余命僅かな私、彼の「忘れられぬ人」の身代わりになる のすべてのチャプター: チャプター 321 - チャプター 330

555 チャプター

第321話

紬の声は静かだった。ただの雑談のようで、微塵の鋭さも感じさせない。咲の口元の笑みが、反射的に一瞬だけ固まった。どう答えても、痛烈な皮肉だ。寧音も表情がわずかに引き締まったが、紬に向かって話すつもりはなかった。院試を受けるかどうかも、宏一の枠が自分のためかどうかも、紬には関係のないことだ。部外者に詮索される覚えはない。慎は金属のライターを指先で弄びながら、横目で夜風の中に立つ紬の細い影を見た。一颯が口を挟んだ。「そんなこと聞いてどうするのか。教授が何年も学生を取っていなかったのに、園部さんが帰国してまもなく枠が空いた。考えなくてもわかるだろう」咲はようやく笑顔を取り戻した。「いいのよ、寧音は自分の実力で受かるほうがきちんとしていていいって思っているから」「では、教授はそれをご存じですか?」紬は目を向けた。以前より細くなった顔に、もともと涼やかだった目が、今はかえって鋭く映えていた。「教授が園部さんを取りたいと、直接言っていましたか?」一歩も退かなかった。明確な答えを求めていた。わかっていたからだ。咲たちには、その答えが出せないことを。咲の笑みがじわりと薄れていった。「……あら、うちの寧音のことがそんなに気になるの?」その言葉に、陸や一颯たちも視線を向けてきた。少し離れた場所にいた青木社長や企業のトップたちも、紬に目を向けた。紬は衿元を整え、表情を変えることなく言った。「別に気になっているわけではありません。ただ、ちょうどよかったので――私も宏一教授の院試を受けようと思っています」言い終えた瞬間、その場が静まり返った。慎がようやく鋭い眼差しを向け、視線を紬に据えた。寧音と咲の表情が、同時に揺れた。寧音の眉が、ほとんど無意識にきつく寄った。何を聞いているのか。たわごとか。陸は呆気にとられ、しばらくしてから隣の慎に信じられないという顔で言った。「あいつ、正気か……?何の実績もない分際で、こんなこと言うか?」しかもこれだけの人前で。寧音に対抗するあまり、こんな見え透いた大口を叩くのか。一颯も言葉を失った。紬は宏一がこの国でどういう存在か、本当にわかっているのか?院試を受けること自体は誰も責めない。ただ、航空宇宙分野を目指して、国内の第一人者である宏一の門下に
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第322話

寧音の顔が曇っていくのも気に留めず、紬はさっと身を翻して車に乗り込んだ。笑美は馬鹿にしたように笑うと、意図的にエンジンを吹かして、排気ガスを撒き散らしてから、颯爽と走り去った。あの一言は音を立てずに、しかし人々の心に深く棘を残した。寧音は目を伏せてしばらく考えた。今日は展覧会という晴れの場があった。その華やかさに刺激されて、紬が見栄を張ったのだろう――そう結論づけた。完全な虚勢だ。航空宇宙工学などという専門分野が、思いつきで挑めるものだとでも思っているのか。近所へ買い物にでも行くつもりか。陸はあきれた様子で舌を鳴らし、寧音に目を向けた。「なんか逆ギレされた感じがするんですけど……どう思う?」寧音は慎のそばへ歩み寄り、落ち着いた口調で言った。「勉強しようという意欲は結構なことですが、あれだけの人前であんな大口を叩いて、もし失敗した時の恥をかくことを恐れていないのかしら。どう見ても……我を忘れているようですね」心の底では、軽蔑していた。ただ、陸に目を向けてひとつ尋ねた。「以前も、こんなふうに分不相応なことを言う人だった?」陸は言葉に詰まり、思わず、目を伏せて何か考えている慎をちらりと見た。慎はこの一連の騒ぎをまるで歯牙にもかけなかった。紬が去っていった方向にすら目を向けなかった。それがすべてを物語っている。紬の言葉など、鼻で笑っているのだろう。以前の紬といえば……穏やかで、角のない人間だった。今日は少し感情的になっているように、慎の目には映ったのだろう。自分が吐いた大口の後始末を、どうするつもりなのか。結果など、考えるまでもない。陸はさっさと話題を変えた。「秦野さんたちも誘ったんじゃなかったんですか?今日は来なかったようですが」寧音はわずかに間を置いた。「ええ、急な出張だって。でもお祝いは届いたわ」もう一人、悠真には招待を送っていた。だが返信はなかった。見ていないのだろう、きっと多忙なのだ。わざと無視しているはずがない――そう思うことにした。……笑美は大体の経緯を把握していた。ハンドルをバンと叩いて鼻を鳴らす。「つまりあの園部って女は、相当自信があるってことだね。だからお母さんも、教授の態度についてあんな思わせぶりな態度を、大物たちの前で堂々と言ってみせたんだよ」
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第323話

