Tous les chapitres de : Chapitre 271 - Chapitre 280

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第271話

彰は、母親が病院に押しかけたと聞いた瞬間、病室で声を荒らげた。「どうして、僕に黙って彼女に会いに行ったんだ?」怒鳴り声が廊下まで響く。敦美は呆然と立ち尽くした。「何よ、その言い方……あなた、あの女のために実の母親にそんな態度を取るの?」騒ぎを聞きつけ、慎吾が慌てて病室に入ってくる。「彰、落ち着け」彰はこめかみを押さえた。頭の奥が鈍く痛む。だが、ふと何かに思い至ったように目を細める。「……彼女のこと、誰から聞いた?」敦美は一瞬、言葉に詰まる。息子がここまで取り乱すのは、由奈に本気で惚れているからだ――そう思い込んでいた。「誰から聞いたかなんて関係ないでしょう。はっきり言っておくけど、影山家はああいう女を絶対に認めない!きっぱり諦めなさい!」空気が一瞬で凍りつく。敦美は、彰の沈んだ横顔を見てはっとした。――言い過ぎたのか?それとも、息子は本気なのか。「彼女が影山家に嫁ぐことはないよ」彰は自嘲気味に笑った。「滝沢家の奥様が、僕と結婚するわけないだろ」敦美は目を見開く。慎吾も眉をひそめた。「今……なんて言った?」「……あの女が、滝沢祐一の妻?そんなはず……」敦美は信じられないという顔でつぶやく。彰は肩をすくめた。「信じるかどうかは自由だよ。たぶん、もうすぐ滝沢社長が来る」その言葉が終わるか終わらないかのうちに――コン、コン。ノックの音が静かに響く。ドアが開き、麗子が落ち着いた足取りで入ってきた。その姿を見た瞬間、影山夫妻は悟る。息子は――嘘をついていない。……翌日、由奈が病院に出勤すると、倫也に執務室まで呼び出された。ノックして入ると、室内には夫婦らしき二人が座っている。女性の方は敦美で、その隣の男性が彰の父親、慎吾なのだろう。慎吾はゆっくりと立ち上がる。「池上先生、昨日は妻が感情的になり、事情も確認せずに押しかけてしまいました。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」慎吾は素直に謝罪した。由奈は一瞬意外そうに目を瞬いたが、穏やかに頷いた。「もう大丈夫です」倫也が淡々と口を挟む。「敦美さん、あなたからもお願いします」敦美は言葉に詰まる。年下の若い娘に頭を下げることへの抵抗が、はっきり顔に出ていた。それでも、彼女は唇を噛み、意を決したように言う。「……ごめんなさい」由奈は小さく
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第272話

「かしこまりました、奥様」その頃、麗子は浩輔の寝室の扉を開け、祐一の背後まで歩み寄った。「社長、影山さんが先ほど一人で病院を出たそうです」祐一は窓の外を眺めたまま、かすかに笑みを浮かべる。「……彼の母親をそそのかしていた相手に、ようやく気づいたみたいだな」麗子は視線を落とす。「社長はご存じだったのですか?」祐一の表情がすっと冷える。窓辺の銀杏の葉を見つめたまま、低く言い切った。「彼女以外にいない」「そういえばこの三日間、長門さんは白石家を訪ねていたそうですが、白石家の方は誰も会っていないとのことです」祐一は何も答えなかった。歩実と出会ってから、その本性を見抜くまで十年かかった。だから彼は、いまだに信じきれずにいる。彼女が、本当に命を懸けて自分を救ったことがあったのかと。――あの時の記憶。思い出せたらいいのに。だが同時に、思い出すのが怖かった。もし、あの時の少女が本当に歩実だったとしたら――由奈にはどう説明すればいい?……一方、彰は歩実の住まいを訪ねた。ノックすると、しばらくして扉が開く。彰の顔を見た瞬間、歩実の笑みがわずかに凍る。「どうしてここに……」言い終える前に、彰の平手が彼女の頬を打った。歩実は靴箱にぶつかり、そのままよろめく。「……いきなり何をするの!」怒りに満ちた目で睨み返す。「僕が入院したこと、両親に何を吹き込んだ?由奈ちゃんは何も関係がないのに、適当なことを言うんじゃない!」彰は彼女の首元をつかみ、棚に押しつける。手の甲に血管が浮かぶ。「わ、私は……あなたのために……」「黙れ!」突き放され、歩実は床に尻もちをつく。荒い息を繰り返し、彰が一歩近づくと体を震わせた。彰は彼女の前にしゃがみ込む。「どうせ滝沢社長はもう全部知ってた。これ以上僕を怒らせるなら、君の淫らな写真をネットに流しても構わない」歩実の顔色が一変する。「……いつ撮ったの?」「君が本気で協力する気じゃないって、最初からわかってた。だから保険はかけておいたんだ」血の気が引く。――自分は甘かった。「今はまだそのつもりはない。だが次はわからない」彰が立ち上がり、そのまま帰ろうとした。歩実は慌てて追いすがり、彼の腕を掴む。「もうしないから。本当に……!」彰は無表情のまま、その手を振り払った。
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第273話

