余命僅かな私、彼の「忘れられぬ人」の身代わりになる のすべてのチャプター: チャプター 401 - チャプター 410

555 チャプター

第401話

柊は、今日ここへ来て自分が何を求めていたのか、自分でもよくわかっていなかった。フライテックと紬の問題がすっかり片付いたと聞き、様子を見に来ただけなのかもしれない。あるいは……「昔の僕は、君の処理能力を見くびっていたらしい」柊は紬をじろりと見やり、タバコの灰を軽く弾いてから続けた。「君がトラブルに巻き込まれたばかりの頃、園部さんに詰め寄られていただろう。あのとき、実は長谷川代表に電話したんだ。園部さんはあの人の女なんだから、あの方から一言あれば大人しくさせられるし、君への追及だって止められるはずだと思ってね」彼の見立てでは、あの件は、慎の手が十分に届く範囲の話だったはずだ。なのに……「長谷川代表がなんて返してきたか、知りたいか?」柊は冷笑を浮かべ、紬をじっと見つめた。冷淡な表情の奥に潜む本心を、すべて暴いてやろうとでもいうように。紬は、ゆっくりと眉根を寄せる。こんな話、興味はない。だが柊は紬の反応を待たず、おかしそうに笑った。「『それは彼女自身の問題だ。自分で解決できるならすればいい。俺が口を挟むことじゃない』と、そう言ったんだよ」要するに、「知ったことか」ということだ。これ以上ないほど露骨な、冷淡さと無関心。紬は、微塵も驚かなかった。柊がわざわざこんな話を持ち出す意図も、とっくにわかっていた。慎が自分にどれほど冷酷か、今さら他人の口から聞かされるまでもない。柊を無視し、冷たい顔のまま横をすり抜けて歩き出す。柊はタバコを揉み消し、遠ざかる背中を目で追いながら、低く声をかけた。「あんなやつ、さっさと離婚してしまえばいい。僕は茜の縁談を断る。何もなかったことにする。紬、僕たちには、別の道だってあるはずだ」紬が離婚してくれさえすれば、戻ってきてくれさえすれば……それだけでいい。しかし、返ってきたのは、振り返りもしない完全な沈黙だった。柊はその背中が見えなくなるまでじっと目で追い続け、胸の奥が重く波打つ。心の芯が、刺さるように痛い。いつか、わからせてみせる。紬は二階へ上がった。椅子に腰を下ろし、しばらく気持ちを落ち着ける。階下の柊がもう帰ったかどうかなど、気にも留めなかった。それよりも、柚葉が持ち帰ってきた書類に目を向ける。東陽とアロー・フロンティアとの解約合意書だ。人
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第402話

咲は、胸のわだかまりがどうにも解けなかった。「今頃、紬は大喜びでしょうね。でもあの子の実力で東陽みたいな大きな会社を回していけると思ってるなら、夢でも見てるとしか言いようがないわ。そのうち、何もかも台無しにして終わりよ!」寧音は軽く眉をひそめ、まあそうかもしれない、と心の中で認める。就任早々、自分との取引を解約してきた紬のやり方を見れば、私情を挟むようではたかが知れている。どう見ても、大物にはなれないタイプだ。「あと数ヶ月もすれば私の個展が始まる。盛大にやれば、温井家をたっぷり見返してやれるわ」寧音は個展の話にはあまり関心を示さず、少しの間、何かを考えるように沈黙してから言った。「心配しなくていいわ。慎が助けてくれる。それに私、数日中にある人と会いに行くつもりだから」……ここ数日、フライテックにはひっきりなしに取引先が訪れている。個人の時間などほとんど取れないほどの忙しさだった。紬は鎮痛剤を一錠余分に飲み、なんとかその日をやり過ごした。フライテックと紬という二つの名前は、いまや全国的に知れ渡っていた。災い転じて福となす、だ。新たな提携も、次々と成立していく。少し前の「盗作」騒動で被った損害など、何倍もの利益となって返ってきた。紬は、各部署のスタッフたちが本当によく頑張ってくれたと感謝していた。盗作騒動が起きたあの日から、ずっと残業続きだったのだ。承一と笑美と相談し、リフレッシュを兼ねて二日間の休暇を設けることにした。行き先は、観光のメッカとして名高い香江市。全員に商品券を配り、しっかり羽を伸ばしてもらう計画だ。ついでに、紬と承一は香江で開催されている業界の展示会を視察する。常に外の動向を探ることが、会社の成長に繋がるからだ。ホテルにチェックインした後は、それぞれ自由に過ごしてもらった。笑美は遊び好きなので、紬と承一は別行動をとることにした。笑美は一人でショッピングへ繰り出し、紬と承一は展示会の見学へ向かった。気づけば夕方六時近くになっていた。笑美からちょうどよいタイミングで電話が入った。「香江で一番有名なお店、席押さえたよ!レガリス・ハーバーのそばで、夜景が最高なんだって。場所送るから、早く来て」紬は了解して電話を切った。車で向かうと、三十分ほどかかった。ところが、ウェイターに案内さ
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第403話

