جميع فصول : الفصل -الفصل 780

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第771話

慎がわざとやったのだということは、紬にはとっくにわかっていた。わざわざ、会議の邪魔をしたのだ。紬はため息をついて立ち上がり、ベッドへ歩み寄った。慎の呆れた要求はひとまず横に置いておき、身をかがめて彼の襟元をそっと引き、背中と胸の傷口を確認した。異常はなかった。今はもうそう頻繁に薬を替える必要もなく、あとは傷跡が薄れるよう、塗り薬をしっかり続ければいい状態だ。「お風呂に入るんじゃないの?立たないの?」紬の表情は特に変わらず、恥ずかしがる様子も一切見せなかった。慎はわずかに目を細めた。「……本当に入るのか?」「あなたが言い出したんじゃないの」慎は軽くため息をついてから、涼しい顔のまま枕にもたれ直した。「まさか。大病明けの体のお前に、俺の風呂の世話をさせるほど非道じゃない。お前が仕事で遅くまで起きているのが気になったから、少し休めと言いたかっただけだ」なるほど、もっともらしい言い訳だ。それが彼の不器用な気遣いから出た行動だということも、紬にはわかった。時計を確認して、慎の方へ顎をしゃくった。「じゃあ、寝室に戻る?」慎は本を置き、そのままごろりと横になった。「気遣いはありがたいが、いい。お前に合わせて、俺もこっちで寝る」「…………」屁理屈もいいところだ。テコでも動く気はないようだ。今夜は自分が家のどこにいようと、慎は必ずついてくるのだと、紬にもはっきりとわかった。彼にこんなに粘り強くて子供っぽい一面があるとは、以前はまったく気づかなかった。本当のところ、紬も眠かった。ただ、どうにも落ち着かない気持ちが胸に残っていた。ぼんやりと考えていると、ふいに手首を引かれた。体がそのまま、強い力でベッドへと引き倒される。慎の痛む体の上に倒れ込まないよう、とっさに身を傾けたが間に合わず、彼の肩のあたりにそれなりの重みがかかってしまった。「慎!怪我人という自覚はあるの!?」紬は少し声を荒げて、両手でベッドをついて体を起こそうとした。慎はその瞬間、後ろの傷に当たったのか、薄く息を吸い込んだが、構わず素早く手を伸ばして紬の細い腰を抱え込み、ぐっと自分の胸元へと引き寄せた。目を落とし、不満げな紬と至近距離で視線が絡んだ。慎は目尻を少し面白そうに上げた。「ご機嫌斜めだな、温
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第772話

紬は枕元の小さなナイトランプの光をぼんやりと眺めながら、頭の中で、まだ見ぬ娘の姿を一生懸命に思い描いていた。自分似なのか、それとも慎似なのか。娘は父親に似ることが多いと、どこかで聞いた気がする。そこまで考えて、紬はそっと顔を上げ、慎の静かな寝顔を盗み見た。薄暗い光の中でも、その顔立ちの輪郭は際立っていた。鼻筋は高く通っているが、冷たい印象は与えない。目頭の脇にある一粒のほくろが、どこか妖しく退廃的な色気を添えている。二重のラインも端正で、冷たいほど白い肌に映える唇は、健康的な赤みを帯びていた。整いすぎているほどに、非の打ち所のない顔だった。慎の容姿が人並み外れているのは、出会った頃からずっとわかっていた。もしも娘が、この顔に似たなら——それはもう、文句のつけようがないほど可愛らしいに違いない。そんなことをぼんやり考えているうちに、気づけば視線が彼の薄い唇にじっと止まっていた。数秒ほど。はっとして、紬は慌てて目を逸らした。耳の先まで火がついたように熱くなった気がした。もうさっさと目を閉じて、この余計な考えを全部追い払ってしまおう。紬がぎゅっと目を閉じた瞬間。慎はゆっくりと目を開け、腕の中で居心地悪そうにしている紬の愛おしい様子を、しばらく眺めていた。声を立てることなく、唇の端が柔らかく上がる。……翌朝。目が覚めると、隣はもう空だった。紬は目を擦りながら起き上がった。「……慎?」洗面所からも返事はない。先に身支度を済ませることにした。着替えようと姿見の前に立ち、服をめくって腹部を確かめる。腹腔鏡手術の傷口は、ほぼ塞がっていた。傷跡が完全に消えるには、まだ時間がかかるだろう。この先しばらくは、処方された薬を飲み続けなければならない。抗菌薬と、エストロゲンを補うための薬だ。内分泌に関わる治療にも一定の期間が必要だった。もう少しの辛抱だ。着替えを終えて階段を下りると、家政婦の山谷がすでに下で立ち働いていた。紬の姿を見て、山谷は目を細めて優しく笑った。「若奥様、よく眠れましたか?」紬は頷いた。「慎は?」壁の時計を確認すると、もう朝の九時だった。自分がこんなに長く眠るのは珍しい。山谷は、温かい朝食を一品一品テーブルに並べながら答えた。「若旦那様が、若
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第773話