錦山リハビリテーション病院に滞在するようになってから、あの夜――彼に無理やり抱かれたときでさえ、二人が同じベッドで眠ることはなかった。祐一がふいに、意味深な眼差しを向ける。「君の寝言を聞いた」その一言に、由奈の体がびくりと震えた。寝言?自分は何か言っていたのか……?戸惑いに満ちた表情を見つめ、祐一は一瞬くすりと笑う。「そんなに緊張して。誰の夢を見てたんだ?」由奈は視線を逸らした。「……いや、別に」祐一の笑みがわずかに消え、彼女を見据える。何を考えているのか読めないまま、その視線だけが重く残った。じっと見つめられ、背筋がぞわりとする。由奈はくるりと背を向けて横になった。「もう寝る」すると祐一は背後から腕を回し、彼女を抱き寄せる。頬が首筋に触れ、低い声が落ちた。「……ああ、寝よう」由奈は小さく体を丸めたまま、身動きひとつせずに目を閉じる。翌朝、リビングで祐一と向かい合い、朝食をとりながらも、由奈の胸には昨夜の夢が引っかかっていた。あの夢はいったい何だったのだろう。ここ数日、倫也と顔を合わせる機会が多かったせいで、無意識のうちに夢の中の少年を彼に重ねてしまったのかもしれない。あの頃――もしあの少年が犯人の気を引いてくれなければ、自分は祐一と一緒に逃げ切ることなどできなかった。けれど後日、ニュースでは生存者は二人だけだと報じられた。つまり、あの少年は命を落としたということになる。だから、彼は倫也であるはずがない。由奈の表情の揺らぎを、祐一はすでに見抜いていた。何も言わずに料理を彼女の皿へと取り分ける。「ただの悪夢だ。気にすることはない」――ただの悪夢。その言葉を聞きながら、由奈の胸にかすかな悲しさが広がる。そうだ。彼はもう、何も覚えていないのだから。そのとき、麗子が祐一のそばに歩み寄り、身をかがめて耳元で何かを囁いた。祐一はナイフとフォークを置き、ゆっくりと口元をナプキンで拭う。「契約は?」「すでに締結済みです」「引っ越しはいつだ」「本日中に可能とのことです」麗子が下がると、祐一は由奈を見た。「池上家の屋敷を買い戻した。海都市に戻ったら、好きなところに住めばいい」その瞬間、由奈の手が止まり、ナイフとフォークを握る指先に力がこもる。食欲が、すっと消えた。「戻るつもりはない」
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第274話

