All Chapters of 離婚後、捨てられた私は人生の頂点に立つ: Chapter 31 - Chapter 40

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第31話

紗夜は、臣の表情がみるみるうちに険しくなっていくのを悟り、心の中で警鐘を鳴らす。だが、顔には安堵したような笑みを浮かべてみせた。「静沢さんが高遠さんと知り合いだったなんて、驚いたわ。離婚して一人になったらどうするんだろうって心配してたけど……高遠さんがついていてくださるなら、これからの南鳥市での生活も安心ね」その言葉に、臣は目の前にいる優しく善良な紗夜へと視線を戻し、纏っていた冷気を少しずつ和らげていく。そうだ、俺の紗夜はいつもこうして、誰に対しても心優しく、寛大だった。この先、共に人生を歩むにふさわしいのは、彼女しかいない。先ほどの苛立ちは、ほんの一時的なものだ。今まで自分にだけ従順だった水琴が、他の男と親しげにしているのを見て、慣れない光景に戸惑ったにすぎない。あれは、かつて自分のものだった女に対する、男としての独占欲がむずがゆく疼いただけだ。臣は紗夜の額にそっと唇を落とし、その手を強く握った。「心配するな。この先、俺の隣にいるのはずっと君だ」……一方、水琴たちは個室に通され、席に着いたばかりだった。そこへ、黒いコックコートに身を包み、胸元に数々の勲章を飾り、金色のトック・ブランシュを小脇に抱えた男が入ってくる。「おっ、灼也様!いらしてたッスか!最近、新しい料理を山ほど開発したんスよ!今日は絶対にオレに……」そこまで一気に言って、不意に言葉が途切れる。そして、驚きに満ちた喜色の声を上げた。「あれ!?静沢さんもいるじゃないッスか!」トレジャーホテルの格式と、料理人たちの厳格な階級については、水琴も聞き及んでいた。ここで働く最低ランクの料理人でさえ、国際的な五つ星の資格を持つ実力者。それでも、この場所では一歩ずつ地道に実績を積み上げていくしかないのだという。そして、この黒いコックコートと金色の帽子は、トレジャーホテルにおける最高位の料理人の証。誰もが簡単に会える存在ではない。彼が作る一皿は最低でも六桁の値がつくというのに、それでもなお、予約は常に数か月先まで埋まっているほどの人気ぶりだ。水琴は、まさかここで坂本七緒に会うとは思いもよらなかった。いや、よく考えれば当然か。凡庸な料理人が、高遠灼也の傍にいる資格などないのだろう。水琴は小さく頷き、挨拶を返した。「七緒さん、またお会いしましたわね」
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第32話

その気まずい空気を察し、灼也の方が先に口を開いた。「あいつは昔からお転婆でね。静沢さんに迷惑をかけていないといいんだが」水琴が何か答えるより早く、赤いベルベットの小さな箱が、すっと目の前に差し出された。そこに光るカルティエの金色のロゴに、水琴は一瞬息を呑む。「高遠さん、これは……?」灼也はゆったりとした仕草で箱を開ける。中には、ピンクゴールドにダイヤモンドがあしらわれたブレスレットが静かに横たわり、室内の照明を反射して虹色のきらめきを放っていた。「紗音があんなに人に懐くのは、本当に珍しいんだ。あの子が心を開いた相手だから、これからは静沢さんも、俺の友人だ」灼也は一度伏せた目を、ゆっくりと水琴へと戻す。その瞳には、彼女の美しい姿だけが鮮明に映り込んでいた。「もし良ければ……これからは君を、みーちゃんと呼んでも?」みーちゃん……その響きが、まるで羽のように心の水面にふわりと落ち、静かな波紋を広げていく。ずっと昔、誰かにそう呼ばれていたような気がするのに、それが誰だったのか、どうしても思い出せない。「私も紗音ちゃんが大好きで、妹のように思っていますわ。でも……」高遠灼也は南鳥市でも指折りの富豪であり、その中でも最も若い成功者だ。彼と「友人」になれるような身分ではない。社交辞令に決まっている。それを真に受けるほど、自分は厚かましくなれない。「俺は友人が多くないんだ」男は唇に淡い笑みを浮かべているのに、その声には有無を言わせぬ響きがあった。「みーちゃんは……俺の顔を潰したりしないよな?」その言葉に、水琴は思考を止められた。顔を上げ、目の前の男を見つめる。灼也のような絶対的な強者と繋がりを持つことは、どちらに転んでも自分に損はないはずだ。もとより、感傷に浸るような性分ではない。水琴はふっと唇を綻ばせた。「……では、お言葉に甘えさせていただきますわ、高遠さん」灼也は身を乗り出し、水琴の華奢な手首にブレスレットを着けてくれる。男の纏う、清涼感のあるシダーウッドの香りが、ふわりと彼女を包み込んだ。目の前には、真剣な眼差しをブレスレットに注ぐ、彫刻のように整った横顔。二人の距離は、彼の首筋にしなやかに浮き出る血管まではっきりと見えるほどに近い。不意に、心臓がトクン、と大きく跳ねた。ブレスレットを着け終えると、灼也は満足そう
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第33話

