余命僅かな私、彼の「忘れられぬ人」の身代わりになる のすべてのチャプター: チャプター 311 - チャプター 320

555 チャプター

第311話

紬が慎からこれほど容赦のない言葉を投げかけられたのは、初めてのことだった。表情はほとんど変わらない。嫌味でも皮肉でもない。それでも、その言葉は鋭利な刃物のように胸に突き刺さった。慎はそれ以上何も言わず、踵を返してその場を離れ、診察室の外で待つことにした。医師が処置しやすいよう、場を空けたのだ。紬も、もはや慎と言い争う気力はなかった。処置が進むにつれ、痛みが少しずつ和らいでくる。真っ青な顔で医師を見上げた。「自分の身体のことはわかっています。精密検査までは必要ありません」テーブルの角に患部をぶつけ、それが引き金となって急性の腹痛を引き起こした。それだけのことだ。しかし医師は真剣な顔で言った。「尋常な痛みではありません。腹腔内出血がないか確認する必要があります」紬は静かに目を閉じた。自分でわかっていた。子宮癌の進行による慢性的な痛みがあり、そこへ強い衝撃が加わったのだ。だが、こうなってしまった以上、検査を受けるのが一番話が早い。「わかりました……検査結果はすべて私に直接お話しください。外にいる方は私とは何の関係もありませんので、その方には一切、口外しないでください」声は掠れていたが、強い意志を込めて念を押した。医師は深くは問わなかった。CTと血液検査が行われることになった。救急外来は混雑しており、結果が出るまでにしばらく時間がかかる。慎はその場を離れなかった。紬のベッドからほど近い待合の椅子に腰を下ろし、声もかけなかった。ただ、時折視線を上げ、紬の様子を確かめた。そうするうちに、承一が駆けつけた。息を切らしながら駆けつけた承一は、まだ血の気の引いたままの紬の顔を見て、表情が一気に険しくなった。「かなりひどいのか?いったい何があった?」紬は首を振り、こみ上げる気分の悪さをこらえながら、彼を安心させようと微笑んだ。「大丈夫よ、ちょっとぶつけただけだから」まもなく、正樹と寧音もやって来た。紬は二人に対して、愛想を振りまく余裕などなかった。体調が最悪な上に、残った気力をそちらに使いたくなかったのだ。この二人が来たのは、自分を心配してのことではないとわかっていた。慎がいるから来ただけだ。体面を繕いに来た、それだけのことだ。寧音は表情を変えることなく、ベッドの紬をちらりと一瞥する
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第312話

慎は静かに紬を見つめた。顔色はまだ戻っていない。薄化粧で取り繕っていても、普段とは違うやつれが滲み出ている。眉がかすかに寄った。だが慎が、真っ先に背を向けた。承一は紬が余計な人間の顔を見たくないと思っているのを察していた。心配なのは山々だったが、笑みを取り繕いながら振り返った。「お手を煩わせてしまいました。紬のことはこちらで付き添いますので、改めてお礼の席を設けさせてください」遠回しではあるが、帰ってほしいという意図は明らかだった。正樹はその意図を汲み取り、紬をちらりと見てから言った。「わかりました。何かあれば賀来さんからご連絡ください」自分たちがここにいても場違いだという感覚もあった。各種検査中に見ず知らずの他人がいては、紬も落ち着かないだろう。慎は短く「ああ」とだけ応じた。紬を見ることなく踵を返し、そのまま外へ向かった。深く気にする様子も、躊躇いもなかった。寧音はその迷いのない背中を見て、ようやく口元をかすかに緩めた。さっきは考えすぎていたようだ。慎はただ人道的に手を貸しただけのこと。そのまま後に続いて部屋を出た。正樹は帰り際、もう一度紬を見た。紬はすでに目を閉じており、彼らの存在など気にも留めていないようだった。正樹は短く告げた。「お大事に」三人を見送った途端、紬はほっと息をついた。承一の顔つきが、急に険しくなった。「そんなにひどいのか?医者はどう言った?」紬は心配そうに自分を見つめる承一を前にして、一瞬、言葉を濁した。「……たいしたことない。ぶつけたところが痛むだけで」まだ、どう話すべきか整理がついていなかった。承一の性格上、病気のことを知れば仕事より治療を優先させるよう言うに決まっている。それでも――もう少し、もう少しだけ、自分は持ちこたえられる。万が一のことがない限り、自分の病気でこれほどの人たちを心配させたくなかった。ましてや叔父の手術が迫っているこの時期に。蘭子も、紬が病に倒れたとなれば、その衝撃に耐えられないだろう。少し楽になってきた気がして、紬は承一に言った。「お水を買ってきてもらえる?」承一は何も疑わず、コンビニを探しに部屋を出た。時間を計りながら待っていると、予想通り、すぐに医師が戻ってきた。検査結果を手にしながら眉をひそめ、紬を見る。
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第313話