先日の取締役会でのクーデター未遂の一件は、長谷川グループ内に大きな波紋を呼んでいた。誰もが、これで終わりではなく、必ず続きがあると察していた。慎が来社したとき、ちょうど光貴も公務で本社に顔を出していた。二人は当然のように、ロビーで顔を合わせることになった。光貴は探るような視線を向けた。「慎、体の方はもう良くなったのか?」慎は静かにエレベーターに乗り込んだ。「お気遣いなく。だいぶ戻った」「この間は色々あって、見舞いにも行けなかった。許してくれ」まるで何事もなかったかのような白々しい顔だった。慎は落ち着いた手つきで、左手の薬指にはめられた結婚指輪をくるりと回しながら、淡々と言った。「ご多忙のようだし、無理をする必要はない。俺がいる限り、兄さんが直接手を出せるような仕事もそうそうないだろうから」光貴の口元から、すっと笑みが消えた。目の奥に、冷たく険しい光が滲む。慎はそれを感じ取っていないかのように、変わらぬ静かな口調で続けた。「兄さんは海外に長くて本社の内情をご存じないかもしれないが、あの取締役たちの中にも、地位だけ占めて何もしない者が少なからずいる。そういう人間は、一度厳しく対処して整理すべきだろうね」その言葉を聞いた瞬間、光貴の表情がわずかに動いた。取締役会には当然、分家の息がかかった人間が潜り込んでいる。慎の言う意味は——慎は口の端をわずかに持ち上げた。「俺は、表向きだけ味方のふりをして裏で立ち回るような人間が嫌いでね。靴の中に入った砂を、そのまま放っておける性分でもない。兄さんなら、どうする?」その言葉は、光貴の神経を真っすぐに貫いた。これは提案でも相談でもない。釘を刺している。脅している。そして——粛清の宣告だ。エレベーターが目的の階に近づいた。慎はディスプレイの数字を見上げた。「イタリアの会社も何かと忙しいだろう。そろそろ、あちらへ戻られた方がいいんじゃないか」穏やかな口調の裏に隠された、容赦ない刃。光貴の顔色が瞬時に変わった。「慎……祖母ももう年だ。長年海外にいるのも辛いだろう。何も、そこまでしなくてもいいんじゃないか」慎はそこで初めてゆっくりと振り返り、無感情な氷のような目で光貴を見た。「戻りたくないと?そういえば一つ、聞いた話がある。
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第774話