その顔を見た途端、水琴の纏う空気がすっと冷え切ったものに変わる。「いいえ、奇遇ではないわ」紗夜は、水琴をこのまま解放するつもりはないらしい。「先ほど、高遠さんとお食事をされているのが見えたものですから。臣さんと二人で、見間違いかしら、と話していたんですの。静沢さん、いつの間に高遠さんとそれほど親しくなられたの?」そう言う彼女の仕草に合わせて、一筋の髪が鎖骨の上にはらりと落ちる。どこまでも優しく、か弱く、そして淑やかなその姿は、見る者に完璧な印象を与えた。「お答えする必要はないわ」水琴は使ったペーパータオルをごみ箱に投げ捨て、冷たく言い放つ。「月城さん、私のことを探るのはおやめなさい。あなたとそこまで親しい間柄になった覚えはないわ」紗夜は傷ついたように、ぐっと息を呑んだ。その瞳に、誰も気づかないほどの微かな悔しさが滲む。「……静沢さん、少し考えすぎではございませんこと?私たちは、どうあれ知り合いですもの。お声をかけたのは、ただ礼儀として……他意はございませんのよ」他意はない、ですって?この女は、いつもそうだ。どこまでも穏やかで丁寧な言葉を選び、誰にも非の打ち所がないように振る舞いながら、相手の心をじわりと苛立たせる。水琴は、侮蔑を隠しもせずに、ふっと鼻で笑った。「随分と礼儀をわきまえていらっしゃるのね、月城さん。では、あなたが帰国して私の結婚を壊したのも、その『礼儀』とやらの一つだったのかしら?」水琴が浮かべる、あまりにもあからさまな冷気と拒絶の色に、紗夜はその言葉の刺に傷ついたように、信じられないといった表情で彼女を見つめた。「あなたを傷つけるつもりなんて、なかったの……私、海外にいて、こちらのことは何も知らなくて……帰国して初めて、臣さんがご結婚されたと知ったのです。でも、臣さんは、あなたとの間に愛はなく、もう離婚するつもりだと、そうおっしゃっていたわ。だから、私は……」紗夜はか弱く訴え、続ける。「それに、静沢さん。もともと、臣さんと先に出会ったのは、私ですのよ。もしあの時、あなたがいなければ、今頃私と臣さんはとっくに結ばれていたはず。もし本当に『壊した』と言うのなら……それは、この数年間、私と臣さんの仲を壊し続けた、あなたの方ではございませんこと?」その見当違いな言い分に、水琴は怒りを通り越して、冷え切った笑いがこみ上げた
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第34話

