、仕立てのスーツや着物、伝統衣装、革靴やアクセサリー、手刺繍の品、絹織物などが目移りするほど並んでいる。「無形文化財級」をうたう看板を掲げた店も少なくないのだ。値段はどこも安くはなかった。せっかく来たのだからと、知佳は良子を連れてぶらぶら見て回ることにした。叔母にも贈り物をしたい。叔母はファッション関係の仕事をしている。絹織物、伝統衣装の類なら、きっと喜ぶのでないか。そうして一軒一軒、店を覗いていく。伝統衣装の店に来ると、彼女は良子の腕を支え、迷わず中へ入った。叔母はファッション関係の仕事をしている。絹織物や伝統衣装なら、きっと喜ぶんじゃないか。ただ、彼女はまさか、この店で拓海に遭遇するとは思ってもみなかった。彼は店内の木のソファに座り、覇気のない顔で、何を考えているのかぼんやりしていた。うんざりする。ここ数日、拓海と鉢合わせする回数がさすがに多すぎる!拓海も当然、彼女たちに気づいた。まず顔色が変わり、次いで試着室のほうを緊張したように一瞥する。今さら隠れようがないから、彼は前に出るしかなかった。視線を泳がせながら、「ばあちゃん」と呼び、それから小さい声で「知佳」と続けた。良子は頷いただけで、これ以上話す気はなかった。知佳に目配せして、「行こう」と促した。知佳もそのつもりだ。ここで鉢合わせしたなら、他人のふりが一番いい。だが、まだ背を向けないうちに、甘ったるい声が響い
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第387話

結衣が「結婚」という二文字を口にしたとき、その目は知佳を捉えていた。そこには挑発と得意げな光が満ちていた。拓海ははっきり分かるほど全身がびくりと震え、視線を知佳に釘づけにした。「知佳……」知佳は笑ってみせた。「結婚するんだ。おめでとう、おめでとう。で、いつなの?」拓海の顔色は灰のように白くなった。「違う、知佳、聞いてくれ……」知佳はくすっと笑った。「森川さん、どうしてそんなに慌てるの?もしかして、私たちの約束が心配?」「約束って何?」結衣は裾の長い礼装を引きずりながら近づいてきた。「ふふ」知佳は笑って言った。「森川さんと私の取り決めよ。彼に聞いてみたら?」そう言って、拓海に目を向ける。「森川さん、さすがに急ぎすぎじゃない?どうせなら、離婚届が正式に受理されてからにすれば?」すると結衣は目に涙をにじませ、知佳の前で可哀想ぶった。「知佳、まさか気が変わったの?お願い、拓海を解放してあげて。拓海はあなたのせいで、もう五年も苦しんでるの。どうして放ってあげられないの?」「はぁ?」「結衣、自分で彼に聞けば?いったい誰が誰を放さないのか!」知佳は冷たい目で拓海を見た。「お願いだから、もう少し頑張ってよ。予約待ちが終わったら離婚手続きに行くって、同意させて!」「そんなの無理……」結衣は涙目で首を振った。「だって、あなたが……あなたがその不自由な足で拓海を縛ってるんじゃない。拓海は優しいから、あなたと離婚なんてできないの!お願い、もう拓海を独り占めしないで……」この瞬間、知佳がいちばん気にしていたのは、拓海が結衣と結婚することではなかった。彼女はずっと良子の前では穏やかに振る舞ってきた。良子が拓海との間に問題が起き、離婚の手続きを進めていると知っていても、この醜い現実を真正面から見せたことはなかった。良子が怒るのが心配だった。知佳は彼女の腕をきつく抱き、ただこの場を早く終わらせて、彼女をちゃんと慰めたかった。「もういい。私の前で気持ち悪い真似しないで。ゴミ集めが好きなのは勝手だけど、誰もがリサイクル趣味ってわけじゃない」知佳は冷たい顔で言い切り、良子を支えて外へ出ようとした。だが拓海が回り込んで、彼女の前に立った。焦りを隠せない表情で言う。「知佳、俺は……どうしようもなかったんだ」「消えて!」知佳はこれ以上一言だって相