そう、今日は笑美の誕生日だった。仕事が積み上がっているから先に片付けて、夜に改めて——と思って頷きかけたが、笑美は何かを思い出したのか、目の中に淡い期待を滲ませた。紬はふとひらめいて、意地悪く眉を上げた。「そうか、婚約者さんが戻ってきてるんだものね。何かデートの約束でもしてるの?」笑美はしゅんと肩を落とし、首を振った。「……まだ電話もないよ。覚えてるかどうかも怪しいけど……」以前、理斗がまだ国を出る前は、誕生日には必ず一緒にいてくれたのだ。紬は、笑美の頭に優しく手をのせた。「きっと大丈夫よ。もう戻ってきてるんだから、もし覚えていなくても、素直に言えばいいじゃない。一緒に過ごしたいって」笑美はぱっと顔を輝かせた。「そうだよね!日曜だし、絶対に時間あるはずだもん!」弾けるような笑顔を見て、紬もつられて口の端を上げた。「みんな、もう揃ってる?」歩きながら紬は聞いた。笑美は首を振った。「ううん、まだ。でも承さんはもう中で仕事の話をしてるみたい」今日は研究基地からも数名、協力してくれる人間が来る予定だった。これから先は、フライテックとの仕事のやり取りも増えていくだろう。三階の貸し切りフロアへ上がると、いかにも屈強な男たちが何人か集まっていた。体格も均整が取れ、立ち姿だけでも目を引く面々だ。紬はそのうちの二人をすぐに見分けた。基地から来た特戦飛行士、尾崎聖也(おざき せいや)と片岡瑛太(かたおか えいと)だった。佳緒も来ていた。紬が入ってくるとすぐに立ち上がり、紬の腕にくっついている笑美をちらりと見てから、少し不満げな顔をした。承一は紬が来たのを見ると、まずさっと彼女の体の具合を確認した。思ったより顔色がいい。それを確かめてから安心し、一人ひとりを紹介し始めた。ひととおり挨拶を終えたところで、入口から声がした。「すみません、渋滞で遅れてしまって」その声を聞いた瞬間——笑美の体が、紬の腕の中でびくっと固まった。紬は笑美の顔をちらりと見た。呼吸すら止まっていた。目に見えて緊張しているのがわかる。笑美はいつだって大らかで、社交的で、冗談が好きで騒がしい女の子だ。なのに、たった一人の人間に、こうも簡単に感情を振り回されてしまう。笑美は静かに深呼吸をして、顔に精いっぱいの笑みを作り
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第775話

世羅は嬉しそうに目を細めると、心を込めて選んだ贈り物を両手で大切に抱えるようにして差し出しながら、受け取ってもらうのを待っていた。しかし、その無邪気な一言は——笑美の胸の奥を鋭くえぐった。笑美は、思わず世羅の後ろに立つ理斗を見た。忘れていたのか……?しかも、世羅に代わりにプレゼントを用意させているなんて。笑美はショックで、しばらく手を伸ばせなかった。世羅は少し戸惑い、周囲の視線を感じながらそっと聞いた。「……気に入らなかった?」理斗は、世羅がばつが悪そうな様子に気づいた。あれだけ心を込めて準備したのに受け取ってもらえない妹を庇うように、理斗は笑美に目を向けた。「世羅が、お前のために一生懸命選んでくれたんだ。受け取れ。俺からの分でもある」世羅に恥をかかせたくなかった。ただそれだけだった。その無神経な言葉を聞いて、紬はほんの少し眉を曇らせた。理斗の動機が、笑美を気遣っての言葉ではないことが、声のトーンでわかってしまったからだ。笑美にそれがわからないはずがない。理斗は、笑美が誕生日を忘れられたことで深く傷ついているとは、少しも気づいていない。でも、理斗がそう言った以上、受け取らないわけにはいかない。世羅だって悪意があったわけではないし、大勢の前で場の空気を壊したくもなかった。笑美はこくりと頷き、プレゼントを受け取った。「……ありがとう」世羅はほっとして振り返り、理斗に向かって「ほら、大丈夫だったでしょ」とでも言いたげな、小さな得意そうな笑みを向けた。言葉は笑美に向けながら、その視線は理斗を見ていた。笑美はぎこちなく頷いた。その場には大勢の人がいた。笑美も察していた——婚約者の誕生日をすっかり忘れ、義妹に代わりにプレゼントを買わせる。みんなの前でそれを見せつけられれば、理斗が笑美を大切にしていないことなんて、誰の目にも明らかだ。自分が周りからそう思われていると感じるだけで、いたたまれなくなり、惨めだった。紬は笑美の心の揺れを敏感に感じ取り、静かに笑美の手を握った。そのまま引っ張るようにして席へ向かい、笑美をその場から連れ出した。笑美はされるがままについていった。横目で見ると、理斗も世羅を連れて着席していた。世羅が気づいたように振り返り、理斗に言った。「お兄ちゃん、笑美のそばに
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第776話

