All Chapters of 離婚後、捨てられた私は人生の頂点に立つ: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

七緒は長いこと灼也に仕えているが、あくまで彼の「プライベートシェフ」という肩書きで、その素性は謎に包まれている。当然、臣たちは彼の顔を知らなかった。見知らぬ男が、さも親しげに水琴と鹿耶に声をかけ、自分たちを完全に無視した挙句、こう言い放つのをただ見ているしかない。「夜風で冷えるっスよ。よろしければ、オレがお二人をお送りするっス!」その申し出に、鹿耶はぱあっと顔を輝かせた。敵の敵は味方、とはよく言ったものだ。臣と紗夜、あの気に食わない二人の鼻を明かせるなら何でもいい。彼女はたちまち目を輝かせ、甘えた声を出した。「ほんと?じゃあ、七緒さんにお願いしちゃおうかな」その様子に、水琴は思わず苦笑する。だが、彼女には分かっていた。これほど気が回る男ではない七緒を寄越したのは、おそらく灼也本人だろう。水琴は鹿耶に続いて車に乗り込みながら、夜の闇に沈むロッジを見上げた。先ほどの、あの男からの依頼が脳裏に蘇り、彼女の眼差しがふと遠くを見つめるものになる。「静沢さん。蓮見教授から伺っている。君は心理学の分野で、類稀なる才能をお持ちだと。ある患者を診てほしい。君の力を貸してもらえないだろうか」あの時、水琴はその申し出を、即座に断った。もしあの日、臣と結婚していなければ、自分は本当に優秀な心理カウンセラーになっていたのかもしれない。だが、今さら自分が患者を治療する側に回ることには、拭い難い躊躇いがあった。「申し訳ありません。そのお役には立てそうもありませんわ。他を当たってくださいますように」夕日がロッジの窓から差し込み、男の姿を柔らかな光の輪郭で縁取っていた。その光の中で、灼也はより一層、物腰穏やかに、そして余裕に満ちて見えた。彼は口元にゆったりとした笑みを浮かべている。水琴の拒絶に、少しも気を悪くした様子はない。「静沢さん」彼が言うのが聞こえた。「ゆっくり考えるといい」水琴が七緒の車で去った後、臣の表情はさらに険しく、硬質なものへと変わっていた。すぐ目の前で起きた出来事がもたらした巨大な落差に、彼はどう対処していいのか分からずにいる。黒いオーラをまとったまま車に乗り込むと、車内の空気はずしりと重くなった。やがて、隣から紗夜がそっと寄り添ってくる。彼女から漂う柔らかな芳香が、臣の強張った心をわずかに解きほぐした。「臣さん、明日、父と母が私たち
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第12話

この屋敷は、臣が自分に譲ると約束したものだ。譲渡の手続きも進んでいるはず。たとえ彼が孝行息子として未来の義父母を住まわせるにしても、本来であれば自分に一言、許可を求めるべきだった。ましてや——この屋敷は、結婚する前の臣と自分が、唯一二人きりで暮らした思い出の場所なのだ。結局のところ、臣は彼女のことなど、端から何とも思っていない、というだけの話だ。彼が自分を愛しているかどうかなど、もうどうでもいい。だが、鷹司臣は最低限、自分を『一人の人間』として扱うべきだった。決して……ペットのようにではなく。一同が結婚式の話題で盛り上がり、興が最高潮に達した、その時だった。佳乃の視界の端に、ふと水琴の姿が映り込む。彼女の顔色が、さっと変わった。その場の全員の視線が、一斉に水琴へと注がれる。雅は忌々しげに舌打ちした。「……縁起でもない。どうしてここにいるのよ」そんな中、体裁を取り繕うように一歩前に出たのは紗夜だった。彼女は目の奥の気まずさを隠しながら、努めて優雅に声をかける。「静沢さん、奇遇ですわね。どうしてこちらに?」「奇遇ではございませんわ」水琴は、まるで大敵にでも出くわしたかのように身構える一同をこともなげに見やり、静かな声で告げた。「こちらに、引っ越してまいりましたので」その一言に、佳乃は正気を疑うような顔になり、やがて呆れ返って鼻で笑った。「何を馬鹿なことを言っているの。臣はもうあなたと離婚したのよ!