患者の家族が帰ったあと、倫也は振り返り、由奈の視線に気づいた。「何か?」由奈ははっと我に返り、話題をそらすように微笑む。「さっきの患者さんのご家族とは、お知り合いなんですか?」「はい。前に私の外来に来たことがあります」「なるほど……」「なるほどって?」由奈はくすりと笑う。「あの患者さんの手術プラン、用意してくれたのは白石先生でしょ?ずいぶん親切だなと思って」倫也は彼女を見つめ、何か言いかけたが、そのとき看護師がやって来た。「白石先生、長門歩実という女性が面会を希望しています」――長門歩実。その名前に、由奈の眉がわずかに寄る。倫也はその変化を見逃さなかった。「私は彼女に会うべきですか?」由奈はきょとんとする。「どうして私に聞くんですか?」彼は軽くからかうように笑う。「彼女のこと、詳しいんでしょう?」由奈は答えない。倫也は肩をすくめ、真剣な顔持ちになる。「何の用で来たのか、気になりませんか?」正直、知りたいとは思わない。けれど、ここまで言われると、わずかに好奇心が刺激されるのも事実だった。やがて倫也は面会を受けることにし、由奈も彼の執務室の洗面所に身を隠し、「同席」することになった。一方、倫也がやっと会ってくれると聞いた歩実は、エレベーターの中で慌てて化粧を直した。看護師に案内され、執務室の前に立つ。身だしなみを整え、深呼吸してから扉を開けた。「白石先生、はじめまして。長門歩実と申します」そう言って、完璧な笑みを浮かべる。倫也は顔を上げ、彼女を一瞥すると、診察でもするかのような口調で言った。「どこか具合が悪いんですか?」歩実の表情が一瞬固まるが、笑みを保った。「体調は問題ありません。今日はただ、白石先生にお会いしたくて」「私たち、面識はないはずです。用件は?」「実は、私はアンデル教授のチームの一員で、影山さんの友人でもあるんです。影山さんから、あなたとは幼馴染だと伺っています」歩実は髪を耳にかけ、わずかに色気をにじませた。「白石教授とアンデル教授のナノ治療プロジェクトについて、白石先生もご存じですよね?双方が協力関係にある以上、先にお話ししておければと思って」洗面所の中で、由奈は眉をひそめた。確かにあの日、アンデル教授が歩実をかばうような発言をしていた。本当にチームメンバ
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第275話

由奈は洗面室から出てくると、笑いをこらえながらに言った。「白石先生って、女性には全然優しくないんですね」倫也は由奈を見つめる。「彼女の場合、私ではなく、滝沢社長に優しくして欲しいんでしょうね」「……」言葉に詰まりつつも、由奈は内心の驚きを隠せなかった。歩実が本当にアンデル教授のチームに入ったなんて。「アンデル教授って、ここ何年も新しいメンバーを募集してなかったって聞きました。彼女、ずいぶん運がいいですね」「とある匿名論文のおかげだそうです」「論文?」由奈は一瞬、目を見開く。まさか――十年前、自分が書いた神経幹細胞移植の論文のことでは。思い当たった瞬間、思わず笑いがこみ上げた。……歩実が病院を出ると、黒服のボディーガードらしき人物が近づいてきた。「奥様がお会いしたいと」「奥様?」歩実は驚き、視線を隣に向ける。そこにはリムジンが停まっていた。まさか――案内されるまま、歩実は車に乗り込んだ。車内にいた中年の女性は、ひと目で只者ではないと分かる気品をまとっている。手入れの行き届いた美しい容姿は、千代よりも若く見えるほどで、華やかさと威厳を兼ね備えていた。歩実は一瞬ためらいながら口を開く。「……白石先生のお母さま、でしょうか?」女性――白石皐月(しらいし さつき)は、静かに彼女を見つめた。「最近、息子に付き合っている女性がいると聞いているの。あなたかどうかは分からないけれど……少し、出自が気になってね」倫也に想い人がいることは、白石家でも知られていた。だが、その相手が誰なのかまでは分かっていない。先ほど洗面所で見えた影が脳裏をよぎる。けれど今は、それを考える余裕などなかった。出自を理由に見下されることには、もう慣れている。歩実は握りしめていた手をそっと緩め、無理に微笑んだ。「確かに、私は恵まれた家に生まれたわけではありません。生まれてすぐ、両親に捨てられました」「……そう」皐月はわずかに表情をやわらげる。「でも、それならそれで構わないわ。ようやく好きな女性ができたんだもの。それだけで十分よ。相手が男性でなければ問題ないわ」歩実は思わず目を見開いた。「それは……どういう意味ですか?」「昔、倫也は事故に遭ってね」皐月は静かに続ける。「それ以来、極度の潔癖症になってしまったの
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第276話