紗夜が戻って何をどう吹き込んだかなど、水琴の知ったことではない。だが、先ほど目の前で繰り広げられたわざとらしい茶番を思い出すだけで、どうにも胸糞が悪かった。悪感情にささくれ立った気分のままでは、個室に戻る気にはなれなかった。ひとまず会計を済ませ、少し冷静になってから戻ろう。水琴はそう決め、フロントへと向かった。カードでの支払いを終え、くるりと振り返った、その瞬間。つい先ほどの茶番の主役と、その婚約者の姿が、すぐ目の前にあった。水琴の足がぴたりと止まる。――最悪だ。見て見ぬふりをして、そのまま通り過ぎるつもりだった。だが、その意図は冷たい声によって無情にも打ち砕かれる。「水琴、話がある」トレジャーホテルでの食事を、彼女が奢ったのか?しかも、会計は軽く400万円を超えている。あの高遠灼也という男に取り入るためだけに?臣は、もはや彼女の行動が自分への当てつけなどではないことを悟った。本気で、高遠灼也という手の届かない存在を、自分のものにしようとしているのだ。だが、離婚した途端、他の男に媚びを売るなど。俺たちの過ごした三年間は、一体何だったというんだ?臣の表情が、みるみるうちに暗く沈んでいく。「あなたと話すことなど、何もありませんわ」衆人環視のロビーで、水琴は足を止めざるを得なかった。だが、臣に向けるその瞳には、かつての情愛の欠片もなく、ただ凍てつくような嫌悪と無関心だけが宿っていた。その態度が、臣の怒りの火にさらに油を注いだ。「なんだと……?」臣の表情が険しくなるのを、紗夜は見逃さなかった。ぐっと唇を噛む。――今は、追い詰める時じゃない。瞬時にそう判断した彼女は、絡めていた臣の腕をそっと解き、いかにも物分かりの良い女を演じながら微笑む。「臣さん、私、先に車で待ってるわね。静沢さんと、ゆっくりお話しして」紗夜が立ち去ると、臣もまた、取り繕うのをやめた。その場の空気にそぐわぬ強い力で水琴の手首を掴むと、乱暴にレストランの死角へと引きずり込む。「高遠灼也とは、どういう繋がりだ。何を狙っている……金か?権力か」まるで罪人を尋問するかのような物言いに、水琴は思わず鼻で笑ってしまった。「あなたにお話しする必要があるかしら」分かっている。灼也の隣に立つ自分を見れば、誰もが臣と同じことを思うだろう。だが、この男にだけは、一言だっ
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第35話

その涼やかな声の主を認め、臣の瞳に鋭い警戒の色が走る。「高遠さん、いつからそこに……立ち聞きが趣味とは知りませんでしたな」対する灼也は表情一つ変えず、すっと水琴の隣に歩み寄る。臣には余分な視線すら寄越さない。「これだけ人がいる場所で、立ち聞きも何もありませんでしょう」そして、追い打ちをかけるように、穏やかな声で続けた。「それに、鷹司さんはもう、みーちゃんの過去の方では?少し、干渉が過ぎるのではありませんか」――みーちゃん?臣の表情が、凍り付く。高遠灼也は、女の影を徹底して見せない男だ。南鳥市で彼とまともに口を利ける人間すら、ごく一握りしかいない。その男が、今、これほど親しげに水琴を呼んだのか?探るような視線を水琴に向ける。しかし、彼女は平然とした顔で、何一つ動揺を見せない。その態度に、腹の底から正体不明の怒りがせり上がってくる。以前の彼女なら、慌てて何か釈明したはずだ。だが今は、別の男の隣に平然と立ち、俺の気持ちなどまるで意に介さない。臣は、彼女の無表情な仮面の下を暴こうとするかのように、食い入るような視線を水琴に突き立てた。「どうやら、本当に俺の余計なお世話だったらしいな。離婚して舌の根も乾かぬうちに、高遠さんに庇ってもらうほどの間柄とは、恐れ入る」長年この男と関わってきたのだ。その言葉に込められた棘の意味を、水琴が分からないはずもない。だが、もはや弁明する気さえ起きなかった。いっそ彼の言い分を肯定してやるように、水琴はくるりと灼也の方を向く。「高遠さん、もう遅いですし、参りましょうか」「ああ」灼也は、まるで打ち合わせていたかのように頷く。「紗音は友人と一緒だ。先に君を送るよ」二人は最後まで、もう臣のことなど存在しないかのように、一瞥もくれなかった。目の前の女が、別の男と共に自分の肩を掠めて通り過ぎていく。臣は為す術もなくそれを見送ることしかできず、身体の脇に下ろされた両の拳が、震えるほど固く握り締められていた。車に戻ってからも、臣の顔から陰鬱な色は消えなかった。助手席に座る紗夜が、そっと臣の袖口を引く。その優しい眼差しには、柔らかな気遣いの色が浮かんでいた。「臣さん、何かあったの……?さっきの静沢さんと高遠さん……」「何でもない」水琴と灼也が並び立つ姿を思い出すだけで、苛立ちが胸を焼く。臣は冷たく紗夜の
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第36話