紬は蘭子の住む古い家へ帰った。蘭子は至極元気で、張り切って台所に立ち、いくつかの料理を作り上げた。全部、紬の好物ばかりだ。話しながら、いつの間にか紬の前の取り皿には、料理が山のように盛られていた。思わず笑みがこぼれる。それでも蘭子の気持ちを無駄にするのは惜しくて、食欲がだいぶ落ちていながらも、少しずつ口に運んだ。食後は蘭子と並んでゆっくり話した。その夜は泊まることにした。参考書を取り出して、続きを読み進める。やるべき予定を、一分たりとも違えなかった。紬という人間は物事の段取りが整然としており、学習効率も高い。隙間時間には論文の仕上げにも手をつけた。宏一が折に触れて抜き打ちで進捗を確認しにくる。気を抜くなど、到底できなかった。災害救援プロジェクトの方針検証にも時間がかかる。紬のプライベートな時間は、ほとんど残らなかった。月曜日。機械構造の設計について一通り話し合いを終えたところへ、笑美が紬のオフィスに押しかけてきた。冷たい炭酸水を一本抱えてソファに崩れ込み、ごくごくと半分ほど飲み干してから、ようやく少し息が整ったところで言った。「この前の週末ね、清水家が晩餐会に招待されてさ、誰を見たと思う?園部とあのお母さん。もう各種の高級パーティーに出入りして、すっかり名士の仲間入りしてるよ!」紬は万年筆を置いて顔を上げた。「揉めなかったでしょうね?」笑美は自分を指差した。「私は超冷静だったよ。ただね、長谷川が随分と肩入れしているなって。粟野咲のために個展を開いて、業界の大物をあれだけ直接呼んで、粟野母娘をここまで押し上げるなんて、本当に力が入ってる」そう言いながら、笑美は慈善団体の公式アカウントに上がった投稿を紬に見せた。今回の画展で外部に販売された十点の絵の売上総額は、一億円超。全額が寄付されたとある。紬はひと目見て視線を引いた。咲がチャンスの活かし方を心得ていると感じた。地歩を固め、自分の価値を最大限に高めようとしている。「彼女の絵は、個人売買はしているの?」笑美は首を振った。「今の粟野咲はハイエンド路線だよ。自分を著名芸術家に仕立て上げて、個別販売はしない。個展の時だけ売る。次の展覧会は半年後ってすでに告知してる。自分の価値を上げるのが本当にうまいね」今回は全額寄付で名声を広げ、半年
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第324話

