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第16話(14)

「今、あんたのことなんて言ってないだろ。――心配しなくても、一癖も二癖もあるヤクザに見える」 ぼそぼそと応じると、衿を整えながら賢吾が満足げに頷く。片手を差し出してきたので、今度は帯を渡す。「遊撃隊は、必要に応じてどんな仕事でもやる。最近は、縄張りの管理や、情報収集を担当しているようだが、裏で……な。俺のオヤジのお気に入りだから、総和会の幹部連中も把握してないことを、いろいろと任されているみたいだ」「……なんだか、危ないところみたいだな。中嶋くんだけを見ていると、そういうイメージを抱かなかったんだが」「手っ取り早く総和会で出世したかったら、ルートは限られる。中嶋はよく調べてるようだな。総和会会長のお気に入りの男に近づき、ちゃっかり第二遊撃隊に潜り込んだ。ただし、野獣みたいな連中揃いの中で、ホスト上がりの中嶋の経歴は、澄ました二枚目ぶりもあって、少し浮いている」 それは和彦も感じた。元日に出くわした一団の中で、中嶋の存在は目を引いたのだ。「中嶋が心配か?」 帯を結びながら賢吾に問われ、思わず苦い表情を浮かべた和彦は、首を横に振る。「そういうんじゃない。彼は一人で行動しているイメージが強かったから、ああいうふうに、いかにもヤクザらしい集団の中にいるのを見て、少し驚いた。中嶋くんが、頭の切れるヤクザだと、理解しているつもりだったんだけど――」「現状、先生の周りにいるのは、ヤクザか、ヤクザみたいな男ばかりだ。善良な人間はいない。もし仮にいたとしても、そういう奴は、今の先生には指一本触れられない。怖い連中が先生を守っているからな。つまり、先生に近づくのは、ふてぶてしくて食えない男ばかりだということだ。見た目に関係なくな」 賢吾としては、中嶋に対して生ぬるい感情を抱く必要はないと言いたいのだろう。 笑みをこぼした和彦は、ああ、と短く答えた。その返事に賢吾は満足したようで、手慰みのように和彦の頭を撫でてくる。 なんだかくすぐったくて、同時に、照れくさい。和彦は大きな手を押し戻そうとしたが、反対に手を握られた。「――ちょっと着物を着てみないか」 意外な賢吾
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第16話(15)

「先生が」「……着方がわからない」「とりあえず羽織ってみたらいい」 和彦は困惑しつつ、賢吾の着物姿を眺める。大柄な賢吾のために仕立てた着物を自分が着た姿を想像してしまった。すると、和彦の心配を察したのか、短く笑った賢吾が衣装ケースに歩み寄った。「先生にちょうどよさそうな着物がある。この家じゃ、もう誰も袖を通さないものだ」 そう言って賢吾が取り出したのは、明らかに女性ものの着物だった。長襦袢の鮮やかな桜色を目にして、和彦は頬が熱くなってくる。「それ、女物じゃないかっ……」「ただの女物じゃないぞ。別れた千尋の母親が置いていったものだ。俺が買ってやったものは、なんでも気に食わなかったらしい。情を交わす〈女〉ができたらやろうと思っていたんだが、その前に、大事で可愛い〈オンナ〉ができたからな」 怒るべきなのかもしれないが、正直なところ、反応のしようがない。賢吾の口調があまりに淡々としているからだ。別れた妻の着物を残しているからといって、そこに未練という感情が一切感じられない。「……男のぼくが着たって、かなり滑稽だと思うんだが……」「戯れ事なんだから、滑稽なほうがいいだろ」 嫌だと言ったところで、賢吾は着せる気満々に見える。仕方なく、渋々着物一式を受け取った和彦は、ぞんざいな口調で言った。「服の上から羽織るだけでいいだろ」「浴衣とは違って、肌にまとわりつく絹の感触はなかなかのもんだぞ。一度ぐらい体験しておいたらどうだ」 和彦は賢吾を睨みつけると、壁を指さす。言いたいことがわかったのか、意外に素直に賢吾は壁のほうを向き、こちらに背を向けた。「先生の裸なんて、瞼の裏に焼きつくぐらい見ているんだがな」「だったら今ぐらい、見なくてもいいだろ」「……最近先生は、ますます口が達者になってきた……」 賢吾のぼやきは聞こえないふりをして、戯れ事につき合うことにする。羽織るだけなら、賢吾しか見物人もいないこともあ
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第16話(16)

