All Chapters of プライド崩壊の夜～元妻、二人目の妊娠～: Chapter 111 - Chapter 120

明里は少し疑った。潤が湊に何か吹き込んで、電話をかけさせたのではないかと。真相は分からない。でも湊はずっと彼女に優しくしてくれたし、家を出る時も無理に引き止めたりしなかった。今、彼が出した要求は、家長としてあまりに正論だった。断る理由が見つからなかった。「それに正月は、お前と真奈美で取り仕切らなきゃいけないことが山ほどあるんだ」明里は諦めて答えた。「分かりました。数日後に戻ります」「遅くとも二十八日には戻ってくるように」「はい、承知しました」通話を終え、明里は目を伏せてため息をついた。少し気が重い。けれど視線を落とすと、自分のお腹が目に入った。途端にまた嬉しさが込み上げ、唇の端が自然と綻ぶ。そっとお腹を撫でた。昼食は胡桃の友人が届けてくれたもので、三菜一汁、栄養バランスも量もちょうど良かった。好みも事前に聞いてくれていたため、味付けも申し分ない。明里はお腹いっぱい食べて、昼寝をし、目覚めたらもう三時を回っていた。二時間ほど本を読んでいると、五時過ぎに潤から電話がかかってきた。「ドアの外だ」彼は言った。「開けてくれ」明里はオートロックを解除し、ドアを開けた。現れた潤は、黒いコートの下に正装を身にまとい、凛々しく、息を呑むほど端正だった。妊娠を知ってから、潤と会うのはこれが初めてだ。この人が、子供の父親。もし男の子が生まれたら、潤のように背が高くてハンサムになるのだろうか？「入れないのか？」明里がドアを塞ぐように立っているのを見て、潤が訊ねた。明里はハッとして体をずらした。「どうしてノックしなかったの？」「昨日は叩きすぎて、隣人から騒音で通報するぞと脅されたからな」明里は思わず声を上げた。潤は彼女を見つめる。「着替えないのか？」「何を着替えるの？」潤の視線が奇妙なものになった。「今夜、お前の実家に行くんじゃないのか？」明里はようやく思い出して、また「あ」と声を漏らした。潤が眉をひそめる。「どうした？どこか具合でも悪いのか？」今日の彼女は、どこか上の空だ。以前の、氷のように冷ややかで淡々とした様子とは違って可愛げがあるが、潤は少し心配になった。明里は首を横に振った。「ううん、大丈夫。今着替えてくる！」くるりと振り返って小走りになったが、二歩走って

明里は驚き、思わず潤の顔を見上げた。潤の視線が一瞬彼女の瞳と重なり、すぐに玲奈へと移る。彼は柔らかく微笑んで答えた。「今のところ、子供を持つ予定はありません」もし明里が妊娠していなければ、この時潤が助け舟を出してくれたことに心から感謝しただろう。でも現実は違う。お腹には新しい命が宿っているのだ。自分の夫が、他人に「子供を持つつもりはない」と明言した。何という皮肉だろうか。帰り道、明里はずっと車窓の外を流れる景色を見つめ、一言も発しなかった。マンションの下まで送られると、明里は事務的に礼を言い、逃げるように車を降りた。エレベーターホールで待っている時、背後で足音がしたが、気にも留めなかった。扉が開き、中へ入る。すると、目の前に長い影が落ち、続いて淡く爽やかな香りが鼻先を掠めた。明里はようやく我に返って顔を上げた。「どうしてついてくるの？用事があるんじゃなかったの？」実家では、彼は「急用がある」という口実で明里を連れ出したはずだ。「ああ、用事ならある」潤は階数表示を見上げながら、平坦な声で言った。「用事があるのに、どうして私についてくるのよ」「その用事の相手が、お前だからだ」明里の心は乱れきっていて、今はただ一人になりたかった。「車の中で言えばよかったじゃない」潤は黙り込んだ。明里はどっと疲れが出た。今日の夕食も、針の筵のようで気が休まらなかったし、胃も少し気持ち悪い。潤が黙り込むつもりなら、こちらも構う必要はない。部屋のドアを開け、背後からついてくる彼を無視して中に入る。そのまま寝室へ直行し、ドアを閉めて着替えると、布団に潜り込んだ。少し空腹だが、食欲はない。ちぐはぐな感覚が気持ち悪い。こんなに疲れているのに、目を閉じても眠りは訪れなかった。数分も経たないうちに、寝室のドアが開いた。気配が近づいてくる。潤がベッドの傍に立っている。「もう寝るのか？」明里は壁の方を向いたまま、石のように固まって寝たふりをした。潤が気づいたのかどうかは分からない。彼も何も言わなかった。衣擦れの音がして、続いて隣のマットレスが沈み込む。潤が背後から体を寄せ、手を伸ばして抱きしめてきた。明里の全身が硬直した。妊娠のことはさておき、彼が陽菜と関係を持ったことを知った以上、明