この家は鷹司家のものだわ。どの面下げて引っ越してくるなんて言えるの」雅も、その厚かましさに耐えられないとばかりに、嫌味たっぷりに言い放つ。「水琴さん、本当に厚かましいにも程があるわ。離婚したっていうのに、まだつきまとう気?」二人の態度はどこまでも傲慢で、臣がこの屋敷を水琴に譲ったことなど、露ほども知らない様子だった。紗夜も困り果てたという表情で、なだめるように言う。「静沢さん、もし本当に住む所がお困りでしたら、私から臣さんにお願いして、別の家をお貸しするように頼んでみますわ。この家は父たちが使うことになっておりますので、どうしても……」「私の家ですもの。そちらに不都合があろうと、私の知ったことではございませんわ」水琴は気のない様子で言い放った。「この屋敷は、臣さんが私にくださったものですから」「何を言ってるのよ!臣が、
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第13話

紗夜は慌てて佳乃を諌める。「お義母様。静沢さんは、どうあれ臣さんの元妻ですわ。こんな仕打ちはあんまりです。それに、うちには空き部屋もございますし、どうしてもとおっしゃるなら、静沢さんにお泊まりいただけば……」その言葉を聞いた警備員は、質素な身なりの水琴に侮蔑の色を浮かべた。金持ちにしがみついて離れない、哀れな元妻——彼の目にはそう映っているのだろう。水琴は周囲の視線を意にも介さず、ただ一言、拒絶した。「お構いなく」スーツケースを引き、彼女がその場を去ろうとした、その時だった。空がにわかに昏くなり、土砂降りの雨が降り始めた。不運な時は、何をしても裏目に出る。スマートフォンの画面に表示された「バッテリー残量2%」の文字を見て、水琴は自嘲せずにはいられない。辺りは木々ばかりで雨宿りできる場所もない。ずぶ濡れになった体は、降りしきる雨の中でひどく惨めに見えた。不意に、一台のカイエンが彼女の傍らに停車した。黒い傘を差し、男がこちらへ歩いてくる。傘の外では世界を洗い流すかのような豪雨が降り注いでいるというのに、その内側で、灼也は悠然と微笑んでいた。そして、惨めな姿の彼女を見て言う。「静沢さん、奇遇だね」土砂降りの雨の中、これほど美しい男が優雅に傘を差し伸べて現れたなら、心揺さぶられない女などいるだろうか。だが、水琴の心臓は一度だけ小さく跳ねただけで、すぐに諦念にも似た響きを帯びた声が出た。「ええ、本当に。でしたら高遠様、よろしければどこかまでお送りいただけませんか」灼也は直接答えず、ただ墨色の瞳で彼女の全身をすっと見遣ると、穏やかな声で言った。「まずは車に」車内は暖かく、凍えた体にじんわりと温もりが戻ってくる。灼也は何も言わずにタオルを差し出すと、あとは紳士的に手元のファイルへ視線を落とし、彼女が気兼ねなく体を拭けるように配慮してくれた。水琴は有難くそれを受け取り、濡れた髪を拭いながら、心の片隅でぼんやりと考えていた。この細やかな優しさと気遣いは、彼が受けたであろう優れた教育の賜物なのだろう。彼と顔を合わせたのは、まだほんの数回。だが、その度に差し伸べられる救いの手は、いつも春風のように心地よく、ささくれた心を撫でていく。——これも全て、妹の治療を引き受けさせるためなのだろうか。水琴が思考の海に沈んでいたのは、
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第14話

灼也は、長い間口を閉ざした。水琴が、もう答えてはもらえないだろうと思った頃、彼がぽつりと言った。「友人だ」その声色には、何かがあった。だが、水琴は他人の過去を詮索するつもりはなく、慌てて話題を変える。「高遠様、失礼を承知でお伺いしますが、紗音様の具体的な症状について、お聞きしてもよろしいでしょうか」「血を見ると駄目なんだ。見知らぬ異性に触れられると吐き気を催し、叫び出す。特定の状況下では、恐怖を抑えきれずにパニックを起こす」そう語る彼の姿は、どこか突き放したように、無機質だった。それを聞き、水琴は思案に暮れた。いずれの症状も、過度なストレスに対する反応だ。