無理もなかった。賀来家の門は固く閉まり、紬は物思いに沈んだ顔で外に立っている。何かを悩んでいるのは誰が見ても明らかだった。「……承一代表の姿も見えないし」寧音は椅子の背に寄りかかって、視線を外に向けたまま言った。声が少し浮き立っていた。承一が動いたところで、どうにもならない話だろう。陸が呆れたような顔で言った。「門にも入れないなら、教授にはかなり嫌われてるってことじゃないですか。コネを頼るつもりなら、余計に門前払いされるでしょうし」どういう勢いであんなことを口走ったのかと、陸には理解できなかった。進むも退くも身動きが取れなくなっている。寧音は我関せずとでも言うような目で、薄く笑みを浮かべたまま言った。「さあね」言葉は素っ気なかったが、内心では陸の言葉を否定していなかった。賀来家の門にも入れないということは、宏一に紬の学力も実力も認められていないということだ。紬は承一と仲がいいから、自分も何かできると錯覚した。そして今、宏一の院生を目指すなどという夢を見てしまっている。本物の学問の世界では、こういう軽薄な態度は反感を買う。陸が慎を振り返った。「かわいそうに見えるけど、拾ってやりましょうか?」慎はすでに膝の上のパソコンの画面に視線を戻していた。通り過ぎた賀来家の門には、一瞥だにしない。冷淡に言った。「じゃあお前が降りて席を空けろ」明らかに、乗せる気などなかった。寧音は慎のその言い方を聞いて、思わず笑みをこぼした。「陸さん、あなたが悪いのよ。今の彼女、ただでさえ無様な姿をさらしているのに、私たちが行ったら、もっと傷つくんじゃないかしら」寧音は脚を組み直し、皮肉げな笑みを浮かべて言った。陸は舌を鳴らした。「さすが、優しいんですね」……寧音は病院に寄った。咲は個展を終えて、また入院に戻っていた。体に何か支障が出てはと、普段から看護師に細かく診てもらっていた。粟野咲はまだ紬の院試発言が引っかかっているらしく、尋ねてきた。「ねえ、あの子は何のつもりだったのかしら。何か策があるんじゃない?」「ないわよ」寧音はソファにバッグを置き、冷ややかな目で言った。「今日、彼女が賀来家から門前払いを食らっているのを見たわ。かなり惨めだったわよ」咲はそれを聞いて、愉快そうに笑った。「やっぱり
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第325話

いくら普段は穏やかな紬でも、さすがに腹が立った。柊という人間はこういう性格だ。強引で、派手で、棘のある言葉を躊躇なく人に突き刺す。紬は携帯をひったくるように奪い返し、表情を冷たく硬直させた。「放してください」柊の手はまだ紬の腕を強く掴んでいた。最近、こうした刺々しい紬の姿を何度か目にしていた。胸の奥が疼くような感覚があったが、それを無視したまま反発心だけが前へ出て、唇の冷笑をさらに深めた。「番号を変えたなら、一言くらいあってもよかったんじゃないか?」「あなたにとって、自分がどれほど重要な存在だと自惚れているの?」紬の声は静かで、拒絶の意志が明確だった。柊は一瞬、言葉に詰まった。目の奥に険しい色が浮かんだ。紬はこれ以上言い合う気もなく、無表情のまま腕を振り払って距離を置いた。ちょうどその時、入口に足音がした。陸と一緒に慎が入ってきた。二人の様子を見て陸が表情を変え、隣の慎を驚いた顔で見つめた。「あいつが……実の兄と揉めてるんですか?」慎は冷たい目でそちらを見た。紬はすでに柊の手から抜け出していた。柊のことも、陸と慎が入ってきたことも目に入れず、無表情のまままっすぐ出口へ歩いた。慎とすれ違う瞬間も、視界に入れることすらなく、知らない人間のように脇を通り抜けた。一言の挨拶もなかった。陸はさらに驚いた。柊は二人を見て、ようやく感情を押し殺し、気だるそうに口の端を上げた。それだけが挨拶のつもりらしかった。少し離れたところで、陸には柊と紬の間に何があったのかわからなかった。慎の方を向いた。「あの二人、何があったんだ?喧嘩でもしたんですか。さっきお前にも冷たい顔してたんですよ」短い着信音が鳴った。見ると、寧音からのメッセージだった。【冷たい飲み物は買わなくていい、身体の調子が悪いから】と書いてある。画面を確認し、一瞬の間を置いてから【分かった】と返した。それと同時に、慎は目線を上げることもなく陸に言った。「……それがどうした?」その口ぶりは、自分には関係ないという意思を体現していた。陸は笑いをこらえるので精一杯だった。すぐさまグループチャットに、今しがた見た一部始終――紬と柊の揉め事から、慎の「それがどうした」という一言まで、細かく実況した。仁志は既読だけで返信しなかっ
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第326話