ところがドアを開けてみると、そこに立っていたのは潤だった。明里は驚きで言葉を失った。昨夜あんな捨て台詞を残して去ったのだ。少なくとも当分は、この男の顔を見ることはないと思っていたのに。「また何しに来たの？」明里の声には、隠しきれない嫌悪と疲労が滲んでいた。潤は何も言わず、手に持った荷物と共に強引に中へ入ってくる。力で勝てるはずもない。阻止しようとしても無駄だ。昨日あれだけ言ったのに。彼は最初から最後まで、彼女の意志など尊重するつもりはないのだ。何をするにも我が道を行く、傲慢な男。明里はリビングに戻ってソファに身を沈め、潤を視界に入れないよう努めた。彼など存在しないかのように振る舞うのが一番だ。だが予想に反して、潤はキッチンへと向かった。彼は何かを持ち込み、冷蔵庫から食材を取り出している。明里は背を向けているが、狭い部屋だ。音だけで彼が何をしているか想像できてしまう。おかげで心がかき乱され、全く落ち着かない。三十分ほど経って、再びドアがノックされた。今度こそデリバリーだ。受け取ってダイニングテーブルに置き、キッチンへ食器を取りに行く。三菜一汁、全て環境に優しいエコ容器に入っている。我慢できず、まずは酢豚を一口食べた。正直に言えば、悪くない。高級レストランのシェフには及ばないが、家庭料理ならではの温かみがある。ただ、智子の作ったあの味とは、やはり別物だ。明里は少し落胆した。でも分かっている。中華料理はフレンチやイタリアンのように、レシピ通りに作れば同じ味になるものではない。「火加減」や「塩梅」という感覚的な要素が大きく、再現は難しいのだ。智子と全く同じ酢豚を求めるのは無理だ。ここで妥協するしかない。黙々と箸を進めていると、ふと視界の端に潤の姿が入った。彼は上質な黒いシャツの袖を捲り上げ、明里が今住んでいるマンションよりも高価であろう腕時計をつけたまま、キッチンに立っている。その体には、ピンク色のエプロンが着けられていた。この部屋の備え付けのもので、大家の趣味だ。天下の二宮社長がピンクのエプロン姿で料理をしている。そのあまりの場違いさに、明里は目を疑った。明里は一瞥しただけで、すぐに視線を料理に戻した。酢豚は期待外れだったが、他の二品は悪くなかった。