紬は、すでに席に着いたその人物を、信じられない気持ちで見つめた。笠井英明(かさい ひであき)。業界において、宏一と並び称される存在だ。若い頃はイギリスで学び研究を積み、二十年前に帰国してから宏一とともに国内の航空宇宙・防衛技術の発展に貢献してきた。長年にわたって「東の賀来、西の笠井」と称えられ、業界での影響力は計り知れない。ただ、英明は数年前に第一線を退き、育てた弟子たちのほとんどは今や国防関連の研究機関で研究を深めている。秀治から下半期に依頼された第六世代機のプロジェクトも、その範疇に入っていた。「あの笠井英明が?長谷川が、彼を担ぎ出すことができたとは」承一もかなり驚いた様子だった。幼い頃からそういう世界で育ってきた彼には、この一件がどれほどの大ごとかが肌でわかる。英明という人物は、気難しさで名高い。怒りっぽさも業界では有名だが、その能力は至宝と言っても過言ではない。「すごい人なのか?」笑美はこの世界に疎く、きょとんと瞬きをした。紬はゆっくりとうなずいた。「賀来教授と互角と言われている方よ。お二人は長年、研究上の意見対立でぶつかり合ってきて……あまり仲は良くないの」あのレベルになると、それぞれに強烈な信念がある。摩擦や衝突は避けられない。承一は眉をひそめ、なかば呆れながら言った。「長谷川のやつ、本当にやるもんだな。引退した笠井教授まで引っ張り出してくるとは。ということは……笠井教授に園部を見てもらおうということか?」笑美がすぐに反応する。「そういうこと?その笠井教授がそこまですごい人なら、もし本当に園部のことを見てもらえたら、これで一気に形勢逆転ね?」挽回のために手を尽くさずとも、英明の名がつけば、それだけで世間の空気は変わる。紬は、確かに意外だと思った。英明が俗世との関わりを絶ってから、もう何年にもなる。慎はどれほどのコネを使ってあの人を動かしたのだろうか。「そういえば、数年前に彼から声をかけられたことなかったか?自分の弟子になって、政府の研究機関で一緒にやらないかって」承一がふと思い出したように言い、苦笑した。「断ったんだろう、あのとき」あのとき紬は、すでに宏一に説得されて弟子入りした後だった。英明はわずかに遅れを取ったのだ。そのせいで二人は一度、正面からぶつかり合ったこともある。「要するに…
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第404話

