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242 Bab

第6話(11)

**** 改装工事前のホールは、ドアに囲まれているという特殊な造りのせいか、多少の窮屈さを感じさせていた。 そこで、壁の一部を取り壊し、残ったドアをすべてシャレたものに替えた。今は透明なシートで覆われているが、塗り替えた白い壁と天井に囲まれてずいぶん明るくなり、開放感を演出している。 すでに電気工事は終えているので、いい照明を見つけて取り付けてもらえば、さらに雰囲気はよくなるだろう。まだ工事途中のため合板で覆われている床も、タイルを敷き詰めることになっていた。 クリニックらしい内装に関しては、和彦はほとんど意見を出していない。誰の中にもクリニックとはこんなイメージ、というものが出来上がっており、それを再現してもらえばいいのだ。 だが、インテリアとなると、これが難しい。人任せにしてしまえば楽なのだが、一応、ここは和彦のクリニックなのだ。医療機器や備品以外のものに関しても、自分で選ぶべきだろう。 ただし、やはりアドバイザーは必要だ。「――もうかなり進んでますね、リフォームは」 そう声をかけられると同時に、柔らかな香りが和彦の鼻先を掠めた。振り返ると、秦が感じのいい笑みを浮かべて立っていた。 やはり自分の外見をよく把握している男だなと、秦と向き合って改めて和彦はそう感じる。 軽やかな印象のグレーのストライプのジャケットを羽織り、その下は生成りのシャツにノーネクタイで、ボタンを二つほど外してラフな感じにしている。脆弱という言葉とは無縁そうな体を細身のスーツで包んでいるためか、恵まれた体躯が際立って見える。「わざわざ来ていただいて、ありがとうございます」 頭を下げて礼を言った和彦だが、すぐに視線を廊下のほうに向ける。どうやらここに来たのは、秦だけのようだ。 和彦が何を考えたのかわかったらしく、秦はわざわざ携帯電話を取り出し、メールを見せてくれた。「中嶋なら、急に総和会の仕事が入ったといって、約束はキャンセルになりました。あとで本人から連絡がくると思いますけど、先生に謝っておいてほしいと言付かりましたよ」 メールは、中嶋から秦に宛てたもので、親
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第6話(12)

「気にしなくてよかったのに……。中嶋くんには、忙しいなら無理しなくていいと言っておいたんです。ぼくと違って、彼は仕事の拘束時間が長いですから」「まあ、今日の用件は、正直奴がいなくても問題なしでしょう。わたしがしっかり務めを果たしますから」 そう言って秦が艶やかな笑みを向けてくる。中嶋には悪いが、確かにその通りだ。 今日、こうして秦に来てもらったのは、クリニックのインテリアについてアドバイスをもらうためだった。スポーツジムでいつものように中嶋と世間話をしていて、クリニックのインテリアで悩んでいることをポロリと洩らすと、秦に相談してみてはどうかと薦められたのだ。 秦がホストクラブなどの店を経営しているのは知っているが、インテリアも自分で決めているのだと聞かされ、なるほど、と和彦は思った。 中嶋は妙に張り切って、秦を含めて三人で飲む場をセッティングしてくれ、そこで本人から詳しい話を聞くことができた。秦は店の写真を見せてくれたが、和彦が想像していたような派手できらびやかな店ではなく、落ち着いた内装とインテリアで統一されていた。 家具を扱うショップにも精通しているということで、これで和彦の気持ちは決まり、秦にクリニックのインテリアを相談することにしたのだ。 口に出しては言えないが、和彦と長嶺組の繋がりを理解してくれているというのも、ありがたい。中嶋の口からある程度の事情が伝わっているにしても、秦は、長嶺組組長のオンナである和彦に対して、あくまで自然に接してくれる。「――先生の護衛は、今日はいないんですか?」 馴染みのショップからもらってきたというカタログを開いていた秦に、ふいに問いかけられる。目を丸くする和彦に、秦はちらりと笑いかけてきた。「先日飲んだときは、店の外で待っていましたよね」「ああ……。さすがにここだと、いかにも物騒な人間が出入りすると目立つので、駐車場で待ってもらっています。開業前から、変な噂が立っても困りますから。……組と繋がっているのが事実だとしても」 この辺りの事情は、テナントを契約したときから変わっていないが、実はここ何日か
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第6話(13)