今日は特別に、承一がついてきてくれていた。車を降りると、紬の肩をぽんと叩いた。「お前はあの『伝説の温井紬』だろう?昔、何人の先生が奪い合いしたか忘れたのか。緊張するな」今日は紬を送るためだけに来たのだ。今日は紬の人生の転換点になる一日だ。数年前、紬は一度、自分自身を諦めた。だが今また、本来自分がいるべき舞台に戻ってきた。これから先の紬の人生の一瞬一瞬が、すべて輝かしいものであってほしいと、承一は思っていた。紬は緊張していなかった。ただ、静かに感慨に浸っていただけだ。「中に一緒に行こうか?」承一がいつになく柔らかい声で尋ねた。A大は彼の母校でもある。事前に構内への立入許可を取っており、もし紬が不安なら付き添うつもりだった。紬は首を振って、軽く笑った。「もう子供じゃないんだから」「本当に来たんですか」背後から、陸の声が突然割り込んできた。紬と承一が顔を上げると、二台の車がすでに脇に停まっていた。慎の車から降り立った寧音が、紬を見るなり表情こそ変えなかったが、瞳の奥には冷ややかな嘲りの色が浮かんでいた。仁志も今日来ていた。視線が紬の顔に落ちて、そこにしばらく留まった。紬が今日も来ると知っていた。来るなら会えるかもしれないと思って足を運んだのだ。――うまくいってほしい、と思っていた。紬は仁志の視線に気づいた。仁志は静かに頷き、穏やかな表情を見せた。紬も礼儀として軽く応じた。慎は重要な電話を受けていて、少し身をよじって話していた。紬が目を向けた瞬間、ちょうど慎も顔を上げて目が合った。寧音がこの輪の中で中心的な存在であることは、紬にはずっとわかっていた。今日という大事な日に、全員が寧音のために来ている。まるで皆から大切にされるお姫様のようだ。「賀来代表」仁志は紬の反応を見て思わず口元を緩め、そのまま承一にも挨拶した。陸は首をかしげて尋ねた。「賀来さん、温井紬のこと、引き止めなくていいんですか?」陸の目には、これは単なる無茶な行動に映っていた。失敗でもしたら、フライテックの顔に泥を塗ることにもなりかねない。承一はにやりとも苦笑いともつかない顔で答えた。「うちの紬は筋がいいですから、ひょっとすると、一発で合格するかもしれませんよ」陸は何とも言えない表情になり、最後に笑った。「……彼女
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第327話

今回の受験準備は長かったとは言えないが、やるべきことはすべてやり切ったという手ごたえがあった。読むべき本を読み、復習すべき範囲を一通り整理した。紬にとっては、さほど重荷でもなかった。寧音とは同じ専攻で同じ試験会場だった。試験終了の三十分前、紬は席を立って答案を提出し、会場を出た。寧音も紬の動きに気づいた。ちらりと見て、予想通りといった様子で静かに首を振った。今日の最初の科目は専門科目だ。紬が早々に退出したのは、解けなかったからに違いない。これ以上、時間を無駄にしても意味がないと判断したのだろう。そもそも今日、来るべきではなかったのだ。それなのに、あえてここに来て見栄を張る。こういう人間の思考回路は、寧音にはどうしても理解できなかった。何のために無理をするのか。寧音は口元に冷笑を浮かべた。合否の行方が、くっきりと見えた気がした。……試験を終えた紬が颯爽と出てきたのを見て、扉の前で待っていた笑美がぱっと顔を輝かせた。「行こう!今日はパーッとお祝いしよう!」紬は寧音のことなど気にも留めなかった。笑美たちと気の向くまま食事に出かけた。その後も続けて残りの科目を受け、面接も滞りなく終えた。あとは結果を待つだけだ。一、二週間で結果が発表される。紬は焦る気になれなかった。それよりも、このタイミングで身体が無事でいてくれたことに、心の底から感謝していた。万全の状態で試験を終えられたことが、何より嬉しかった。災害救援プロジェクトの主要システム部分は紬が長期的に担当し、他の直近の仕事は承一が率いることになった。少し手が空いた紬は、新エネルギー計画の準備を始めた。ところが、得意先から帰ってきた承一が、厄介な報せを持ち帰ってきた。「アロー・フロンティアも新エネルギーの分野を研究し始めたらしい。青木社長にも会いに行ったと聞いた。オレたちの将来の方向性と完全に重なる。当然、長谷川がいれば人脈という強力な武器がある」承一はファイルフォルダーで机をトントンと叩いた。アロー・フロンティアには慎という後ろ盾がある。人脈の豊かさは折り紙つきで、道は開きやすい。紬はしばらく考えてから頷いた。アロー・フロンティアの内情は侮れない。慎が国内外から優秀なエンジニアを揃えた以上、質の高いプロジェクト計画
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第328話