これほど早く来るとは、紬には思いもよらなかった。どうやって病室を突き止めたのかも、見当がつかない。慎は紬を見下ろした。「医師は何と言っていたか」美智子が知ってしまったから、仕方なく体面を繕いに来ただけだとわかっていた。紬は眉をひそめ、問いには答えず、そのまま追い払おうとした。「来なくて結構です。おばあさんには私から伝えますから」慎はその言葉を聞き流し、ゆったりとした足取りで、ベッドのそばへ歩み寄ると、点滴の落ち具合を確認した。「あと何本ある?」紬はさらに眉をひそめた。言葉を聞く気がないのは、見ていて明らかだった。慎は視線を落とし、紬の青白い顔を見た。病的なやつれが、表情の端々にまで滲み出ている。「フライテックはそんなに忙しいのか。あれこれ全部お前が背負い込んで。鏡でも見てみろ、今の自分の顔を」その氷のように冷たい顔には何の表情もなく、声にも温度がなかった。言葉は確かに、容赦ないほどに辛辣だった。半分は当て付けのようでもあった。そう言いながら、慎は持参した保温ケースを開いた。中にはいくつかの料理が入っている。ひとつずつ取り出して傍らのテーブルに並べ、箸を紬の手の届く場所に置いた。「食べろ。全部薄味にしてある」紬はちらりと見たが、手をつけなかった。身体が弱り切っていて、口を開くのも億劫だったが、それでも言った。「お心遣いだけ、受け取っておきます。病院食もありますので、遠慮させていただきます」今の自分たちの立場を、改めて伝えているのだ。他人行儀に、明確に。慎はそこで初めて、ゆっくりと目を上げて紬を見た。否定もしなかった。それ以上、何も言わなかった。沈黙が、重く空気に沈んでいく。慎は特段動じた様子もなく、紬と言い争うつもりもないかのように立ち上がり、ウォーターサーバーへ歩み寄ると、水を注いで紬が手を伸ばせばすぐ届くベッドサイドに置いた。それから点滴の速度を少し調整した。速すぎると血管痛が出たり、手の甲が腫れることがあるからだ。その一連の動作の間、慎は一言も発しなかった。どれほど細やかな気配りに見えようと、紬は自分に都合のいい解釈はしなかった。慎が自分を想ってのことだとか、心配してくれているとか――そんなふうには受け取らない。結婚した当初から、慎はこういう人間だった。何事も
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第314話