 どうやら賢吾のほうでは、すでに男の正体を掴んだようだが、一体誰なのか、和彦は教えてもらっていない。ただ、護衛が二人に増やされた。そのことが物語るのは、男は油断できない相手だということだ。 どこに行くにも、組員二人に護衛されるという状況に、たった一日で和彦は辟易してしまったが、嫌とも言えない。 ここでこうして、長嶺組と関わりのない秦と会話が交わせるだけでも、今の和彦にとってはありがたい気分転換だった。「護衛の人も一緒に、このあと、昼メシに行きませんか?」 せっかくの秦の申し出に、苦笑して和彦は首を横に振る。「ぼくはともかく、秦さんに気をつかわせると心苦しいので、今日は遠慮しておきます。それでなくても、忙しい中、こうしてわざわざ来ていただいているんですから」「『先生』こそ、わたし相手に気をつかわないでください。中嶋は、おもしろい人を紹介してくれたと思って、ワクワクしているんでよ」 秦は、中嶋に倣ったのか、和彦を『先生』と呼ぶ。前のクリニックに勤めている頃は、仕事を離れて和彦をそんなふうに呼ぶのは千尋ぐらいだったが、今では誰もかれもがこの呼び方で、すっかり定着してしまった。「それで、ここにどういったテーブルやイスを置きたいか、イメージはできていますか?」 秦の質問で、やっと今日の本題を思い出した和彦は、漠然としたイメージを話す。できることなら、いかにも病院の待合室らしいインテリアにしたくはなかった。「高級な感じにしたいというのはないんです。一応表向きは個人クリニックで、肝心の医者も、ぼくみたいな若造ですから、高そうな家具を揃えても、無理してる感じがするでしょうし。でも――」「あまりカジュアルな感じにはしたくない、ですか?」「秦さんのお店の写真を見て、いいなと思ったんです。上品なのに、堅苦しくはなくて、女性が寛げそうな感じで。ああ、もちろん、このクリニックは、男性の患者さんも歓迎しますよ」 秦は声を洩らして笑ってから、カタログをパラパラとめくる。「だったら、わたしのお勧めのソファセットがあるんですよ。いつか、自分の店にも置いてみたいと思って目をつけていたんです。クリニックなら、観葉植物を置くのもいいと
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第6話(14)

「クリニックを開業すると決まってから、難しい書類に向き合ったり、経営のことで慣れない数字の説明を受けることが多かったんですけど、改装のことであれこれ決まっていくのは楽しかったんですよ。それに、自分のセンスに自信がないなりに、インテリアについてあれこれ考えるのも」「順応性が高いんでしょうね、先生は」 かつての職業ゆえか、それとも生来のものなのか、秦の物言いには柔らかな配慮が行き届いている。おかげで和彦は、ときおり秦の言葉を聞いて気恥ずかしくなってくる。「……そう、いいものじゃないですよ。受け入れざるをえない立場にあるというだけで」「それでも、しなやかに受け止めている」 物言い同様、柔らかな眼差しを秦から向けられた。長嶺組とその周辺の人間たちに囲まれて生活しているせいで忘れそうになるが、世の中には、こんな男も存在しているのだ。 和彦が照れているとわかったのか、クスッと笑った秦が、合板に覆われた床を指さした。「先生、床はどうされるんですか?」「えっ、ああ……、天然石のタイルを敷くことになっています」 詳しく説明するつもりで、秦の側に歩み寄ろうとした和彦だったが、合板が重なって盛り上がった部分に足を取られてよろめく。 あっ、と声を洩らしたときには、秦の肩にぶつかり、そのまま両腕でしっかりと受け止められていた。「大丈夫ですか?」「すみませんっ、足元をしっかり見ていなくてっ……」「一緒にいて、先生に怪我させたなんて知られたら、わたしは中嶋に恨まれますからね。気をつけてください」「大げさですよ」 苦笑を洩らしながら体を離した和彦を、秦は不思議そうな顔をして眺めてくる。「どうかしましたか?」「……いえ。先生の中の境界線は、どの瞬間に引かれるものなのか、気になって」 意味がわからず首を傾げる和彦に対して、まるで謎かけのように秦は意味ありげな笑みを向けてくる。 和彦が口を開きかけたとき、ジャケットのポケットの中で携帯電話が鳴った。秦に断ってから携
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第6話(15)