紗音の記憶には、おそらく心の底から恐怖を覚えるような、何かがある。そこまで考えたところで、佐藤さんが着替えを手に戻ってきた。「静沢様、お風呂の準備ができました。お嬢様の服ですが、お客様と背格好が近しいかと存じます。どうぞお使いください」水琴は礼を言って浴室へ向かい、シャワーを浴びて服を着替えた。しかし、彼女の免疫力は想像以上に落ちていたらしい。髪を乾かし終える頃には、両頬は赤く上気し、瞳は潤んで熱っぽく、あまりにきらきらと輝いていた。その様子に、灼也は目を見張る。そっと彼女の額に手をやると、その熱さに、彼は仕方ないといったふうに呟いた。「熱があるな」水琴はすでに熱で意識が朦朧としていた。ただ、男の声が心地よく響くのを感じる。無意識にその手を押し返そうとしながら、か細い声で懇願した。「……大丈夫です。鹿耶に……電話を、お願いします。鹿耶が、迎えにきますから」熱のせいか、その横顔はどこか幼く、頼りなげに見える。灼也の眼差しはあくまで冷静だったが、その奥には仕方がないといった諦念の色が浮かんでいた。彼は身を屈め、その華奢な体をふわりと抱え上げる。そして、てきぱきと鹿耶の番号を呼び出した。朦朧とする意識の中、水琴はその温もりを求めるように、彼の胸元へと無意識にすり寄る。すぐ耳元で、熱い吐息が掠めるのを感じた。「佐藤さん、彼女を病院へ」水琴が目を覚ました時、病室に灼也の姿はもうなかった。代わりに、傍らで付き添っていた鹿耶が、安堵のため息を漏らすのが聞こえる。「ミコト!よかった、気がついたのね。お腹、空いてない?お粥、買ってきてもらったんだけど」丸一日何も口にしていなかっ
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第15話

臣の端正な顔に、あからさまな苛立ちが浮かぶ。「まだ会議中……」だが、彼が言い終えるより早く、水琴は容赦なくその言葉を遮った。「まだ会議中、ですって?」その声には、普段の水琴からは想像もつかないような、冷たい棘があった。「いつまでもあなたを待っている人間などいないわ。離婚すると決めたのなら、いつまでも手続きを引き延ばすのはおやめなさい。片方で結婚式の準備を進めながら、もう片方で離婚に応じないなんて。一見、情が深いように見えるのかもしれないけれど、私にとっては、ひどく無意味だわ」紗夜からの、あのささやかな探り。臣との、いつまでも終わりの見えない、理不尽な繋がり。水琴は、もう、うんざりしていた。彼女は元来、決断の早い人間だ。愛すると決めれば命を投げ出すことさえ厭わないが、一度離れると決めたなら、ずるずると引きずるような関係はごめんだ。臣が自分を好きで、離婚したくないのだなどと、自惚れた考えは持っていない。彼にとって、自分の存在はそれほどまでに軽いのだ。彼の選択肢の中で、自分に関わることは、いつだって最後の最後。受話器を握る臣のこめかみが、ピクリと引き攣った。胸の奥で、得体の知れない怒りが沸き上がってくるのを感じる。彼は、先日彼女を家まで送っていった、あの男の顔を思い出し、冷たく言い放った。「水琴、随分と体裁のいいことを言うじゃないか。結局、他に男ができたから、そうやっていさぎよく去れるんだろう」この男は、本当にどうかしている。水琴は半ば呆れながら、悠然と返した。「あなたがそう思いたいなら、どうぞご勝手に。もっとも、次の相手を見つける速さでは、あなたにかないませんもの。これから役所の前で、お待ちしています。この時間を逃したら、今度はあなたが土下座したって、離婚してさしあげませんから」臣に反論の隙も与えず、彼女は一方的に電話を切った。駐車場で待っていた鹿耶が、運転席から顔を出す。「ミコト、どこ行く?」水琴は、吹っ切れたような笑みを浮かべた。「役所へ」その言葉に、鹿耶は歓声を上げた。二十分後。水琴が区役所の入り口で手持ち無沙汰に時間を潰していると、ちょうど灼也からメッセージが届いた。【部屋の件は、七緒に聞け】その下には、七緒の連絡先が添付されていた。さっそく追加すると、すぐに七緒から弾むようなメッセージが届く。
