LOGIN「やりましたね、湊さん!」
「ええ。夏帆さんの心が彼らに通じたのですよ」
こうしてプロジェクトは再開された。
湊さんと共に戦い、危機を乗り越えたことで、私の心には新たな感情が芽生えた。 彼との間に「共犯者」のような、これまで以上に強い絆を感じていた。でも同時に。
佐藤の悪意は、いよいよプロジェクトそのものを物理的に破壊しようとしている。以前のような嫌がらせでは済まない。身の危険すら感じ始めていた。 彼の次の手は、もっと直接的で危険なものになるかもしれない。そんな予感が私の心に忍び寄っていた。
◇
工房は、安堵と新しい決意の熱気に包まれていた。
湊さんが合図をすると、控えていた彼の部下のスーツ姿の男性が工房に入ってくる。あらかじめ準備していた「専属アーティザン契約書」を、職人一人ひとりの前に差し出した。「黒瀬副社長は、準備のいいことだ」
そんな憎まれ口を叩きながら、職人たちは契約書に誇らしげな顔で署名していく。
これは単なるビジネス契約ではない。未来への約束だった。誰もがそれを理解している。最初に署名を終えた高村さんが、湊さんに一揃いの書類のコピーを手渡した。
「奴が――グラン・レジスの佐藤が、俺たちにどんな非道な条件を突きつけてきたかの証拠だ。好きに使うといい」
そこには法外な違約金や、職人を一方的に縛り付ける悪質な条項がびっしりと記されていた。
法律の素人である私が軽く見ただけでも、思わず眉をしかめるような内容だ。「ありがとうございます。必ず役立てます」
湊さんは頷いた。
◇ 東京へと戻るプライベートジェットの中で。 湊さんは、高村さんから渡された書類……グラン・レジスが提示した契約書の写しに、静かに目を通していた。「なるほど」
彼は低く呟くと、その書類を私にも見えるようにテーブルに置いた。<
佐藤の攻撃は、インペリアル・クラウンに企業としてダメージを与え、私自身のデザイナーとしての誇りを傷つけるのだから。それはつまり、湊さんに二重の痛みを与えることになる。 役員の誰もが、私を責めているわけではなかった。 彼らはただ、会社が直面している危機について、それぞれの立場から事実を述べているだけだ。 でもその一つひとつの言葉が、全ての原因が私にあると告げているようだった。 やがて黒瀬社長の隣に座る恰幅のいい役員が、結論を出した。「こうなっては、事が大きくなる前に迅速に手を打つしかあるまい。原因はあくまでデザイナー個人の選定プロセスにおける、遺憾ながらのミスであった、と。我々は監督責任を認め、彼女を即刻担当から外し、プロジェクトを白紙に戻す。この形で謝罪会見を開き、一刻も早く、火消しに走るべきです」 役員たちの多くが頷く。(そういう結論になるのね) 私はぐっと奥歯を噛んだ。悔しい。何か言い返さなければ。 ところが、その空気をさえぎるように、湊さんが口を開いた。「お待ちください。彼女を罰するのは、まだ早い」 彼は立ち上がると、役員たちに向かって断言する。「これは、彼女のミスではない。我々を陥れるために、極めて巧妙に仕組まれた罠です」「そうだとしても、証明できなければ同じ結果になる」 黒瀬社長が苦々しい口調で答えた。「これを見てください」 湊さんは手元のタブレット端末を操作して、その画面を会議室の巨大なスクリーンに映し出した。「皆さんは相沢さんが選定した、この木材納入業者のことを、ご存知ないでしょうからご説明します」 スクリーンに映し出されたのは、その業者が過去5年間に受賞した、国内外の林業・建材に関する賞のリストだった。その中には、業界で最も権威があるとされる、国際サステナブル建築資材大賞の金賞も含まれている。「彼らが納入している他のクライアントのリストもご覧ください」 画面が切り替わる。そこには誰もが知るヨーロッパの超高級家具ブランドや、王室御用達のヨット