慎の声は、いつもと変わらず穏やかだった。それがはっきりと、紬の耳に届いた。思わず、数秒間、固まってしまった。扉の外では、看護師が、目の前に立つ端整な顔立ちの男を驚いたように見つめていた。若い看護師たちが遠くからそっと目を向けてくるのがわかる。慎は看護師に視線を向けた。「昨日の担当医と少し話したいのですが、何時に来られますか?」救急は二交替制で、担当医を捕まえるのも至難の業だ。紬の病状の詳細を、慎はまだ把握していなかった。看護師が何か言おうとした、その時、目の前の扉が押し開けられた。紬が、蒼白な顔で入口に立っていた。その表情には、明確な不満の色があった。視線は真っすぐに慎へ向けられる。慎も気配に気づいて顔を上げた。その顔は淡々として、悪びれる風もなく。「目が覚めたか?他に具合の悪いところは?」先に口を開いたのは慎だった。落ち着き払った様子で、紬の全身をさっと見回した。そのせいで、紬がまさに吐き出そうとしていた問いが、喉の奥に引っ込んでしまった。なぜ「夫」などと言ったのかと問い詰めようとしていたのに。しかし紬はすぐ気がついた――慎の手にある携帯の画面が、通話中であることを示していたのだ。発信元の登録名は「おばあさん」。今この瞬間、美智子と電話がつながっていたのだ。すべて腑に落ちた。美智子が電話をかけてきて様子を聞いていた、その矢先に看護師から関係を問われた。だから慎はああ答えたのだと。紬は血の気の引いた唇を、静かに引き結んだ。「もう、落ち着きましたから」電話の向こうの美智子が、心配そうに声をかけてきた。不安が伝わってきて、紬は穏やかに言葉を返した。通話が終わると、紬のかすかに宿っていた顔の柔らかさが消え失せた。慎を見ずに、看護師へ向いて言った。「問題ありません。後ほど退院の手続きをします」そして、氷のような声で一言付け加えた。「この方は私の夫ではありません」誰に向けて言ったとも知れない言葉だった。言い終えると、踵を返して病室へ戻った。看護師は目を丸くして、思わずまた慎に視線を向けた。慎は表情ひとつ変えなかった。何を感じているのか、欠片も表に出ない。携帯をポケットに入れて病室へ戻ってくると、紬はちょうど水を飲んでいた。慎は壁にもたれて静かに見つめながら、感情
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第315話

今日の紬は化粧をしていなかった。昨日の突然の入院で、疲労が顔に色濃く滲んでいた。「大丈夫です、もう平気ですよ」紬は穏やかに答えた。凛太はお茶を注いでから、尋ねた。「……受診はしたのか?」笑美が代わりに答えた。「昨日、救急に行きました。急性腹痛だって」凛太はしばらく考え込む様子を見せた。長年の診療経験から、紬のやつれ方が尋常ではないと感じていたのだ。少し思案してから、大輔を呼び、一緒に良平の治療方針について紬と話し合った。紬は彼に全幅の信頼を置き、すべてを任せていた。凛太は腫瘍科の専門家として、院内の医師たちからも一目置かれるほどの実力者だ。話し合いが済み、紬はこれ以上時間を取らせないよう席を立った。凛太は二人を見送りに来た。別れ際、その端正な顔に表情をぴくりとも動かさず、ただ、礼節をわきまえた口調でひと言言い添えた。「温井さん、ずいぶん顔色が悪いようだが。念のため、全身の精密検査を受けることを勧める」先日の件では助けてもらった。純粋な善意とは言い切れないかもしれないが、結果は同じことだ。せめてもの忠告だった。紬は少し驚いたが、最後には静かに言った。「ありがとうございます。そうします」紬と笑美が立ち去るのを見送って、凛太はしばらくそちらに目を向けたままでいた。大輔が気づいて声をかけた。「何を考えてるのか?温井さんとは親しいのか?」凛太は我に返り、長い指でゆっくりとこめかみに触れた。胸に湧き上がる疑念を押し殺すように言った。「考えすぎだといいんだが」……承一の言葉に従い、紬は自宅で静養して数日間を過ごした。これほど激しく発作が出て救急に運ばれるのは、初めてのことだった。今回のことが取り返しのつかない事態を招いていないか、それだけが心配だった。それでも、休むこと自体は悪いことではない。家にいる間も、じっとしていたわけではなかった。毎日三時間、国防関係プロジェクトのコンセプト設計と要件分析に充てた。プロジェクトはチーム全体が並行して進めるもので、自分個人の事情で歩みを止めるわけにはいかない。その合間に、承一たちとオンライン会議も重ねた。各工程に漏れがないよう、着実に確認しながら進めた。ある日、美智子から電話がかかってきた。身体はよくなったか、慎がちゃんと世話をして
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第316話

