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血と束縛と의 모든 챕터: 챕터 621 - 챕터 630

1416 챕터

第16話(24)

 紳士、という単語が和彦の脳裏を過り、それが違和感なく、隣のテーブルにつこうとしている男性に当てはまった。 左足を庇うようにして、少しぎこちない動きでソファに腰掛けた男性が、ふとこちらを見る。露骨に視線を逸らすのも失礼で、和彦は軽く会釈をした。これで、テーブルが隣り合った者同士のやり取りは終わるはずだったのだが――。 重々しい音を立て、男性が傍らに置こうとした杖が床に落ちる。咄嗟に和彦は立ち上がり、杖を拾って男性に手渡した。「――ありがとう」 外見からは想像もつかない、太く艶のある声に、一瞬驚いた。和彦は小さく笑みを浮かべて、もう一度会釈をすると、自分のテーブルに戻る。 ただこの瞬間から、和彦と男性の間に繋がりのようなものが芽生えていた。見知らぬ他人が集う場所で、ささやかな接触を持ったせいだ。 どうやら同じものを、男性も和彦に感じてくれたらしい。ごく自然な流れで、二人は会話を交わしていた。「孫と待ち合わせをしているんだが、どうも年寄りには、こういう場所は身の置き場がなくていかん……」「ぼくは、友人を待っているところなんです。いつやってくるかわからないので、こうしてコーヒーを飲みながら、時間を潰そうと思って」「そこを、おしゃべりなジジイに捕まったというわけかね」 最初に受けたイメージとは違って、男性はずいぶん砕けた口調で話す。しかも、冗談っぽくニヤリと笑いかけてくる表情は、ずいぶん魅力的だ。 整った目鼻立ちが誰かに似ているなと、ふと和彦は思った。まばたきもせず、じっと見つめていると、和彦の視線に気づいたのか、紅茶を注文した男性がまた笑いかけてくる。「何か?」「いえ……。どこかで、お会いしたことがないかと思って」 咄嗟に出た台詞の陳腐さに、内心で和彦は苦笑を洩らす。だが、目の前の男性に感じる親近感は否定できない。「多分、今日会ったのが初めてだと思うが。まあ、わしの記憶力ほどあてにはならんものはないな」 ここで男性に手招きされ、すぐには意味がわかりかねた和彦だが、テーブルを移らないかと誘われているのだと気づく。断る理由もな
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第16話(25)

 千尋か護衛の組員がいれば、無防備すぎると怒るかもしれないが、人目もあるこの場所で、何かあるとも思えない。しかも相手は見るからに、紳士然としているのだ。和彦としては、こんな相手を警戒する理由がない。 男性は、満足そうに頷いたあと、再び口を開く。「最近は、興味のあることだけはしっかり覚えているが、仕事に関することは、周りにいる若い連中に覚えてもらうようにしている。そのほうが、間違いがない」 男性の口ぶりから、経営者なのだろうと見当をつける。その読みが外れていないことを裏付けるように、男性は続けた。「使える人手が増えたせいで、自分で考えることが少なくなった。わしが一言何か言えば、周りが考えて、お膳立てまでしてくれる。楽だが、目端が利く連中に囲まれていると、箸の上げ下ろしまで観察されているようで、ときどき居心地が悪くなる。だから、自分のことを知らない相手と、こうして気楽に話せると、ほっとする」 少しだけ自分の今の状況に似ているなと思い、和彦はほろ苦い表情を浮かべる。すると男性が、訝しむように眉をひそめた。「どうかしたかね?」「あっ、いえ――。ぼくはある仕事をしていて、今月、開業するんです。なんというか……いいスポンサーに巡り合えて、何から何まで面倒を見てもらえて、まさにぼくの状況こそ、お膳立てをしてもらっているという表現がぴったりくると思って」「それはすごい。若くて才能のある人間が、そういう幸運を手に入れられるのは、いいことだ」「そうでしょうか……」「スポンサーというからには、何かしらの見返りを期待されているのだろうが、あんたが満たされることで、あんたを盛り立てる人間も満たされる。そう思うことで、人間も環境も循環する。利害で結びつくことは、何も悪いことばかりじゃない。結びつくなりに、相手の希望を叶えてやろうと努力はするわけだから。そうしないと、自分の希望は叶えてもらえない。まあ、世の中、善人ばかりじゃないんだがね」 自分と、自分を取り巻く男たちの状況を分析されたようだった。和彦は、まばたきも忘れて男性を見つめる。男性は、運ばれてきた紅茶に一杯だけ砂糖を入れて掻き混ぜると、美味しそう
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第16話(26)