 足元の腰紐を取り上げようとすると、先に取り上げた賢吾に背後から抱き締められた。「俺が結んでやる」 そう言った賢吾に促され、姿見の前に立たされそうになったが、和彦は軽く身じろいで拒む。「恥ずかしい格好を自分で見たくない」「恥ずかしい、か……」 何か含んだような賢吾の物言いが気になり、振り返る。思った通り、楽しそうに笑っていた。「……いまさら何を恥ずかしがる、と思っている顔だな、それは」「さあ、どうかな」 耳元で微かな笑い声を洩らした賢吾が、衿を緩めに合わせて、腰紐を締めてくれる。「春には、先生も自分で着物の着付けができるようになってもらおうか」「ぼくが着る必要はないだろ」「着物姿の先生を外に連れ回すと、俺の気分がよくなる」 長襦袢の上から腰を撫でられて、和彦はビクリと体を震わせる。そのまま身を固くしていると、賢吾は着物を肩にかけてくれた。「きちんと帯を締めてやろうか?」「いい……。なんだか、落ち着かない。襦袢の感触は気持ちいいけど、自分の肌に馴染まないような気がして――」「すぐに慣れる」 前を向いたまま和彦が唇を引き結ぶと、うなじに唇が押し当てられた。「近いうちに、先生の着物を仕立てさせよう。落ち着いた色がいいな。先生自身が艶やかだから、これ以上誘われる人間が出たら困る」 今、姿見に自分の姿を映したら、きっと赤面しているだろう。和彦は、臆面のない賢吾の台詞に激しく羞恥するのだが、言った当人は楽しそうに、羽織った着物の上から腿や尻を撫でてくる。 さすがに、両足の間をまさぐられるようになると、和彦は身を捩って軽く抵抗してみせる。「着物が汚れたらどうするんだっ」「どうせ、処分する時期を待ってたようなものだ。かまわんぞ」「よくないっ。……千尋の母親のものだろ」「さすが先生、感傷的だな。あいにくヤクザは、一欠片も持ち合わせちゃいない感情だが。千尋なんて、こんなものがあることすら、とっくに忘
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第16話(17)

「こんな格好だから、いいんだろ。女物の襦袢を身につけようが、どう見たって先生は立派な男だ。そこが、たまんねーんだ。色っぽい襦袢の下に、こんなものがあるのが、またいい――」 扱かれていたものを、不意打ちのように根元できつく締め付けられる。和彦が必死に柱にすがりつくと、荒々しく長襦袢の裾をたくし上げられ、尻が剥き出しとなる。「……人の性癖のことを言えるかっ。ぼくが知る限り、あんたが一番、難がある」「ほお。だったら先生は、いままで何人の男を知ってるんだ?」 自分が墓穴を掘ったことを知った和彦は、体を強張らせる。それをいいことに、賢吾が露骨な手つきで尻を揉んでくる。こうなると、もう賢吾の手から逃れることは不可能だ。仕方なく和彦はこう訴えた。「立ったままは嫌だ……」「これから俺は、客と会わなきゃならん。手っ取り早く、ことを済ませたい」「だったら何も、今じゃなくていいだろっ」「わかれよ、先生。俺は今、欲しいんだ」 忌々しいほど魅力的なバリトンが囁くのは、とんでもなく不埒な言葉だ。そうされることに、和彦は弱い。耳朶をたっぷり舐られて、小さく喘いでいた。 引き下ろされた下着をとうとう脱がされて、腰を突き出した姿勢を取らされる。唾液で濡れた指が秘裂をまさぐってきたかと思うと、内奥の入り口を揉み解すように押さえられ、刺激される。「うっ、うぅ――」「力抜いてろよ」 残酷なほど優しい声でそう言って、賢吾の指がぐっと内奥に押し込まれてくる。突き出した尻を震わせて、和彦は浅い呼吸を繰り返す。 指が出し入れされ、襞と粘膜に唾液がすり込まれていた。「いい眺めだな、先生。桜色の襦袢を捲り上げて、赤く染まり始めた先生の尻を犯すってのは……」 付け根まで挿入された指が、内奥で妖しく蠢く。和彦は呻き声を洩らしながら、引き絞るように賢吾の指を締め付ける。逃げるように指が引き抜かれたが、すぐに、今度は本数を増やして再び挿入された。「あうっ、うっ、うあっ」 内奥をねっとりと撫で回されたあと、賢吾に腰を抱き寄せら
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第16話(18)