会議の休憩中、由奈は席を立ち、洗面所へ向かった。その背中を見て、歩実も後を追う。洗面台の前で顔を上げた瞬間、由奈は鏡越しに近づいてくる歩実の姿が映った。「わざとついてきたんですか?」歩実はリップを取り出し、落ち着いた手つきで塗り直す。「だったら何?ここまでいろんなことがあったのに、私たちの実力にどれだけの差があるのか、まだ分からないの?」由奈は手についた水滴を軽く振り払い、無表情のまま彼女を見た。「その『いろんなこと』って、全部あなたが仕組んだことじゃないんですか?それに……あなた、二人も殺したんですよ」歩実の表情が一瞬だけ固まる。だがすぐにリップのキャップを閉じ、由奈に向き直った。「それがどうしたの?証拠でもあるわけ?それに、祐一ですら私に手を出してない。あなたに何ができるっていうの?」次の瞬間、由奈は彼女の手首をつかんだ。瞳に冷たい光が宿る。「私に何ができるかって?」「まさか、私を殴るつもり――」言い終わる前に、鋭い音が響いた。由奈の平手が、歩実の頬を打つ。衝撃で顔を横に向いた歩実が我に返り、反撃しようと手を上げた瞬間、由奈は素早くその手を押さえ込んだ。「綾香っていう看護師、まだ覚えてます?」歩実は息をのむ。由奈は微かに笑った。「大事な証拠を残してくれて、本当にありがとう」そう言うと手を放し、そのまま洗面所を出ていく。残された歩実は、その場に立ち尽くした。やがて彼女の顔つきが、じわじわと陰っていく。――綾香の存在を、忘れていた。このまま由奈に脅されるわけにはいかない。……会議が終わり、由奈は恭介たちと談笑しながらビルを出た。麗子はすでに車の前で待っていた。後部座席の窓がゆっくり下がり、車内に座る祐一の整った横顔が見える。彼を知っている人が何人か近づき、挨拶を交わす。由奈と恭介は少し離れた場所で足を止めた。「池上さん、今後ナノ治療研究プロジェクトの窓口は、君に任せたい」由奈は驚いた。「私ひとりでですか?」「もちろん違う。秘書の小島さんもいるし、最悪は倫也もいる」「ですが白石先生は、このプロジェクトに関わらないんじゃ……?」「そのはずだったんだがな」恭介はうなずいた。「なぜか、二日前に急に連絡してきて、興味があると言い出した」由奈は何も言わなかった。そこへ祐一と麗子が歩み寄っ
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第277話

祐一は、本当に自分を愛してしまったのだ。その結論が頭に浮かんだ瞬間、由奈は思わず笑いそうになった。ずっと彼に想いを返してほしいと願ってきたのに、それは叶わなかった。そして自分がようやく諦めた途端、今度は彼の方が愛し始めるなんて――あまりにも皮肉だ。由奈は手を静かに引き抜き、淡々と告げる。「……もう帰りましょう」そのまま祐一の横をすり抜け、車へ向かう。祐一はその場に立ち尽くし、唇をきつく結んだ。彼女の反応は、ある程度予想していた。だが責めることなどできない。それは、かつて自分が彼女に向け続けてきた態度そのものだったからだ。思わず、小さな笑みが漏れる。そして車内で待つ彼女を見つめた。彼女の心に、これまで誰がいたのかなど、もうどうでもいい。これから先――自分だけを思っていれば、それでいい。……恭介がナノ治療の研究プロジェクトを由奈に任せてから、彼女は一気に忙しくなった。午前は病院、午後は星雲テックの本社ビルへ向かい、実験に参加する。これが彼女の日常となった。星雲テックは江川市でも屈指の医療テック企業で、最近はAI医療プロジェクトの試運用を行い、好評を得ている。提携先の病院では、AI夜間診療部門を独立して設置されていた。個人情報や既往歴、症状を入力すれば、AIが体温、血圧、心拍などをモニタリングし、急患対応部門へデータを送信する。心疾患や脳血管疾患の可能性が検出された場合は、自動で緊急通話を行い、医療スタッフへ引き継がれる仕組みだ。まだAIが完全に夜間救急を代替することはできないが、当直医療スタッフの負担は大きく軽減されていた。由奈は防護服を着て無菌室に入り、研究員が行う菌の培養を見学しながら、記録を取っていた。数値比較の結果が出るのを確認すると、立ち去ろうと振り返る。すると、見学窓の外に倫也と小島の姿があった。やがて由奈は無菌室を出て、エアシャワールームを通り、更衣室へ戻る。着替えを終え、ようやく外へ出てきた。倫也が彼女を見て声をかける。「初日の視察はどうでしたか?」「順調です」由奈は微笑んだ。「先生があなたも参加すると言ってました。あなたがいれば、心強いですね」彼はわずかに表情を固め、低く「うん」とだけ答える。「これから食堂へ行くんですが、一緒にどうですか?」「行きましょう」二人
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第278話