 唐突な問いかけを、和彦は自分の実家に当てはめて考える。親からの希望をすべて受け継いでいるのは兄の英俊で、和彦には、何もない。いや、一つだけ望まれたことがあった。 腹の中が冷たくなるような怒りが湧き起こり、同時に、男性の眼差しに対する恐れも消えた。「……つまらないと思うんです。受け継いだものを、ただそのまま、あとに残すだけというのは。その作業のためだけに自分が存在して、単なる道具になったようで……」 ここで和彦は我に返り、慌てて頭を下げる。「すみません。失礼なことを言ってしまって」「いや、あんたと同じことを、わしも感じた。だから行動した。家業なんぞ潰してもかまわんというつもりで、いろんなことをしたよ。その結果――」「その結果?」 思わず身を乗り出した和彦の目を食い入るように見つめたあと、男性は笑った。人を食らう笑みだった。 和彦は、こんな笑みを浮かべる男を、もう一人知っている。そしてあと一人、将来浮かべそうな青年のことも。「近いうちに、わしの家に遊びに来るといい。あんたと、もっと話をしてみたい」「えっ……」 男性から右手を差し出され、見えない力に操られるように和彦はその手を握り返す。ドキリとするほど冷たくて、硬い手だった。 握手を交わしてすぐに男性は立ち上がる。その動作にぎこちなさはなく、それどころか杖を掴むと、足を引きずることなく大股で歩き出した。 唖然として見送る和彦は、さらに異様な光景を目にすることになる。男性が歩き始めると同時に、周囲のテーブルに座っていた男性客たちも一斉に立ち上がったのだ。そこからの動きは見事だった。さりげなく、男性を守るように周囲を囲んでしまい、その姿はあっという間にティーラウンジから見えなくなる。 和彦が目を見開いたまま動けないでいると、すぐに千尋がやってきた。和彦の様子を見るなり、申し訳なさそうな顔で頭を掻く。その表情で、すべて理解した。「――……あれは、お前の祖父だな」「長嶺守光。今の総和会会長で、俺のじいちゃん」
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第16話(27)

**** 雪を見に行かないかと賢吾から言われたとき、和彦がまっさきに思ったのは、これは機嫌取りなのだろうか、ということだった。 朝食のパンを食べ終えたところだった和彦は、指先を軽く払ってから、カップを両手で包み込む。ホットミルクを一口飲んで、向かいのイスに座る賢吾をジロリと見ると、口元を緩めていた。「――……雪?」「これから新年の挨拶も兼ねて、人に会いに行くんだ。ちょっと距離があるんだが、今はたっぷり雪が積もって、静かでいいところだ。一泊旅行の行き先として、最適だと思うんだが……」「それで、ぼくに同行しろと?」「旅行という表現が気に食わないなら、デートでもいいぞ」 和彦はぐっと唇を引き結び、テーブルの上に置かれた新聞に視線を落とす。日付は、一月六日となっていた。 世間では、すでに仕事始めを迎えた人間が大半だろう。ただ、長嶺の本宅にいると、時間の流れは微妙に違う。組関係者が頻繁に訪ねてはくるが、仕事始めというほど、本格的に動いてはいない。つまりここにいると、もう少しだけ正月気分が味わえるのだ。 外に出かけるのは嫌いではないが、また騙されて、今度こそ総和会会長宅に連れ込まれるのではないかと、和彦は露骨に警戒して見せる。すると賢吾の唇には、はっきりと笑みが刻まれた。「安心しろ。騙まし討ちみたいなことはしない。今度、オヤジに会わせるときは、きちんと先生に説明する。そして今日は、総和会の人間と会う予定はない。先生は純粋に寛げばいい。俺は少し仕事の話があるが、その間、先生の相手は――」 このとき和彦の肩に、ズシリと重みが加わる。思わず声を洩らして振り向くと、いつダイニングにやってきたのか、千尋がべったりと抱きついていた。「千尋がしてくれる」 そう言い切った賢吾と千尋を交互に見て、和彦は軽く眉をひそめる。一つ屋根の下で何日か一緒に暮らしただけで、千尋の甘ったれぶりに拍車がかかり、そのことに対して賢吾は何も言わない。それどころか、楽しげにこう言うのだ。「いや、反対か。しっかり俺の息子の子守をしてくれよ、先
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第16話(28)