臣は紗夜を伴い、無言で車を飛ばして鷹司家の屋敷へと戻った。重厚な玄関のドアを開けるや否や、妹の雅がスマートフォンを片手に、興奮した様子で駆け寄ってきた。「お兄様!今日私が何を見たと思う!」雅は臣の目の前にスマホの画面を突きつける。「見てよ!あの女、絶対結婚してる最中に浮気してたんだわ!」画面に映し出されていたのは、灼也が水琴を車へエスコートする瞬間を捉えた写真だった。撮影された角度のせいか、そこに写る男女の間には、どこか親密な空気が漂っているように見える。腹の底で燻っていた不快感が、再び頭をもたげる。臣の表情が苦々しく歪んだ。しかし、雅は兄の顔色の変化など全く意に介さず、ただただ興奮した口調でまくし立てる。「ねぇ、お兄様とあの女が離婚して、まだ何日も経ってないのよ?そんなすぐに他の男を引っ掛けられるわけないじゃない。ってことは、絶対結婚してる時からよ!そんな女が、鷹司家の財産をもらう資格なんてあるわけないでしょ?早く、あの女にあげた月影館、取り返してきてよ!」臣が黙り込んでいるのを見て、母親の佳乃までもが進み出てきた。「臣、確かに鷹司家は裕福だけれど、お金が湯水のように湧いてくるわけじゃないのよ。お前が優しい子だってことは分かってるわ。長年連れ添ったんだから、別れた後も不自由はさせたくないんでしょう。でも、今日雅が見た通りよ。水琴の不貞は、これでほぼ確定したも同然。あんな女に、鷹司家の財産を受け取る資格なんて、本当にあるのかしら?」そう言いながら、佳乃は臣の隣に立つ紗夜へちらりと目配せをし、彼女にも話を合わせるよう促す。紗夜はそっと唇を噛み、心配そうに臣を見上げた。「臣さん……まさか、静沢さんが本当に高遠さんと……」「もういい」三人の女たちの声が、臣の乱れた思考をさらに掻き乱す。聞きたくもない言葉の羅列に、耐えきれなくなった。「その話は後だ。少し疲れた。上で休む」それだけを言い捨てると、臣は背を向け、足早に階段を上っていく。階下に残された三人の女は、ただ顔を見合わせるばかりだった。階段を上っていく兄の背中を見送り、雅は目を丸くして紗夜を振り返った。「お兄様、どうしちゃったの?なんかすごい剣幕だったけど」紗夜は静かに首を横に振ると、ちらりと佳乃に視線を送った。……妙だわ。高遠灼也は滅多に人前に姿を現さないけれど、南鳥
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第37話

一人きりで階上にあがった臣の脳裏には、灼也と共に去っていく水琴の後ろ姿が、焼き付いて離れなかった。眉間に深く皺を刻み、苛立ち紛れに煙草へ火をつける。まさか、あの女が。結婚している最中から、俺を裏切っていたというのか。離婚を切り出した時の、あの淡々とした、あまりにも決然とした態度を思い返せば、その可能性は決して低くないように思えた。紫煙を深く吸い込み、肺腑に満たす。臣はスマートフォンを手に取り、ほとんどかけたことのない番号を履歴から呼び出した。好奇心と、猜疑心。何が真実か、確かめずにはいられない。あの女と、話をする必要がある。コール音はすぐに途切れ、代わりに響いたのは無機質な声だった。「おかけになった電話は、電波の届かない場所に……」臣は眉をひそめ、通話を切ると、すぐさま同じ番号へかけ直す。「おかけになった電話は、電波の……」バンッ、と叩きつけるように通話を切り、臣は手の中のスマートフォンを握り潰さんばかりに力を込める。その横顔は、怒りと屈辱にどす黒く染まっていた。水琴……ッ!あの女、俺の番号を着信拒否したのか!……元夫との再会が、水琴の心に大きな波紋を広げることはなかった。翌日も仕事がある。彼女はいつも通り、早々にベッドに入った。大学に着くとすぐ、同じ研究室の同僚から会議室へ来るよう声がかかる。議題は、恒例となっている年に一度の「心理学知識コンテスト」についてだった。学生たちの学習意欲と交流を促進するためのイベントだ。ただ、今年は少々時期が悪い。本来ならもっと早くに開催されるはずが、大学側の都合で、中間試験のシーズンまでずれ込んでしまっていたのだ。担当予定だった教員たちは、皆それぞれ学生の試験対策に追われており、会議室には気まずい沈黙が流れていた。その時だった。「いっそ、今回のコンテストは静沢先生にお任せするのはどうでしょう」一人の教員が、不意にそう提案した。「静沢先生は、あの朝霧教授も認める才媛で、学生たちと年も近い。在学中は学生会の役員として、イベントを仕切った経験もおありですし、きっと上手くやれますよ」その一言で、室内にいた全員の視線が、一斉に水琴へと注がれた。A大学は教育に力を入れており、中でも心理学は看板学部だ。試験シーズンともなれば、ここの教員たちが目の回るような忙しさになること
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第38話