「既婚者のあなたが、私のプライベートを詮索するのは感心しませんね」「……」由奈はそれ以上何も言わず、黙り込んだ。夕方になり、由奈のスマホに祐一からメッセージが届く。今夜は急用ができて迎えに行けないので、帰宅したら連絡してほしいという内容だった。由奈は「わかった」とだけ返信し、それ以上は気にしなかった。そのとき、倫也の車が彼女の前に停まった。運転席の窓がゆっくり下がり、見知らぬ男が顔を出す。「池上さん、倫也様からの指示でお迎えに来ました」由奈は車のナンバーを確認する。確かに倫也の車だ。それでも警戒を解かずに尋ねた。「白石先生はどこに?」「ご自宅で急用があり、秘書の小島さんと先に戻られました」小島の名前まで知っていて、この車を運転している。おそらく白石家の運転手なのだろう。由奈は後部座席のドアを開け、乗り込んだ。途中で、倫也にメッセージを送り、送迎の手配に礼を伝える。送信して顔を上げた瞬間、違和感に気づいた。車は病院の方向にも、スクエアタワーのほうにも向かっていない。「運転手さん、道を間違えていませんか?」男はバックミラー越しに彼女を見たが、何も答えない。胸騒ぎがして、由奈は眉をひそめる。「今すぐ引き返して、錦山リハビリテーション病院へ向かってください。じゃないと、通報しますよ」「落ち着いてください。私どもの奥様がお会いになりたいそうです」「奥様?」「倫也様のお母様、皐月様です」由奈は思わず拳を握りしめた。「どうして私に?」「それは存じません」車はやがて細い道に入った。周囲には野花が咲き乱れ、枝が道路を覆い尽くしている。ほどなくして、一軒のワイナリーに到着した。そこは人里離れた場所であり、訪れる者もほとんどいなく、まるで長く閉ざされた倉庫のようだった。車が停まり、ロックが外れた瞬間、由奈はドアを押し開けて飛び出す。そのまま後ろへ走ろうとしたが、すぐに二人の男に行く手を阻まれた。「池上さん、私たちも命令に従ったまでです。どうか悪く思わないでください」由奈は周囲の荒れた景色を見渡しながら、必死に冷静を保つ。「あなたたちの雇い主に恨まれるようなことはしていないはずですが……何が目的なんですか?」そのとき、スマホが鳴った。画面には倫也の名前。通話を受けた瞬間、運転手が近づいてきてスマ
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第279話