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第16話

鹿耶は少し考え、そして、軽蔑を込めた一言に全てを凝縮した。「ほんっと、大したもんよね、あんたって」親友が溜飲を下げてくれるのを、水琴はどこか楽しむように眺めていたが、さすがに最後の一言には、思わず笑みがこぼれてしまった。一方、臣は眉根を寄せた。「母さんに追い出されて、それで……体調を崩したのか?」今さら、心配ですって?水琴は役所の正面玄関へと視線を投げた。胸の内で、乾いた笑いがこみ上げてくる。彼女は表情を変えぬまま、臣を見つめ返した。「ええ、その通りですわ。ですから鷹司さん、もしお心がおありでしたら、どうか一日も早く手続きをお済ませください。これ以上、無用な誤解を招かないためにも」そう言い捨てると、水琴は鹿耶の手を引き、臣が何かを言う前にその場を去った。一人残された臣は、すぐに紗夜へ電話をかけ、昨日の事情を問い質した。電話口の紗夜の声は、困り果てたような響きを帯びている。「私も、静沢さんにお泊まりいただこうと思ったのですけれど、お義母様が、どうも彼女とは反りが合わないようで……それで、追い出すようにおっしゃって」臣は、その言葉に何故か胸のざわつきを覚え、淡々と彼女の言葉を遮った。「紗夜、あの家は、確かに俺が彼女に贈ったものだ」水琴は、臣と紗夜が電話でどんな会話を交わしたかなど知る由もない。彼女がスマートフォンに目を落とすと、七緒からのメッセージが画面を埋め尽くしていた。【静沢さん、どうっスか!?どうしてもっていうなら、六万円でも!】【五万円でも、まあ、なんとかっス!!】【静沢さーん???】【いまどこなんスかー??】【お金はマジで! 問題じゃないんスってば!!!】水琴は、言葉を失った。高遠家。七緒は、スマートフォンの画面を睨みつけ、この世の終わりのような顔をしていた。「灼也様、どうするんスか……静沢さん、既読スルーなんスけど。もう家賃、五万円まで下げたんスよ!? 二百平米で月五万円って、これ以上どうしろって言うんスか!」灼也は、手元の薔薇を静かに弄びながら、焦るでもなく応じる。「何を焦っている」七緒は灼也ににじり寄り、頬杖をつきながら胡散臭そうに主の横顔を覗き込んだ。「ていうか灼也様、マジで何考えてるんスか。あれ、普通に灼也様のマンションっしょ? そのまま貸してあげりゃいいのに、なんでわざ
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第17話

射抜くような視線に、男たちはぎょっと息を呑む。話をしていた男が、おずおずと説明を続けた。「いえ、だから……紗夜さんがいなくなった直後、臣さん、相当落ち込んでたじゃないですか。会社の上層部からも色々言われてた時に、立て続けに舞い込んできたデカい契約で、なんとか持ち直したって……うちの親父が言ってたんスけど、そのうちのいくつかは、水琴さんが『鷹司臣の妻』として頭を下げて取ってきた仕事なんだって。……臣さんが嫌がるだろうからって、ずっと黙ってたらしいですけど」学歴も高くなく、ビジネスの右も左も分からない彼女が。臣が何よりも嫌悪した、『鷹司臣の妻』という肩書を使って。そんなやり方で取ってきたプロジェクトなど、彼が受け入れるはずがない。だから、彼女は隠したのだ。この三年間、ずっと。臣は薄暗い照明の影の中で、今日見た彼女の、あの吹っ切れたような表情を思い出す。胸の奥が、不意にギリッと軋んだ。夜。鷹司家に臣が帰宅すると、紗夜がソファに腰掛け、母の佳乃と楽しげに談笑していた。その様子は、実の親子のように睦まじい。臣の姿に気づいた佳乃が、弾んだ声で手招きする。「臣、おかえりなさい!ちょうど今、紗夜さんとあなたの結婚式の話をしてたのよ。紗夜さんがね、最近は伝統式も素敵だって言うものだから、いっそ、うちで伝統式と教会式、両方挙げさせてあげようかと思って……」「母さん」臣は佳乃の言葉を遮った。「少し上にいてもらえるか。紗夜と話がある」「あら、そう。分かったわ。どうぞごゆっくり。お母様はお邪魔しないわね」佳乃は機嫌良さそうに微笑み、階段を上がっていく。