だが、宏一はすぐに続けた。「離れたならそれでいい。これからは自分のことだけを考えなさい」「大学院入試の件だが、数年前のU.N2の実績があるから、私のほうで推薦状を書いて一次試験を免除してやる。資料を揃えて、二次試験だけ顔を出せばいい。形式的なものだ」紬は驚いた。宏一は問い返す間も与えず、そのまま電話を切った。相変わらずへそ曲がりな人だ。それでも、大学院の話は思わぬ朗報だった。普通に進めれば来年になるはずだったのに。ただ、ふと寧音のことが頭をよぎった。彼女も院試を考えていると聞いた気がする。具体的にどういう段取りなのかは知らないが。紬はそれ以上考えるのをやめた。他人がどうするかは他人の話だ。自分はただ、やりたいことをやり切りたい。せめて――悔いだけは残さぬように。承一に強制休暇を言い渡されて五日間、おとなしく過ごすうちに、ようやく少し気力が戻ってきた。火曜日、紬は職場に復帰した。午前十時。朝日がオフィスに顔を出した。「温井社長、アロー・フロンティアの方々が災害救援プロジェクトのコンセプト会議のために来られました」紬は頷いた。「賀来代表たちはまだ戻っていない?」「まだです。聞いたところ、あと三十分ほどかかるそうで」紬は迷わず立ち上がり、会議室へ向かった。部屋に入ると、ソファに寧音が座っていた。書類を手にしながら、姿勢は端正で優雅、知性的な雰囲気を漂わせている。顔を上げて紬だとわかると、表情が一段と冷ややかになった。紬は寧音の視線など意に介さず、書類を手にまっすぐ対面の席へ向かった。寧音は紬を見ようともせず、朝日に向かって言った。「承一代表はまだですか?」朝日には意図が読めず、ただ答えた。「少々お待ちください、会議は十時半の開始になっております」寧音は書類をめくりながら、さらりと続けた。「承一代表も清水社長も、フライテックを仕切れる人間を残さないんですか。プロジェクトに少しでもずれがあってはまずいのに、病弱な人間を責任者に据えては、いつまた倒れて、進行が遅れたり、対処ができなくなったりするかもしれないでしょう」急性腹痛で救急に運ばれたことについて、寧音は懐疑的だった。ちょっとぶつけただけで倒れる?それとも、同情を買うための見せかけだったのか?自分には、そんな安っぽい
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第317話

広い会議室が、一瞬、水を打ったように静まり返った。寧音の穏やかな表情に、一瞬、亀裂が走った。静かで冷淡な紬の目を正面から受け止め、視線を逸らすことすらできなかったのだ。しばらく経ってから、寧音はゆっくりと表情を取り繕った。やはり紬という人間の本性は読んでいた通りだ。これほど重要なプロジェクトの場で、私怨を持ち込んでくる。こんな「自尊心」の守り方で、何か得られるつもりか。椅子の背に寄りかかり、もう言葉を返す気にもなれなかった。ただ、ふとそう思った。愛情に恵まれない紬は、確かに哀れかもしれない。何を言い合う気にもなれない。その瞬間、紬の視線は入り口に立つ男の、鋭く静かな黒い瞳とぶつかった。慎がそこに立っていた。後ろには承一がいる。よりによってこの瞬間に、すべてを慎の前にさらすことになった。紬は目を逸らさなかった。氷のように冷ややかな瞳で、まっすぐに受け止める。彼がどう思うかなど、どうでもよかった。慎が寧音を庇って今すぐ向かってくるなら、二人の間の薄い建前はもうその場で崩れる。そうでなければ、腹の中で何を思っていようと、慎にはどうにもできないはずだ。承一は意味深な顔をしていた。明らかに、今しがたの紬の言葉を一言も聞き漏らさなかったようだった。かつての弱い紬は今や、触れるもの皆傷つけるほど鋭利な刃のようになった。自分に絡んできた相手には、容赦なく刺し返す。立場さえ許せば、拍手でも送りたいくらいだ。「どうした、これ?」承一は何事もなかったような顔で先に戸を押し開け、慎に向かって手で促した。「長谷川代表、どうぞ」慎の表情には何も読めなかった。黒い目がゆっくりと紬の顔から離れる。寧音も振り返って慎を見た。その顔には言葉にしがたい困惑が滲んでいたが、結局、慎の前では取り乱すことなく言った。「慎、一緒にいてくれる?」慎は何も言わなかった。ただ、寧音の隣の椅子に腰を下ろした。「ああ。会議が終わったら、陸に昼食へ誘われている。一緒に行こう」慎の声は淡々としており、紬が言い放った言葉を一顧だにする様子もなかった。寧音はさっきまでの張り詰めた空気から、すっと抜け出した。紬の言葉など、端から気に留めていなかったのだ。紬が慎の意向を動かせるなら、今日まで待たずに済んでいたはずだ。「
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第318話