午後、宣伝ポスターが掲示板に張り出されると、参加希望者はさらに増えた。水琴が数人の学生を率いて対応に追われていると、そのポスターの前に、招かれざる客が現れた。「心理学知識コンテスト?今年、あのクソ女が担当なわけ?」雅は、ポスターに大きく印刷された「静沢水琴」の文字を、毒でも滲み出そうな目で睨みつける。「そうなんだよ、雅!学校もどうかしてるよね。こんな年に一度のイベントを、来たばっかりの先生に任せるなんてさ」雅の取り巻きである亜紀が、すぐさま追従する。「それに、自己顕示欲、強くない?ただのコンテストなのに、どうして自分の名前をわざわざポスターに印刷してんのかね?」水琴が知る由もなかったが、これも全て紗音の仕業だった。彼女はポスターをデザインした学生に「水琴お姉ちゃんの名前をとにかく大きく、目立つように」と、くれぐれも言い含めていたのである。「ふん」雅は鼻を鳴らし、亜紀の言葉を気にも留めない。しかし、ポスターを眺めているうちに、彼女の唇に冷たい笑みが浮かんだ。亜紀に手招きをする。「行くわよ。私たちも参加して、遊んであげましょ」コンテストの受付ブースに、高飛車な女の声が響き渡った。「申し込むわ!」水琴は、学生から申込書を受け取りながら、隣の紗音ととりとめのない話をしていた。不意に響いたその横柄な声に、僅かに眉をひそめて顔を上げる。案の定、そこに立っていたのは雅の見下すような顔だった。その表情には、あからさまな挑発の色が浮かんでいる。水琴はふっと視線を落とし、平然と申込書に目をやった。「申込書には、学部、クラス、連絡先を正確に記入してください。名前だけでは、参加資格の確認時に無効となりますので」「あんたねぇ!」まさかこれほど冷静にあしらわれるとは思わず、雅はみるみるうちに怒りで顔を赤らめた。「わざとでしょ!私の学部もクラスも、あんたが知らないわけないじゃない!」そのやり取りを見て、紗音は眉を顰める。何か言おうと口を開きかけたが、それより早く、水琴の平坦な声が響いた。「甘えたいなら、おうちに帰ってママにでもお願いしたら?私はあなたの母親じゃないの」「ぷっ!」紗音は堪えきれず、思わず噴き出した。「水琴……ッ!」逆上した雅は、受付テーブルのクロスを掴み、ひっくり返そうと力を込める。その瞬間、紗音の声が凛と響いた。「もし今日このテ
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第39話