紗代は思ったことをそのまま口にしただけだった。そもそも、慎が国男をどう説得して英明との面会に漕ぎ着けたのか、その経緯すら知らされていない。簡単なことではないはずだ。「それは、『成るように成る』だけです」慎は落ち着いていた。すでに結果を見越しているようだった。紗代は彼を見つめる。「あなた、本当に何を考えているの?笠井教授にだって、先に単独で会いに行けたはずでしょう。わざわざ私とひいお祖父様の前に連れてきたということは……もうその先まで考えているということ?」寧音の評判は、確かに地に落ちている。この時期こそ、慎には慎重でいてほしかったのだ。それに対して、慎は携帯をポケットに滑り込ませ、横目で母を見やると、涼しげな顔で口角を上げた。「母さんは、彼女のことを気に入っているのだとばかり思っていましたが」紗代がわずかに眉をひそめる。慎はすでに彼女の横をすり抜けて店内へ戻り、それ以上話すつもりはないようだった。……本日の香江行きで英明の姿を目にするとは、まったくの予想外だった。それだけに、衝撃も大きい。ホテルの部屋に戻っても、笑美はまだ不満げに愚痴をこぼしていた。「長谷川のやつって、最近園部があなたに追い詰められてるから焦って、母親側の伝を頼って園部の立て直しに動いてるんじゃないのか?」道中で英明の立場を知った分、驚きはさらに大きかった。同時に、慎の意図もよりはっきりと透けて見えてきた。承一が笑美の額をぴんと弾いてから言った。「うまくいくとは限らないけどな。笠井教授は気難しい人だし、園部を気に入るかどうかはまた別の話だ。なにしろ、先にこれ以上ない比較対象がいるからな」そう言いながら、承一は紬に目を向ける。まったく因縁めいた話だと思った。かつての「無礼」が、こうして巡り巡ってくるとは。「もっとも、慎が教授にとって十分な『条件』を出せるなら、話は別ね」紬は冷静に言った。あれだけの人物を動かせたのなら、可能性はゼロではない。承一は眉をひそめた。それはそうかもしれない。ただ、元夫が別の女のために心血を注ぎ、両家の顔合わせまで済ませたことを、紬がこうも淡々と分析している様は、傍から見ていて何とも言いがたい居心地の悪さがあった。紬は特に何も感じていなかった。愛する人のためなら見返りなど求めない
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第405話

この論文を、紬はずいぶん長い時間をかけて磨いてきた。もともとそういう性分だ。やると決めたことは、必ず最善を尽くす。慎が寧音を連れて藤井家の人々や英明と会わせた件については、さほど意に介していなかった。他人のことで自分の歩みを乱すつもりはない。作業の合間に、笑美から情報が入ってきた。あの寧音のSNS投稿が、あちこちで憶測を呼んでいるらしい。笑美は西京市のあらゆるグループチャットに常駐しているため、一番鮮度の高い情報が入ってくるのだ。慎がこの時期に寧音を連れて藤井家を訪れたのは、周囲への牽制ではないか。フライテックの一件があろうとも、将来の長谷川夫人を侮ることは許さない、という意思表示なのではないか。そんな見方が広まっていた。詳細は諸説あれど、行き着く結論は一つだ。慎と寧音、二人の絆は今も揺るぎない。紬は、業界のゴシップとしてそれを読み流した。香江市に二日滞在し、西京市へ戻るとすぐに病院へ向かった。医師との予約日が来ていたからだ。その前に、東陽の江戸川から電話が入った。「温井社長、東陽とアロー・フロンティアとの解約手続きはほぼ完了しました。ただ、アロー・フロンティア側の反発がかなり大きくて」内幕を知らない江戸川には、ただただ状況の激変が不思議なのだろう。前任社長の交際相手が絡んでいるだけに、今後の方針を正確に把握しておきたいのだと、紬にはわかった。「気にしなくていいです。今後、アロー・フロンティアとは一切取引しない方向で」江戸川がためらいがちに続ける。「でも、長谷川代表が園部さんへの難癖をつけてきた場合は……」なにしろ数日来、寧音が慎側の親族に挨拶へ赴いたという話も出回っている。慎は今でも東陽の株主であり、経営者の座を退いたとはいえ、その地位と影響力は揺るがない。万が一敵に回したら……紬はパソコン画面を眺めながら、学術誌の公式サイトにアクセスして原稿を提出した。「彼から何か言ってきたら、直接私に話すよう伝えてください」きっぱりと、それでいて淡々とした一言だった。江戸川は内心、肝を冷やした。温井社長、長谷川代表にまで一切遠慮なしとは!そのひと言で、仕事上の判断基準がはっきり定まる。これで思い切ってやっていける。心の中で、紬への敬意がまた一段と深まった。通話を終えると同時に、三本目の論文の投
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第406話