 すでに熱くなって身を起こしかけたものを、賢吾に愛撫してもらう。濡れた先端を指の腹で擦られ、ビクビクと腰が震える。「いつもより、涎の量が多いな」 からかうように賢吾に指摘され、和彦はムキになって下肢から手を払いのけようとしたが、低く笑い声を洩らした賢吾に反対に手を掴まれてしまった。促されるまま、和彦は自分の欲望に触れ、ぎこちなく慰める。 再び腰を突き出す姿勢を取らされ、背後から賢吾に貫かれた。 立った姿勢のまま繋がるのは、苦手だった。いつも以上の苦痛に襲われるからだ。その苦痛を紛らわせるために和彦は、自分のものを愛撫するしかない。賢吾は最初から、和彦の苦痛を和らげる気はないのだ。「くっ……、ううっ、うっ、くうっ……ん」「たまには乱暴なのもいいだろ?」 熱い囁きのすぐあとに、腰を突き上げられる。堪えきれず甲高い声を上げた和彦だったが、その声はあっという間に、甘い呻きとなる。 賢吾が腰を使い始め、背後から押し寄せる衝撃に耐えるため、もう和彦は自らの欲望に触れるどころではなくなる。柱にしがみついていないと、足元から崩れ込んでしまいそうなのだ。「はあっ、あっ、あっ、あっ」 容赦ない律動の合間に、反り返って震えるものを賢吾に握り締められる。強く扱かれて上擦った声を洩らすと、突然、賢吾に言われた。「――先生、俺のわがままを聞いてくれないか」「嫌、だ……」 背後で賢吾が微かに笑い声を洩らす。「なんだ、どんなわがままか聞きもしないうちに即答か」「あんたが、そんな言い方をするときは、絶対、ロクなことを言わないっ……。千尋も、同じような言い方をするんだ。父子揃って、よく似てる」「そりゃ、興味深い。先生だからこそ、知っていることだな」「……だから、わがままは、聞かない」 腰を掴まれ、ぐうっと内奥深くを突かれる。和彦は、自分の内奥が歓喜し、健気に賢吾のものを締め付けるのを感じた。「大したことじゃない。先生はもう、一回経験済
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第16話(19)

 内奥深くで賢吾のものがゆっくりと動き、身震いしたくなるような肉の悦びを感じる。この状態で賢吾の囁きは、あまりに危険だった。どれだけ屈辱に満ちた命令だろうが、従いたくなる。「どうしても、ダメか?」 抉るように内奥を突き上げられ、和彦の唇から喘ぎがこぼれ出る。なんとか浅く頷いた和彦に、賢吾があるものを見せてきた。快感に霞む目を凝らしてよく見てみると、細長いヘアピンだった。凝った飾りがついてはいるものの、珍しいものではない。「着物の間に紛れ込んでいた。普通は髪を留めるために使うものだが、性質の悪いヤクザは、こういう形をしたものを見て、あることに使えると考えるんだ」「……な、んだ……」 しっかりと腰を抱え込まれた和彦は、ヘアピンを持つ賢吾の片手が、両足の間に差し込まれたことを感じ、『性質の悪いヤクザ』が何をしようとしているのか理解した。 恐怖が体を駆け抜けるが、悔しいことに、それだけではないのだ。濡れた先端を、くすぐるようにヘアピンが掠める。和彦の呼吸が弾む。「これぐらい細ければ、案外すんなりと入るぞ。最初は痛いらしいが、独特の快感があるらしい。――ここを開発してくれた男は、さすがにいなかっただろ。味わってみるか?」 賢吾の口調は冗談めいてはいるが、だからこそ、実行しても不思議ではなかった。 全身を震わせるようにして喘ぐ和彦に、賢吾が念押しするように問いかけてくる。「突っ込まれたいか?」 和彦が懸命に首を横に振ると、賢吾は目の前で、ヘアピンを放り投げてくれた。次の瞬間、両手でしっかりと腰を掴まれ、背後から激しく突き上げられる。「うあっ、あっ、賢吾さんっ……、あっ、い、や――、あううっ」「さあ、先生のわがままは聞いてやったんだ。俺のわがままを聞いてくれ」 ヤクザの手口だった。望んでもいないことを押し付けてきて、こちらがうろたえながら拒否すると、引いてはくれるのだが、次に恩着せがましく要求を突きつけてくる。この手口に搦め捕られたら、多分逃げられない。 賢吾の逞しいものが内奥を強く擦り上げる。自分の快感だけを追い
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第16話(20)

