**** 久しぶりに友人と会えて嬉しいのに、どうしても無視できない感覚が和彦の胸には広がっていた。「――それで、ダンナがクリニックに怒鳴り込んできて、大騒ぎになったんだ」「それを澤村先生は、ニヤニヤしながら眺めてたんだな」「そりゃもう、楽しかったからな。いつも威張り散らしてる奴が、受付の子の後ろに隠れて、真っ青になって震えてるんだぜ」「……相変わらず、イイ男に対しては鬼だな」 同僚の医者が、不倫相手の夫からいかに無様に吊るし上げを食らったかを、澤村は実に嬉しそうに話す。 目立ちたがり屋同士、何かと張り合っていたなと、かつて自分がクリニックに勤めていた頃の出来事を思い出し、和彦はふっと笑みをこぼす。それと同時に、また、ある感覚に襲われた。「どうした、佐伯、急にぼんやりして」 澤村に声をかけられ、我に返る。なんでもないと首を横に振り、フォークを手にした。 澤村とは、ときどき電話で話してはいたものの、こうして会うのは久しぶりだ。厄介事のほとぼりが冷めるまで会わないつもりだったが、皮肉なことに、その厄介事は和彦の体の一部になってしまった。 本当は、会わないほうがいいと思いながら、友人との気安い空気と会話を楽しみたいという気持ちを抑えきれなかった。何より、自分が失った生活を懐かしんでみたかった。だが――。 和彦はさりげなく、視線を周囲に向ける。昼時ということで、イタリアンレストランのテーブルは満席だ。座っているのは、見るからに普通の日常を過ごしている人たちだった。 澤村と一緒だと、和彦も違和感なくこの場に溶け込んでしまえ、人目を意識しなくていい。数か月前までの和彦にとって、それは当たり前のことだった。なのに今は、馴染んでしまえる自分に、落ち着かない。 さきほどから襲われる感覚の正体はこれだ。和彦の足元には、目には見えない境界線が引かれてしまったのだ。境界線の向こうには澤村が立ち、そこには和彦がなくした穏やかな日常がある。「佐伯、聞いていいか?」 ここまで機嫌よさそうに話していた澤村が突然、声に気遣いを滲
Last Updated : 2025-11-16 Read more