フライテックの採用方針については理解しかねるところもあるが、エンジニア個人の能力を否定するつもりはなかった。誰を適当に見繕っても、そこらではなかなかお目にかかれない人材ばかりだ。紬は手元のノートを整理した。寧音のほうはもう気にしなかった。立ち上がって部屋を出ようとすると、通路際に座っていた慎がふと体を向けて、目をわずかに上げた。「具合はどうだ?」最初の一言が、気遣いだった。だが声のトーンに、柔らかさはまるでなかった。紬は立ち止まり、冷ややかな目で見つめ返した。「園部さんへの発言のことを聞きたいんでしょう。遠回しな探りは不要です」慎は指の腹でテーブルをトントンと叩いた。否定はしない。ただ、静かに見据えてくる。紬はこの状況が嫌だった。慎のあいまいな態度も、寧音の後ろ盾のように振る舞うその様子も、自分の平穏を乱してくる。「安心してください」紬の声が一段と冷ややかになった。「今は時間がない。でも、今後のことまでは約束できません」寧音が手を出さなければ、自分も動かない。慎には、この言葉の意味が理解できるはずだ。慎は今度こそ立ち上がった。その長身から、わずかに視線を落として紬を見下ろす。薄い唇がわずかに弧を描き、嘲るような笑みで言った。「ずいぶん、牙を剥くようになったな」一拍置いてから、「勝手にしろ」と言った。その笑みは意図が読めないものだった。紬には、「やってみればいい」という挑戦的な意味に聞こえた。もう昼近かった。承一と連れ立って外へ出ると、慎と寧音も下のフロアへ向かった。車の脇に陸が立っていた。陸は紬の顔をさっと確かめてから、愛想よく声をかけた。「二人も、よければ一緒にどうですか?今日は知人も何人か来るんですよ」紬は静かに彼を見た。「いいですよ、どこですか?」陸の動きが止まった。笑顔が引きつる。驚いていた。以前の紬なら「お気遣いなく、皆さんで楽しんでください」と柔らかく断るはずだったのに。今のは……皮肉か?紬は陸の固まった顔など気にもせず、車のほうへ歩いていった。承一は表面上だけ取り繕いながら、笑って言い放った。「ご迷惑をおかけするといけませんし、園部代表に居心地が悪い思いをさせてしまっては。危うく、会社を差し押さえられるところでしたからね」言い切って、さっさと
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第319話