「デート……」 つい声に出して呟いた和彦は、秦の存在を思い出してうろたえる。「お前、何言って――」『ここんところ、先生忙しくて、俺の相手してくれないじゃん。家でそれをぼやいたら、オヤジに、自己主張しておかないと先生に存在を忘れられるぞ、って、ニヤニヤ笑いながら言われたんだよ』 余計なことを、と心の中で舌打ちする。おそらく賢吾のことなので、決して息子を励ますために言ったのではないだろう。そもそもまともな親なら、自分のオンナを息子と共有すること自体、ありえないのだ。 和彦と三田村が関係を持っていることを、千尋は知っている。和彦自身が告げたわけではないが、長嶺組での千尋の存在を思えば、知らないということはありえない。なのに千尋は、そのことで癇癪を爆発させることもなく、相変わらず犬っころのように和彦にじゃれついてくる。だからこそ、和彦としては身構えてしまうのだ。 賢吾が常に湛えている迫力は確かに怖いが、千尋の、いつ、なんの拍子に豹変するかわからない危うさも、十分怖い。「お前のことを忘れてはないが、こっちは今、クリニックを開業するビルにいるんだ。会うなら、せめて夕方からにしてくれ」『――嫌』「そこは素直に、はい、と言え」『だって俺、もうビルの下に来てるもん。少しでも早く先生に会いたくて。あと、驚かせたくて』 素っ頓狂な声を上げた和彦を、秦がおもしろそうに見つめている。さきほどから、みっともない姿を見られてばかりだと、和彦は苦笑を浮かべていた。だが、その笑みもすぐに凍りつくことになる。『想像していたら、なんかたまんなくなったんだよね。先生が、あの無表情が顔に張り付いてるような三田村に抱かれているなんて。……オヤジが先生を抱くのとは、全然違うんだ。胸の奥がドロドロしてくるって言うか。暴れたいぐらい嫉妬するけど、でも、興奮もする。先生が相手してくれる間は平気だけど、少しでも放っておかれると、俺の中の針って、すぐに振りきれるみたいなんだよね』 熱烈な告白は、千尋が口にすることで脅迫にもなる。それを千尋自身、わかっているのだろう。 ときおり忘れそうになるが、和
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第6話(16)

『ということで、今、エレベーター待ってるとこ。もうすぐ着くから』「待てっ。ぼくが下りるから、お前は下で待ってろっ」『なんで? 先生一人でしょ。今日は工事がないから、様子を見に来たんじゃないの? だったら、俺一人が出入りしたって、目立たないって。一応見た目は、学生だし、俺』 千尋は、秦の存在を把握していない。和彦が今日ここで秦と会うことは、中嶋しか知らないし、下の駐車場で待機している組員にも、何も告げていない。秦に、ピリピリしているこちらの事情を知られたくないし、巻き込みたくなかったのだ。 そのため表向きは、和彦は今この場に、一人でいることになっている。 千尋がやってきて秦の存在を知ったときに、何か面倒が起こるのではないかと考え、急に和彦は嫌な予感がする。多分今、千尋は気が立っている。その状態で、艶っぽい存在感を放つ秦と出くわすとどうなるか、想像したくなかった。 電話を切った和彦は、すかさず秦の腕を取る。「秦さん、一緒に来てくださいっ」「えっ……」「ちょっと面倒なことになりそうなんです。今、ある人間がここに上がってきていて、秦さんに会ったら何をしでかすか、わからないんです」「――デート、と言ってましたね」 どこかおもしろがるような口調で秦に言われ、和彦は顔をしかめる。電話のやり取りを聞いていれば、和彦が話していた相手が、単なる知人程度ではないと察したはずだ。 秦を伴った和彦は、廊下の突き当りにある非常階段へと向かいながら、早口に説明した。「電話の相手は……長嶺組の後継者なので、揉め事になったら、秦さんに不愉快な思いをさせるかもしれません」「あの、長嶺組長の息子さんでしたか……」 秦の微妙な言い回しに、苦笑を洩らす余裕もなかった。和彦は本気で忠告する。「だから、性格のぶっ飛び具合は、想像つきますよね。可愛い外見とは裏腹に、かなり激しい気性の持ち主なんです」「組長だけでなく、その息子さんまで、先生にご執心なんですね」 あまりに自然な口調で言われたため、数秒の間を置いてから
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第6話(17)