私はすぐさま、インペリアル・クラウン・ホテルの役員会議室に向かった。 既に役員たちは揃っているとのことだ。 部屋に足を踏み入れる。そこは、以前のように私個人を断罪する雰囲気ではない。 役員たちの顔には、「またしても、グラン・レジスに仕掛けられたのか」という警戒心と、「万が一本当に不正があった場合、どう対処するべきか」という、企業としての危機管理の緊張感が漂っている。 黒瀬社長は怒りを抑えた、低い声で私に問うた。「相沢さん。我々は必ずしも君を疑っているわけではない。前回のことがあるからな。だが事実として、外部から指摘があった。君はデザイナーとして、この素材が本物であると、100%保証できるか?」 柳専務も厳しい表情で続ける。「もしこれが佐藤の仕掛けた罠で、証明書自体が偽造されたものだったとしたら? 君の選定プロセスに一点の曇りもなかったと、断言できるかね?」 彼らの言は私個人への糾弾ではない。 けれどデザイナーとしての選定眼、さらには危機管理能力。私のプロフェッショナルとしての根幹を問う、重い質問だった。 私は自分の仕事の全責任を、今この場で背負っていることを、改めて痛感させられた。◇ 部屋の空気が一気に重くなった。 財務担当の神経質そうな役員が、手元の資料に目を落としながら口火を切った。「社長。今回の告発は、すでに一部の経済メディアが嗅ぎつけています。明日にも記事が出れば、我々の株価への影響は避けられないでしょう」 続いて、マーケティング担当の役員が、苦々しい表情で言葉を継ぐ。「問題は、我々が今回のプロジェクトで、『サステナビリティ』と『最高品質』を大々的に謳っていたことです。もし、これが事実であれば、我々は自ら自分たちのブランドに泥を塗ったことになる」 サステナビリティとは、自然環境や社会、健康、経済などが将来にわたって、現在の価値を失うことなく続くことを目指す考え方。 現代の環境破壊と変化の中にあって、自然環境に負担をかけ過ぎずに社会と経済の発展を目指すこと、だ。
プロジェクトが順調に進んでいた、ある日の午後のこと。 アトリエ・ブルームの事務所に、環境保護団体を名乗る組織から一通の内容証明郵便が届いた。「内容証明? 物騒ね」 所長が不審の表情で封を開けて、文面に目を通す。「そん、な……」 彼女の顔から、さっと血の気が引いた。「インペリアル・クラウンの新スイートに、違法伐採木材の使用疑惑? 調査を要求する、ですって……?」 所長から文書を受け取って、私も読んでみる。『貴社がデザインを担当するインペリアル・クラウン・ホテルの新スイートに、違法伐採された木材が使用されている疑いがある。公式調査を要求します』 と、紙面には厳しい調子で書かれていた。 所長は青い顔をして、椅子にへたり込みそうになっている。 私はショックを受けながらも、必死に思考を巡らせた。「所長、落ち着いてください。そんなはずはありません」 私は、すぐにプロジェクトのファイルが保管されているキャビネットへ向かった。 中から問題となっている木材を納品した業者との、契約書類一式を取り出す。「これを見てください」 テーブルの上に広げたのは、木材の正規の産地証明書と品質保証書だった。 産地証明書には、その木材が環境保護の規定に則って、正しく管理された森林から伐採されたものであることが、政府機関の印章付きで明記されている。 品質保証書には、シックハウス症候群の原因となる化学物質を含まない、最高ランクの品質『F☆☆☆☆(エフ・フォースター)』をクリアしていることが、写真付きで詳細に記載されていた。「これだけの証明書が揃っています。何かの間違いです」 書類上は何の問題もない。完璧なはずだった。 私の冷静な言葉に、所長も少しだけ落ち着きを取り戻す。「そう、よね。何かの間違いよ、ね……?」 けれど彼女の声には、まだ不安の色が濃く残っていた。(身に覚
守ってあげたい。彼女を傷つける全てのものから。 元夫の男はケリをつけた。もうつきまといの心配はない。 だが今は、仕事上のトラブルが彼女を痛めつけている。 グラン・レジスの佐藤は、いずれ徹底的に追い落とす必要があるだろう。夏帆さんに恨みを残したまま、野放しにするのは危険だ。 でも、今は――。 わずらわしい全てを忘れて、僕と2人きりで過ごしてほしかった。 柔らかい笑みを見せる彼女に、僕の心は明るくなった。まるでたくさんの花が咲いたようだ。 近くに彼女がいて、とうとう我慢できずに触れてしまった。 抱きしめ返してもらった時は、どれほど嬉しかったことか。 あの夜以来の体温に、つい気が逸った。 もう一度彼女を感じたくて、キスをしようとして。 拒まれてしまった。 ショックでなかったと言えば嘘になる。 でもそれ以上に、彼女の心がまだ傷ついているのだと実感した。 彼女が欲しい。心から求めている。 だが、傷つけるのはだめだ。 もっと慎重に、彼女の気持ちが癒えるのを待ちながら、その時には決して逃げられないように。