臣の体から漂う酒の匂いはまだ濃い。執事が差し出した茶を一口含み、喉を潤してから、臣は紗夜に向き直った。しばし逡巡した後、切り出す。「紗夜、ご両親のことなんだが……別の家を用意するのはどうだろうか」紗夜は一瞬、虚を突かれたように目を見開いた。そして、彼の隣にそっと座り直すと、唇を噛んで辛そうに俯く。「臣さん……ごめんなさい。私、あの月影館が静沢さんのものになるなんて知らなくて……とんだ誤解を招いてしまったわ。ただ……お義母様も、私の両親も、この件で少し気まずくなってしまったばかりなの。今すぐ両親がここを出て行ったら、きっと皆気分を害すると思う。臣さんと静沢さんの間に何かあるんじゃないかって、余計な誤解も……」
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第18話

「お母様、落ち着いて。臣さんは、ただあの人が可哀想だっただけよ。仕事も学歴もない人を、円満に追い出すための手切れ金代わりだって言ってたわ」それでも裕子は眉を吊り上げ、疑いの目を向ける。「だとしてもよ!納得いかないわ!まさか……臣さんは、まだあの女に気があるんじゃないでしょうね?」「もう、お母様ったら」紗夜は電話の向こうで、わざとらしく甘えた声を出した。「何を言ってるの。臣さんが好きなのは、この私に決まってるじゃない。私のために、この三年間、あの人に指一本触れなかったのよ」「……まあ、それならいいけれど。でも、家のことは許せないわ。あなたはもう何もしなくていいから。お母様が、なんとかしてあげる」紗夜との通話を一方的に切ると、裕子はその足で臣の母、佳乃に電話をかけた。すべてを聞いた佳乃は、絶句した。まさか、自分の息子が。あの小賢しい女に、月影館を渡してしまったというのか。鷹司家の子を一人も産まなかったあの女が、なぜ。佳乃はすぐさま水琴に電話をかけようとしたが、発信音は虚しく響くだけ。とっくに着信を拒否されていることに気づき、怒りに顔が歪んだ。かといって、張本人である臣に直接問いただすわけにもいかない。下手に騒ぎ立てて、ようやく現実味を帯びてきた紗夜との縁談に水を差すことだけは避けたかった。そうこうしているうちに、苛立ちだけを募らせたまま、数日が過ぎていった。その間、水琴はといえば、七緒に紹介された新しい住まいで、穏やかな日々を送っていた。埃をかぶっていた心理学の専門書を再び紐解き、失われた知識を静かに取り戻していく。そして月曜日。A大学の心理相談室へ初めて出勤したが、カウンセリングを受けに来る学生は思ったよりも少なく、高遠家の令嬢・紗音が姿を見せることもなかった。その代わり、学内のサークルが活動の相談だと、時折彼女を訪ねてきた。そうするうちに、いつしか学生たちの間で「心理相談室に、めちゃくちゃ綺麗な先生が新しく来た」という噂が、まことしやかに囁かれるようになっていた。水琴は、その静けさをむしろ楽しんでいた。本を読み、時折訪れる学生たちと語らう。それはまるで、学生時代に戻ったかのような、穏やかな時間だった。その日も、心理学研究会の学生たちがイベントのことで相談に訪れていた。彼らが満足して帰っていった直後、水琴のスマートフ
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第19話

七緒が人懐っこい笑顔で取り繕う。「静沢さん。突然の訪問、失礼する」気品漂う長身の男が、礼儀正しく会釈する。その瞳の奥に、一瞬だけ狡猾な光が宿ったのを、水琴は見逃さなかった。「水琴お姉ちゃん、こんにちは」紗音がはにかみながら顔を上げる。にこっと笑うと、目が愛らしい三日月の形になった。「高遠紗音です」水琴は、この可憐な少女の姿を見て、すべてを察した。「こんにちは。さあ、どうぞ中へ入って」水琴は静かに微笑み、彼らを部屋の中へと招き入れた。「どうぞ皆さんで。オレ、飯の支度してくるんで」七緒は買ってきたばかりの食材を両手に提げたまま、まるで我が家のように勝手知ったる様子でキッチンへ向かう。水琴が引き止めるより先に、鹿耶がその行く手を阻んだ。