紬は、目の前の人物を見て一瞬、息を呑んだ。凛太は紬が何か言うのを待たなかった。語らずとも、目の前の光景がすべてを物語っていた。「少し休もう」眉をひそめたまま、凛太は紬の腕をそっと取って立ち上がらせた。体に力が入っていないことを感じ取り、できるだけさりげなく自分の腕に体重を預けさせながら、それでも二人の間に付かず離れずの距離を保ち、紬が居心地の悪さを覚えないよう気を配った。「ありがとうございます、もう大丈夫ですよ」紬は立ち上がって礼を言った。体力を使い果たしているせいか、声に張りがなかった。凛太は短く「ええ」と答える。「椅子で少し落ち着いて」凛太は隣の化学療法科の表示へ目を向けた。悪性腫瘍の研究に長年携わってきた身だ。抗がん剤治療を終えた患者がどういう状態になるか、誰よりよく知っていた。彼女の青白い顔を見て、少し意外そうに尋ねた。「一人で来たのか?付き添いは?」視線に込められた痛ましさと、微かな咎めを含んだ眼差しを感じ取り、紬はおそらく彼が察したのだと悟る。静かにうなずいた。「ええ、一人で」それ以上の理由は言わなかった。凛太は隣に腰を下ろす。「化学療法を受けているなら、できる限り誰かに付き添ってもらった方がいい」なぜ慎が傍にいないのか、彼にはわからなかった。もし自分が思い描いているような関係なら、たとえ寧音のことがあっても、そばにいるべきではないのか。紬はうなずき、周囲に病を伏せていることまでは、口にしなかった。「もし差し支えなければ、詳しく話せるか」凛太は静かに尋ねる。今さら隠す理由もない。相手は医師だ。患者の秘密を漏らすことはない。「子宮がんです」凛太は唇を硬く結んだ。以前から状態がおかしいとは感じていた。なるほど、そういうことか。同時に、慎と寧音の姿が頭をよぎる。その一方で、紬は独りでこれを抱えているのだ。自然と眉間に力が入った。「今日、これまでの検査データは持ってきているか?」紬は首を振る。「今日は二回目の治療のためだけに来たので」「分かった。院内システムで確認できる。直近の検査はいつ頃だった?」凛太は穏やかな声で、負担をかけないよう慎重に尋ねた。「確か……二ヶ月ほど前だと思います」しばらく考えてから、凛太は続けた。「よろしければ、俺が改めて診てみようか。ただ、専門
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第407話

まるでふと口をついて出ただけのような、さりげない一言だった。紬はその言葉の意味を反芻するように、しばらく胸に留めた。医師の立場から言えば、穏やかな気持ちが回復を助ける。だからそう言ってくれたのだろう。いずれにしても、感謝の気持ちは本物だった。検査結果を見てくれると言ったのも、おそらく以前の正樹の件での恩返しだろう。凛太にはそういうところがある、と紬は思った。……その日は半休を取って、自宅で静養した。自分の状態をあらためて確認する。前回、抜け毛が必ず起きるかと医師に尋ねたとき、必ずしもそうではないと言われていた。今日で二回目だったが、今のところ目立った変化はない。それだけで、少しほっとした。翌日。紬はいつも通りに身支度を整えて出勤した。大半の時間は気力だけで持ち堪えているような状態だったが、慣れてしまえばそれも普通に感じられた。フライテックに、ベイサイド・テクノロジー主催の業界サミットへの招待状が届いた。年に一度の恒例行事で、悠真の特別秘書が直接持参してきた。承一は、相手方がフライテックをそこまで重視していることに少し驚いていた。ベイサイドは業界における防衛分野の代表格だ。腰を据えた付き合いをするだけの価値がある。紬は参加することにした。長期的な協力関係を築けるなら、それに越したことはない。会場に着くと、さっそく複数の有力な取引先と顔を合わせた。アロー・フロンティアとの一件で今や紬の名は業界に轟いており、入場した途端、あちこちから挨拶の人波が押し寄せてくる。もともと広報畑にいただけあって、こういう場での立ち回りなどお手のものだった。奥のホールへ進んだとき、正樹たち一行と鉢合わせた。正樹が紬を見た瞬間、表情が複雑に歪んだ。何か言おうとして、言葉を探しているようだった。前回の件は、凛太が間に入ったおかげでスホン関連の問題が大ごとにならずに済んだ。要するに、紬が見逃してくれたのだ。どう切り出すか考えていたその矢先——紬は正樹の存在などまるで目に入らないかのように、一瞥もくれず通り過ぎた。正樹は完全な無言で無視された。彼は慌てて振り返る。じわじわと腹が立ってきた。温井紬、どういうつもりだ?こんなにでかい男が立っているのに、空気扱いか?紬は正樹の心中など知る由もなく、承一とひとしきり挨拶
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第408話