悠真はこれを、心からの本音として話していた。U.N2の開発者については、上層部が一貫してその正体を秘匿しており、父親でさえ一言も漏らしたことはなかった。五年前、U.N2が突如として世に現れた時の衝撃は、今も鮮明に記憶に焼き付いている。父親があのような立場にある以上、国防関連技術には自然と関心が向く。感情で言い表すなら、U.N2は自分にとって初めて心を動かされた「初恋」の相手のようなもので、今もなお色褪せない特別な存在だった。武装偵察無人機の分野においては、絶対的な優位性を誇る傑作機だ。ただ――少し前に確かめたところ、開発者は承一ではなかった。承一はいよいよ意味深な笑みを浮かべ、紬に向かって片眉を上げた。「望月さんは目が高いですね。ただ、それはオレじゃないんですよ」そう言いながら紬のそばへ歩み寄り、意味深長ににやりと笑った。「ほら見て。爽やかで可愛いファンだぞ、感無量だろう?」承一がからかっているのはわかっていた。紬は取り合わなかった。悠真も冗談が通じる性格で、開発者が承一でないことはとっくに知っていたようだ。立ち上がり、言った。「協力の件は、もし機会があれば、フライテックとベイサイド・テクノロジーで互いに前向きに検討できればと思っています。あくまで誠意をお伝えしたかっただけですので、フライテックのご判断に委ねます」出過ぎず、かと言って卑下もせず。その言葉には、確かな誠実さも滲んでいた。ベイサイド・テクノロジーという看板だけで、フライテックとしては当然、優先して検討する価値がある相手だ。紬の中でも、おのずと天秤が傾いていた。悠真は言うべきことを言い終えると席を立った。「それでは、ご検討ください。温井さん、賀来代表」フライテックを訪れるのは初めてで、思わず室内を見渡した。そして最後に、窓の向こうの対面のビルに目が留まった。ほんの一瞬、視線が止まったのを、承一が見逃さなかった。「何か?」悠真ははっとして、向かいの建物を指差した。誰が、とは言わなかった。「見覚えのある展示施設だと思って。少し前にあちらで個展があって、招待状をいただいたんですが、さほど親しい間柄でもないので、行きませんでした」悠真という人間はそういう性格だ。興味のないもの、縁の薄いもの、特に親交のない相手のことを気にか
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第329話