二人の男が由奈を押さえつけた。歩実はナイフを抜き、ゆっくりと振りかざす。「白石教授の一番弟子なんでしょう?しかも立派な執刀。もし右手が潰されたら――今後、手術なんてできるかしら?」由奈は彼女を睨みつけた。目は真っ赤に充血している。それでも、ひと言も発しない。その視線に、歩実の胸が一瞬だけざわついた。このまま刺せば、もう後戻りできない――そんな予感がよぎる。けれど、由奈の挫けない態度が、どうしても気に入らなかった。――自分の足元で這いつくばるべきなのに。一生、自分を見上げて生きるべきなのに。歩実は歯を食いしばり、そのまま刃を振り下ろした。刃が由奈の手の甲を貫いた瞬間、激痛が走る。彼女は思わず声を上げた。身体が大きく震え、顔から血の気が引いていく。それでも、彼女は決して許して欲しいと、弱音を吐かなかった。場慣れしたはずの男たちでさえ、この光景に冷や汗をかく。歩実の笑みは、ますます残酷さを帯びていった。由奈が苦しむ姿を見て、ようやく胸のつかえが下りた気がした。刃を引き抜いた瞬間、痛みはさらに強く押し寄せる。血が止めどなく流れ、体の力が抜けていく。由奈はそのまま倒れ込んだ。右手は、もう痛みすら感じないほど痺れていた。歩実はしゃがみ込み、彼女の顎をつかむ。「ひとつ、いいことを教えてあげるよ。あの日、あなたのお母さんが落ちたのは確かに事故よ。私、ちゃんと手も伸ばしたわ。でも……わざと離したの」由奈は、もともと母の死に歩実が関わっていると疑っていた。だが、こんなにも冷淡に語られると、全身が震えた。今すぐ罪を償わせたい――その思いが胸を焼く。「最初から殺すつもりはなかったの。でも、聞いちゃいけないことを聞いたんだから仕方ないでしょ」歩実は笑い、顔を近づける。「そういえば、祐一の調査を切り抜けられたのは影山さんのおかげよ。あなたの弟と父親が死んだ件――彼も協力してくれてたんだから」由奈は目を見開いた。声が出ない。彰が父と弟の死に関わっているという情報を聞いたわけではない。歩実の手首に、小さな赤いほくろが見えたからだ。久美子が言っていた――自分の娘の手首には、赤いほくろがあると。一滴の血のようなそれは、時計のバンドの下からちょうど覗いている。由奈は、呆然と固まった。動かなくなった彼女を見て、歩実は満足げ
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第280話

祐一はその場に立ち尽くしたまま、まったく動かなかった。ただ、腕の中の由奈をさらに強く抱き締める。しばらくして、ゆっくりと視線を落とし、地面に跪く歩実を見据えた。その目に宿る冷え切った怒りと憎悪は、押し寄せる波のようにあふれ出し、鋭く彼女を突き刺す。歩実は、そんな祐一を見たことがなかった。ただ呆然と、その場に固まる。「人生で一番後悔しているのは、君を甘やかしてきたことだ」祐一は低く言い放つ。「だが、もう二度と容赦はしない。由奈の手を傷つけたのなら……同じ手で償え」歩実は言葉を失い、硬直したまま動けなかった。麗子がボディーガードに合図し、彼女を連れていこうとした瞬間、歩実は取り乱して叫ぶ。「祐一!やめて!そんなことしないで!私に何を約束したか、忘れたの?」祐一が振り向かないのを見て、彼女は激昂した。「祐一!裏切ったのはあなたよ!どうして他の女と結婚なんかしたの?彼女がこんな目に遭ったのは、全部あなたのせいなのよ!」祐一は車の前で足を止めた。威圧的な気配をまとい、深く沈んだ目で振り返る。「口を塞げ」歩実が押さえつけられ、口を塞がれた。そして、祐一は由奈を抱いたまま車に乗り込む。麗子に後始末を任せ、運転手には病院へ急ぐよう命じた。その車が走り去るのと入れ替わるように、倫也の車が到着した。二台の車はすれ違う。倫也が降り立ったときには、すでに祐一の部下たちが片づけをしている最中だった。車の前に立つ麗子が、淡々と告げる。「白石様、少し遅かったですね」倫也は握りしめていた拳をゆっくり緩める。ふと視線が地面に落ち、わずかな血痕に留まった。「……誰の血ですか?」「奥様のものです」彼の表情が一気に沈む。「犯人は?」麗子はわずかに目を細める。「それは、あなたのお母様にお聞きになったほうがよろしいでしょう。ご存じかもしれませんから」そう言い残し、麗子は車に乗り込む。車は静かに走り去った。……江川市総合病院、救急外来。祐一は由奈を担架に乗せ、医療スタッフに道を開けられながら救急室へ向かった。しかし入口で止められ、扉が閉まるのを見送るしかなかった。その瞬間、彼はふらつき、数歩後退して長椅子に腰を落とす。ほどなくして看護師が出てきた。「ご家族の方はいらっしゃいますか?」祐一は立ち上がる。「彼女の夫です。
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