挨拶しようと人が押し寄せても、英明は一切相手にせず足を止めることもなかった。昔と変わらぬ、世辞など無用とばかりの気難しさだ。そのまま真っ直ぐ、こちらへやってくる。寧音は笑みを深めた。「笠井教授、ごきげんよう」慎も軽く頷く。英明は頷きながら、隣に立つ承一と紬へ視線を向けた。承一のことは当然認めていた。あの老いぼれの一人息子であり、国際的にも名の知れた実力者だ。紬については……ひと目見て、承一に向かってこう言った。「承一、お前はこの娘と添い遂げることにしたのか?」以前、この二人はいつも共に研究していた。周囲の誰もが、いずれそうなると思っていたものだ。あまりに唐突な問いだった。慎も、思わず二人に目を向ける。英明は承一と紬の返事も待たず、手を後ろで組みながら冷笑した。「だとしたらお前、女の選び方については、長谷川代表より女を見る目がないな」露骨な毒舌だった。慎の視線が、かすかに紬の顔へ落ちる。英明の言動が予測不能なのは、今に始まった話ではない。だが紬の表情は、微塵も揺れなかった。彼女は聞き取れた。何年経っても、英明はあのときの自分の決断をまだ快く思っていないのだ。寧音も、英明がこれほど露骨に紬をこき下ろすとは思っていなかったようで、表面上は平然を装っていたが、瞳の奥には隠しきれない歓喜が浮かび、口端がわずかに吊り上がった。あの英明でさえ、紬より自分の方が上だと言っている。つまり、紬では承一にも不相応であり、自分こそが慎に釣り合う存在なのだ、と。「冗談はおやめください。園部さんは長谷川代表の奥様ではありませんよ」承一は英明の気性を知りながらも、さりげなく事実を訂正した。寧音は無言で眉をひそめた。そんなこと、わざわざ言わなくていい。英明はそのことには興味がない様子で、一言浴びせると踵を返し、自分の場所へと去っていった。だが、この一連のやりとりは、少し離れたところにいた正樹と一颯の耳にも届いていた。正樹は英明の背中を眺める。あの老人、紬と知り合いなのか?なぜあんなに辛辣なのだ?一颯が近づいてきた。紬に冷たい一瞥をくれた後、慎と寧音へ向き直った。「笠井教授はお目が高い。さっき園部さんが挨拶されていたようですが、お知り合いですか?彼、園部さんへの態度がずいぶん良かったように見えまし
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第409話