手術にとっても、これは大きな追い風になる。「あの錦戸先生と知り合いなの?」良平はリンゴを剥いて小さく切り分けてから、ふと尋ねた。紬は膝の上の参考書から顔を上げた。「何度かお会いしたことはありますけど、それほど親しくはないです」良平は穏やかに笑った。「あの先生はいい人だよ。口数は多くないけど、時間があると様子を見に来てくれる。担当でもないのに、ちゃんと気にかけてくれている。なかなかいない若者だよ」紬は良平にお茶を注いだ。「中井先生のことは褒めないんですか?」「中井先生のことは直接顔を見て褒めてるから」良平はコップを受け取り、まじめな顔で続けた。「錦戸先生みたいな、あんな爽やかで優秀な青年はなかなかいない。看護師たちが話してるのを聞いたんだけど、彼女もいないし品行方正で、名家の御曹司だそうじゃないか。こういう人物はほんとうに稀少だよ!」紬は思わず目を丸くした。「叔父さん、病院でもちゃんと情報収集に余念がないんですね。人の噂話まで」「絶滅危惧種並みの優良物件を知らないの?」良平は軽く紬の額を突いた。離婚もした、仕事もあんなに忙しい。たまには心の潤いがあってこそ、仕事の単調さも和らぐというものだろうと、そういう意図だと紬にはわかった。だが紬には今、そういう浮ついた心境ではないのだ。まさにそう断ろうとした時――病室のドアがノックされた。見知らぬ介護士が入ってきた。手には丁寧に包まれたケーキが載っている。にこにこしながら近づいてきて、テーブルに置いた。「温井さんですね?」紬はケーキを一瞥して頷いた。「どちらの方ですか?」介護士は外を指差した。「下の階の介護をしています。分けてほしいと頼まれたケーキをお届けに来ました。娘さんの院試の成績がまもなく出るそうで、合格の前祝に、幸せを皆さまにもお分けしたいということで」紬の表情はほとんど変わらなかったが、目の奥の光がすっと消えた。一瞬で察した。粟野咲が手配したものだ。もう寧音の合格を確信しているのか。それにしても、こういうやり方は――露骨な当てつけだ。挑発以外のなにものでもない。良平と蘭子に対しては、慎の不倫相手の娘が寧音だとずっと隠してきた。年老いた祖母も、病身の良平も、それを知れば激しく傷つくと思ったからだ。なのに咲は、こういう卑劣な手を使っ
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第330話

紬の声は十分に冷静だった。明確で、どこにも感情的な乱れがない。怒りを抱えていながら、声を荒らげることはなかった。その静かな凄みが、かえって人の胸を深く刺した。目は氷のように冷え、まっすぐに慎を捉えて離れなかった。寧音でも咲でもなく、慎だけに向けていた。あの二人と正面切ってやり合う気はない。わかっていた――どんな人間だって相手の出方を読んで動く。慎が黙ったまま容認し続ける限り、咲は増長する。慎が無言で与えた"余裕"こそが、あの二人に大きな後ろ盾を与えていたのだ。だから紬は問題の根を断ちに来た。慎の表情は変わらなかった。その静けさの底に、長年染みついた淡々とした姿勢があった。何も言わなかった。寧音が立ち上がり、唇を引き結んで冷ややかな目を向けた。「温井紬、最低限の弁えも失くしたの?」突然押しかけてきて、なんの言いがかりか。咲の顔からも血の気が引きかけたが、まるで紬が大げさだとでも言いたげに、多少とがめるような口調で言った。「ケーキはたくさんの方にお配りしたの。手違いで届いてしまったかもしれないわ。こんなに大ごとにしなくてもよかったんじゃないかしら」紬は目を細めた。自分が悪いということになった、ということか。唇の端に冷ややかな笑みが浮かんだ。「間違えた、と?ならば私も『間違えて』園部さんの本当の立場について、口を滑らせてしまっても、お互い様ですよね」咲の顔が一変した。目に鋭い光が走る。寧音も露骨に不快感をあらわにした。紬がここまで一切の体裁を捨てて動くのを、寧音は初めて見た。プライドも体裁もすべてかなぐり捨てて、こんな騒ぎを起こして――自分が誇らしいとでも思っているのか。「外で話そう」ついに慎が静かに口を開いた。声に起伏はなかった。その態度も考えも、声からは読み取れない。ゆったりとした足取りでドアへ向かった。咲の病室で騒ぎを起こさないためか、あくまで冷静な動きだった。一方で、紬の言葉がまた何かの一線を越えたと感じているようでもあった。紬は粟野咲にも寧音にも一瞥もくれず、廊下へ出た。慎は壁に寄りかかって立ち、漆黒の瞳で紬の全身を静かに見下ろした。紬の表情はさらに冷えていた。「あなたがどう思うかはあなたの自由。私は結果だけを求めてる。彼女たちは今日中にこの病院から離れて
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