「はーい、ストップストップ、七緒さん!腕前がすごいのはよーっく知ってるけど、今日はお祝いなんだから。主役のミコトを差し置いて、お客さんにキッチン立たせるわけにはいかないでしょ?もうお鍋の材料は買ってあるの。今日は鍋パだよ、鍋パ!」自他共に認める食いしん坊の鹿耶にとって、七緒の腕を褒める言葉は本心からだった。彼女の舌は、以前味わったあの極上の雁料理の味を、まだ鮮明に記憶している。「鍋」という単語を聞いて、七緒は困ったようにちらりと灼也に視線を送った。この主は極度の潔癖症なのだ。服に匂いがつくからという理由で、鍋料理の類は絶対に口にしないはずだった。ところが、当の灼也は楽しげに目を細め、その視線を終始水琴から外すことなく、こう言った。「主人の意向に従うまでだ。鍋も悪くない」七緒は度肝を抜かれた。明日は槍でも降るんじゃないだろうか。卓上コンロの鍋がぐつぐつと煮え立ち、部屋は湯気と出汁の香りに満たされ、一気に生活の温かみが生まれる。テーブルを囲む数人の間には、和やかな空気が流れていた。「そういえば、そこの兄さん」鹿耶が大きなグラスに入ったジュースを掲げ、悪戯っぽく笑いながら、その視線を灼也と水琴の間で行ったり来たりさせる。「この間はうちのミコトを病院に運んでくれてありがとう!ちゃんとお礼も言えてなかったよね。七緒さんと知り合いだなんて奇遇だなあ。まだお名前、聞いてなかったし」いつも落ち着いているミコト。目の前の男も、親友とどこか似た静かな雰囲気を纏っている。でも、そこには確かな大人の余裕と
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第20話

考えが巡る中、灼也が何事もなかったかのように口を開いた。テーブルに漂う好奇の視線など、まるで意に介していない様子で、雑談めいた軽い口調だ。「静沢さんは、A大学に勤め始めたそうですね?」その言葉に、隣にいた紗音の目がぱっと輝いた。「水琴お姉ちゃん、私たちの大学の先生なんですか!?」少女の喜びには、何の裏もない。目の前の穏やかで美しい女性を、心から気に入っているのが見て取れた。水琴は一瞬息を呑んだが、少女の純粋な喜びに、思わず頷き返していた。「ええ。心理相談室で、研修中なの」「本当ですか!?すごい!じゃあ、わたし、これからお姉ちゃんに会いにいってもいいですか?」紗音の瞳が、期待に満ちてきらきらと揺れる。今日初めて会ったはずなのに、なぜかこのお姉さんには、昔から知っているような親しみを感じる。心の底から、好きだと思える。水琴は目の前の少女の姿に、ふと、狩猟場で出会ったあの小鹿を重ねていた。濡れたように潤んだ、どこまでも無垢な瞳。「ええ、いいわよ」水琴は、微笑んでいた。少なくとも、この少女に対して抱く感情は、紛れもない好意だった。「では、紗音のこと、よろしく頼む」男の声は優雅で、落ち着いた手つきで、また水琴の器に箸を伸ばした。水琴は、器にまた一つ加えられたハチノスに視線を落とし、顔を上げた。男の黒曜石のような瞳に、計画通り、とでも言いたげな笑みが浮かんでいる。気づかぬうちに、この男の仕掛けた罠にまんまと嵌められてしまったような気がした。隣で、鹿耶の好奇の炎がめらめらと燃え盛っている。その瞳は興奮にきらめいていた。この高遠灼也、ミコトを見る目がどう見ても普通じゃない。でも、それも当然か。うちのミコトは、綺麗で、性格も良くて、能力だってあるんだから。男が好きにならない方がおかしい。鷹司家のあのクズ、本当、見る目がないにも程がある。ダイヤモンドを捨てて、石ころを拾ってることにも気づいてないんだから。五人での夕食は、それぞれの思惑が交錯しながらも、表面上は和やかに終わった。目的を果たした灼也は、水琴の表情に微かな疲れが浮かんでいるのを見て取ると、それ以上長居はせず、潔く紗音と七緒を伴って席を立った.帰りの車中、紗音はどこか名残惜しそうに、窓の外を眺めて黙り込んでいる。その様子に気づいた灼也は、優しい手つきで
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