この二日間、紬はほとんど息つく暇もないほど、忙殺されていた。宏一から突然、直接二次試験に来るよう連絡があり、急いで準備を進めなければならなかったからだ。自負はある。だからといって、油断するつもりは微塵もなかった。学習環境から離れていたブランクは決して短くはない。空き時間を見つけては、必要な専門書を再び読み込んだ。成功には相応の努力が不可欠だとわかっているからだ。宏一が、わざわざ紬のために枠を空けてくれたのだ。その期待を裏切るわけにはいかない。やるからには、最高のものを出す。金曜日。紬は承一と技術部の十数名のエンジニアとともに、朝から中身の濃い会議を重ねていた。フライトコントロールシステム、動力系、およびナビゲーションシステムの統合について、徹底的な検証が進められた。昼を少し過ぎた頃、新エネルギー分野の重鎮である青木社長が訪ねてきた。国防関係の案件とは別に、紬が密かに温めてきた独自のプロジェクトがあった。その概要を話すと、青木社長は非常に乗り気で、手ごたえのある反応を示した。話がまとまると、承一が流れで声をかけた。「青木社長、お昼はまだですか?よろしければフライテックの社食でもいかがでしょう」青木社長は笑って手を振った。「いやいや、実はお恥ずかしながら近くに用がありましてね、今日はまたの機会に。次はぜひ」承一は深追いしなかった。「では下までお送りします」青木社長は重ねて辞退した。「結構ですよ、フライテックのビルの真向かいで用があるだけで、目と鼻の先ですから」紬が顔を上げた。特に詮索するつもりはなかった。だが青木社長は自ら窓の外を指差した。向かいに建つ、アートギャラリーが入ったビルだ。「あちらで、招待を受けた個展にこれから顔を出すところでしてね」紬と承一は思わず窓の外へ目を向けた。あちらには人の波が押し寄せ、高級車が何台も連なっている。人の出入りが絶えず、華やかな賑わいを見せていた。「何かやってるんですか、あそこで?」承一が興味深そうに尋ねた。青木社長の表情が、少し意味ありげなものに変わった。「アロー・フロンティアの園部社長のお母様、粟野咲さんの個展です。海外でも名が知れているそうで、今回が帰国後初めての展覧会とのことで、私も招待を受けました」紬はガラス越しにそちらを見つめた。そ
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第320話

今回の個展は前から計画されていたのか。それとも、先日寧音に向けて放った言葉への意趣返しなのか。紬は招待状を二つに破り、ゴミ箱へ捨てた。「承さん、システムのコーディングに戻りましょう」紬はこの件でこれ以上気を揉むつもりはなかった。今どうにもできないことに心を乱しても、腹が立つだけで何の意味もない。咲の虚飾の肩書きを剥ぐことを、考えなかったわけではない。唯一の機会があった時、慎に力づくで潰されたのだ。承一は心配そうに紬を見た。傍から見ていても、胸の中が煮えくり返るような話だった。紬は窓の外にもう一度目を向けることもなく、静かに手元の仕事へと視線を落とした。何があっても、やるべきことを滞らせたくなかった。夕暮れが窓を茜色に染め始めた頃。紬は午後をかけて書いたフライトコントロールシステムのコードを、朝日たちと一通り確認した。ふと顔を上げると、向かいのビルの賑わいが視界に入ってきた。紬は何も表情に出さなかった。退社後、車を出すのが億劫で、笑美が進んで運転を申し出た。紬は路上で笑美を待ちながら、携帯で蘭子に【今夜食事しに行く】とメッセージを送った。クラクションが鳴った。顔を上げると、近くのフレンチレストランから人の群れが出てきた。メディアの人間もいる。見覚えのある企業のトップが何人も顔を並べていた。寧音と咲が、その中心で、取り巻きに囲まれて、隣には慎と陸、一颯たちがいた。距離が近かったからか、慎が顔を上げ、ちょうど紬に目が留まった。ある航空製造業の社長が寧音に尋ねた。「宏一教授も今日いらっしゃると聞いていたのですが、来られなかったのですか?」寧音は余裕を持って微笑んだ。「今日は来られませんでした。教授はご多忙ですし、特殊な立場でもありますので、あえてお招きしませんでした。ただ、私も今、教授の研究室を目指して院試の準備をしていますので、合格できれば、正式にお時間を取っていただける理由ができますから」咲は喜びに満ち、重い肝硬変もどこかへ吹き飛んだかのように顔色が冴えて、病院の外で大勢に囲まれて、すっかり元気を取り戻したように見えた。上品な貴婦人の風格をまとって微笑んだ。「寧音は小さい頃から聡明で、教授も気に入ってくださっています。本人が謙虚なだけで、十分な手ごたえはあるようよ。何事にも真剣に臨む
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