しかし雅は、その侮辱にも全く動じなかった。それどころか、先ほどよりもさらに媚びるような笑みを深くする。「ねぇ紗音ちゃん、そんなに敵対しなくてもいいじゃない。うちと高遠家は、ビジネスでも色々とお付き合いがあるんだし。どうしてあんな落ち目の女を庇ったりするのよ」紗音は心底呆れ返った。雅のわざとらしい媚態に、全身に鳥肌が立つ。それは紗音だけでなく、雅の後ろに控える亜紀でさえ、まるで幽霊でも見たかのような顔をしていた。「鷹司さん、さっさと失せないと、人を呼んで追い出してもらうわよ!」紗音はついに、あからさまな不快感を顔に出した。雅は一瞬ぐっと言葉に詰まったものの、それでも怒った様子は見せない。紗音に笑顔を向けたまま、何事もなかったかのように立ち上がった。「忙しいみたいだから、お邪魔はここまでにするわね。また今度」その姿が見えなくなると、紗音はふうっと息をつき、水琴に向き直った。「水琴お姉ちゃん、あの人、何か変な薬でも飲んだのかな?」水琴は何か考え込むようにしていたが、やがて静かに首を振った。「私の知る限り、あの子はああして我慢するような性格じゃないわ。碌なことじゃないのは、確かでしょうね」……一方、雅は亜紀を連れてその場を後にした。歩きながら、亜紀が堪えきれずに口を開く。「雅、なんで今日は紗音にあんなに下手に出てたの?」これまでも雅は何度か紗音に近づこうとしていたが、いつも少しあしらわれただけで引き下がっていた。今日のように、屈辱を堪える姿は初めてだった。「あんたに何が分かるのよ」雅はうんざりしたように目を剥く。「私には私の考えがあるの」あの女は紗音に取り入って、高遠灼也の気を引いた。私があの女に劣るはずがないじゃない。それにこっちは未婚で、鷹司家の令嬢よ。紗音を通して灼也さんに会えさえすれば、必ず気に入られるはず。そしたら、あのバツイチ女、後で泣きっ面を見させてやるんだから!その胸の内では、パチパチと算盤が音を立てていた。ふと顔を上げた雅の目に、仲睦まじげに語らう水琴と紗音の姿が飛び込んでくる。途端に、どす黒い嫉妬が胸に渦巻いた。ふん、見てなさいよ!……怒涛のように過ぎた午後。申し込みの学生はひっきりなしに訪れ、例年を遥かに上回る申込書が集まった。ようやく人波が引いた頃には、もう夕暮れ時だった。紗音は
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第40話

亜紀は羨望の眼差しで、雅におべっかを使う。「すごーい、雅!お兄さん、優しすぎない?会社の社長ってすっごく忙しいって聞くのに、わざわざ妹さんを迎えに来てくれるなんて!」その言葉に、雅の虚栄心はすっかり満たされた。彼女は唇の端を吊り上げ、得意げに胸をそらす。「ふん、当たり前でしょ。お兄様は正真正銘のシスコンなんだから。私のことが、可愛くて仕方ないのよ」「もう、雅ってば本当にうらやましい!容姿も家柄も良くて、お兄さんまでこんなに素敵なんて……はぁ、私、マセラティなんて乗ったことないよぉ」亜紀はわざとらしくため息をつきながら、雅をおだてる。内心では、見栄っ張りな雅が「乗せてあげる」と言うのを計算していた。そうなれば、ここぞとばかりに写真を撮って、SNSで自慢できる。案の定、雅は軽蔑したように鼻を鳴らした。「あんたって本当、おのぼりさんね。しょうがないから、後でお兄様に頼んで、ついでに乗せてってもらいなさいよ」そう言い放つと、雅はさっと背筋を伸ばし、臣の方へつんと澄まして歩いていく。「お兄様っ!どうして今日はお迎えになんて来てくれたの?」わざと声を数段高くする。周囲の学生たちから注がれる羨望の眼差しを感じ、雅はかつてないほどの優越感に浸っていた。いつもは専属の運転手が送り迎えをしていたが、臣から「目立ちすぎるな」と釘を刺され、乗っているのは6百万円クラスのアウディだ。鷹司家のお嬢様だと知られてはいても、これでは格好がつかないと思っていたのだ。そんな妹の浮かれた声に、臣は眉をひそめた。「お前、まだ帰っていなかったのか」「え……?」雅は固まる。隣に立つ亜紀の訝しげな視線を感じ、カッと顔に血が上った。それでも、兄に体面を保ってくれるよう、必死に視線で訴える。「お兄様ったら、冗談やめてよ。私を迎えに……きゃっ、お兄様!」雅の言葉は、最後まで紡がれることはなかった。臣は妹のことなどもう目に入っていないかのように、彼女を素通りし、大股で校門の方へと向かっていく。「水琴!」振り返った雅が見たのは、校門から出てきた水琴の行く手を塞ぐ、兄の姿だった。つまり、年に一度あるかないかの兄の来訪は、自分のためでは断じてなく、あの女のためだったと?雅は背後の亜紀を睨みつけた。「何見てんのよ!お兄様は今回、別の用があっただけ!次に乗せてあげるって言ったで
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