「ひっ……、あっ、あぁ……」 精のすべてを注ぎ込むように賢吾にゆっくりと突き上げられ、両足を震わせながら和彦はその動きを受け止める。しかし賢吾は、和彦をさらに追い上げてきて、反り返って震えるものを長襦袢の布で包み込み、軽く扱いてくる。滑らかな絹の感触は、鳥肌が立ちそうなほど強烈だった。 気がついたときには和彦も絶頂に達し、長襦袢を精で汚してしまう。和彦は掠れた声で必死に訴えた。「……も、う、立って、られないんだ」「ああ。よくがんばったな、先生」 内奥から賢吾のものが引き抜かれた途端、その場にへたり込む。このときになって和彦は、自分がくしゃくしゃになった着物の上に座っていることに気づいた。とてつもない罪悪感に襲われ、慌てて着物の上から退こうとしたが、すかさず賢吾に抱き締められ、両足の間をまさぐられる。「さあ、先生、〈漏らして〉見せてくれ――」 屈辱と羞恥、否定できない被虐的な悦びを生む一言を耳元に囁かれ、和彦は抗えなかった。嗚咽をこぼしながら賢吾の腕にすがりつき、望まれるまま痴態を晒す。 大蛇の化身のような男を喜ばせるために。** ダイニングでお茶を飲みながらも、不機嫌さを隠そうとしていない和彦を見て、千尋は苦笑を洩らした。「もしかして、オヤジが原因?」「……本宅にいて、ぼくを怒らせる原因が他にあると思っているのか」 何がおかしかったのか、千尋は腹を抱えて爆笑する。怒っている和彦とは対照的に、千尋は機嫌がよさそうだ。「それで先生、昼前に風呂入って、どこか出かける予定でもあるわけ?」 ようやく笑い収めた千尋に問われ、内心でうろたえながらも和彦は首を横に振る。「別に……。ちょっとさっぱりしたかっただけだ」 賢吾が着替えに使っていた和室は、片付けは組員に任せればいいと言われたが、冗談じゃないと一喝して、羞恥に身を震わせながら和彦が掃除した。汚れた着物と長襦袢については、和彦がバケツに水を汲みに行った間に、賢
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第16話(21)

 傍らに立つ千尋に手招きして、腰を屈めさせる。昨日は一日中パジャマを着て過ごしていた千尋だが、今はきちんとスーツを着込み、髪もセットしている。 和彦は、ネクタイを直してやってから尋ねた。「めかし込んでるが、出かけるのか?」「俺、じっとしてると、すぐに飽きるんだよ」「ああ、確かに落ち着きがないもんな」 まじめな顔で和彦が応じると、千尋は唇を尖らせる。せっかくスーツで決めて、年齢以上に落ち着いて見えるというのに、表情だけは子供っぽい。 和彦はやっと笑みを浮かべると、ポンポンと千尋の肩を叩く。「冗談だ。やっと正月休みが取れるようになったのかと思ったのに、今日はもうそんな格好をしてるから、気になったんだ。……仕事か?」「先生、外にメシ食いに行こうよ」 千尋からの誘いに和彦は面食らう。「……突然だな」「三が日の最後ぐらいさ、世間の正月の空気に触れようよ。オヤジと一緒だと、気楽にブラブラすることもできなかっただろ?」 さきほどの賢吾との行為のせいで、体がだるい。部屋で休みたいところだが、外の空気が恋しいのも確かなのだ。千尋と一緒なら、外での一時を楽しめることは間違いない。 結局和彦は、千尋の誘いに乗ることにした。 千尋に少し待ってもらい、急いで着替えを済ませる。ラフな服装でかまわないと言われたが、千尋に合わせてスーツを選んだ。 千尋は玄関で待っており、和彦を見るなり、嬉しそうに顔を輝かせる。「嬉しいなー。新年早々、先生とデートできるなんて」「大げさだな。外で昼食を食べるだけだろ」「――まあ、ね」 このときの千尋の返事に少しだけ引っかかるものを覚えたが、些細なことだ。 玄関を出た和彦は寒さに首をすくめながら、千尋に促されるまま待機している車に乗り込んだ。** 初詣のため外出したとき、新しい年を迎えたという意識のせいか粛々とした空気を感じたのだが、さすがに三日ともなると、その感覚は薄れる。 普段とは変わらない街の風景を見下ろし
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第16話(22)