佳緒は、思ったことをすぐ口にしてしまう性質だった。ふん、と鼻を鳴らして言う。「あなたが妬いてどうするのよ。他の女の子の隣に平気で座ってる『婚約者』のことは、なんで気にしないの?」「…………っ!」それは、笑美にとって急所を突く残酷な一撃だった。笑美の体が、ぴたりと固まった。無理に作っていた笑顔まで、氷のように固まった。佳緒も、自分の口が先走りすぎたことに後から気づいた。頭が追いつく前に、つい口が滑ってしまうのだ。慌てて、紬と笑美の顔を交互に見た。「ちょ、わざとじゃないから……」さっきから隣で一部始終をじっと観察していた佳緒には、なんとなく場の雰囲気が読めていた。世羅が「婚約者」と言った一言から、複雑な状況を整理していたのだ。ずっとこの件には口を挟んでいなかった承一も、わずかに手元の動作を止めた。視線が自然と、傷ついた笑美の顔に落ちる。笑美はどんなことも中途半端にしかできないくせに、強がることだけは昔から得意だった。手をひらひらと振って笑い飛ばす。「気にしてないさ。大したことじゃないんだから」紬は唇をきゅっと引き結び、無言で向かいの二人を冷ややかに一瞥した。その後、機体のいくつかの性能についての本格的な話し合いが始まった。先々の方向性と、パイロットたちの具体的なニーズについて、三十分ほど突き詰めた専門的な議論が続いた。様々な立場の人間が真剣に意見を出し合い、先ほどのような個人的な感情の話は、もう誰も持ち出さなかった。途中で、部屋の扉が再び開いた。上質なスーツを纏った慎が、静かに入ってきた。身なりは完璧で隙がなく、重傷の傷がまだ癒えきっていないことなど、微塵も感じさせない立ち姿だった。その場にいた全員の視線が、一斉に慎へと集まった。慎は大勢の中から、すぐに紬の姿を見つけた。一瞬だけそこに視線を止め、ゆっくりと歩きながら、その場にいる人たちへ軽く頷いた。そして迷いなく、紬の隣へと向かう。佳緒はこの人たちの複雑な事情までは知らないが、慎が紬の夫だということはわかっていた。不承不承席を詰めて場所を空けた。慎は佳緒をちらりと見た。「……どうも」慎が腰を下ろしてから、紬が困惑した顔で小声で聞いた。「……何しに来たの?」慎は少し紬の方へ体を傾け、同じく小声で返す。「研究
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第777話

佳緒は、紬の指輪を食い入るように見つめながら言った。「四年くらい前だったかな。お父さんと一緒にフランスのオークションに行ったとき、この指輪がトリを飾る目玉商品だったの」紬は、すぐ隣に座る慎を見た。慎は全員の視線を受けても、涼しい顔のまま微動だにしなかった。佳緒は興奮気味に続けた。「すごく気に入って、世界中のたくさんの人が狙っていたの。最終的な落札価格が確か……日本円で二十一億だったと思うわ」紬は、あやうくむせそうになった。手元の指輪をもう一度見てから、慎に視線を戻した。どこか呆然とした顔で。い、いくら……?「この指輪は、すごい由来があるのよ。百年前のスペインの最高峰の宝飾デザイナーが作った一点物で、とにかく高価だったから、オークション会場で紹介されたとき、最終的にどこかの博物館が収蔵することになったって言っていたの。そのデザイナーが『至上の愛』をテーマに作ったもので、意味も特別で、当時は数々の逸話を生んだって。数年前になって、やっと『唯一無二』という名を冠してオークションに出品されて、天文学的な値段がついたのよ」佳緒は、あのときのことを鮮明に覚えていた。育ちが良く、父と一緒に世界中を飛び回ってきた。数年前はまだ十代で、宝石に夢中になっていた頃だったが、値段が高すぎて競い合う余地すらまったくなかったのだ。あんな大金を出して一枚の指輪を手に入れようとする人間など、世界中探してもそうそういない。「長谷川代表、奥様をとても大切にされているんですね」世羅が、心からの憧れを滲ませた顔で言った。紬は、指輪をつけた左手が火のように熱くなってくる気がした。信じられないといった目で慎を見た。「……本当に?」慎はちらりと彼女を見た。「本当だ」あの年、自分でフランスへ飛び、直接競り落とした。紬と入籍のために役所へ行こうと決めた、その一週間前のことだった。紬は言葉を失った。慎はそんなこと、ただの一言も言っていなかった。この指輪が競売に出された世界にひとつの一点物だとすれば——慎の薬指にある、同じモチーフの結婚指輪はどういうことになるのか。佳緒のその一言で、場の空気が一変した。みんなが静かに感嘆のため息を漏らしていた。どれほどの情熱と執念だろうか。世羅は理斗をちらりと見て、向かいの笑美を見て
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第778話