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第388話

すると良子が手を振り上げ、拓海の頬を平手で叩いた。拓海の頬にたちまち、五本の指の跡が浮かび上がった。良子は彼を指さしたまま、怒りでしばらく言葉が出なかった。「ばあちゃん!」拓海は跪いたまま立ち上がらず、頬の赤い手形を晒して嗚咽した。「全部、俺が悪い……ばあちゃん、怒らないで、どうか、どうかお体に障らないように……これから……これから俺は、もうばあちゃんに孝行できない……ばあちゃん、どうかお体を大事に……」知佳は良子を抱きしめ、怒りで倒れてしまわないかと気遣いながら、拓海にきつく言い放った。「うちのおばあちゃんは元気よ!あなたみたいなクズ男が二度とうちのおばあちゃんの前に現れなければ、おばあちゃんは百歳まで生きる!」拓海はその言葉が胸に刺さり、たまらなく苦しそうにしながら、良子の手を掴んで離そうとしなかった。「ばあちゃん、俺……俺は、ばあちゃんが一番俺を可愛がってくれたって知ってる、俺……」だが嗚咽に塞がれ、言葉にならなかった。良子は手を引き抜き、怒りで指さす手まで震えた。「もうばあちゃんと呼ばないで!今日から先、うちとあんたは何の関係もない!あんたの顔も二度と見たくない!知佳ちゃん、行くよ!」良子は知佳の腕を掴み、足早に店の外へ向かった。背後では、結衣が拓海を力いっぱい引っ張った。「拓海、やめて!自分を責めないで!あの人たちにどれだけ尽くしたって、感謝なんてしないんだから!それでもまだ、あのクソババアに跪くの!?何でよ!私だって悔しい!あなたは立派な大会社の社長なのに……」出口まで来ていた良子の身体がふっと硬直した。振り返り、その目が鋭く光る。「今、『クソババア』って、もう一回言ってみな」知佳も良子を罵られて怒りが爆発しそうになり、前へ出ようとした。だが良子が強く引き止めた。「言わせなさい!」知佳の祖母が罵られて怒っているだけだと思い込み、結衣はむしろ畳みかけるように罵った。「クソババア、クソババア、クソババア……」延々と、同じ言葉を並べ立てた。拓海は立ち上がって大声で叱りつけたが、結衣の口を止められなかった。良子が全力で止めなければ、知佳は今日、結衣と命懸けでやり合っていたはずだ。だが良子の様子が、どこかおかしい。良子は知佳の腕を強く掴んだまま、耳の奥に記憶の声が蘇った。――「あのクソババアはあんたた
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第389話

「ばあちゃん!」拓海の動きは速かった。腕でさっと遮り、鉄製の飾りを弾き飛ばした。飾りは彼の腕から跳ね返って床に落ちた。飾りの鋭い突起が彼の腕を裂き、血がにじんだ。知佳は良子を支え、何度も見て確かめ、良子が無事だと確認してから、振り返って拓海の腕を見た。さらに、飾りに並んだ鋭い鉄の棘を見ると、もしあれが良子の頭に落ちていたらどうなっていたか――想像するのも怖かった。店員はすでに青ざめ、必死に知佳へ頭を下げた。「すみません、すみません!わざとじゃないんです、本当にわざとじゃなくて……おばあさま、驚かれてませんか?わ、私……」ただの店員だ。泣きそうな顔をしている。ふと拓海の腕の血が目に入ると、さらに取り乱した。「すみません……治療費……治療費……わ、私……」飾りを落としたのは店員だが、店員は結衣にぶつかられていた。薄給で、もし客に法外な額を要求されたら、とても全額払えるとは言えない。拓海は結衣を背に庇い、店員に言った。「治療費は要りません。こんな小さな傷、大したことじゃないんです。