 きのことドライトマトがたっぷり入ったピラフを食べていた千尋が、ふと思い出したように話しかけてきた。「先生、今日の予定は?」「特にない。夜になったら、組長たちとどこかに出かけないといけないみたいだけど、それまではのんびりさせてもらう」「それって、じいちゃんのところに連れて行かれるんじゃ――」「……冗談でも、そういうことを言うのは勘弁してくれ」 そう言って和彦は、クリームパスタをフォークに巻きつける。このときよほどひどい顔をしてしまったのか、千尋が苦笑する。「そんなに怖がらなくても大丈夫だよ。肩書きは大層だけどさ、けっこう普通のジジイだから」「長嶺組の前組長で、総和会の現会長という肩書きを持っていたら、それはすでに、〈普通〉の範ちゅうを超えている」 しかも、〈普通〉と口にしているのは、長嶺組の後継者だ。本人は微塵も、おかしいと感じてはいないようだが。「まあ、どれだけ先生が嫌がろうが、いつかは対面しなきゃいけないんだけどね」「もう、言うな。考えるだけで、胃が痛くなってくる……」 ちょうどランチを食べ終えたところでよかったと、和彦はフォークを置く。千尋のほうは、寸前まで交わしていた会話など忘れたように、きょろきょろと辺りを見回し、他の客の様子を楽しげに眺めている。 ランチを頼む前に、食後のコーヒーは一階のティーラウンジで、ということを決めていたため、さっそく二人は席を立ち、精算を済ませて場所を移動した。 ティーラウンジの一人掛けのソファに腰掛けると、和彦が口を開くより先に、ウェートレスを呼んだ千尋がコーヒーを注文する。ただし、一人分だけ。 和彦が目を丸くすると、千尋は大げさに申し訳なさそうな顔となる。「ごめん、先生っ。このホテルに部屋を取ってる人のところに、挨拶に行かないといけないんだ」「ああ、メインはそっちだったのか」「うちの連中とこんなとこ来たって、楽しくないからさ、せめて先生と昼メシを食えたらなって思ったんだけど……」 こちらの機嫌をうかがうように上目遣いで見つめら
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第16話(23)

「そんな顔するな。別に怒ってないし、息抜きに連れてきてくれて感謝しているんだ。ぼくならここで、コーヒーを飲みながらのんびり待っているから、気にせず自分の仕事をしてこい」 ほっとしたような表情を浮かべた千尋だが、次の瞬間には、こんな可愛げのないことを言った。「……なんか、先生を一人残しておくと、悪い男に連れ去られそうで心配だなー」「余計なことを言わずに、さっさと行け」 犬を追い払うように手を振ると、千尋は何度も振り返りながらティーラウンジを出ていく。ロビーで待機していた三人の組員を連れて姿が見えなくなると、和彦は慎重に周囲をうかがってから、背もたれに思いきり体を預ける。 まさかとは思ったが、長嶺組の組員の姿はなかった。つまり千尋が全員引き連れていき、和彦には誰も護衛がついていないということだ。 珍しいこともあるものだと思った和彦だが、心細さはなかった。ここでじっとしている限り和彦の身は安全だと、組員たちが判断したのだろう。こういうときは、プロの判断に任せたほうがいい。 もちろん和彦としては、護衛がいない状況でのんびりできるという思惑もあった。 こんな場所で一人でコーヒーを飲むのは、表の世界にいる頃は当たり前のことだったのだ。 ずいぶん違い世界にやってきたものだと、改めて実感していると、コーヒーが運ばれてくる。さっそく一口啜ってから、再び周囲に視線を向ける。 まだまだ正月休みの人も多いだろう。ティーラウンジから正面玄関を見ることができるのだが、ひっきりなしに旅行カバンを持った人たちが出入りしている。楽しげな家族連れやカップルの様子を眺めていると、つい和彦の表情は柔らかくなる。 このとき和彦の背後を、人が通り過ぎる気配がした。同時に、特徴のある足音が聞こえ、反射的に振り返る。カジュアルな服装ながらも品のよさそうな物腰の男性が、杖をつき、慎重な足取りで歩いていた。左足が悪いようだ。 あまり見つめても不躾なので、一度はカップに視線を落とした和彦だが、男性が隣のテーブルについたため、また気になってしまう。 斜め前に座った男性の顔を、はっきりと見ることができた。きれいな白髪から想像はついたが、
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