笑美にも、その言葉の裏にある意味は痛いほどわかっていた。目の中から、すっと期待の光が消え去った。胸に冷たいものが広がった。理斗は世羅を見た。「お前は?」世羅はにこりと優しく笑った。「運転手さんがいるから、そのまま帰れるわ。気にしないで」そのやり取りを聞いて紬は、今夜の理斗は義理で付き合っているだけなのだとわかった。笑美の方を振り向くと、笑美はこっそり拳を握り、必死に平常心を保とうとしているようだった。紬は手を伸ばし、笑美の髪を軽くなでてから、小声で言った。「彼と一緒にいてどう感じるか、自分の胸に聞いてみて。今夜、彼とゆっくり話しなさい」良くても悪くても、当人が身をもって確かめるしかない。傍から見れば理斗の態度は明らかに冷たい。でも笑美の長年の想いは本物で、周りの一言二言で簡単に消えるようなものじゃないのだ。笑美はわかったような、わからないような顔をした。承一が一歩前に出て、明らかに理斗に何かを期待している笑美の顔を眺めてから、低く言った。「何かあれば、いつでもオレに電話しろ。わかったな」笑美は手をひらひらさせた。「わかってるさ。それくらいわかってるよ」承一はそれ以上何も言わなかった。立ち去り際に、一瞬だけ鋭い視線を理斗に向けた。一方の慎は、紬以外の人間など気にかける余裕はなかった。さっさと紬の細い手首を握り、さっさと出口へと連れ出した。紬は慎の完璧な横顔を見ながら、いくつか聞きたいことがあった——……紬たちが去るのを見送って、残された一行はエントランスの入口まで歩いた。世羅はまだ、迎えの車に乗り込んでいなかった。理斗と面識のある飛行士の聖也が彼の肩をつついて、からかうように笑美を見ながら言った。「やるじゃないか、理斗。こんなかわいい婚約者がいるなんて、なんで今まで一度も言わなかったんだよ」瑛太も笑って言った。「付き合い悪いな。俺たちに紹介してくれてもよかったのに」だが理斗は、この手の男同士の話にはまったく興味がなさそうだった。世羅が、ふふっと笑いながら言った。「お兄ちゃんは無口だから。みんな知ってるでしょ?」瑛太がため息まじりに言った。「無口なんかじゃないよ。お前には、いつもあんなに甘くてよくしてるじゃないか」世羅は目を伏せて、ふっと嬉そうに笑った。否定は
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第779話