 唇を動かすだけで声が出ない和彦を見て、秦は薄い笑みを浮かべた。艶っぽいというより、冴えた表情なのだが、秦の美貌にはよく似合っている。まるで、別人に見えるぐらいだ。 ハッと我に返った和彦は、急いで非常階段に通じるドアに手をかけようとしたが、それより先に、秦が別のドアを開けてしまった。「そこはっ――」「ここは、この広さだと、仮眠室、といったところですか?」「……倉庫代わりに使おうかと思っています。それより秦さん、早くこの階段から一階に下りてください」 このとき、和彦を呼ぶ千尋の声が聞こえた。もうこのフロアに上がってきたのだとわかり、悪いことをしているわけでもないのに、本気で和彦は焦る。しかし秦のほうは、そんな和彦の反応を楽しむように、こんなことを言った。「わたしのことは気にしなくてかまいませんよ。お二人が話している間、この部屋でおとなしく待っています。せっかく先生が、わたしなんかのアドバイスを求めてくださったんですから、しっかり仕事はさせてもらいますよ」 予想外の秦の言葉に、和彦は何も言えない。ちらりと笑った秦は、するりと奥の部屋へと身を滑り込ませ、あっという間に中からドアを閉めてしまった。「あっ、先生いたっ」 ギリギリのタイミングで秦の存在に気づかなかったらしく、廊下を走ってくる千尋の足音が近づいてくる。 和彦は、心臓を締め付けられるような緊張感を覚えながら、奥の部屋のドアに手を押し当てた姿勢で硬直していた。 暑さも感じなくなっていたが、冷や汗が一気に噴き出してくる。「先生、こんなところで何してんの?」 千尋の手が肩にかかり、仕方なく振り返る。同時に、さりげなくハンカチを取り出し、額に押し当てた。 犬っころのような千尋の眼差しから、微妙に目を逸らした和彦は、大きくゆっくりと息を吐き出す。「……暑いから、少し外の空気を吸おうと思ったんだ」 非常階段に通じるドアを指さすと、納得したように千尋は頷く。だが次の瞬間、ふいに和彦の首筋に顔を寄せてきて、犬のように鼻を鳴らした。「先生、コロン変えた?」 こ
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第6話(18)

「この間買ったコロンをつけてみたんだ」「ふうん。……でも先生には、もう少し甘い香りをつけてほしいな」 強い光を放つ目が、じっと和彦を見据えてくる。その目の中に激情ともいえるものが渦巻いているのを感じ取り、とにかくこの場を離れるのが先だと思った。 こんな目をしている千尋には、自制というものが働かないということを、一度千尋に軟禁されたことがある和彦は身をもって知っているのだ。「千尋、ここは暑いから、場所を変えよう」「でも先生、用があるからここに来たんだよね? 一人で何してたの?」 そう問いかけてきながら千尋が両手をドアに突き、その中に捕えられた格好となった和彦は動けない。「……早いうちに、待合室のインテリアを決めておこうと思ったんだ。いい家具を置いてある店も調べておきたいしな」「家具買いに行くなら、俺も連れてってよ」 目を輝かせる千尋の顔をまじまじと見つめてから、和彦はそっと息を吐き出す。「考えておく。それより、早く退け。ぼくはもう少し残るから、お前は先に帰れ。……この暑い中、わざわざここに寄らなくてもよかっただろ。会おうと思えば、いつでも会えるのに」「だって先生、三田村の相手で忙しいかと思ったんだ」 拗ねたような口調でそんなことを言った千尋を、軽く睨みつける。悪びれた様子もなく、千尋はニッと笑いかけてきた。「――先生をどうこうできる優先権は、オヤジが一番、二番は俺だよ。忘れてないよね?」 大蛇を背負った男の息子らしいと、和彦は嫌というほど実感させられる。普段は犬っころのように無邪気にじゃれついてきながら、いざとなると、こんなふうに牙をちらりと覗かせる。その牙を突き立てるマネすら必要ない。和彦は、長嶺父子のオンナなのだ。逆らえるはずもなかった。 こんな会話を、ドア一枚隔てて秦が聞いているのかと思うと、暗澹たる気持ちになる。しかしいまさら、秦の存在を千尋に紹介できるはずもない。 和彦が顔を強張らせているとわかったのか、強気な態度を一変させた千尋は、おずおずと和彦の肩に額をすり寄せてきた。
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第6話(19)