その表情を見れば、嘘をついているのは明白だった。背後にいる隆の冷ややかな目を見れば、おおよその事情も察しがつく。明里は笑顔で言った。「大丈夫よ。今日は人と約束があるから、あまりお話しできないの」優香は名残惜しそうに手を振った。「じゃあまた今度ね。一緒に食事するって言ってたけど、いつにする？」明里は彼女の背後の男を一瞥して言った。「お正月が過ぎてからにしましょう。今は忙しいから」優香は残念そうな顔で去って行った。去り際、隆は値踏みするように明里を一瞥した。明里はすぐに視線を逸らし、踵を返してその場を離れた。公園を三十分ほど散歩していると、胡桃から電話があり、夜一緒に食事をしようと誘われた。「新しくできた健康食のお店なの。連れて行ってあげる！」明里は快諾した。時計を見るとまだ早い。慌てず、さらに二十分ほど散歩してから車で向かった。ところが途中で事故渋滞に巻き込まれ、店に着いた時には十数分遅刻していた。車を停めてレストランに入るなり、優香と一緒にいたあの男が目に入った。彼は一人で立っていた。背が高く端正な顔立ちで、よく見ると目元が優香に似ている。明里は、この人が優香の兄だろうと推測した。隆も明里に気づき、眉をひそめると、大股で明里の方へ歩いてきた。明里は最初、自分に用があるとは思わなかったが、彼が立ち塞がった時、初めて確信した。優香の兄だということを考慮し、第一印象は最悪だったが、明里は礼儀正しい笑みを浮かべた。「こんにちは」「ああ」隆は無表情で、声には氷のような冷たさが含まれていた。「何の目的か知らないが、忠告しておく。妙な真似はやめろ。痛い目を見るぞ！」明里は数秒呆然としてから、聞き返した。「私が、わざとあなたたちに近づいていると？」「違うのか？まず公園、次にこのレストラン」隆は言い放つ。「事前に俺たちの予定を調べていなければ、こんなに頻繁に会うか？偶然だなんて言うなよ。信じない」明里は思わず笑ってしまった。「河野さん、ですね？言いたいことは分かりました。ご安心ください。今後はあなたたちから遠く離れますので」その言葉が終わるや否や、個室のドアが開き、胡桃が顔を出して手を振った。「アキ！早く入って！」明里は隆にもう一瞥もくれず、そのまま個室に入った。隆は眉をひそめて彼女の

湊の一言のせいで、その夜の明里はほとんど眠れなかった。二宮家になんて帰りたくないし、潤と同じ部屋で寝たくない。何より、陽菜の顔など二度と見たくない。それに、今は妊娠している。ただでさえ感情の起伏が激しくなっているのだ。以前なら、多少の辛いことは歯を食いしばって我慢していただろう。自分が我慢するのは構わない。だが、お腹の子供にまで惨めな思いをさせたくはない。よく考えてみれば、どうせ離婚するのだ。どうしてこちらが我慢しなければならないのか。いっそ、屋敷で陽菜と真っ向から対決してみるのもいいかもしれない。潤がその揉め事を見て、陽菜がいじめられるのを恐れ、離婚手続きを早める可能性だってある。そう考えると、二宮家に帰るのは、むしろ自分にとって有利な一手のように思えてきた。明里は急にその気になった。とはいえ、翌日も出発の時間までぐずぐずと悩み続けた。午後になってようやく、必要最低限の荷物をまとめたリュックを背負い、二宮家の屋敷へ向かった。到着すると、リビングには真奈美と陽菜がいた。「あら、どちら様かと思えば」真奈美の言葉はいつも棘がある。「ようやく帰ってくる気になったのね？」陽菜は花を生けていたが、明里を見ると花が咲いたような笑顔を向けた。「明里さん、お帰りなさい。お花、生けられますか？これ、潤さんが買ってきてくれたんです。よかったら一束お部屋に飾ったらどうですか？」真奈美が眉をひそめる。「これは潤があなたに買ったものよ。どうして彼女にあげるの？」そう言って、侮蔑の目で明里を見た。「向こうだって、あなたの好意なんて受ける義理はないでしょうに」以前なら、潤が陽菜に花を買ったと知れば、明里はただ密かに傷つき、胸を引き裂かれるような思いをしただろう。でも今は違う。明里はふっと笑い、真奈美を見据えた。「ご自慢の息子さんは、自分の妻に花束の一つも買うお金がないんですか？自分の妻なのに、どうして他の人から花を贈られなきゃいけないんです？」凍りついた空気の中、明里は陽菜に視線を移す。「結構です。ご自分でゆっくり鑑賞してください」言い捨てると、二人の反応など見向きもせず、荷物を持ってさっさと階段を上がった。冗談じゃない。以前は猫を被っていたが、もう二人に媚びるつもりなど毛頭ない！背後で真奈美が怒りで震える声