 山の中にある保養地ということで、とにかく暖かい服装をしろと言われたが、バッグに詰め込んで持ってきた着替えでは限りがある。コーデュロイパンツと、カシミアのニットの下にシャツを着込んだ和彦は、賢吾から贈られた毛皮のコートにおそるおそる手を伸ばす。さすがに、羽織って出かけるいい機会ではないかと思ったのだ。 このとき、座卓の上に置いた携帯電話が鳴る。表示された名を確認した瞬間、和彦の心臓の鼓動は速くなった。 大きく深呼吸をしてから電話に出る。「――……どうかしたのか、こんな時間に」 努めて平素の調子で問いかけると、電話の向こうから返ってきたのは、少し緊張したような中嶋の声だった。『すみません、せっかくのお休み中』「いいんだ。もう起きていたし。それで――」『先生、今日、会えませんか?』「……唐突だな」 そう洩らした和彦は、静かにため息をつく。電話を通して伝わってくる中嶋の気配は、切実であると同時に、凄みも感じさせる。そこに、元日にこの本宅で見かけた、中嶋本人の姿が重ねる。 どう考えても、新年の挨拶も兼ねて食事でも、という雰囲気ではない。「ぼくに何か用が?」『電話では言いにくいんです……』 和彦も、中嶋の態度がずっと気になっていたこともあり、なんとかしたいところだが、さすがに今日はタイミングが悪すぎた。「すまない、今から出かけるんだ。帰りは明日になりそうだから、会うのは無理だと思う」 別の日でよければ、と続けようとしたが、その前に中嶋は慌しく電話を切ってしまい、和彦は空しく唇を動かす。 できることなら電話をかけ直し、もう少し話をしたかったが、臆してしまう。今の電話で和彦は、しっかりと感じてしまったのだ。中嶋の感情の揺れを。そして、〈女〉を。 中嶋が〈女〉を感じさせるとき、それは秦が絡むときだけだ。 和彦には自分から、秦のことを切り出す勇気はない。それに、こちらはこちらで、複雑だ。 大晦日の夜に、布団の中で賢吾が語った内容を思い出し、和彦は小さく身震いする。賢吾は、
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第16話(29)

 自分に関わることなら諦めもつくが、中嶋と秦の関係は、和彦には関わりのないことだ。したたかな秦はともかく、中嶋の感情を、賢吾に道具として利用させたくなかった。 もしかすると中嶋本人は、出世のためなら本望ですよと、笑うかもしれないが――。「先生」 前触れもなく背後から声をかけられ、和彦は驚いて振り返る。いつの間にか障子が開き、千尋が顔を覗かせていた。和彦の反応に、千尋のほうが驚いた様子だ。「あっ、ごめん。一応、外から声かけたんだけど……」「いや、いいんだ。ちょっとぼんやりしてた。――どうした?」 和彦が座卓に携帯電話を戻すところをしっかりと見ていた千尋だが、何事もなかった顔でダウンコートを差し出してきた。「先生、これ着ない? 雪積もってるならさ、こっちのほうがいいと思うんだ。汚しても大丈夫だし」「暖かそうだから、ぼくはありがたいけど……、いいのか?」「もちろん」 和彦はダウンコートを受け取ると、マフラーと手袋も一緒に持って部屋を出ようとする。このとき、携帯電話にちらりと視線を向ける。中嶋のことは気になるが、今日はどうしようもできない。 ひとまず気がかりは、携帯電話とともに、この部屋に置いていくしかなかった。**『一泊旅行』という言葉の、無難でのんびりとした響きにすっかり惑わされかけていたが、和彦が行動をともにしているのは、ヤクザの男たちだ。しかも、和彦を〈オンナ〉にしているのは、ヤクザの組長と、その跡継ぎだ。 そんな二人が揃って出かけるとなれば、気楽にドライブ気分で、となるはずもない。 和彦が長嶺父子と同乗したのは、スモークフィルムが貼られているとはいえ、ごく普通のワゴン車だった。だが、その前後を、しっかりと黒の高級車に挟まれていた。走行中、ずっと。 途中、サービスエリアで休憩したときには、和彦の隣にはぴったりと千尋がくっつき、そんな二人の背後を、組員が張り付いていた。長嶺父子が揃って移動することの大変さを、和彦は多少の気詰まりとともに、改めて痛感させられる。 だがそんな気持ちも、目
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第16話(30)