だが一颯は承一の言葉の裏を読んで、その詮索するような物言いに不快感を募らせた。今し方英明に見向きもされなかった紬を冷たく一瞥してから、慎と寧音へ視線を向け、嘲るように言う。「園部さんはトップジャーナルに筆頭著者として論文を投稿されたそうじゃないですか。精進が必要なのは、どうやら別の方みたいですね」名前は出さなかったが、誰を指しているかは明白だった。傍らに控えていた正樹が、かすかに眉をひそめて一颯を見た。ずいぶん寧音を庇うのだな。そんなに親しいのか?寧音もまた、一颯の言葉の意味を正確に受け取っていた。この数分で、紬は英明と一颯の両方から面目を丸潰れにされたも同然だった。それでも相手には、一言も反論できる立場がない。これは事実だからだ。だが、紬にはただ「井の中の蛙」を見守るような感覚だけがあった。一切表情を動かさず、踵を返した。一颯の言葉が的を射ようとも、それに何か反応を示してやる義理はなかった。承一は軽く首を振った。「五年前に二本続けて出したんだからな。あの数年間のブランクがなければ、今頃三本どころじゃ済まなかった。向こうは一本出して鼻高々といった様子だが」今回の三本目と、奇しくもタイミングが重なった。それはそれで丁度いい。格の違いというものを、直接見せてやれる機会だ。しかも相手はおそらく英明の指導付き。紬が独力で仕上げた論文とは、同列に語れるものではない。紬が五年前に書いたあの二本でさえ、寧音に完全に理解できるかどうか怪しい。まして今回、紬はさらに一段高いところへ行っている。紬に特別な感慨はなかった。人生に、完璧な正解などない。あの頃を後悔していないし、すでに起きたことを悔やんで心をすり減らすつもりもなかった。真心を尽くしたことは間違いじゃない。間違いだったのは、その間違いを間違いと知りながら続けることだ、それだけだ。今こうして自分の好きな分野に身を置いていることを、ただ、よかったと思っていた。紬はサミットの会場を見渡した。政府関係者まで出席しているのを目にして、改めて実感する。ベイサイドは普通の企業とは格が違う。英明がなぜ姿を見せたのかは、結局わからないままだった。一方、慎が入場すると、ほどなく何人もがすり寄り、ビジネスの話を持ちかけていた。傍らの寧音はその隙に、近くにいた正樹のも
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第410話

「園部さん」悠真は目の前の来訪者が誰かを確認すると、目元を微かに険しくした。それでも視線がときおり、別の方向へと流れていく。寧音は悠真のどこか上機嫌な様子を感じ取り、小さく笑みを浮かべた。「少しお話しできますか?」おそらく断られるはずがない、という自負があった。悠真は足を止め、肩をすくめた。「もちろんです。どうぞ」寧音は表情を整えながら切り出す。「ベイサイドとの提携は、私にとってずっと最優先事項です。ですから、率直にお聞きしたくて。アロー・フロンティアについて、最近いくつか良からぬ噂が立っていることは否定しません。ただ、それとは切り離して、アロー・フロンティアの本当の実力をご覧いただけませんか。私も、アロー・フロンティアも、決して期待は裏切りません」悠真はこういう売り込みを毎日のように受けている。それでもこういう場面では、いつも冷静に対処できた。ただ……「誤解させてしまったなら申し訳ないですが」悠真は寧音を見ながら、少し考えてから続けた。「前回、僕なりに明確にお伝えしたつもりでした」先日寧音が会社を訪ねてきたとき、悠真は会わずに体裁のいい断り文句を伝えた。ビジネスの場で経験を積んだ人間なら、あの言葉の裏にある「お断り」を読み取れるはずだと思っていたのだが。ベイサイドにはベイサイドの判断基準がある。悠真個人の思惑がどうあれ、会社として総合的に見ればフライテック寄りになる。フライテックには紬がいて、承一のような国際的に名高い技術者がいる。層の厚さが段違いだ。アロー・フロンティアを選ぶ積極的な理由が、悠真には思い当たらなかった。寧音の表情がかすかに固まる。「……誤解、ですか?」自分は何か誤解していたのか。悠真はもう……?寧音の顔に戸惑いが浮かぶのを見て、悠真は軽く顎をしゃくり、静かに言った。「企業との提携は総合的な判断が必要です。安定性も重要な指標の一つで、フライテックの特許権を侵害した件となると……ベイサイドの上層部も難色を示すのは火を見るより明らかです。まずは今の問題をきちんと整理して、信頼を取り戻してから次の展開を考えることをお勧めします」要するに、アロー・フロンティアの評判に傷がついている今、ベイサイドがわざわざ歩み寄る理由はない。悠真には、なぜ寧音がこのタイミングで話を持ちかけてきた
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