外堀を埋めて、逃げ道を塞いで、罠を張り巡らせておこう。 そうして最後には必ず、彼女の全てを手に入れる。「夏帆さん。待っていてくださいね。僕は必ず、あなたを振り向かせてみせる」 僕と彼女を隔てる一枚のドアが、今は恨めしい。 でも焦りは禁物だ。 じっくりと囲い込んでいこう。 テーブルに置いたままになっていた、ワイングラスを傾ける。 暖炉の明かりを眺めながら、僕は彼女の心を手に入れるための計画を練っていた。◇【夏帆視点】 3日間の夢のような休日が終わった。 東京へと向かう帰りの車の中、私は窓の外を流れる景色を、ただ黙って見つめていた。 別荘を出て海沿いの道を離れると、景色は少しずつ見慣れた無機質なものへと変わっていく。 増えていく車の数、高速道路の標識、灰色のアスフ
湊さんの動きがぴたりと止まった。 その瞳に一瞬だけ深い悲しみの色が浮かんだのを、私は気づいた。気づいてしまった。 けれど湊さんはすぐにいつもの優しい表情に戻ると、私を抱きしめる腕の力を緩めて言った。「すみません。少し、焦りすぎましたね」 暖炉の炎の明かりが、彼の長いまつ毛に陰影を落としていた。「夏帆さんが、本当に僕を受け入れてもいいと思えるようになるまで、僕もがんばりますから。……ずっと、待っています」 その優しい言葉が、逆に私の胸を締め付けた。「ごめんなさい……。もう、寝ますね」 私は立ち上がる。もうそれ以上ここに居られなくて、寝室へ戻った。 ドア一枚を隔てた場所に彼がいるのに、私は触れることができない。(どうして……) どうしてあの夜、あんなにも幸せな思い出を作ってしまったのだろう。 どうして私は、恋を諦めると決めたのに、こんなに心を残しているのだろう。「うぐ……」 涙がこぼれた。嗚咽(おえつ)が漏れそうになって、枕に顔を埋めてこらえる。 遠く聞こえる潮騒が、夜の暗闇が、私を包み込んでくれた。◇【湊視点】 逃げ去ってしまった夏帆さんの部屋のドアを見つめて、僕は小さくため息をついた。(焦ってしまったか。傷ついていないといいが……) この2日間、夏帆さんと過ごした2人きりの時間は、僕にとって何よりも幸せなものだった。 食事を作ったり、海辺を散歩したり。そんな何気ない時間がこれほど温かいとは、知らなかったのだ。 穏やかに過ごすことで、彼女も心を開いてくれたように思う。自然な笑顔が増えて、嬉しかった。 やはり疲れはかなり溜まっていたようで、ふとすると眠ってしまっている。 彼女の寝顔は無防備で、いっそあどけなくて、いつもの誇り高いデザイナーとのギャップが
「料理はまだまだですけれど、コーヒーは昔から自分で淹れていましたから」 私が褒めると、彼はちょっと照れたように笑う。 その後は散歩をしたり、音楽を聞いたりして過ごした。 私はやはり疲れていたようで、気がつけばウトウトと眠ってしまうことが多かった。 目覚めるといつも湊さんが近くにいる。冷えないようにひざ掛けをかけてくれたり、座っていたはずなのにいつの間にか横たえられていたりする。「すみません。お手数をかけてしまって」 私が恥ずかしくなって言うと、彼は微笑むのだ。「いいえ、ちっとも。あなたのお世話をするのは、とても楽しい時間ですから。何か音楽でもかけましょうか?」「ええと……そうですね。では、モーツァルトのクラリネット協奏曲を。好きなんです」 私が言うと、彼は嬉しそうに笑う。「夏帆さんの好きなものを知るのは、僕の喜びです。では、この曲を」 ヴァイオリンの軽快なメロディに続いて、クラリネットの優しい旋律が部屋を満たしていく。 お気に入りの曲が心を撫でていく感触は、とても心地よい。 私はまた微睡んでしまった。◇ 優しい時間は流れていって、とうとう最後の夜になる。 リビングの暖炉の炎が、ぱちぱちと静かに爆ぜている。 その炎を眺めながら、私たちはワインを片手にソファで並んでいた。 隣の湊さんをちらりと見上げれば、整った横顔が目に入る。美しい鼻筋に、形の良い唇。涼し気な目元は、今はワイングラスを見つめている。 いつもは上げている前髪が今は一部が下ろされていて、少しだけラフな色気があった。 ――覚えている。 あの夜も、彼は髪を乱していた。私を組み敷いて愛をささやいて、貪欲に求めてくれた。 私もまた彼を受け入れた。失った半身を取り戻すような、初めて感じる満たされた時間だった……。 穏やかな空気の中で、ふと。湊さんが私の髪にそっと触れた。 私はもう、その手を拒むこ