 和彦の生活圏でも雪は降るが、こんなに積もることはほとんどない。ごくまれに、ほんの数センチ積もったところで、すぐに泥と区別がつかなくなり、こんなふうに踏みしめようという気にはならないのだ。 白い息を吐き出して、顔を上げた和彦はゆっくりと周囲を見回す。 保養地と聞いてはいたが、ようは、別荘地だ。ここに来るまでの間にも、ぽつぽつと別荘が点在しており、いくつかのペンションも目にした。山の中の隠れ家のような雰囲気で、自然が多く、人目を避けてゆっくりと過ごすには最適だろう。とにかく雪景色が素晴らしい。 ヤクザとしても、物騒な人物と密会をするには最適なのかもしれない。 目的はともかく、いい場所に連れてきてもらったと、素直に和彦は感謝していた。「――先生」 千尋に呼ばれて振り返ると、父子が並んでこちらを見ていた。じっくりと雪を踏みしめている和彦がおもしろいのか、二人揃って口元を緩めている。 恥ずかしいところを見られてしまったと、密かに顔を熱くしながら和彦は、促されるまま建物へと入る。 先に人が訪れて準備を整えていたのか、室内は暖められていた。吹き抜けとなっている二階を見上げていると、傍らに立った賢吾が話しかけてくる。「元はペンションだったものを、総和会が別荘にするために買い取ったんだ。この辺りの立地を考えると、人と会うのに都合がいいからな。愛人を連れ込むのにも、最適だ」 和彦がちらりと一瞥すると、賢吾は意味ありげな流し目を寄越してきた。「俺は、そんなことで使ったことはないぞ。保養も兼ねて、悪だくみをするときに借りているだけだ。今日は、家族水入らずでゆっくりするために、だが」「……別にぼくは、何も言ってないだろ。そういう言い訳みたいなことを、わざわざ言わなくても――」「気にするな。俺が言いたかっただけだ」 和彦が返事に詰まると、満足したのか、賢吾は会心の笑みを浮かべた。 組員に呼ばれて廊下を歩いていこうとした賢吾が、ふと和彦を振り返る。「先生、これからちょっと客が来て、奥の部屋で仕事の話をする。その間一階のリビングには、うちの組の人間だけじゃなく、他の組の人間
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第16話(31)

** ここに来るのは初めてではないという千尋の道案内で、息を弾ませながら和彦は、雪道を歩く。 一応除雪はされているが、あくまでそれは車のためで、道の端には雪がたっぷり積もったままだ。歩きながら和彦は、ときおり雪に足を取られて転びそうになり、そのたびに、前を歩く千尋の肩に掴まる。「先生、腕組んで歩く?」 とうとう千尋が苦笑して、腕を差し出してくる。和彦は断固として拒否した。「そんなみっともない歩き方、できるか」「転ぶよりいいじゃん」 和彦は周囲を見回す。人の姿は見えないが、ときおり車は通りかかるのだ。その車の様子からして、どうやら賢吾たちがいる別荘に向かっているらしい。 いまさら和彦が見栄を張ってどうにかなるわけではないが、千尋は、見栄もハッタリも必要とする立場だ。その千尋が、男と腕を組んで歩いていたと、他人から悪し様に言われるのは嫌だった。 千尋は何かを察したのか、妙に大人びた微笑を浮かべる。「大丈夫だよ。先生の価値を知っている人間なら、誰も先生を悪く言ったりしない。もちろん、俺やオヤジのことも。もし、言う奴がいるとしたら、そいつは――命知らずのバカだ」 若いからこそ、すぐに熱くなって暴走しそうな危うさがあった千尋だが、今は違う。長嶺組の跡継ぎという、見えない〈力〉を武器にするしたたかさと狡猾さを、急速に身につけつつあった。そこに、総和会という後ろ盾も加わったら、千尋自身が、一つの巨大な武器だ。 千尋がまた腕を差し出してきたが、和彦はあえて無視して歩く。「お前の言いたいことはわかる。だが、難しい理屈は必要ない。……大人の男が、腕組んで歩けるかっ。恥ずかしい……」「先生の照れ屋」「人並みの羞恥心を持ち合わせてるだけだっ」「えー」 小走りで追いついた千尋が、ニヤニヤしながら顔を覗き込んでくる。「……なんだ、その顔は。ぼくの羞恥心に文句があるのか」「何も」 和彦は、千尋の頬を抓り上げてやろうとしたが、寸前で逃げられる。それを早足
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第16話(32)