 千尋なりに、独占欲をぶつけたいという衝動を、今日までなんとか堪えていたらしい。子供のように不器用に言葉を紡ぐ千尋を見ていると、和彦はどうしても、突き放すことができない。 犬っころのように素直で可愛い反面、とてつもなく扱いにくくて、危険なこの青年を、和彦なりに大事に思っているのだから仕方ない。「十歳も年上の男に、お前は特別だ、と言われて嬉しいか、お前?」「嬉しいよっ」 即答され、和彦は苦笑を洩らす。気が高ぶっている千尋を落ち着かせるため、背をポンポンと軽く叩いてやったが、逆効果だったらしい。切羽詰った表情で顔を上げた千尋に、いきなり唇を塞がれた。「んんっ……」 ドアに押しつけられ、千尋が体全体で威圧してくる。千尋の目的がわかり、和彦は必死に押し退けようとするが、必死さが伝わってくる抱擁に、手荒なことができない。 和彦は確かに千尋に甘いが、それはやはり、千尋に求められるのが好きだからだ。 ヤクザの世界に沈められてからの和彦は明らかに、男たちからぶつけられる激情に貪欲になりつつあった。どれだけ呑み込んでも、さらに欲してしまう――。 千尋に煽られるように、和彦もキスに応じていた。舌先を触れ合わせながら、千尋の頬を撫で、髪を梳いてやると、熱い吐息を洩らして千尋にきつく抱き締められる。「……先生が誰のものになってもいいけど、こうして甘やかすのは、俺に対してだけだって、約束して」 唐突な千尋の言葉に、軽く目を見開いた和彦だったが、すぐに柔らかな苦笑を浮かべて頭を撫でてやる。「甘ったれ」「いいよ。先生が頭を撫でてくれるなら、俺はずっと、甘ったれでいる」 熱烈な口説き文句だなと思いながら、つい視線をさまよわせる。十歳も年下の青年から囁かれる甘い言葉に、何も考えずに酔ってしまいたいところだが、もう一人、千尋の告白を聞いている人間がいるのだ。 再びドアを開けたとき、秦は嫌悪感も露わな表情を見せるだろうかと想像しながら、和彦は千尋からのキスを受け入れる。しかし、すぐに声を上げることになる。「バカっ……、千尋、こ
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第6話(20)

「だからといって、お前がマネする必要ないだろ」「約束して。先生が甘やかすのは、俺だけだって」 真摯な表情と、食い入るような眼差しを向けられて、冷たくあしらうことなどできなかった。小さく息を吐き出した和彦は、大きな図体の犬っころの頭を撫で回す。「ぼくはいままで、お前みたいな甘ったれと出会ったことはないぞ。こっちも手加減を忘れて甘やかしているから、お前一人で手一杯だ。他の奴に甘えられても、面倒見きれない」「……照れ屋だなー、先生。お前だけだ、の一言で済むのに」「調子に乗るな」 千尋の頬を軽く抓り上げたが、当の千尋が楽しそうに笑っているので、バカらしくなってくる。和彦は、千尋の頭を抱き締めた。「今日は、おとなしく帰れ。明日なら、部屋に転がり込んできてもいいから」「うん。……いっぱいセックスしていい?」 調子に乗るなと、千尋の足を思いきり踏んでやった。笑いながら体を離した千尋から濃厚なキスを与えられてから、なんとか帰らせることに成功する。 エレベーターまで見送りに行ってから引き返した和彦は、ドキリとする。秦の姿がホールにあったからだ。 咄嗟にどんな顔をすればいいのかわからず、和彦は所在なく髪に指を差し込んだまま口ごもる。考えあぐねた挙げ句に出た言葉は、これだった。「――……すみません……」 秦は短く噴き出し、知り合ってから変わらない柔らかな笑みを浮かべた。「どうして謝るんですか」「いえ……、不愉快なものをお見せしたというか、お聞かせしたというか……。ぼくが、長嶺組でどんな存在なのか、もうご存じだとは思いますが、やはり話を聞くのと、実態に触れるのとでは、嫌悪感は違うんじゃないかと――」「声しか聞こえませんでしたが、刺激的でドキドキしましたよ。会話が甘くて、さすがのわたしも、照れてしまいそうでしたが」 冗談めかしてこう言ってくれるのは、秦ながらの気遣いなのだろう。「ここの内装はわかったし、先生が
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