お年寄りのほうは……」拓海は良子と知佳を見た。「ばあちゃん、病院で一度検査しないか?その費用も、それから驚かせてしまった分も、俺が払うから」「黙って」知佳の目には憎しみが浮かんでいた。「私たちがお金に困ってるとでも?」拓海は言葉を失った。確かに、聖也がいる以上、金の問題は取るに足らないのだろう。そこへ店主も駆けつけてきた。相当動揺している様子で、慌てて言った。「いっそ、警察を呼びましょうか?」経緯を聞いてしまった以上、この責任を店が背負わされるのは困るのだ。原因は、服を試していたあの客が起こしたことなのに、いまは「店に責任はない」と言われても、最後に手のひらを返されるかもしれない。だから、警察だ。結衣は拓海の服を掴み、目に怯えをいっぱいに浮かべた。もう「通報するかどうか」程度の話じゃない。彼女はただ、良子に怪我をさせたかったのだ。気を失わせるだけでもいい、ひとまず喋れなくなればいい。その後は、良子が永遠に口を開けないようにする手段を考えればいい――そう思っていただけなのに、拓海が余計なことを!拓海は、彼女が通報を恐れているのだとしか思わなかった。彼自身も、知佳が引かないんじゃないかと少し不安だった。これで、知佳と結衣が「警察沙汰」に
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第390話

拓海の顔は、周囲の囁きの中でだんだん青くなっていった。それでも頼み込まなければならない。「知佳、通報しないでくれないか?俺は本当に、どんな条件でも受け入れる」知佳は良子を支えたまま、冷たく笑った。「安心して。通報なんてしない」拓海の顔がぱっと明るくなり、肩の力が抜けた。「本当か?」「もちろん本当よ。ただ……」その「ただ」に、拓海も、背後の結衣も、思わず息を呑んだ。知佳の瞳に憎しみが一瞬走った。「拓海、信じる?私ね、本当に、あなたとは穏便に終わらせようって思ってたの。ほんとに。今日のことがあるまで、ずっとそう思ってた。残りの人生、二度と会わない――それが一番いい結末だった」ただね、あなたたちは、うちのおばあちゃんに手を出しちゃいけなかった……「じゃあ今は……」拓海は彼女の真意が掴めなかった。「今は……」知佳の視線が、彼の背後の結衣へ向いた。「約束する。通報しない」そう言って良子を支え直す。「おばあちゃん、行こう」知佳は当然、通報などしない。今日の件で通報して、何の意味がある?結衣は「裾に引っかかって転んで、うっかり店員にぶつかった」と言うだろう。店員は「うっかり棚にぶつかった」と言うだろう。それで?謝罪?治療費?しかも治療費すら取れない。怪我をしたのは拓海なのだから。通報しないほうが、やりようはいくらでもある。背後の店内では、まだざわざわと声が飛び交っていた。店主と拓海が病院へ行くかどうか、通報しないなら責任をどうするか、言い合っている。拓海は当然、全部自分が引き受けると言い張る。騒がしい声の合間に、結衣のすすり泣きが混じる。店主は彼女に白無垢を脱ぐように言い、もう売れないから許してほしいと言った。結衣は店主を「見る目がない」と罵った。拓海が何を言ったのかは、もう聞こえなかった。知佳は車に乗り、ドアを閉めると、あらゆる音が遮断された。運転手は実質、ボディガードも兼ねている。だがこの店には一緒に入っていなかった。結果的に事故が起きてしまい、顔色が緊張していた。知佳は逆に運転手を落ち着かせた。「大丈夫。私が入らなくていいって言ったんだから、あなたのせいじゃない」「知佳ちゃん……」良子は彼女の手をぎゅっと握り、話したいことがあるようだった。「おばあちゃん、言って」知佳は耳
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