 次第に道は細くなり、車も通れないほどになる。道に積もった雪は、人が踏んだ様子もなく、この先には建物もないのだろう。とにかく静かで、木の枝から落ちる雪の音すら大きく聞こえる。 歩きながら和彦は、頭上を見上げる。今にも雪が降り出しそうな空模様だ。 散歩にしては、なかなかハードだと思っていると、ふいに千尋に腕を取られる。うかがうように見つめられ、仕方なく腕を組むことを許可した。「先生、こういう状況になる前にさ、二人きりで旅行とか行きたかったよね。できれば、海外旅行」「お前と一緒に海外旅行か……。何も知らなかった頃なら、楽しかったかもな」「かっこいい美容外科医と、気楽なフリーターの組み合わせだったもんね。つき合い始めたばかりの頃は、本当に、何するのも自由だったよ。どこにでも行けたし」 千尋の口調にほろ苦いものを感じる。和彦は、千尋と知り合ったばかりのことを思い出し、すでにもう、ほろ苦さや切なさより、懐かしさを覚えるようになっていた。「まあ、今だって、こんなところに連れてきてもらえるんだから、悪くはない。いざとなれば、海外旅行はぼく一人で行けばいいんだし」 わざと意地の悪いことを言ってみると、案の定、千尋は捨てられた子犬のような目をする。「……ヤクザの跡継ぎが、そういう目をするなっ。お前は、自分がどんなふうに見えるかわかってやっているから、性質が悪いんだ」「昔はさ、こんな目をしたら、みんなからちやほやされたんだけど、今は先生にしか効かないんだよなあ」「あー、どうせぼくは、お前に甘いからな」「だから俺たち、相性がいいんだ」「――……そう思っているのは、お前だけだったりして」 ぼそりと呟くと、千尋がキャンキャンと抗議の声を上げる。我慢できずに和彦は声を上げて笑っていたが、突然、視界が開けて何事かと思う。「ここ……」 目の前に、湖面の凍った湖が広がっていた。ひっそりと静まり返って人の姿はなく、鳥の羽ばたく音が聞こえるだけだ。「凍ってなかったら、ボート浮かべたり、釣
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第16話(33)

 和彦は、もう片方の手で千尋の頬を撫でてやる。すぐに調子に乗る犬っころのような青年は、嬉々とした様子で顔を寄せ、額と額を合わせてくる。「今、すっげー、先生にキスしたくてたまんない」 最初から和彦の返事を聞く気はないらしく、千尋は性急に唇を塞いできた。寒いからこそ、千尋の唇と舌の熱さがじんわりと染み込んでくるようで、心地いい。 しなやかで力強い両腕にしっかりと抱き締められながら、和彦は甘く熱い口づけを堪能する。「先生、このまま、雪の上に押し倒していい?」 口づけの合間に、冗談とも本気ともつかないことを千尋が囁いてくる。千尋なら本当にやりかねないと思った和彦は、即答した。「嫌だ。お前と違って、ぼくは雪で興奮したりしない」「何それ。どういう意味?」 和彦はニヤリと笑うと、千尋の腕の中から抜け出す。「――犬は喜び庭駆け回る……って、歌があるだろ」 数秒の間を置いて、千尋は犬の鳴き声をマネしたかと思うと、和彦にまとわりついてくる。和彦は声を上げて逃げ回りながら、雪を軽く丸めて千尋に投げつける。すかさず千尋も投げ返してきて、そのまま子供のように雪合戦になだれ込んだが、血気盛んな千尋はすぐに物足りなくなったようだ。 飛びかかられ、和彦は千尋と一緒に雪の上に倒れ込む。「加減しろっ、バカ千尋っ」 そう抗議をした和彦だが、顔を覗き込んでくる千尋があまりに嬉しそうな顔をしているため、怒る気も失せる。髪をぐしゃぐしゃに掻き乱すだけで、勘弁してやった。 そして、雪の上を転がりながら、思う様きつく抱き合った。** 和彦は深い吐息を洩らすと、石造りの立派な浴槽の縁に腕をかける。元は団体客も受け入れていたペンションだけあって、ちょっとした旅館並みに風呂場は広く、浴槽も大きい。おかげで、ゆっくりと湯に浸かることができる。 たとえ、和彦以外にもう一人、湯に浸かっていたとしても。 和彦の背後から抱きついてきた千尋が、濡れた肩に唇を押し当ててくる。さらに、片手が胸元をまさぐってきた。もう片方の手は――。「んっ…
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