その言葉を聞いた瞬間、笑美の目の中の光が、すっと音もなく消え去った。喉の奥が、きゅっと締めつけられるような感覚に襲われた。この感情を、何と言い表せばいいのかわからなかった。何も悪くないはずなのに、冷たい針で胸を刺されるような痛みが走った。理斗がそんなにあっさりと「落とした」と言えるとは、夢にも思っていなかった。まるで、あのお守りが大して重要じゃないみたいに。笑美があれをどうやって求めてきたか、理斗はずっと知っていたはずなのに。あのとき理斗は複雑そうな、どこか困ったような顔をして、笑美の頭をぽんっと叩いた。「馬鹿なことして。こんなもので何かが変わるとでも思ってるのか?そんなにしんどい思いまでして」でも笑美は、嬉しくてたまらなかったのだ。得意げにこう言った。「私の気持ちだもん。気持ちが届けば、神様にもきっと伝わるさ。あなたのことを、ちゃんと守ってくれるって」あのとき、理斗が自分を見た目には、確かに何か柔らかいものがあった。感情を言葉にするのが得意な人ではないけれど、ほんの少しだけ——あのときの理斗は、いつもと違って見えたのだ。でも今、あのお守りはもうなかった。笑美は、揺れるウサギのストラップをしばらく見つめ続けた。理斗でさえもうこの話は終わったと思い始めた頃、笑美はようやく震える口を開いた。「……外してもらえる?そのストラップ、趣味じゃないんだ。あなたには似合わないさ」もちろん、ただの強がりだ。誰が付けたのかは、あえて聞かなかった。心では痛いほどわかっていても、聞かなかった。ただ、自分の気持ちを彼に伝えただけだった。理斗はすでにエンジンをかけていた。目の端でその淡い紫色のウサギをちらりと見て言った。「そんなに邪魔か?」静かな問い返しだった。特に感情は乗っていない。でも笑美にははっきりと伝わった。彼に外す気がないのは明らかだった。自分が小さなことを大げさにしているだけかもしれない。勝手な嫉妬で、言いがかりに近い。二人は血は繋がっていないとはいえ兄妹なのだから——これでは自分の方がよっぽど非常識だと思われるだろう。でもどうしようもなく、暗い海に沈むように気持ちが沈んでいた。理斗は、笑美のそんな痛切な気持ちに、気づいている様子がまったくなかった。笑美は唇をそっと引き結び、ようや
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第780話

理斗の眉間が、さらに深く刻まれた。「わかった、先に処置してやってくれ」電話を切り、顔を上げると、明らかに強ばった笑美の顔と目が合った。理斗はわずかに唇を引き結び、数秒だけ笑美を見てから言った。「悪い、急用ができた。席は取ってあるから。友達でも呼んで、先に食べててくれ」笑美が、反論や思考をまとめる間もなかった。理斗は素早くシートベルトを引き、アクセルを踏み込んで、もうそこにはいなかった。排気音だけが空しく響いた。笑美はしばらく、彼が消えた方向をただ呆然と立ち尽くしていた。やがてゆっくりと瞬きをして、自分を無理やり納得させるように肩をすくめた。「……はぁ。まあいっか」ぼんやりと振り返り、周りを見まわした。お腹はきゅるきゅると鳴っていた。せっかく来たんだから、落ち込んでいても仕方ない。息をひとつ吐いて、一人で中に入り、予約された立派な席を見つけて注文した。どれも見た目は綺麗だったが、一口食べても、何の味も感じなかった。笑美は張り詰めていた気が緩み、どっと疲れが押し寄せてくるのを感じた。高級なフォアグラを口に含んだまま、頬をぷくっとさせて、表情だけが暗く沈んでいた。紬と承一に会いたかった。でも今日は、あまりにもみじめすぎた。気まずくて、なんともいえない、行き場のない惨めさで胸がいっぱいだった。でもよく考えれば、向こうは本当の家族なのだ。自分は心が狭いだけかもしれない。笑美は最終的に鼻をすすり、口の中のものをもそもそと虚しく噛み続けた。大丈夫。どっちみちいずれ、自分も理斗の家族になるんだから。たいしたことないさ。……慎は、紬を連れてまっすぐ自分たちの新居に戻った。どこにも寄り道しなかった。紬はやはり、慎の体のことが気がかりだった。玄関を入ったところで眉を寄せて言った。「少し休んでからじゃ駄目だったの?」まだ本調子でないのに、あちこち動き回って。慎は上着を脱いだ。ワイシャツの下に、痛々しい包帯の跡が透けて見えた。「思ってるより体はもつ。心配しなくていい」紬は言葉に詰まった。心配しているわけじゃなくて、ただもう少し自分自身の体を大事にしてほしいと思っているだけなのに。山谷は今不在だった。広い家には、二人しかいない。慎が水を飲みに行くのを、紬は
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